失望の
噛ない
人生
五井昌久白光出版
著者(1916~1980)
ぜ2器霧9
嚢旧盃箆論ビ有著ミ
日本ε 勃ゼ冤塔よ・っら
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々篠蛋夢り.窪象δ署
ぐ穫鷲ξ グ毛、潮各
勿6翼.
序文
人生には成功もあれば失敗もある。人はその経験をふまえて今日まで生きてきた。そして種々の
人生観がそこに生れた。
あなたは今どのような人生観をもって生きているだろうか。一回や二回の挫折で早々と人生に失
望してしまうような人がいるが、挫折や失敗がそのまま挫折や失敗で終らない生き方が、あなたの
すぐ手の届くところにあることを、私は知らせたいのである。
失望は人生を暗いものとする。希望は人生を光輝あるものとする。本書はあなたを知らぬ間に、
人生に失望はいらぬと誰はばからず宣言出来る生き方に導くであろう。
昭和五十二年一月著者
1
2
目次
ベートーベンと清水の次郎長
その道によりて賢し
動物と人間
大表札
22201714119
高校選抜野球をみながら想う
ツキということについて
学校というもの
ベートーベソと清水の次郎長
3533302724
7
阪妻と田村高広
この世に失意はいらぬ
チソパンジーに負けるな
思いやりの心
旅によせて
神のみとの対面
5350474341
日没と日の出
61595?55
39
外国から日本を見れば
すべては神のみ心
旅によせて
神の恩寵
日の出日の入り
ハワイにて想う
伊勢神宮にて
身辺折々
可愛いい奇蹟
動物性を超えよう
老犬リリーの昇天
美幌砂漠
雀の親子
生母の昇天
817976737067
妻のぬけ歯
:.
65
幸福をふりまく人
スカレッチソ
おべんとう
雛人形
久遠の生命
たま
み霊まつりを終えて
お彼岸とみ霊まつり
10410299
守護の神霊の守り
久遠の生命
生命を大事に
自然法爾
霊手術をみつつ想う
112109106
自分を愛するということm
自分を赦しということについて… … … 麗
祈りが本尊の宗教晒
消えてゆく姿と全託枷
祈りの必要性
140136133130
117
感謝
無為の道
年を積み重ねて3
宗教者と科学者
肉体は神の器であり場である
親の心子知らず
154151148145142
非凡を超える平凡
生命を生かす
間違っては困ること
われ天才にあらずとも
運命を変えるには
人のふりみて祈りを深めよう
峻厳なる愛
16T165162159156
4
天地の心
青空の心
天地の心
天地の調和
一歩一歩の歩みの中で
186184182180178175173
春の嵐
202200197193191189
171
人類進化のために
富士山
春の心
松と毛虫
人間の自由と天変地異
台風によせて
花のように生きよう
敬老の日に思う
聖ケ丘
聖ケ丘の統一
210207
新道場完成にのぞみ
214212
205
自動車呈修庵の庭にて
池の鯉
夕暮のあじさい
219216
冬の鯉
221
行雲流水
白光誌発刊五周年にあたり
白光百号をむかえて
結婚式に臨んで
238235233230227
み心のままに
Z50248246243240
2Z5
その場その時を活かせ
苦手を克服するには
科学的ということ
何事も練習によって上達する
断食
年末年始
植芝盛平翁の昇天
年末の言葉
師走に想う
270Z68265262259257
心の垢を流そう
年末になって
283280278275273
255
世界平和の祈り一念の生活を
師走の覚悟
師走の庭
年頭における私の主張
新しい世界
この年を光明の年に
今年も明るく生きよう
装丁・小山忠男
カパー写真・前田真三
5
轡~wwwW納w画脚醐~wWww吻》
人間と真実の生き方
わけみなまこうしよりしゆこれいしゆごじん
人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって守
られているものである。
かニせ
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、そ
の運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであると
いう強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあ
ゆるゆるまことゆる
っても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづ
けてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈
りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。
》》》》》v隔ノソ》v》ww》》》》》》》》》》》v》》》》》》
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〜
ベートーベンと清水の次郎長
かしこ
その道によりて賢し
私がいつも、他人の所有せる自家用車、つまり、バスやタクシーや他人の自動車で、聖ケ丘へ通
ってくるので、側近の若者たちが気の毒がって、自動車の運転を習いはじめた。
その自動車教習所が、聖ケ丘の近くにあるので、私も時折り練習中の自動車に同乗させて貰うこ
とがある。教師が助手台に乗っていて、種々と運転方法を教えるのだが、道によりて賢しとはこの
ことだなあとつくづく思わされるように、どの教師も微に入り細にわたる、きびきびした教、κ方
で、ポイソトをはずさず、しっかりと教えこむ。それは言葉だけで教えるのではなく、いちいち自
分が実演してみて教えるのだ。この教師たちが、運転技術の他に、どのような教育を受けているか
9その道によりて賢し
私は知らないけれど、その態度は体の大小によらず堂々としていて、確固たる自信と充分の余裕を
もっているのが、はっきり見受けられる。
中には、その一言一句が、宗教の道の根本にも通じる立派な言葉を、当然のように自然と話して
いる。
一人の教師は、うまく出来る出来ないということなど考えることはない、ポイソト、ポイソトを
しっかり覚えて、そのポイントをはずさずに素直に運転していけば、自然とうまく出来るにきまっ
まさ
ているのだ、と技術体験そのままを話しているのだが、これは正しく宗教の根本的な生き方なのだ
から、全く道によりて賢しなのである。
といってこの教師が、自己の家庭生活や社会生活において、この運転技術を生かしているかいな
いかは知らないが、宗教の道というものは、こうした何んでもなさそうな言葉の中にあるのだし、
そうした道は、頭の中で考え考えして浮んできたりするものではなく、一つの仕事に打ちこんだ末
に自然と自分のものになってくるものなのだ。
どんな素晴しい宗教的説法をしても、その人の行為が、虚色や虚栄に蔽われていたり愛に欠けて
いたりしたら、その人の宗教精神は低いものであって、神々がお喜びになる筈がない。
10
前述の運転教師たちが、自己の仕事に確たる信念をもって当っていられるように、宗教指導者と
なるためには、自我をすべて神のみ心に投げ出すこと以外にはない。宗教指導者のポイソトは全部
が神のみ心の中にあるからだ。神のみ心の中のポイソトを忘れて、自我想念の中にポイソトがある
などと思っていたら、その人は自己の運命を崖下に転落させてしまうだろう。宗教者はまず、虚
色、虚栄を捨て切ることからその第一歩を踏み出すべきなのだ。
動物と人間
と
私は動物の世界を撮った映画を観るのが好きである。象にしろサイにしろ、虎にしろライオソに
あいなよウ
しろ、大きな動物から小さな動物に至るまで、みんななんともいえない愛嬌のある、いくらみてい
11動物と人間
ても見あきない、よい顔をしている。
おおうつ
先日もアフリカを撮った映画の中で、サイの群を写したのがあった。サイの顔が大写しになって
つの
くると、なんと愛嬌のある顔かと、つくづくみてしまう。角というものも、真中にあると、こうも
だだじ
ユーモラスな格好に見えるものかと、大きな体のサイが、駄々ツ子のようにさえみえてくる。神さ
かず
まは全くいろいろな顔の、いろいろな姿の、いろいろな生態の動物を大変な数つくられたものだ、
あへんげじざい
と驚き呆きれる想いである。神さまの大生命の変化自在さには、大きな口をあけて、ただただ感嘆
ほかめん
する他はない。高貴、厳粛の面があるかと思うと、泥くささがあり、ユーモァーがある。神さまの
ひつとうみずか
作品は人間を筆頭にして、どれ程あるか知れないが、みなそれぞれの習慣や個性を持ち、自らの生
すがたかたちせいめい
命を、その姿形に表現して、神の幅広く奥深い生命のひびきを現わそうとしている。
蟻や蚤のような小さな虫でも、自分たちの生活を守る智慧をもち、その種族を保存してゆこうと
する。人間にとっては、邪魔でこそあれ、守ってやる必要のないと思われている、こういう虫で
せいぞんりゆうせんねんらい
も、この虫たちにはこの虫たちの生存理由があるに違いない。先年来、中国からきたパンダに人気
が集中したが、動物の可愛さはその自然さ、その無邪気さにある。人間でも赤ちゃんの可愛さに通
じている。それは動物や人間の赤ちゃんがもっている、自然そのままの純粋さが、人の心に愛を呼
12
び起すのである。
せいじん
ところが人間が成人になると、この自然への純粋性が次第に失われ、人間の頭の中でつくりあげ
た幸福というもの、自由というものにひきずられてゆき、お互いがお互いの自由、お互いの幸福と
いうものを、奪い合うようになってきた。そして人間は次第に可愛らしくなくなってきたのであ
る。
れいちよう
万物の霊長であるべき人間が、神から愛されぬ存在になったら一体どうなるか、地球世界はやが
たいれい
て滅亡してしまうに違いない。何故ならば、神は大生命であり、大霊であって、すべては神を根源
にして生きている。そして人間はその中心になって働いているのである。その人間が神のみ心を離
しぜんほんらい
れた、肉体人間という自我の中に閉じこもって、自然本来の自由な純粋な生き方ができなくなった
ら、鶴ずと、神の愛の流れは人間にとどかなくなり、人間生命はついに柑泓してしまう。人間の最
後なのである。
人間が地球世界で進化をつづけるためには、動物のような純粋性をもって、神に愛されなければ
ならない。神に愛されるために、私は祈りの生活をすすめている。神さまに感謝をささげながら、
世界平和の祈りをする、こういう生活こそ、真に神に愛される人間としての生活なのである。「愛
13動物と人間
する我が児!」と神さまに呼びかけられるような人間になることである。
うやま
神を敬い、人間同志愛し合い、動植物をいたわり育てる。そういう人間世界になれば、動物間の
弱肉強食もなくなってくるのである。
14
大表
札
小学校の頃、書き方で一度丙を貰って、親や兄弟から、さんざん叱られたり、恥かしめられたり
がどうりゆう
し たことがあって以来、奮起したという程大げさではないが、驚堂流だの西川流だのという、書道
を何年となく習いつづけて、それでも性来の悪筆はなかなか直らず、習った程に上手にはならぬま
ま、霊修業の道に入り、直霊との一体化で、今日のような宗教者になっていったのだが、霊覚を得
たその時から、筆を持てば筆は自分の思うように動き、それ迄習っていた諸流を融合させたような
筆法で、頼まれれば気軽に書が書けるようになって、私は今は毎日のように筆を取っている。
先日も、九月一日から開かれた、東京新道場の表札を、理事長から頼まれたので、急遽筆を取っ
て書き上げたのだが、私の書というのは、一線一画ゆっくり筆を運ぶという書き方ではなく、一気
に速い速度で筆を走らせるという書き方で、表札などでも、表札に当てはめて、文字を計って書く
ということをしたことはない。
道場の大表札もその例にもれず、縦七尺、横幅二尺ぐらいの木の匂いのかぐわしさに満足しなが
ら、太い筆に墨をたっぷりつけると、それこそ一気に東京道場の東という字を書き上げる手前まで
たく
きて、最後の右の足(礫)のすうーと筆をぬいてゆくところが、あまり字を大きく書き過ぎたので、
長くぬいてゆく幅がなくなってしまっていた。そこで仕方なく最後の筆をぬかないで、逆にそこで
筆を止めて仕上げてしまった。
書道の普通の筆法からすれば、失敗という他はないのだが、全部書き上げてみると、すうーとぬ
かないで、筆をとめたところが、実に力強くなって、東という字全体が、かえって迫力に満ちた字
になっていたのである。
15大表札
書の筆法というのは、仮のものであって、その文字を通して、書く人の生命の力が生々と美しく
現われてくることが大事なので、筆法に把われて、書く人のいのちのひびきを弱めてしまったので
は、折角の筆法がなんにもならなくなってしまう。
うま
私が霊覚を得てから書が自由に書けるようになったのは、上手く書くとか、筆法がどうとかいう、
すべての把われがない心で筆を走らせているのが、書に現われてくるもので、人々は自由な生々と
した把われのない姿をその書にみるのであろう。
これは書の場合ばかりではない。すべての事柄に対しても、そうであって、把われを捨てるとい
うことが、人生をよりよく生きる大事なことなのである。そしてその把われを放つ易しい方法が、
消えてゆく姿という想い方とたゆみない祈り心ということなのである。
16
ノ
学校というもの
先日生れて名をつけた、と思った子供を、先生、小学校です、と母親が挨拶につれてくる。中学、
高校、大学と、三月、四月は入学シーズンの大づめで、親子の心は押しつめられた気持で、花を観
る心のゆとりすらない。
日本は全く学校地獄の国ともいえる。ゆきたくもなんともない大学へゆかなければ、多くの大学
卒の人たちより社会的地位が落ちてしまう、という恐れだけで、無理やりに入学しようとし、させ
ようとする親子がどれ程多いことか、幼稚園からはじまって、すべては良い大学へ入学する、とい
う望みのためのお勉強なのである。
17学校というもの
学問を勉強するために大学を志望する人は、勿論それがいいにきまっているけれど、学問をした
いわけでもないのに、良い学校を出なければ、社会に出て上のクラスの生活ができない、というこ
とで、青少年時代の、自由でのびのびとしたいのちの働きを、入学のためという一点で押しつぶし
て、生活してゆくという、いのちの自由も、感情の輝きも、すべて抑圧した生き方が、大人になっ
てよく現われるわけがないのである。
青少年の狂気のような暴力沙汰の多いのも、刹那的快楽に溺れている若者の多いのも、ノイロー
ゼになる学生の多いのも、こうした学校問題における抑圧感情の爆発であり、ぬけ道である、とも
いえるのである。
人間を立派にするのは、今日流の学校の学問ではない。小学出や中学出でも立派な人がたくさん
出ている。大学出でも勿論立派な人は出ているが、それとても、学校の学問で人格が立派になった
のではなく、学校以外の教養を身につけて立派になっているのである。
だから一般の人がゆくのは、中学か高校だけでよいので、特にゆきたい人が大学へゆけばよいの
である。そして中学、高校で職場に出る人で、専門の教育を身に受けたい人のために専門学校を設
けておく必要がある。
18
そして職場においては、学歴で地位を定めるのではなく、すべて実力で定めるべきである。スポ
ーッの世界では、実力一本でその地位がきめられるので、学歴などは問題にならない。それでも誰
も不満をいう人はいない。
プロ野球巨人軍の王や堀内が大学出以上の給料をとったとて、文句をいう人は誰もいない。当然
なことだからである。それで大学を出たほうがやはり実力がつくと思う人は大学へ行くべきである
が、大学へ行ったとて、なまけていれば実力がつかないので、今日までのように、なまけてはいら
れない。すべては自分の努力如何によるのである。こうすれば、青少年の心は緊張し、日々真剣な
気持になってくる。そして、自然陶汰されるものは、仕方がないのである。
桜の蕾が、今年も美しく花開こうとしている。人間の青少年も、この桜の木のように、美しく花
開く蕾なのである。青少年は春の季節、いのち明るく、のびのびとよき実のなる未来を生みなす、
その季節を大事に生きるべきである。
19学校というもの
20
べートr ベンと清水の次郎長
青年から壮年の頃は、なんとはなく、教養ということが、常に気になっている時がある。そして
そういう気捨から、クラシック音楽や、ロシヤ文学や英文学などを聴きあさり、読みあさって、そ
うした教養を一応身につけたりするものである。
ところが、次第に齢を重ねて、老年近くなってくると、べートーベソやバツハを聴く時間を、テ
レビの水戸黄門や清水次郎長のほうに眼をむけてしまったりする人が増えてくる。
むずかしい音楽や文学より、義理人情や、勧善懲悪が、そのまま素直に単純に心に沁みてくる。
この種の浪花節的映画のほうが気分にぴったりするし、日頃、生活に疲れている頭脳や気分をほぐ
してくれるのである。
これはその時のユーモアであるかも知れぬが、昔、誰かが吉田茂元首相に、首相は現在どんな本
を読んでいらっしゃるのですか、と尋ねたら、吉田さんは、私は銭形平次を読んでいるよ、といっ
か
て呵々大笑したそうであるが、ユーモアでもあるかも知れぬが案外本気であったかも知れないので
ある。
人間誰しも、常に頭を使いっぱなし、体や気を使いっぱなしではたまらない。老齢に近づくと、
大体責任の重い仕事につくようになる。だから常に心の緊張が絶えない。何かで気をぬかないと、
体も心も固りきって、どうにもならなくなってくる。そこで酒で緊張をほぐしたり、異性と遊ん
で、その緊張をほぐそうとする。
ところが生真面目な人はそれができない。道を求め、教養をつちかおうとして、老年になって
も、真っすぐな道を歩んでゆく。それは勿論結構なことに違いないが、たまには、少し、程度を下
げて、頭も心もつかわないでも、すうーと心をもみほぐしてくれる、テレビの娯楽番組でも観ると
よいと思う。
水戸黄門でも清水次郎長でも、銭形平次でも単純な勧善懲悪的映画は、下手な哲学書より余程生
21ベートーベソと清水の次郎長
きてゆく道の栄養になったりするものである。
宗教を求めつづける人も、宗教の道はあらゆるところにあることを知って、広く心を開いて、ど
こからでも心の栄養を求めるべきであろう。
羽
この世に失意はいらぬ
こうにいしらうめまんえつ
今月は花の四月である。紅梅や白梅のあどけない美しさに満悦しながら、寒風の中でいち早く花
開いた梅の花の強い力に感嘆したりしているうち、いつの間にか、桜の季節になってしまった。桜
の花はまた私を自然の美の世界に誘いこんでくれる。実際、花や樹木があることが、どんなにか人
間を和ませ、いきいきとさせてくれるか、今更のように想うのである。
なんといっても、三月四月という季節は、人の心を明るく和やかにしてくれる月である。また若
者の月でもある。
しつい
ところが、この四月に失意の底に沈んでいる、親子がかなりいるのである。会社の倒産とか、失
業問題などという、現在、実際に苦しい立場に追いこまれているわけでもないのに、失意の底にあ
る人というのはどんな人かというと、高校や大学の入試に失敗した青少年やその親たちなのであ
る。
病苦や経済苦に追いこまれている状態の人には、あまり軽い口もきけないけれど、学校入試に失
敗したぐらいで、親子といっても、おおむね母と子であるが、失意の底に沈んでしまうというの
は、本当にどうかと思うのである。
志望した学校より、他の程度の低そうな学校に、未来の力になる先生や友人がいるかも知れない
のである。また同じ学校でも今年入るより、来年入ったほうが、その人の運命の進展のためによい
たた
場合も多々あるのである。
志望校を落ちたとか、浪人生活をしなければならないことも、その人その人のために、守護の神
霊が長い見通しで、よかれと思ってやっていることなのだから、すべてを善いほうに解釈して、心
23この世に失意はいらぬ
を明るく前進してゆかなければいけない。
こちょこちょと眼の先のことばかり考えず、長い未来においては、自己の努力次第で、どんなに
でも運命が開いてゆくものであることを考えるべきなのである。
いのも
春には春の自然の中で、心を充分に開いて、生命をいきいきとさせるように想いを向けかえるこ
とである。
24
高校選抜野球をみながら想う
あし
春の楚音といわれる高校野球が終って、改めて想ったことは、一つの目的のために、一人一人が
自分の技を磨き、しかもチームの調和を主にして試合をしてゆく、野球というスポ1 ツの良さであ
り、面白さである。野球ばかりではなく、バレーにしてもバスケットにしても、チームプレーが最
も重要なスポーッは、如何に個人の技が秀れていても、監督の指揮の下に、チームプレーを主にし
て、しかも自己の技術を生かしてゆかねばならないのである。
或る時は自分の立場を他に譲り、或る時は、他の苦しい立場を自分がひっかぶって、とにも角に
も、チームの勝利のために、全身全霊をあげて戦いつづけるのが、スポ!ツの集団競技である。こ
ういう精神の持ち方や、人間の在り方は、社会人の一人一人が持たねばならぬ精神であり、心の在
り方なのである。
国家社会という集団のプレーの中で、個人や少数のグループの自分勝手な生き方は、それがたと
え、その時よさそうな行為に見えようとも、やがては国家社会を分裂させ、国家運営というプレ!
をやりにくくしてしまうものなのである。
若い人たちは特にそうなのだが、地球人類全体の中の国家の動き、という大きな政治的立場ま
で、想いを至すことができないで、自分たちが良いと想った一つの生き方に固執してしまい、地
球人類全体の中の国家という立場がわからなくなり、暴動を起こしたり、革命を起こしたりしてし
まう。
高校選抜野球をみながら
もっと時を待っていれば、地球人類の動きが、自然と自分たちの想っているような動きに国家
をもっていってくれる場合もあるのであって、戦いや闘争の必要がなくなることがあるものなので
ある。
個人や少数グループの先き走った運動は、余程、神との一体化によって行わないと、国家や人類
の運命を損ってしまうことが多いのである。暴力沙汰の学生運動や、赤軍派の運動のような誤りの
目立った動きは勿論であるが、自分たちでこれこそ良い運動だと思っている事柄でも、よくよく祈
りを深めて、その運動が国家の調和を根本にしているか、争いや不調和の起ってくる運動であるか
をよく判断してゆくべきである。
常にスポーツマンのように、自己の心身の鍛えを主にして、国家社会という集団の大調和のため
に、自己の人格や技を生かしてゆけるよう錬磨研鑛してゆくことが、現代青年壮年のなすべきこと
であるのだ。
%
ツキということについて
ヘへ
日本人、特に勝負の世界では、よく、ッキということをいうが、今年(昭和五十年) のプロ野球
の巨人軍のように、よくもこうッキから見放されているな、と思える場合もある。
おうすえつぐ
はじめから、中心打者の王の負傷欠場があり、大金で呼び寄せたジョソソソの意外な不振、末次
の欝したスランプ・それに蓉のことゾ」とくに・思うにまかせぬ事態が多過ぎて、賎ファソは
かか
胃痛になった人が多かったと思うのである(呵々)
ヘヘヘへ
このッキというのはいったいどんなことなのであり、このツキのない時の各自の心構えはどのよ
うにしていればよいのか、などについて、ちよっと書いてみようと思う。
27ツキということについて
ヘへうんきヘヘ
ツキということは、いわゆる運気の波のことであって、ツキがある、という時は運気のよい時で
ヘへ
あり、ツキのないという時は運気の悪い時である。
ヘヘヘへ
もっとも、努力も研究もしないでいたのでは、ツキがあるも、ツキのないもない、その人の実力
きいん
の無さにすべての起因があるのである。
じんせいほんにんヘへきゆう
勝負の世界ばかりでなく、人生万般、このッキに左右されることが非常に多い。そこで人々は、
あだヘへ
神社仏閣にお詣りしたり、お札を頂いたりして、このッキにありつこうとするのである。
こうしよりたく
この人間の業生の世界では、運、不運というものがつきものであって、巧みに運をつかんで進ん
ヘへ
でゆく人が、この世の成功をするのである。この運、不運というものが、ツキというように、その
時々の細かい事柄にも起こってくることが多いので、このツキを常に自己の運命につけておかなけ
ればいけない。
ヘへ
それにはどうすればよいかというと、ッキというのはあくまで、この業生の世界の波なのである
から、この業生の世界を超えながら、しかもこの業生0世界で生活する、という方法を会得しなけ
ヘヘヘへ
れば、常にツキを身につけておくわけにはゆかない。ッキを身につけるというより、ッキなどにお
かまいなく、自己の実力を出しきってゆくことのできる方法を会得しなければいけない。
認
それは常に、自己の本体、本心、つまり神のみ心、み力と、肉体身の自己とを噌つにしてゆくこ
あいきどううえしばもりへいおウ
とによって、
・自由自在に自分の実力を出し切ってゆくことができるのである。合気道の植芝盛平翁
などがそういう人であったのである。
ヘへ
自己の運も不運も、その場、その時々のッキということも、すべて、神のみ心にお任せして、常
ヘヘヘへ
に神との一体化の祈り心で、事に当ってゆくこと、その方法が、常にッキを身につけ、ツキを超越
してゆく、最大の方法なのである。何故ならば、
‘私どもの智慧も力も、みな根源を神のみ心から頂
いているかちである。だから、神のみ心と一つになれば、すべての事柄が自己の進むがままに成就
してゆくのである。そこで神と一体化の祈りの行が大事である、というのである。
29ツキということについて
30
阪妻と田村高広
にんつまよゐがえ
近頃どういうわけか、昔の映画俳優、阪妻の映画が上演され、にわかに阪妻が甦ってきた。私た
ちの年代、特に浅草生れの私にとって、阪萎といえば懐かしさがこみあげてくるような俳優であ
る。阪妻の映画は恐らく見落したものはあるまい、と思われる。
その阪妻に長男の田村高広が、顔といい姿といい、年毎に実によく似てきたのである。何故ここ
に、阪妻だの田村高広だのと書いているかというと、実は、親子というものの、顔や姿がどうして
こうも似ているものか、という血のつながりの不思議さを、阪妻と田村高広に代表して、しみじみ
思いみていたからである。
まりしようぽう
容姿容貌は、たいがいの親子が似通っていて、変えようもないのであるが(もっとも近頃整形手
ぎより
術というものがあって、変えることができるが、それでも根本的に変えることはできない)その行
せき
蹟や生活態度は、その容姿容貌のように似てはいない。似ていないどころか、まるで相違している
場合もずいぶんとある。
わらひんしゆく
もし親の行蹟や生活態度が、世間の啖いものであり、社会から墾蓬を買うようなものであって
まはんたい
も、子供はそれと真反対の社会から讃嘆され、感謝されるものであることもある。
そこが、人間の動物と違った重大なところである。動物には人間のような精神がないから、自分
で考えて、自分の行動を立派にし、高めあげてゆくことはできないが、人間はどんな低俗な親の子
として生れてきても、自分のやり方一つで、どんなにも立派になり、高い広い心の人間になること
もできる。
自分自体の努力精進で自分の好む環境をつくり出してゆくことができるようになっているのが、
人間なのである。このことをよくよく考えて、自分を生んだ親や、生れた環境などに恨みごとをい
わないで、天から流れてくる智慧能力の源泉をよくつかんで、自分の生命をいきいきと生かして、
社会国家人類のために、少しでもプラスになる働きのできる人間になってゆくべきである。
31阪妻と田村高広
それでなければ、動物となんら変るところはないし、かえって動物以下にな慨てしまう場合さえ
いのちみたもと
もあるのだ。そのためには、常に自分の生命の源である、大生命(神) のみ心に波長を合わせるよ
うもゆうしん
うにする祈りの生活をすることが大事なのである。人間は必ず、生命の大親である宇宙神と、肉体
として生れぬ前から、その魂を守っている守護の神霊がいらっしゃるのだから、その神々の加護を
念じ、その神々の加護に感謝して、先祖以上の親以上の、立派な人間になり、社会のために尽して
ゆくべきなのである。
祈りこそ大事な大事な人間の行事であるのだ。
(註) 阪妻とは阪東妻三郎(一九〇一ーゴ九五三)の略称で、無声映画のはなやかの頃からの時代劇の王者
だった。
32
チンパンジーに負けるな
きばゆうもうしんみずか
多摩動物園のチンパンジーのジョー君、或る時大事な牙がぬけて、にわかに勇猛心が失われ、自
らボスの座を下りようとしていた。
これをみていた飼育係の人が、ジョー君を可哀相に想い、女医の歯科医さんにジョー君の入れ歯
をお頼みした。この女医さんは動物の入れ歯ははじめてだったが、真剣に愛情を傾けてジョー君の
入歯に立ち向い、見事に入れ歯に成功した。
入れ歯の完成したジョー君、鏡をみたわけでもあるまいに、自分のルックスがわかったのであろ
あとがまねら
う。その日から昔の勇猛心が甦り、ジョー君の後釜を狙ってボスになろうとしていたタローをダウ
33チンパンジーに負けるな
ソさせ、ボスの座を確保した。
ガきようしん
チンパンジーのボスになるには、強きをくじき、弱きを助ける義侠心と、それに伴う腕力、それ
けんし
にその容貌容姿も加えられるらしく、ジョー君のように、一度ぬけた犬歯が手術によって甦ったの
を知って、自己の容貌に再び自信を取りかえし、ボスに返り咲いたわけなのである。
万物の霊長である人間様は、チンパンジーのジョー君に負けてはいられない。自己の容貌容姿
しゆわん
や、様々な手腕で、社会の中心で活躍するだけなら、ジョー君となんら変るところがない。
人間がチンパンジー君に勝っているのは、その精神的な深さによるので、人々のため、社会のた
め、いかにしたら大きく役立つかということを常に考え、実行してゆく必要があるのである。
大宇宙や大自然と人間との調和とか、人間同志の調和とか、という深い問題は、どんな利ロなチ
ソバソジーにもわかるわけはないが、人間は少し精神的に深くなれば、そういうことを考えずには
いられなくなり、すべての調和とか、世界の平和とかいう問題に、何かの役に立たずにはいられな
くなるものなのである。
いつさい
人々のためも、社会のためも、そういう他の人や他の事柄は一切考えず、我がことや我が家のこ
いき
とだけに力をつくしているのは、チソパンジーの域を少しも出ていない精神状態の人の在り方で、
鍵
自己のために人を傷つけ痛めても平気でいられるような人間は、チンパンジー、ジ。ー君以下の精
神状態の人間である、といわれても仕方がないのである。
今こそ人類は、万物の霊長たる実力を発揮して、この地球世界を更に進化させてゆかねばならぬ
のである。
思いやりの
、
‘い
よどがわながはる
こ の話は、映画評論家の淀川長治さんが、話していたことですが、心に感銘を受けましたので書
いてみました。
それは、フランス在住の某画伯が、ある公園で写生をしていた時のことです。夕方近くなって来
35思いやりの心
たので、それまで周囲に集って、その写生を見ていた人達も、それぞれに礼を言いながら立ち去っ
てゆきました。しかし、写生の最後に画いていた噴水のところが、まだ終らないので、ピッチを上
げて画き急いでいました。画きおわって、ほっと一息ついて周囲をみわたすと、背後に一人の中老
の男の人が立っていました。そして、こちらが顔を向けると、にこにこして、
「画き上ってよかったですね、有難うございました」
といいました。画伯は、よくおそくまで自分の絵をみていてくれたものと感心して、
「お近くにお住いですか」とたずねますと、その人は、ますますにこにこして、
えんてい
「実は私は、この公園の園丁でして、あなたの絵が画きおわったら、噴水を止めようと思ってい
たのです」といいました。
時間ですよ、といって、さっさと噴水を止めて帰ってしまってもいいのに、この園丁さんは、自
分が園丁であることも言わずに、画伯が、噴水を画き終るまで、にこにこして待っていてくれたの
です。余り表には目立たないけれど、なんという思いやりのある温かい心の持主なのでしょう。
こういう話には、全く心がなごみます。こんな心の人が、多く住んでいたらその街は、温かな、
なごやかな街になるでしょう。
36
その街をよくし、国をよくするということでも、こういう目立たない思いやりの行為が、実に大
事なことであるのです。声高々と、愛国を叫び、革新を叫んでいることよりも、こういう愛の心の
ひびきが多くなってゆく方が、社会や国家や人類のためになるのかもしれません。
おだ
私共は、あえて高々と叫び続けようとは思いません。地道に穏やかに、神と一体になる世界平和
の祈りを祈りつづけ、賛同する同志を一人でも多く増してゆきたいと思っているのです。その運動
の中には、相手をやっつけようとか、人の団体の切りくずしをしようとかいう争いの想いは少しも
ありません。
フランスの園丁さんのように、終始にこにこして、世界平和の祈りを祈りつづけ、少しでも人々
のために、よいと思う日常生活をつづけてゆくだけなのであります。
そういう平和の心に、武力に勝る、宇宙の神々の大きな力が働いてくるのです。
37思いやりの心
旅によせて
神のみとの対面
少年の頃は働くことと学ぶことで、青年時には戦争で、宗教者となってからは、道のために、自
分自身のための旅行らしい旅行などしたことのない私だったが、今度五十年ぶりで、俗事のすべて
を捨てて、海辺にそして高原に旅することになった。
数多くの相談事や様々の生活指導、会の方針や行事のごとごとを捨てて旅立つということは、私
にはとてもできることではなかったのだが、神のみ心を体した側近の者たちが、無理矢理のよう
に、私を市川の地から離れさせた。それは長年月の超人的なと皆がいっている労働で私が身心共に
疲れきっている、とその人たちに見えたからなのである。そういわれて、神のみ心を計りみると、
41神のみとの対面
神のみ心も私に休暇を与えることに賛同しているのである。
そこで私も意を決して、あちらこちら、俗事を離れた大自然の中で生活をするための旅立ちをし
たのである。さて、旅立ちして、海に接し、山野の中で生活していると、忽ち、今日まで種々様々な
俗界の汚れが疲れとなって蓄積していたものが、ぬぐわれるように消え去っていくのがわかった。
大神に休暇給わり三界の波のとどかぬ大自然の中
というわけで、大神に給わった休暇という安けさと、大自然の浄まった大気に心身を洗われて、
心身爽快、神の光明がますます強まってきたことを感じた。人間はやはり、時折りは俗事を離れ
て、神とのみの対面する時をつくらなければいけないのだ、ということを悟った。私のように神霊
の体の光明で、すべての業想念波を浄めきっていても、一分なりといえど肉体波動がこの世に存在
する限り、時折りはその汚れを祓いきるための、神とのみの対面が必要になってくるのである。
だから普通の人はなお更に、時折りは神とのみの対面をしなければいけない。神とのみの対面と
は、一定期間の祈りによる統一行、皆さんでいえば、聖ケ丘での統一とか、錬成会における修業と
かいう、俗事を離れることか、海や山野で俗界を離れた状態に身心をしておく時日が必要になって
くるのである。
紐
それでなければ、善い音楽、例えばベートーベンとかバッハとかモーツアルトとか、もっとポピ
ュラーなものでもよい、心の奥に沁みる音楽を聴くことが大切である。その時は上っつらの官能を
くすぐるようなものであってはならない。やはり正当な名曲を選ぶ必要がある。日本人の曲だって
和楽だって勿論よい。
兎に角、神のみ心、大自然の心に近いものに接することが大事なのである。私は今度の経験によ
って、改めてこういうことを感じたので一筆したためた次第である。
外国から日本を見れば
外国へ行ってきた人が、異口同音に、日本はやっぱりいいな、という。私も今度はじめてアメリ
43外国から日本を見れば
カに旅行して、全く同じような感慨をもったのである。,
日本はやっぱりいいのである。どこが一番良いのか、と問われれば、まず最初に、日本には深い
情緒があるからである、と私はいいたい。それは国民自体にも知らずして培かわれているものであ
り、日本の国土そのものが自然にもっているものである。
アメリヵは実に広大な土地をもつ国である。ニュ! ハンプシャ!州から、ナイヤガラの滝をみる
ために、自動車で最高百三十キロというスピードで走りつづけたが、道幅がとてつもなく広くて安
定している。その上、道の向うがずうっと平原であって、実に伸びのびとした風光である。東京近
郊の狭い道路を、自動車がひしめきあって走っている状態ばかりみている私たちにとっては、まる
で別天地であり、思う存分息が吸える感じである。この点は全く羨ましい限りなのであるが、これ
が長い間走りつづけていると、次第にその風光の単調さに何か物足らぬものも感じてくる。すべて
大味で、風光に細かい変化がないのである。一つ一つの植物までが大味なのである。松の木一本に
しても、日本の松のように、枝ぶりに変化をもった、いわゆる枝ぶりのよい松などはなく、上の方
に手を拡げたような単純な枝ぶりのものが殆んどなのである。(西海岸のほうは日本と同じような
松があるそうであるが) 他の木々にしても同じような工合である。勿論それはそれなりの良さはあ
幽
るのだが、日本流のキメの細かさが植物にもみられない。
これは気候風土の違いからくるのであろうが、日本とアメリカの本質的な相違の根本をなしてい
るものではないかと思われる。それは大陸と島国との相違ともいえようが、人間の感情や考え方に
もその相違がはっきり現われているのである。
せつかい
日本人の感情のキメの細かさ、これは時にはいちいち他人の生活にくちばしをいれるお節介にな
ったり、非常なマイナスになるかも知れないが、この感情は大自然の心の奥に触れる、深い情緒と
もなってくるのである。そうした感情をアメリカ人が理解するのはむずかしいことであろう。私も
在米中多くのアメリカ人に会ったが、そうした日本人との根本的な相違をはっきり感じさせられた。
日本人には、人によっての相違は勿論あるのだが、日本民族という全体の感じからいえば、深い
情緒をもった、自他の隔りの少ない思いやりの精神をもった、しかも勤勉な民族だということがで
きるし、表面にはそれが出ていなくとも、本質的には深い情緒を誰もがもっているのであり、それ
が日本音楽とか、茶道、華道となって現わされているのである。ともあれ、アメリカのように種々
雑多な民族の集合体の国家は、実に政治のとりにくい国であろうし、真実に心が一つになりにくい
ことが多いと思うのである。欧米人の中にも、日本の深い情緒に憧れて、日本の研究をしつづけて
45外国から日本を見れば
いるような人もかなりできているのであるから、日本人たるもの、あまり他国の文化にばかり気を
取られないで、島国根性ともいうべき、狭量と短気とを捨てさり、日本人の真実の善さを、真実の
日本人らしさが、表面に現わせるように深い情緒と勤勉さをもつ、日本人の本質を常に振りかえっ
てみつめる必要があるのである。
私はアメリカから日本をみつめてみて、改めて、日本の良さを味わい、日本人に生れてよかっ
た、としみじみと思うのである。
日本はあくまで調和の国であり、大自然の深いところで、統噌されている国なのである。そうい
う日本人の本質を発揮できるよう、今の青少年たちも、過去の日本の悪さは勿論捨てて、古代から
の過去の歴史が示している、日本の善さを素直にみつめて自分のものにしていってもらいたい。過
去の善さと現在の善さとを融合させて、はじめて日本の真価が発揮されるのである。
妬
すべては神のみ心
先日所用で赤倉にいった時の話である。
越後の雪の深いことは、子供の頃から、よく知っている私ではあるが、五十を過ぎて、吹雪の山
村に立ってみると、子供の頃とは全く違った感慨が湧いてくるのである。子供の頃は、積雪が深く
なればなる程愉快になって、「いいなあ、面白いなあ」とはしゃいでは、大人共に「面白いどころ
の騒ぎじゃあない。毎日雪掘りが大変だあー」と叱られながら、なんとも嬉しくてたまらなかった
ものである。
ところが五十歳を過ぎた私の心は、様々な感慨にふけるのである。各地からやってきて、吹雪も
すべては神のみ心
ものともせず、ゲレソデを乱舞するスキ!ヤーをみるのも一つの感慨なら、朝からずう!と屋根の
つにめ
雪かきをつづけている男衆の姿にも想いが走る。燕の辺で大なだれがあって、小屋がつぶれて死人
があった話などがふいっと想い出される。
直径一米もありそうなつららをながめながら、積雪が多ければ多い程、この地の住人が栄えると
いう、スキー場赤倉の空には、一体どのくらいの雪の元があるのかと、想わず空を見上げる。雪は
がいがい
小止みもせず降りつづける。白艦々、純化されきった天使のように、雪の膚は真白く、この町を包
んでいる。私は種々な感慨を一つに纒めて、美化された天のみ心を心として、只越後の積雪を楽し
み眺めることにした。
さてところが、帰京の際が問題だった。いざ帰えろうとすると、吹雪と積雪で自動車事故が続出
こお
して、妙高駅まではとても行かれないというのである。赤倉ホテルのご主人が、タクシー業者に強
いんり
引に頼みこんでも、どの運転手もとても駄目です、という返事である。明日が聖ケ丘の統一会で、
私は是非共その日の中に帰えらなくては、会員の皆さんに申訳けないことになるのだが、すぺての
物事事柄を神様のみ心に任かせきって生きている私なので、是非帰えらねば、という力味も、帰え
れなければ困るなあ、という想いもない。
48
何事も赤倉ホテルのご主人たちにお任せして、タクシー待合場の中から、吹雪に霞む山々を眺め
たり、道路の雪をけづりつづけている道路ローラの音に耳を傾けたりしていた。
私が帰えり急ぐ気配をみせぬので、見送りの人々の気持も何か落ちついて苛立ちはない。ただご
主人が、行けなくともよいから、行けるところまで自動車をやってくれと、又強引に運転手さんに
喰いさがっていた。なんとおっしゃられても、申訳けないけれど、道が通れないのですが、と運転
手さんは頭を下げるばかりである。
そこへひょっこり、ハイヤーが一台駅の方から帰えってきた。ご主人とハイヤーの運転手さんと
の話合がすぐついて、駅へと出発した。深い雪につっまれた、崖と崖の間の道をハイヤーは用心深
く走っている。二重三重に崖や木々が重なり合いながら、白一色の風光が、様々な角度で変化して
ゆくのは、複雑な内容を単純化してしまった、美の極致とでもいうのだろうか。そんな呑気な美的
感覚にふけっているうちに、タクシーの運転手たちの言葉が嘘のように途中何の障害もなく、汽車
の発車時間に充分な時を余して、自動車は駅についていたのである。
何事も、神様任せ、それでいて充分に人事を尽す。そういうところに、すべての運命は開かれて
ゆくのである。ということが、今度の赤倉行きでもはっきり示されていたのである。
49すべては神のみ心
あせ
私共のような立場の者には、焦りも怒りも怠慢も、すべて許されぬことなのである。と今更のよ
うにわかるのである。もし私が、この場合に苛立ったり、怒ったりしていたら、みんなの心が波立
って、こういう風に順調にゆかなかったことは事実であったろう。
天命を信じて、人事を尽せである。
50
神の恩寵
二十数年来、宗教者として、道を説きつづけ、人生相談に明けくれていて、個人の時間というも
のを、殆んど持つことのできなかったものが、ここのところ、普通の診断では喘息とでも名づけら
れる症状で、時折り側近の者たちに、強引に転地療養といって、諸所に旅をさせられている私なの
だが、こういう生活もあるのだなあ、と神様に改めて感謝していることが多々あるのである。
と申すのは、来る日も来る日も、切羽つまった生活の問題で、私を訪ねてくる人々の、その悩み
苦しみを、自分自身のことのように、しっかり受け止めて、霊笛や柏手の浄めもさることながら、
相手の苦悩の肩代りをしつづけてきた毎日の私の生活は、人間の息づかいだけで、自然の入りこむ
余地のない、押しつめられた小さな狭い範曖の動きよりないものになってしまっていた。それがた
とえ、国の政治の問題や、大きな会社の事業の問題としても、大自然の運行からすれば、微々たる
ものなのである。
そういう生活の明けくれも、祈り一念の私にとっては、さのみ苦痛ではなかったのだが、神様の
み心は、少しく気の毒に思われたことなのだろう。はた目には大変に苦し相にみえる喘息のような
形で、私の体を働きにくくさせて、私自身からはどんなことがあっても、仕事を休むなどとはいい
だす筈のないことを見抜かれて、はた目では見ていられぬような、苦しい症状を私に現わさせ、側
近たちに転地療養をさせずにおられぬ仕儀にしてしまわれたのである。
私自身いい出せぬことではあったが、この処置は実に私にとっては有難いことで、二宮だ、赤倉
だ、小田原だ、というように、自然味豊かな土地で、一切の俗事を放って、海や山川、草木に親し
51神の恩寵
むことだけの生活を何日かずつさせて頂いて、人間は大自然の中の一単位であって、自然とは切っ
ても切れぬ存在なのだ、ということを、今更のように感じさせられ、神の恩寵を勿体なく頂いてい
たのである。
人々は病気というものを、あまりにも恐れ過ぎているが、人間の死と病気とは関係はないのであ
って、病気は病気、死は死なのである。病気と死とをはっきり離して、病気になったら、心静かに
想いを深く深く、自己の内部に鎮めてゆく必要があるのだ。病気を直そう、薬がどうだ、というよ
り先に、自己の想念を周囲にわずらわされず、自分自身の本心の中にまで深く鎮魂できる、最も良
い機会として、ひたすら想念を鎮めることがよいのである。病気は鎮魂のまたとない機会である。
私の喘息状態は、病気というより、この地球世界の波動の浄化の一たんを受けての症状なので、時
折り大自然と接触させて下さる機会を与えて下さっている大神様に、感謝するばかりなのである。
大自然との一体化の中から、世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、
という祈りが自ずから湧き出てくるのである。どうかあらゆる機会を、自己の本心開発の道として
受けとってゆかれるよう、皆さんにお薦めする次第である。
52
ハワイにて想う
外国行の飛行機にももうなれて、日本をはなれた、という深い感慨はないが、別れを惜しんで、
じいっと私たちをみつめている多くの親しい人たちの眼や顔がいつまでも脳裡を離れない。心が通
い合っている人たちが、こんなにたくさんいるということは、私にとって嬉しく有難いことなの
だ。みんなが、いつまでも幸福でありますように、と祈らずにいられない。
ところで、会員の阿部さんご夫妻の親切なお迎えをうけて、ホテルについて、ペットに楽々と体
を伸ばして…横たわると、飛行機の中で、足をちぢめ体を堅くして、睡りもならず眼を閉じていた七
時間の疲れが、どっと出てくる。あんな窮屈な寝方もあるのに、こんな自由にのびのびと睡れるこ
53ハワイにて想う
との有難さを、心しみじみ想うのである。
人間は不自由な目に会うと、それより少しでも自由な生活がありがたくなる。不自由な生活を忍
びつづけた人は、自由な生活になった時に、その自由が何事にも替られないくらい尊いものである
ことを知るのである。そのことは、この肉体生活において、貧乏や不幸災難で、種々と苦しい生活
をしながらも、永遠の生命を信じて、神に感謝をつづけていた人たちが、その消えてゆく姿がすっ
かり消え去って、天上界に生れ変った時、その自由さ、その明るさ、その美しさに、どんなにか深
い歓喜を味あうことであろうか。どちらも、同じことなのである。ただ、肉体界の自由と、天上界
の自由とは、それは比較にならぬ程の差のあることは致し方がない。
それはさておき、外国にきていつも思うことなのであるが、食物のことである。日本の淡白な、
神経のゆきとどいた微妙な味になれている私たちは、どかっと出される大味な肉料理の味には困っ
てしまう。お祈りしながら一口二口はいただくのだが、後はのどにつかえ喰べられないのである。
ハワイには日本食がたくさんあるというので、明日からは日本食オンリーでゆこうと思うが、この
日本食の味が果して日本でいただく日本食までゆくかどうか。私は少しく疑問にしている。何故な
れば、ロスでもニェーヨークでも個人の家で御馳走になった以外は、とても日本で食べる日本食と
54
は太刀打ちできぬ気がしていたからである。
尤も私のように表面に現われている味以上の微妙な感じを感じとる人間は、別外であるかも知れ
ぬが、外国にくる度びに食物は日本が一番という感じをますます強くしている。それと同時に、何
事においても、日本人の仕事は、感情がゆきとどき、正確である、という気がするのは、あに私の
みではないのであろう。
日没と日の出
どこでみても、夕陽の沈んでゆく情景はよいものである。
まして、一万メートル上空の飛行機の窓からみる日没の情景は、実に大きなロマンを秘めた美し
55日没と日の出
さをもっている。
毎回の海外旅行では、この夕陽の沈む空の情景をみるのを、私は楽しみにしている。
先年はヨーロッパ帰えりの飛行機が、モスクワ経由で日本に来る時、日没と日の出が一つなる空
の情景に驚いたのである。
サンセットとサンライズが一つになっているということは、スチュワーデスの説明でわかったの
あかね
だが、そういわれて改めてみると、地上である日没の短い時間と異なり、かなり長い時を茜色に染
った雲の色がさまざまに変化して、日没から日の出にかわってゆくさまが、非常に大ロマンでもあ
り、ドラマチックでもあった。
人生もこの日没と日の出のように、肉体生活から霊界へと移行してゆくもので、大空のドラマの
ように肉体の死も霊界への生も、美しく輝やかしいものであるのだが、人間の大半は、死を悲しみ
の涙で送り、当人も死苦を悩みながら送ってしまう。
生も死も神のみ心にお任かせして、自分を愛し、人を愛し、という生活をつづけてゆけば、人間
はサンセットとサンライズの美しさのような、輝やかに光りながら肉体界から霊界に昇天してゆく
ものなのである。56
機上で感慨にふけりながら一筆した。
旅によせて
人はたまさか旅をするとよい。飛行機の旅は日本国内では、あっけなくて深い旅情を感ずるいと
まがないが、汽車の旅だと、新幹線でさえも、うつり変わる周囲の風光の中に、その土地その土地
の自然の営みを感じさせられて懐しい。
自然との接触ほど、人間にとって心の糧になるものはない。汽車を降りて、その土地特有の山な
り川なり海なり湖なりに想いをむけると、急に胸がひらいたようになり、肉体がその風光の中にひ
ろがってゆき、風光と心とがハーモニーしてひびき出す感じになる。肉体人間を解脱するために、
57旅によせて
山に籠った先覚者の心がよくわかってくる。
大きな自然を根源にして、我々は限られた自然の中で生活している。その限られた自然から自然
へと自己と大自然との接触度をひろげてゆくところに、旅をする楽しみもあり、意義もある。要す
るに、人間は対人社会というそういう環境から常にぬけ出して、大きな自然の息吹きを心に受けて
いないと、精神が窒息してしまうのである。
そう考えてくると、たとえ小さな庭の家に住んでいても、時折りは庭木や草花のそばにいて、そ
うした小さく限定された自然の中からでも、大自然のひびきの中に自己を融けこませることができ
れば、それは旅の中で、自己が一つの風光の中に融けこんでいるのと同じ意義をもつことになる。
た
小さく限られた庭に侍っていても、暮なずむ西空の雲の動きに心を融けこませて、自己の心を洗
い浄めることもできるのが、また人間の特長でもある。
旅のできる人は旅をするのがよいし、旅のできぬ立場の人は、自己の周囲の山川草木、朝空、夕
空の中にでも、心を浄める一時刻をもてることを、充分に承知してもらいたいものである。
近頃、旅をすることに馴れてきた私だが、我が家にいて、朝日を拝し、たそがれの空に情感を走
らせながら、自然の愛に心温まる日々を送っていることを更に有難いことだと思っている。神さま58
はどんな自然の中にもおいでになって、人間を愛深く見守っていて下さるのである。
日の出日の入り
人間の生活にとって、大事なものはたくさんあるが、太陽はその最も大事なものの一つである、
というより、最大のものである、といってもよい。
太陽がなくては、この地球界の生物は生きてゆくことができない、というそういう根本のことを
除いて考えても、太陽は人間にとってなくてはならないものである。
私たちは暁の祈りを時折りしているが、暗い空が少しつづ明るんできて、太陽がその顔をみせは
てんよ
じめる時の爽快さ、美しさは、口ではちよっといい現わせない天与のものである。
59日の出日の入り
そして、夕日の沈む時の空の美しさは、また格別なもので、日の出の輝やく美しさと違って、人
おに
の魂を休ませる、穏やかな愛のひびきを感じさせる。
先年、アメリカ東北部の、ある村でみた夕日の沈むさまは、今でも瞼に浮んでくる。北側の雌鵬
ちやむらきき
が濃い茶紫にかげって、東西に伸びた広い広い道の西の空が、いつまでも夕日にいうどられている
ぱんしよう
さまは、ミレーの晩鐘をみるようで、日本の都会に住んでいる私たちが、見ることのできない雄大
なロマンなのである。
ヘへ
日の出、日の入りのさまはともかく、太陽に対する人間の心は、感謝そのものでしかない。おて
ヘヘヘヘへ
んとうさまありがとうございます、と昔のお百姓さんが太陽を礼拝していたように、私たちも改め
て、太陽にまともに感謝する生活をしてゆく必要がある。それと同時に大地に感謝し、空気や水に
感謝する、感謝の心を深めてゆくことが大事である。
宗教の道に入って、神界がどう、霊界がどう、ということを知ることも大切ではあるが、最も根
本の生き方である、物事事柄に感謝する生活を、改めて自分のものにしてゆくことが必要なのであ
そぼくじゆんじよう
る。宗教の道は本来、素朴純情の道で、理屈で入ってゆく道ではない。何もの何ごとに対しても感
謝できるようになったら、その人は悟りを開いた人というべきなので、理論的にだけわかったから
60
といって、その人の悟りが高められたといえない。要はその人の行為がいかに、神のみ心に近くな
っているかということが大事なのである。
伊勢神宮にて
りちゆうおおがみあめのみなかぬしのかみ
伊勢神宮は日本の中心の神宮であり、宇宙大神である、天御中主神の中心のはたらきをもつ、陽
あまてらすおおみかみ
の神である天照大神が祭られている。そういう話は、大体知っている人が多い。しかし、神々は真
おやしろ
実にその御社の中から、宇宙の調和をはかり、皇室を守り、日本の国を守っておられるのであろう
か? その事実について、考えている人がどれ程あるのであろうか。国民ばかりではなく、当の神
社関係者の中にもそういう事実を考えてもみない人が意外と多いのである。
61伊勢神宮にて
それは神霊の存在を確固として信じていない人が多いからなのである。私は毎年のように伊勢神
ごようせい
宮に詣るが、いつも、伊勢の神々の御要請によって詣るので、肉体的な願いや興味で詣るのではな
い。
さいおんじ
今年も四月三日に西園寺夫妻たちと、中型バスの乗り切りで詣ったのであるが、この日は二月の
おおきよ
初旬の寒さとかで、肉体をかけた大浄めをしている私の、時折り庭の散歩の他は、祈り一念の生活
をしている体には、相当こたえる寒さであった。
しかしその寒さも一度に吹き飛んでしまったのは、神宮の前でお祈りをしている時の神々との交
カルマ
流で、私の体を中心にして働いている救世の大光明が、神宮の神々のお働きを妨げている業の黒雲
を一度に浄め去ってゆくさまが、まざまざと観じられたからである。
普通でいえば、大病の体を無理して出かけてきているようなものなのだが、そんなこの世的なこ
とはすっかり超越して、神々のお喜びで心がすっかり軽くなる想いであった。
うつわ
肉体は神々の器なので、浄められた肉体の存在は神々にとって貴重なものなのである。私が時折
り、神々に呼ばれて、伊勢まで詣るのは、日本の運命の光明化のためであり、世界大調和のためで
もあるのだ。伊勢神宮が常に輝やかに神々の光明を放っていられるよう、我々日本人は、世界平和
62
の祈りと共に、日本の天命の完うされることを祈りつづけるべきであるのだ。
63伊勢神宮にて
身辺折々
可愛いい奇蹟
宗教の世界には、奇蹟ということが非常に多いのだが、この奇蹟ばかりを当にして、宗教の道に
けぎら
入ると、いつの間にか宗教の本質である本心の開発の方向から外れてしまって、常識人から毛嫌い
される、奇妙な人間になってしまったり、当然しなければならない、自己の努力を惜しんで、只奇
めあて
蹟だけを目当の神詣りをして、自己の望む奇蹟が現われないと、それを神様のせいにして、不満不
足をいうようなことになる。こういう在り方は宗教に奇蹟を望むのあまり、神と人間との真実のつ
ながりや、人間の本質を外れてしまう行為となってしまうのである。
宗教の奇蹟というものは、得てして、思わぬ時に起ったり、人間の力ではどうにもならぬ切羽つ
67可愛いい奇蹟
まった時に現われたりすることが多いので、あまり奇蹟をあてにしていると、かえって奇蹟は現わ
れなくなってしまうものなのである。
奇蹟というものは、すべて神様のみ心によって現わされることがよいのであって、神様のみ心な
カルマ
らぬ奇蹟などは、自己の業想念の力によって現われるか、幽界の生物の応援によるものなので奇蹟
が起ったとしても、あまりその人の本質の為によいものではないのである。
素直に神の愛を信じて、祈りの生活をつづけるところから、正しい奇蹟が生れてくるのである。
私のところでも、癌が治ったり、自動車が崖から七転八転して谷に落ちていったのに乗員全員無事
ということや、破産寸前で思わぬ援助人が現われたり、という様々な奇蹟が現われているけれど、
私はあまり、奇蹟的な現世利益の話はしないことにしているのである。何故ならば、奇蹟に把われ
て信徒の本心開発の遅れることを恐れるからである。
ところが今日は、皆さんにも聞いて貰いたい、可愛いい奇蹟が現われたので、ちょっと書いてみ
ることにした。
娘の可愛がっている、孫分のヨ1クシャテリア犬、ロビン君の足の爪が肉片をつけたまま、すっ
ぽり足からとれてしまったのである。私も驚いて、痛がって縮めている足を真剣に浄めてやった。
68
みんなが可哀想にとロピソの側によってきた。確かにロピソの黒い長い爪がぬけている。浄めてい
る私の指にはロピンの血がついている。娘の昌美が赤ちんをぬりながら、「あらこんなに爪の穴が
あいている」といって、自分が痛そうに顔をしかめる。ロビンは哀しそうな声を挙げた。
その日何度びか浄めてやり、三日経った。昌美がふとロビソの足をまさぐりながら「爪が生えて
いる。爪が四本揃っている」とびっくりした声でいう。声につられて私も他の二、三人の人もロビ
ンの足を抑えて指をみてみると、三日前にぬけたはずの爪が他の指の爪と少しも変らぬ大きさでち
ゃんと生えているのである。
みんなは、暫らくぽかんとして、三日前のことを想い浮かべてみたが、爪のぬけた事実をくつが
えすことはできない。それに同じところに二本爪があった筈もない。
根本からぬけた長い爪が、三日にして復活したわけである。これは小さな可愛いい奇蹟である。
一キロ半に足らぬ目方しかない小さなロビソ君が、長い苦痛を味あわなくて本当によかった、と
私たちは思わずにこにこしてしまったのである。
それにしても、すべての人々が平和に幸福に、貧も病も災難も無いという、そういう大きな奇蹟
がこの地球人類の上に現われることを望まないではいられない。その願望が世界平和の祈りの運動
69可愛いい奇蹟
として現在展開されているのである。やがて成就される、宗教と科学の融合、そしてそこから生れ
る大奇蹟、その奇蹟の現われる目の為に、私たちはますます、祈りによる世界平和運動を推進して
ゆくのである。
70
こ
動物性を超えよう
我が家には飼犬が二匹、宿借り猫が三、
と、食事ねだりで大変な騒ぎである。
猫には魚、犬に肉とそれぞれの食事が、
きつづけ吠えつづけて、どうぞお先にと、
四匹いて、毎朝、ニャンニャソキャソキャソワンワン
各自に分配されるまで、自分のほうが先だとばかり、鳴
相手に譲る気配などみじんも見せない。そして、それぞ
れの食事が済んだ後に主人公の私の食事となるわけで、人間である私が動物に先を譲って、「本当
そう
にうるさくて困ってしまう」と毎朝こぼしながら、満足相な顔をしている妻の様子に、苦笑しなが
ら朝食にありつくというわけなのである。
これが動物の世界のことだから、仕方がないと、その騒々しさが、むしろほほえましいぐらいに
しか感じないが、このままの状態が人間の世界に現われてくると、これは全くやりきれない、あさ
ましさを感じてしまう。
ところが、このあさましい状態が、実は日常茶飯事の社会生活の中に、政治の世界に、近来ます
ますはっきり現われ出しているのである。義理人情は後廻わしで、自己の現実の利害の追求をまず
先にする、という現代人の生き方は、ともすると、我れ先にと食事を争う、動物の生き方と全く一
つのものになってしまう。労使の争いにしても、与党と野党の争いにしても、我が利、我が主張の
みを唯一のものとして突き進んでいる限り、動物たちの生き方と、そうたいした差異のない生き方
となる。
国家対国家の在り方にしてからが、自国のためにならぬ相手方をより多く殺傷したほうが、自国
に有利になる、という考え方などは、正に動物本能的在り方で、その考えを超えた、真の人間性を
71動物性を超えよう
現わさない限りは、この人類から戦争の脅威は去ることはないだろうし、やがては地球滅亡という
日がきてしまうことになるのである。
そのことを想うと、小さな対人関係の事柄からでも、お互いに譲り合い、助け合いの生活を習慣
づけるようにしてゆかねば、人間はいつまでも動物の世界から、神の子であり、万物の霊長であ
る、真人の生活にはとても到達できない、と思うのである。個人個人の生活の在り方が、国家人類
という大きな集団の在り方に直結していることは事実なので、各自が、各自の人類への責任を、社
会国家や、他国の責任に転嫁してしまい、自分にはなんら責任のないような顔をしているのは、実
に卑怯な生き方である。地球人類を真実の平和世界に住まわせたいならば、地球を滅亡させたくな
いならば、人間の一人一人が、真の平和世界をつくる方向に向って進まねばならないのだ。
真の平和世界をつくるためには、各自が、自己の現象の利益ばかり追うことを止めて、お互いの
利害の上に立ち、更に国家人類という大きな立場と自己というもののつながりを常に考えて、行動
してゆかねばならぬのである。戦争を欲しないならば、自己の心の中に、争いの想いを持たぬよう
にすることが第一である。自己の心を調和させて置くことは、とりもなおさず、世界の大調和、平
和世界建設の一つの実証ということになるのであり、そのままの行為が世界平和実現のための働き
72
となるのである。そこで私共は、すべての調和を乱す想いや行動を、消えてゆく姿として、世界人
類が平和でありますように、という、世界人類の平和を願う、祈り言葉の中に投入しつくして、瞬
々刻々を生活してゆくことを人々にすすめ、私共も実行しつづけているのである。
動物には平和の祈りはないが、動物性を超えた人間には、平和の祈りが生きいきとなされるので
ある。
老犬リリーの昇天
時折りこの随想にも登場した、スピッツ犬リリーも、十三年の長い間、私どもを楽しませてくれ
はていぬ
ていたが、ついに老衰の果、先日昇天した。犬が死んだのを昇天というのはおかしい、と思われる
73老犬リリーの昇天
方があるかも知れぬが、その昇天の時に私も居合せたので、その時の様子を、ここで書いてみたい
と思う。
犬が死ぬと、飼主の住む世界に往く、とよくいわれている。しかし、飼主がまだこの世に生存し
ていたら、いったいどこへゆくのだろう、という疑問が湧くに違いない。読者の中にも、犬好きの
人が大分いると思って、そのことについてリリーの場合を題にして書いてみる。
みなさんは、私がつねに「人間はこの世に肉体としてあると同時に、霊界、神界にも生きている
のです」と申しているのをご記憶のことと思うが、犬の飼主が肉体界に生存していても、その犬は
霊界の生命体の主人の在るところに往くのである。
我が家のリリーも、やはり同様であって、私と家内と、それにリリーを取り上げて私どもに寄こ
した家内の姉も、ちょうど来あわせていて、リリーの昇天に立ち会うことになった。リリーにとっ
そば
ては、側にいて貰いたい人が、すっかり揃っていたわけである。私もつい先日ハワイから帰えった
ばかりで、ハワイでもリリーの体が気になっていたところであったのだ。リリーは運のよい犬であ
る。
さて、いよいよリリーの昇天の時であるが、家内がもう心臓が止まってしまった、もう死んでし
74
まった、と涙声でいうのだが、私の眼には、リリーの魂がまだ肉体にいるのがわかる。「まだ死ん
でいないよ。しかし、もう生き帰えらないね」私はそういいながら浄めをつづけた。今日迄二年余
り何度びとなく、私の浄めで生きかえっていたので、また、もしや、という気が、家内にも姉にも
あったのである。
そのうち、リリーの魂が肉体から離れる時がきた。ふわっと私の霊体の掌に乗ってきた。そこに
はすでに私の母と家内の母その他の霊人、霊犬が迎えにきていて、光明波動の中で、家内の神霊の
世界に連れ去っていった。私は神霊の体と肉体の二つの体を統一させて、この幸福な犬の昇天を助
けていたのである。
リリーはやはり、飼主である家内の神霊の住む界層に今後は住みつくことになったのである。そ
こに横たわっているリリーの肉体は家内の涙で濡れながら、その・魂は安らかに昇天し終ったのであ
った。
犬ほむる人をおかしと想ひゐしが我等も今は犬ほめ仲間
と十三年前に歌ったように飼犬というものは愛らしいもので、人間のように自分の都合で好きに
なったり嫌いになったりせず、ひたむきに飼主になつききるところは、渋谷の忠犬ハチ公のみなら
75老犬リリーの昇天
ず、すべての犬がそうなのである。その点、リリーの家内への愛情も涙ぐましいもので、家内が出
掛けると、帰えってくるまで食事もせずに玄関に坐って待っていた姿が想い出されて、これがま
た、家内の涙の種になるのである。ともあれ、犬の昇天というものはこういうものであるという一
説をしたためた次第である。
76
みほろ
美 幌砂漠
古い会員の人にはおなじみの、スピッツ・リリーが先年あの世に去って、今我が家の庭を独りじ
めしているのは、アイヌ犬の美幌だけである。このミス美幌は、実に主人泣かせの犬で、一才から
さんたん
二才ぐらいまでの問は、やたらと小石を飲みこんでしまう癖をもっていた。家内が苦心惨憺して、
この悪癖を止めさせて、ほっと一息ついてみると、今度は花火やカソシャク玉の音におびえて、大
きな体なのに、あちらこちら逃げ廻わり、つげや松などの庭木の陰にかくれたり真紅に咲き盛って
いる寒椿やさざん花の下をくぐって、その辺の土を掘って掘りまくったり、縁の下にもぐりこみ、
に
そこに大きな穴を掘り、その中に遁げこもうとしたりする。
あまり土を掘りまくるので、家の土台の柱が浮いてしまうのではないかと思われる程である。そ
して、その鳴き声の悲しそうなこと、家内など可哀想がって、つきっきりで、勇気づけてやってい
る始末である。
家に出入りの人たちは、先生も奥様も、犬の教育が下手なので、犬がすっかり甘えきっているの
ですよ、鳴くままでほおっておけばよいのですよ、という。しかし、ほおっておけるような鳴き声
ではなく、悲愴凄絶な鳴き声なのだ。
しかしその鳴き声も近頃は大分穏やかになってきて、四才にしてどうやら一人前の犬になってき
た。この美幌、容姿も吠え声もなかなか立派なので、近所の子供たちは、この家には猛犬がいると
いって恐れをなしている。
ところで犬の習性というものは面白いもので、食事の時は、肉と魚と食パソをやるとすると、あ
77美幌砂漠
たりの気配をうかがって、やにわに、土を掘りはじめ、その土に肉を埋めてしまうのである。そし
て残った魚や食パソは先に喰べて、後でゆっくり埋めた肉を掘り出して喰べるのである。
自分の好きなもの、大事なものを蓄えておくというのが、犬ばかりでなく動物の習性なのであろ
う。そういえば、人間の小さな子供にもそういう傾向があって、自分の好きな食物はしまっておい
て後で喰べるか、一番後で喰べるかするようである。
肉に一生懸命土をかけたつもりでいて、実は肉の姿がまるで見えているのに気がつかないでいる
美幌の様子をみていると、小さな人間の子供をみているようで、笑みこぼれないではいられなくな
る。
そういう人間の子供との似通った状態をみると、動物と人間とがつながりをもっているものであ
り、肉体的には、動物が進化して人間になってきたという事実を、そこにはっきりみる想いがする
のである。
しかし、動物と人間とが、判然と区別されるところは、動物には善悪の区別がなく、人間は善悪
の区別がはっきりつけられるものであり、自分が選び努力さえすれば、聖者にも神にもなれ、怠堕
な生活をすれば、動物以下に落ち得ることもあり得るのだ、ということである。78
ともあれ、教育未熟の我が美幌犬は庭の芝生をけちらし美幌砂漠と人に呼ばれる荒庭にする程の
愚かな仕草をするが故に、なお可愛いいというのが私たちの心なのである。
雀の親子
我が家の庭はささやかな庭ではあるが、緑の木も少しはあり、四季折々の花も楽しめるほどのも
のである。
年毎蚤鯵の庭が良くなってゆくので・家内にお山にくることをすすめるのだが、磁の庭も
捨てたものではありませんよ、といって、滅多に呈修庵にやってこない。電話や来客の絶え間がな
じけさにわ
くて、外に出られないという事情もあるが、自家の狭庭で心が満足しているということもあるの
79雀の親子
だ。
ところでこの狭庭にも、呈修庵の庭なみに、鶯が来て鳴いたり、いろいろな小鳥が水あびにきた
あわ
りする。家内は毎日来る雀のために、庭のぞちこちに粟をまいてやっている。
話はこの雀のことなのだが、二十羽以上も来る雀の中で、一羽の雀は、粟をついばんでは、さっ
と木の枝に飛び上がる。どうしたのだろうと家内がその枝を見上げると、まだ羽ばたきの定かでな
い幼い雀が、ちいちいと鳴きながら大きな口をあけて、母親が餌をくれるのを待っている。母雀は
くちばし
自分の嘱を子雀のあいた口につっこんで餌をやっているのである。
しよく
母雀は何度びも飛び上がり飛び下りる。雀にとっても、子供に食を与えるのは自己の責任であ
はつる
る、と想えるのか、愛情の発露そのままなのか、近頃時折り起っている子供をロッカーへ捨てる人
ひんせいこうしよう
間の女性より、この雀のほうが品性高尚というべきなのであろう。
その小雀も今日は、母雀と並んで、一心に粟をついばんでいる。いのちのおもむくままに無心に
動いている、そういう生物の姿は愛らしくもいじらしいものである。
それにひきか、兄、とまた人間への文句をいおうと思ったけれど、文句をいうより平和の祈りに変
、兄ておこうと思って、以下は平和の祈りにしてしまうけれど、動物でも人間でも、お互いが愛し合
80
こだち
い、生かし合っている姿は、いつみても、感動を呼ぶのである。雀さん有難う、木立さん有難う花
々さん有難う。こう想って心が温まってくる私は確かに愛情過多の人間であるらしい。
生母の昇天
秋晴れの抜けるように青い大空の下で、母の葬儀が行われている。私は焼香しようと待っている
私の関係の参列者の側に近寄って、一人一人に挨拶して廻った。周囲がずうっと畑と蓮田になって
いるので、青空が広々としてみえて、誰の心も伸びやかに広らかになっているように感ぜられた。
葬式に参列している人々が、そんな感じでいる、という表現は少しおかしな表現であるようだ
が、全く、それらの参列者の心には悲哀の感じとか、喪主たちへの同情心とかいう感じより祭典に
81生母の昇天
つらなっている人のような、清しい晴れやかな心の姿のほうを強く現わしているのである。
ゆヘヘヘへ
私の老母は、常日頃から私に「私が逝く時にはぽっくりやっておくれ、病床でみんなに厄介にな
るのは嫌だからね」と口ぐせのように頼んでいた通りに、夕方までぴんぴんしていて、会いたい人
たちに会って、夕飯の時に倒れ、駈けつけた私に浄められながら、午後の十一時頃、一番最後に駈
ご
けつけた末子の姿を見るなり、七十五才を一期に昇天していったのであって、誰にもさしたる病床
の世話にならず、しかも苦痛なくして昇天していったのであった。
私が、倒れたという電話を受けて、死を予期して家内を連れて駈けつけ、肉体最後の浄めをして
いると、母の幽体はすっくり横たわった肉体の上に立ち上って、子供たちのほうをみつめていた。
私が浄めつづけていると、天界から数百の光明体(霊魂)が降りてきて、母の周囲を取り囲み、そ
のりと
の中の中心者の朗々たる祝詞の声と、清らかなそして雅びやかな音楽の流れのうちに、母の幽体は
たえ
天高々と昇っていったのである。その世界は清らかな明るい妙なる世界であった。
私は一方宗教者として、一方は人の子として、母の昇天の様子に安堵と喜びの感情を隠すことが
出来ず、遣骸のまわりで泣き出しそうになっている兄弟姉妹や甥姪たちに、老母昇天の実況を説明
しながら〃おばあさんはよかったのだぞ、幸福なのだぞ”とひとりで眸を輝やかしていたのだった。
82
そうした逝き方をした母であったためか、一年のうちでもまれに見る微風青天の日に葬儀が当
り、おまけにその日はその町の祭礼の日にも当って、すべてが、悲嘆の影の少しもない、晴れやか
な葬儀となり、参列者の心にも、自ずとその雰囲気が伝わって、なんとはなくお祭気分の明るい葬
式となっていったもののようである。
後で葬儀に参列して下さった五六人の霊能の開けた人々に聞いたのだが、一様に「お母様はよい
ところに往ってらっしゃいますね、明るくて静かな、高い高いところですね」と、言葉は違うが、
みなが、私の観た世界と同じ世界の様相を話してきかせてくれた。
私は私の最大の恩人である母を、立派な世界に送ることが出来た事で実に大安心の気持であった。
父母への最大のご恩報じは、あの世への旅立ちを立派になさしめる援助をすることであるからだ。
この世での環境を立派にさせること、この世での安心を与えることも勿論親孝行であるには違い
ないが、それよりも、もっと根本の親孝行は、父母に永遠の生命を知らせることであり、彼岸(あ
の世) での立派な環境に父母を送りこんでやることであるのだ。
そのためにも、私たちは自分自身が、まず神にしっかりつながって、天の光明を常に自身の中に
流れ入らしめていなければならない。自己が光明化すれば、両親は勿論、親類縁者もやがては必ず
83生母の昇天
光明化して、真の人間、永遠の生命につながっている自己をはっきり知ることが出来るのである。
すべての理屈は後廻わしにして、私たちはただひたすら神への感謝、神の生命への感謝行に想い
を投入させてゆこうではないか。(昭和三十二年)
妻のぬけ歯
昭和四十六年も、もう今月で終りである。天皇皇后両陛下のヨーロッパ旅行、中共の国連加盟、
この二つの事柄が、やはり一番心に残る今年のニュースである。
世の中は次々とうつり変ってゆく。そのうつり変りがわからないと、個人も国家も置去りにされ
てしまう。うつり変ってゆく世の中の状態をはっきり把握しながら、自己の本心の命ずるままに行
動するのなら立派だが、自分の立場や、周囲の声をはばかって、想いが右往左往しながら、国を誤
まらしめるような総理がいたのでは大変である。
師走の木枯をきいていると、人間の晩年の声とも聞える。いかなる美人も老年になれば、その容
貌は衰えるし、どのような高い地位にあり、いかほどの富を持とうとも、あの世では通用しない。
あの世で通用するのは、神を敬い親しむ心と、愛と真心である。この世の虚色の一切はむなしいも
のとなる。こんなことは何度びとなく聞いている言葉であるが、年末を人生の終りと考えて、もう
一度真剣に考えてみる必要がある。あの世への手前の老年であることを、老年に向ってゆく人は思
いみなければいけない。
老年といえば、私ももう五十五歳、妻は五十歳になる。近頃、妻が前歯を五、六本ぬいて、全く
亡き母そっくりの顔になって笑っている。
細き眼の更に細まり笑みこぼる歯ぬけの妻のお人好し顔
一眼みて想はず笑ふ見直して更におかしや妻の歯ぬけは
私は早速こんな歌を妻にみせて、二人で大笑いしたのである。生きることを真剣に、死ぬること
に恐怖をもたぬ私たちにとっては、老年もまたよし、なのである。
85妻のぬけ歯
平和の祈りの宣布に明けくれて、それが天命であり、生甲斐でもある、私たちの仲間は、やはり86
生きることを楽しみ、死ぬことを恐れぬ境地にいることと思うのである。
銀婚式もあと一、二年の私たち、終始私は外で働き、妻は家を守りつづけてきた。
いそじ
妻もはや五十路となりぬ開きこし道には立たず家守り楽しむ
妻のぬけ歯が、私の心をなごませた一日だった。
幸福をふりまく人
か
私のことを、親しい人たちは、着せ換え人形だという。着せ換え人形というのは、
が、お人形さんに服や着物を着せ換えては遊ぶ、そのお人形のことなのだ。
女の子たち
何故私がその着せ換え人形なのかというと、服装のことや、食事のことや、この世の私事は、す
べて、妻や娘や側近の人たちのいうがままに、着せられ、喰べさせられ、やらされているからなの
だという。
ちようだいもの
「よい着物ですね、よく似合う服ですね、よいネクタイですね」といわれても、それは頂戴物で
あったり、妻や娘の趣味であって、私はいわゆる着せ換え人形なのである。少しくらい派手であろ
うと、じみであろうと、くれた人や、着せてくれた人たちが喜こべば、それでいいので、実は私の
知ったことではないのだ。
女性がおしゃれをして、美しくあることは、この世の中を明るくしてよいことだが、男性が服装
のことや、この世のどうでもよいようなつまらない出来事、事柄に気を取られていることは、精神
の浪費であって、人類の損失でもある。
男性はすべからく、人類の進化発展のことについて、常に考え、実行しているようでなければい
わざわいごとかこせ
けない。明るく大らかに、すべての禍事や不幸災難を、過去世から今日に至る、業因縁の消えてゆ
く姿と割り切って、前に前にと光明心をかかげて前進してゆかなければいけない。もうすでに済ん
でしまった、事件事柄や、ささいのいざこざをいつまでも気にしているほど愚かしいことはない。
87幸福をふりまく人
いのも
生命は常に生き生きしていることを好む。生命のひびきを暗くして、一体誰が得をするというの
か。すべてに消極的になってはいけない。この世界は望みがない、私はもう駄目だ、僕には才能も
力もない、こんなぐちで日を送っている人は、その想いの通りの暗い環境が自己の前に現われてく
る。
この世界は平和になどなりっこない、そんなことを想ったりいったりしている人が大分いる。な
りっこないか、なりっこあるか、やってみなければわからない。やらぬ前から消極的になりきっ
みずか
て、自らが第一番に暗黒の中に入りこんでしまう気の弱さは、自己の生命を汚す者であり、神の愛
にそむくものである。自分の環境でできる範囲の、世界人類のためになる方法を行ってみることが
必要だ。私はそれを祈りによる世界平和運動として打ち出している。
自分たちの日常生活そのままで、世界人類が平和でありますように、という祈り言葉を常に常に
繰返えし唱える、神々への感謝と世界平和の祈りとを、日々瞬々くりかえす。こういうなんでもな
さそうな行いが、どれだけ、自己の心を明るくするか、計り知れないのだ。私たちの同志はもう二
十数年にわたって、この祈りの行事をつづけ、明るく逞しく生活している。明るい、逞しさこそ、
もとい
この世の進化を促進させる基なのだ。
88
貴男も貴女も、世界平和の光明心を身心に蓄積して、世の中に幸福をふりまく人、光明をふりま
く人になっていただきたい。世界平和は他人がつくるのではない。自分たち一人一人の完全平和を
ききゆう
希求する熱望から生まれるのだ。そのさきがけの世界平和の祈りが、今年こそますます大きく広ま
りますように、と新年を迎えるに当り、私たちは祈らずにはいられないのである。
スカレッチン
先年九十歳で昇天した、家内の母は、晩年に至っても健康そのもので、昇天する前日迄小さな体
に似合わぬ大きな声で話しながら、元気でお勝手仕事をしたりしていた。
だが大分耳が遠くなっていて、早口の私の話などはまるでわからないのに、わかったような顔を
89スカレッチソ
して、にこにこと聞いていたのがほほえましかった。耳が遠いとそれにしたがって、頭の廻わりも
少しく遅くなり、ッーカーなどというわけにはゆかなくなる。そこで、この老母とのやりとりは、
すべて、スロ! モーショソになってくる。
一日に何回も巧まざるユーモアーが、老母とのやりとりの間に生れてくるが、今日迄もそのユー
モアーが残っているのは、スカレッチンという言葉である。スカレッチンとはスパゲッテーの老母
語なのである。
スパゲッテーがどうして、スカレッチソになってしまうかは、老母そのものになってもわからな
いのかも知れないが、いくらスカレッチソでなくて、スパゲッテーといってきかせても、うんうん
とうなっていては、やはりスカレッチソという。家内も私もしまいには面白半分に、「おばあちゃ
ん、今晩はスカレッチソにしよう」というと、老母はちゃんとうなついて、家内に手伝わせて、ス
パゲッテーそのものをつくってくる。
昇天してからもう三年もたつが、家でスパゲッテーを食べる度びに、老母の顔が浮び、スカレツ
チソという言葉が想い出される。
スパゲッテーとスカレッチソでは大分違った字が入っているが、老母にとっては、スカレッチソ
90
はスパゲッテーそのものなのである。
宗教信仰者の中には、この老母のスカレッチソのような信仰態度の人が随分とある。それはどう
いうことかというと、祈りや唱名の理論的な意味も知らず、経文など間違いだらけで読みながら
も、神仏のみ心にはしっかりとつながっている人々である。
学問的に宗教の道をよく知っていたり、宗教理論に精通していても、その人の心が、神仏のみ心
に遠くいたのでは、折角の学問がなんの意味ももたなくなる。その反対の前記のような人々は、学
問的や理論的には宗教というものを知ってはいないが、心がじかに神仏に通じている祈りをしてい
るし、真のお経を知っているので、救われているのである。
要は、現われている祈り言葉や、経文ではなくて、祈りの言葉の奥にある神仏のみ心、経文の奥
にある真理にじかに触れているかどうかが大事なのである。その秘訣は、神仏の愛を堅く信じ、神
仏への感謝で日々を過していることなのである。
頭の中にいくら学問知識をつめこんでいても、その心がいつも肉体世界だけにとじこもっていた
のでは、神仏の世界に通じるわけがない。学問知識の有無とは別に、純粋素朴に神仏のみ心に融け
こめる人は幸な人である。
91スカレッチン
スカレッチソ老母もそのような人で学問的宗教のことなど何も知らずに私の光の中で生活し、
して今は神霊の世界から時折りにこやかな顔を出してみせるのである。
昼食のスカレッチンを前にして、この一文を書いている次第である。
そ92
おべんと♪つ
戦前の家はしっかりしていてよいとはいえ、私たちが住みついてからでも二十年もたったものな
ので、風呂場やお勝手が、がたがたになってしまっていた。もう限度にきてしまっている、と周囲
の者がいうので、それではと、その人の口ききで大工さんを頼み、改造にかかった。
きてくれた大工さんが四十代の、非常に温厚な好い人で、十八、九の弟子と二人で仕事にかかっ
てくれた。
話というのは、この若い弟子にまつわる話なのである。
或る日家内が、昼食のお茶を入れて、仕事場に持ってゆくと、もうすでにわかいお弟子さんは、
弁当箱のふたをあけているところで、みるともなく家内のみた、中のおかずが、たまご焼に魚のて
ヘヘへ
り焼に、ちくわに福神漬というように、みるからに母親の愛の心が温れているような、おかずだっ
たという。
その若い弟子は、親方の人格のせいか、礼儀も正しく、真面目そのもので、朝は七時頃から、夜
は暗くなるまで、休み時間さえも惜しんで仕事に打ちこんでいる。近頃には珍らしい青年なのであ
る。
十八、九才で親方の片腕になって仕事が出来るのだから、中学を出てすぐこの親方に弟子入りし
たのではないかと思われる。したがって、その家が富に恵まれた家とは思えない。
だが、その昼食のおかずの取り合わせは、富んだ人のそれと、あまり相違のないものであり、そ
の上、母の愛の心が光り輝いているようにみえたので、家内の心はその家庭の母子のつながりを思
って、心が明るくふくらむ思いであった、という。
93おべんとう
津田沼のほうから八幡まで、七時頃までに通ってくるのだから、その母も朝早く起きて、この子
のための弁当をつくるに違いない。子供のために日々愛をこめて、真剣に生きている一人の母親の
姿を想うと、涙ぐましくさえなる、と家内はちょっと眼をしばたたく。
そういう母があって、こんな真面目な礼節を失わぬ子供に育ったのかも知れない。よい母親と、
よい親方とに育てられている、この大工の若いお弟子さんの未来が幸福でありますように、と祈ら
ずにはいられない、と家内は若い弟子のファソのような顔をして、私にいうのである。
94
雛人形
いくしゆうあんまき
赤ん坊が一人いると、その部屋が実に明るくなる。孫の真妃は、母親につれられて、毎日豊修庵
かか
に出勤(呵々) してくる。
まき
真妃が、私の部屋にちんまり座ると、取巻がどっと寄ってきて、真妃一人でも明るい上に、更に
明るくなる。
お祈りの部屋には、初孫の初節句のための雛人形が、飾られてある。私が生れて六十年来初めて
じゆんしんむくせいこん
買った雛人形である。純真無垢なる生命そのままの赤子の幸を願いながら、精魂こめて作った人形
の顔の美しさとが、私たちの心を、こよなく楽しいものにしてくれる。
赤子の顔の美しさには、大人はとうてい及びもつかないが、やはり顔は美しいほうがいいのであ
る。私のいう美しさとは、何も顔立や、目鼻立がよいことをいうのではない。
生命が本来持っている、調和した美しさをいうのである。生命が本来持っている美しさというの
は、赤子の顔をみればわかるように、業想念にわずらわされぬ本来神の子である人間の輝やきが現
われている顔である。
それは、整形をして目鼻立を整えたり、巧みなメイキャップで顔をつくりなおしたりしても、と
うてい現わせぬ美しさである。
いのち
それは、生命本来がもっている神の美そのものなのである。とこんなむつかしそうなことをいう
95雛人形
より、簡単にいえば、人を愛し、動物を愛し、花を愛する、そういう愛の心がいつも現われていれ
ば、その人の顔は、たとえ、目鼻立が悪かろうと、色が黒かろうと、神のみ心の美しさが現われて
いる顔になっているのである。
世の女性が、より自分を美しくしたいならば、この原理を知って、いつも愛の心、思いやりの心
を持ちつづけているようにするのがよいのである。そうなるためには、やはり、神のみ心により近
づいているほうがよいので、日々の祈りはかかせないことになる。
自分を愛し、人を愛し、すぺての調和を願う世界平和の祈りは、そういうためにも、必要になっ
てくる。これはあに、女性ばかりではなく、男性にもいえることで、世界平和の祈りを根底にした
おのずみずか
生活をしていけば、自分の生活も、自からととのい、自らが地球世界のために、愛と美と調和の光
明波動を発していることになるのである。
96
久遠の生命
たま
み霊まつりを終えて
ぬまだいメ
み霊まつりも三回を迎え、講師や職員の人たちも、大分その空気になれてはきたが、その日が近
たま
つくにつれて、各人が別に言葉には出さないが、み魂浄めを依頼してきた人たちの親類縁者の霊魂
が、次々会場に集つてきているのを感じていたようで、体の諸所に異状感をもった人が多かった。
たきまえきよ
み霊まつりの前日、祭壇で前浄めをして、その夜の夜半になると、私の右手が急にちよっと動か
すにも激痛をともなうような症状になってきて、み霊まつりの当日になっても直らない。勿論、た
くさんのまだ浄まりきらぬ霊魂の想念が私にしがみついているからなのである。
私は常にこんなことには馴れきっているので、あわてることなく、当日の浄めに当った。私の浄
99み霊まつりを終えて
かしわで
めは柏手が主になっているが、手が動かねば印だけで浄めてもよい、と思いながら、祭壇に立っ
と、どうやら曲りなりにも激痛は伴うが、右手を動かすことが出来た。普通のように、柏手と印で
霊魂の浄めを終って、一段高い舞台の上で、いつものように、統一指導を行ったのであるが、この
時はもう柏手の音は常のように冴えわたっていた。
そうした一部始終をみていた、霊能のある講師や会員たちは、はじめは先生の体に黒いものが一
杯蔽いかぶさっていたが、舞台に立っていつもの統一指導をはじめられたら、忽ち、先生は光明化
びやつこうさんぜん
して、白光燦然となってしまった、と報告してきた。
たまあまくだ
み霊まつり、というような特殊な浄めの日には、特に浄め専門の神々が、たくさん天降ってきて
おられるので、結論的にはなんの心配もないのであるが、相当な衝盤を体が受けるのは致し方な
い。私共のしているのは、多くの霊魂を浄めて、神々のお役に立つ方向に進ませようという、菩薩
業なのだから、どんな苦労も覚悟の前なのである。
すべての人々が神の子の真実の姿を現わしますように
各自が各自の天命を完うしますように
私はこう祈りながら、彼らの進化を妨げる業想念波動を、私の身心に引き受けて、日々生きてい
100
るのであるが、み霊まつりのような日には、一挙に多量の業想念波動を浄めさっているのである。
一人二人の幽霊をひきうけても、それは普通では大変なことなのであるので、一度に多数の霊魂
の浄めなどは、そういう役目に神様のほうからさせられているものでなければ、とても出来るもの
いのち
ではない。私は自分の生命を神様に捧げきってしまった日から、神様のみ心のままに、いろいろの
菩薩業をさせられているのであり、それを有難く受けて生きているのである。
宗教者というものは、そんなものなのである。
花屋さんの徹夜の苦労で、会の大紋章にきれいに植えこまれた、み霊まつりの祭壇の菊の花が、
まおた
いまだに瞼に残っている。
101み霊まつりを終えて
102
お彼岸とみ霊まつり
ひがんひがんしがん
お彼岸のことについて、少し書いてみようと思う。彼岸ということは、此岸、つまりこの世に対
してあの世、霊界のことをいう。勿論これは仏教から出た言葉だが、お彼岸といって、その日をは
みたま
っきり定めてしまうと、そういう言葉の力、想念のひびきで、その日には幽界、霊界の霊魂たち
が、この世に現われ易くなり、各人、各家に、親類縁者の者たちが、彼岸から渡ってくるのである。
本当に面白いものであって、言葉や想念でそう定めてしまうと、世の中のことは、そのように、
自然になってしまう。長い年月、多くの人々が、この日は彼岸なのだ、と定めていることは、この
しげ
日は霊人の日なのだ、と霊人を祭る気持になっていることだから、霊人と肉体人との交流が繁く行
われることは間違いない。
丁度そういう日にみ霊祭を行うことは、一番適切なことなので、九月の秋のお彼岸に定めて三年
間つづけてきたが、十一月の誕生会にあまりに近すぎるので、地方の人のためを想って、春の彼岸
に月を切り替えたわけだが、皆さんも特にその期間は祖先や親類縁者の霊魂のために、世界平和の
祈りを祈りつづけていただきたい。
世界平和の祈りは、肉体界、霊界の区別なく、救世の大光明がひびきわたるので、霊界の住人が
肉体界に近づいている時に祈れぽ、特に強くひびいてゆくことなのである。人間はこうして肉体身
をもってはいるが、実は霊界の住人とは、本質的に同じなのであって、いちいち肉体というものを
意識して行動する必要はないので、すべては想念波動によって実現されてゆくのである。想うこと
によって、その方向に肉体行動がなされてゆくのである。
ところが達人になってくると、想念によって肉体が行動するのではなく、想念以前の、神の光明
波動によって、自然と肉体行動が起こされるようになるのである。これが老子のいう、無為によっ
て成す、ということなのである。想念波動によって、肉体行動がなされる時には、そこに小智才覚
があり、誤りがあるが、光明波動によってなされる時には、誤ることがないのである。それはあた
103お彼岸とみ霊まつり
かも、高い位の霊人の行為と等しいものとなるのである。
104
久遠の生命
たままつりいくしだれうめ
み霊祭を終えて、豆修庵の座敷から、庭に盛りの、見事な枝垂梅の紅の花をみつめていると、今
日の疲れが静かにとれていった。
毎年み霊祭をやることは、実によいことだ、と今更のように思うのである。み霊を祭るというこ
とは、何も迷っている霊魂の浄めだけのものではない。霊界で活躍している祖先の霊魂や知人縁者
の霊魂たちが、霊魂というとなんだか、火の玉のカタマリのように思えるので、霊人といいかえる
が、そうした霊人たちが自己の霊位を一段と高めるために、この大祭に参加しているのである。
私どもの行っているみ霊祭には、救世の大光明が大きな力をそそいでいるのであり、過去の聖者
たま
たちが、大勢その光を投げかけているのであって、どの霊人のみ魂も、急速な進化を遂げるのであ
る。こうした霊人たちの光明が更に光を増すことによって、肉体界の子孫や知人縁者がどれ程救わ
れるかわからないのである。
霊肉一体の大きな進化。それこそ、世界平和が実現する大事な道となるのだ。私はこの祭の前日
まで、かなりの業想念波動を身に受ける。幹部の人たちの中でも、それを感じる人がかなりいる。
しかし、そのくらいの身体の苦しみなど、大祭後の輝やかしい成果にくらぶれば、ものの数でもな
いのである。
私の柏手の奥からひびきわたってくる、大光明波動は、聖ヶ丘道場を神の世界そのままにうつし
出し、道場に坐っている会員の皆さんは、神の子の本体と合体して光体となって輝いているので
ある。
そのさまを霊眼ではっきりみている人もあるだろうし、眼には見えぬが、心が喜びに震えてい
た、という人もあるだろう。或いは何も感じないで過してしまった人もあるかも知れない。しかし、
くおん
久遠の生命が、光り輝いてこの道場と神界とを真っすぐつないで、地球の完全平和のために大きな
105久遠の生命
働きをしていることは間違いのない事実なのである。
来年のみ霊祭までに、より多くの同志が、世界平和の祈りを祈りつづけていて下さることを私は
深く願っているのである。
白梅、紅梅、沈丁花と、呈修庵の庭は自然の美しさを私に満喫させてくれる。私は自然に愛され
あさつて
ながら、世界平和の祈りの先達として明日も明後日も、光明の柏手を打ちつづけるのである。
106
守護の神霊の守り
守護の神霊が、真実、私たちを守っていてくれるか、という疑問をもっている人も多いと思う
が、私などの日常生活では、神々の守護によらねば生きられない、ということは体験として味わい
つづけているのである。神々の存在なくして、なんで人間の存在が可能であろうか、全く不可能な
のである。
ところで先日、村田正雄講師から、この事実を立証する話を聞かされたので、一言お伝えしよう
と思う。
ある日、村田講師のところへ、一人の老婦人が、娘が家出して居所がわからない、死にでもした
ら大変だ、とおろおろ声で飛びこんできたのである。村田講師はみなさんご存知の霊能力豊かな人
である。老婦人の前でしばらく祈っていると、白髪の老翁が現われて〃娘は私が守っている、今、
家に帰えすようにするから安心せよ〃というひびきを村田さんにつたえてきた。その旨を老婦人に
伝えて、老婦人を帰えすと、その翌々日、老婦人のところへ娘から手紙が来たのであった。村田さ
んの祈っていた同時刻に、娘にも老翁が現われ、家に帰えれと命じて来た、だから早速この手紙を
書いたしだいだ、というのであった。
この話など、正に守護の神霊が実際に人間を守っている実証であって、母の信仰がその守りを更
にはっきりさせたのであろう。村田講師は勿論、この娘さんにも幾分の霊能力があって、村田講師
を通して霊団の光明が働きかけて、娘さんに守護神の姿をはっきり霊視させたのである。
107守護の神霊の守り
しら
この場合、娘さんが霊視してはっきりしたのであるが、霊的にはっきりした報せがなくとも、常
に世界平和の祈りを、日々守護の神霊の加護への感謝をしていれば、守られつづけているのは事実
わざわい
であって、常に大きな禍を小さくしていてくれるのである。このことは素直に信じて祈りつづけて
いるとよいのである。
これからの世の中は、今までのように、肉体人間の力だけで生活していける時代ではなくなって
くる。どうしても肉体人間と神霊方との密接な協力体制がないと、すべての行きづまりがきてし
まうのである。戦争の問題、天変地変の問題、公害の問題、あらゆる資源や人口の問題と、つぎつ
ぎ人間だけの力ではどうにもならない時代になってくる。
この時に生れた世界平和の祈りは、必然的に神が生せ給うた祈りなのである。世界人類の平和を
祈り、自己や自己の周囲の人々の天命の達成を祈り、守護の神霊への感謝をつづけてゆくことによ
って、自己も地球人類も共に救われてゆくことになるのである。
とも
神、我と倶にあり、である。
108
いのち
生命を大事に
近頃、三島事件、黒沢監督の自殺未遂、川端事件と、相つぐ有名人の自殺で、マスコ、ミがにぎわ
っている。それら有名人は、富にも恵まれ、業績も華やかで、普通常識で考えれば、なんら自殺す
る原因がないように思われるのにあの自殺騒ぎである。
ところが、三島は憂国の至情で、川端は老醜を嫌って、自らの肉体生命を断っているのであり、
しかも共に美の探求者で、三島は精神美の極致として、憂国の割腹を遂げ、川端は、美を描きつづ
ける文学でノーベル賞作家の栄誉を得、その美の栄誉を崩さぬための死を遂げたと思われている。
自殺する心境にもいろいろのものがあるなア、とは思うが、いかなる理由があろうとも、自らの
109生命を大事に
生命を断つということは、他の人の生命を断つと同様に、神への反逆であり、永遠の生命から離れ
た、消えてゆく姿、つまり業因縁にあやつられた所業という他はないのだ。
戦国の頃の武将が、多くの部下を助けるため、自らが割腹して果てた、という場合は、多くの人
命を助けるための犠牲精神の発露であって、自己本位の自殺ではない。この場合の武将の生命はそ
のまま霊界で輝やかに生きつづける。生命を多くの人々のために生かしたということになるからだ。
何人といえど、生命は神からきているものであり、自分がつくったものでもないし、肉体だけに
止っているものではない。それを肉体生活の不満足ということで、自らの生命を断つ、ということ
は、神と自己とを断絶したことになり、大生命からの供給を、その生命は受けられなくなり、新陳
代謝のないままに、幽界において苦悩の生活をつづけなければならなくなる。
人間は生命が肉体だけのものと思う愚かさから脱却しなければいけない。生命とは、眼や手に触
れるこの肉体ばかりにあるのでなく、神、霊、幽という広い深い範囲に生きつづけているものであ
ることを知ることが大事である。そうした観念によって、はじめて、真に生命の大事さがわかり、
肉体生活の不満足や、この世界の苦悩の波にわずらわされぬ、自由な大きな生き方ができるように
なるのだ。llp
多くの人を生かすため、国や人類を生かすための死以外のいかなる自殺をも、私は誤ちと認める
のである。ともあれ、生命を大事にして、多くの人々のためにその生命を生かして使わねばいけな
い。それには神としっかりつながった愛の行為が必要である。その愛の行為がなんでもなくできる
ようになるのが、世界平和の祈りなのだ。どうか、理屈をぬきにして
〃世界人類が平和でありますように〃
と日々瞬々唱えつづけていていただきたい。あなたはいつの間にか、愛深い明るい光に充ちた人
に生まれ変っているのである。
U1生命を大事に
112
霊手術をみつつ想う
先日、フィリッピソのトニーと呼ばれる、外科的霊治療家の、霊手術の実施状態の8 ミリ映画
を、聖ケ丘道場で、会員の人たちと一緒に観たのであるが、私が常に説いている、人間は肉体だけ
の存在ではなく、幾つものボデーをもっているものであり、神霊の体は微妙な波動であり、肉体は
すく
粗い波動なのである、という説明があの映画をみて納得できた、という人たちが砂なからずいたの
である。
トニーは手術道具を一切使わず両手そのままで、病人の腹部や顔面を手術してゆき、中のでき物
を切り取ってしまうのである。中の物を取りだすのであるから、勿論その個所の肉体を切り開いて
いるのだし、切られたところから血も溢れ出てくるのである。
そして、その手術の後を手でぬぐうと、今まで開いていた傷口が、すっかりなめらかな元の肉体
にかえっているのであるから、普通の常識でばかりものを見る人たちなら、びっくりしてしまうの
は当り前である。トニーの手は肉体にみえてはいても、すでに霊波動になりきっているので、背後
の霊界の住者となっている外科医が、トニーの手と同化し微妙な波動の手で、粗い波動の隙間を利
して手術を行うのである。
霊波動は微妙な波動なのだから、粗い肉体波動を通りぬけることなど別にむずかしいことではな
い。只むずかしいのは、すでにあの世で働いている外科医に自由に使われる波動体になり得ている
人が甚だ少いので、そういう人をつくりあげることなのである。
こういう霊手術家の出現は、唯物思想で充たされているこの世に、唯物的には考えられない不思
議なことがあるものだ、ということを多くの人々に感じさせることだけでも、随分プラスになると
思うのだけれど、何分数多くそういう人物をつくりあげるのは大変なことなので、どうしても、多
くの人々にそういう手術の恩恵を与えることもできないし、唯物的な人々には種々と反対され、霊
手術そのことにおいて広範囲の活動はできないであろうと思うのである。
113霊手術をみつつ想う
そこで私は常に思っていることは、宗教的活動によって、精神的な生き方を人々に広めると同時鵬
に、一方では唯物論者でも納得せずにはおられない、普遍性をもった方法で、精神的な向上を計
り、肉体の健康をも保つ、そういう道を開いてゆかなければ、今日のような物質偏重の時代を切り
開いてはゆけない、ということなのである。
特殊な少数の人々によって、人々を救ってゆくということより、現在の地球科学のような形で一
つ機械なり、器具なりの操作によって、誰でもが精神の向上を計ることができ、健康の増進を計る
ことができる、という普遍性のある道が開かれることが、なんにしても一番多くの人々の求めてい
ることであろうと思うのである。
世界平和の実現でも、根本的には、宗教的精神に支えられた、平和の科学の道が開かれ、そして
発展してゆくことこそ大事なことであってその為にこそ、宗教者と科学者の融合が必要なのであ
る。宗教精神に徹したところから生れ出た平和科学でなければ、どうしても物質が主になって、生
命の本質である宇宙心に叶う行為ができなくなるからだ。
原子力のように、平和利用にも、戦争への道にも同時に使用できる、というものでも、研究次第
で、平和利用以外には使用できなくなる、ということも考えられるのである。
宗教精神と科学精神の一致点こそ、この地球世界を救う唯一の道なのである。私たちはその為に
全力を挙げて宇宙子波動生命物理学というものを研究しつづけているのである。トニーの霊手術を
みながら、私はしみじみ、宗教精神に生かされてゆく科学の重大性を想いみていたのである。
115霊手術をみつつ想う
自然法爾
自分を愛するということ
こうしよう
人間は誰でも二つの自分をもっている。真実の自分と、業生としての自分。そして、人間の大半
は、業生としての自分を、実在している自分と思いこんで生活している。
この誤りが、人類の悲劇のはじまりであり、この人生が苦悩と悲哀に充ちたものとしてつづいて
てんえいこう
ゆくことになる。釈尊はこの姿を顛倒妄想の姿という。実在するのは永劫滅びなき神の子、仏子と
しての自分であって、業生の自分は変化変滅してゆく、消えてゆく姿の自分でしかない。
物質の世界、現れの世界は、肉体界、幽界、霊界共に、消えてゆく姿の現れであって、それがそ
のまま実在しているのではない。だから、人間が平安そのものの自分として生きるためには、業生
119自分を愛するということ
の自分、現れの自分の奥の、真実の自分、真我である自分になりきらねばならぬ。古からの聖者た
ちは、みなこの道を教えてきたのである。
これは個人にしても、国家にしても人類そのものについてもいえる言葉であって、この真理を行
じてゆかぬ限り、この人類世界の滅亡の日は必ず来るに違いないのである。何故かというと、業生
の世界、物質の世界は、すべて消えてゆく姿に他ならぬからである。
真実自分を愛するならば、自分を永遠に生かしきってゆかねばならぬ。永遠の幸福を自分のもの
としなければいけない。変化変滅し、消えてゆく姿である、自分やその環境に執着して、その変化
変滅の中での楽しみを自分のものにしようとする、そういう消えてゆく姿でしかない自分の地位や
立場を優位にしようとする、そんな在り方が自分を愛することであると思ったら、とんでもないこ
とで、かえって自分を滅ぼしてゆく行いにすぎない。これがわかり、この真理を行じられるように
なれば、個人も人類も永劫の救われにスるのであゐけれど、これがなかなかむずかしい。
自分を愛する、ということは、肉体である自分の感情を慰め、喜ばせることである、と大方の人
は思いこんでいる。国家にしても同じことで、自国の物質的な現れ、地位や権力や富や、そうい
う国家の威信を守ろうとすることが愛国である、と思っている。お互いの国家がそう思いこんでいる
zZo
のだから、これに反する行為、自国のそうした尊厳を傷つけられるような行為に他国が出てくれば
黙って見過していられぬ、ということで戦争になる。これが過去の歴史の示している事実である。
こんな国家の状態が、お互いの国を愛している状態だとしたら、この地球世界は大戦争で滅びる
より仕方がなくなってしまう。現在の各国の状態がつづけばそうなってしまうに決まっている。
真実に自分を愛し、国を愛し、人類を愛する、ということは、この現れの世界の根源の姿、いわ
ゆる神なる自分、神の集合場としての国家人類というものの姿を、真直ぐにこの地球世界に現わし
得る自分なり、自国なりにする行いというのである。神と人間との愛と、人間と人間との愛が十字
交叉の真中において一つになってゆく行いを、真実の愛というのである。
やさ
私はその行いを易しくするために、消えてゆく姿で、世界平和の祈り、という生き方を提唱して
かこ
いるのである。この世のすべての不幸災難や、自分の心に起る悪い想いや嫌な想いは、すべて過去
せ
世から今日迄の、神のみ心、本心を離れていた想念行為の消えてゆく時に起る姿である。そして、
ひたすら、世界人類の平和を祈る、世界平和の祈りの中で、神の慈悲の大光明で消しさっていただ
く、という方法を自分を愛し、人を愛する方法として行っているのである。そして、真実の自分、
真実の人類の姿が剛周も早く、この地球界に現われ出るように、多くの人々のこの道の実践を願っ
121自分を愛するということ
ているのである。
122
ゆる
自 分を赦しということについて
ゆる
自分を赦しという言葉は、宗教で使う言葉としてはめずらしいと人々は思っている。確かに、め
ったに使われる言葉ではない。
ぴゃつこう
しかし、白光の教義として、現わされるとなんの抵抗もなくすうっと心に入ってくる。しかし一
度、この言葉にひっかかってくると、いろいろと頭を悩ませる人がでてくる。
ゆる
自分を赦すというのは、本心の自分を赦すのであろうか、業の自分を赦すのであろうか、本心の
自分を赦すとしたら、一体誰が赦すのだろう、等々教義をすうっと読んでいる時や、心の中で唱え
ている時は、理屈なしに心でわかっていたものが、にわかにわからなくなってくる。
なんとなく理屈ぐせのついている人間は、とかくやっかいである。そこでここで、自分を赦しと
いうことについて、はっきり説明しておくことにした。
人間は、善人であればあるほど、自分の誤ちを責め裁きやすい。いろいろな宗教にはいったり、
修養の生活を続けたりしながらも、平気で悪事をしている人より自分を責め裁く。自分を責め裁く
ということは、いやでも悪や誤ちを心につかんで、放たないことで神のみ心に反することなの
だ。自分を責め裁くような人は、人々に対しても責め裁く心をもっているわけで、本来人間は神の
子であって、この世は光明燦然とした世界であるはずなのに、神のみ心を遠くはなれた人々は、平
気で人々をだまし、世の中を乱しているし、神の近くにはいるのだけれど、自分の行いというもの
に把われ過ぎている人は、前記のように、自分の行いを責め裁く。共に神の光明からはなれた暗い
想念行為である。
そこで私は、私の教義の中に、自分を赦しという一行を加えたのである。本来神の子である人間
は、実は赦すも赦さないもないのだけれど、善に把われすぎている想いが、本心と肉体の想念意識
との間の交流をさえぎってしまっていて、その働きを遅鈍にしてしまっている。そして、神と人間
123自分を赦しということについて
とのすっきりした流れの道をふさいでいるのである。
ちどん
この遅鈍な想念波動が、より深く神のふところにとびこもうとする想念の邪魔をしていて、大き
な善人の出現をはばんでいたのである。
善に把われれば悪となる、ということはこのことで、人間本来神の子の姿にかえるため、そうし
た想念をも含めて、世界平和の祈りの中に、日々瞬々とびこんでゆくことが、自分を赦すというこ
とになるのである。
赦すという言葉は、神の大光明の中に汚れた自己を解き放つということなのである。宗教の道と
いうものは、字義や言葉に把われることなく、ただひたすら神のみ心に、とびこんでゆけばよいの
である。
124
r
祈りが本尊の宗教
私たちの宗教には、今日までの宗団にあるような御本尊というものがない。会員の人たちが人に
きかれてちょっと困るのは、この御本尊をなんと説明しようかということである。
どこの宗教でも、飛鷹鵡鶴襯とか既蹴さんとか、織鰍さまとか、イエスキリストとかいうよう
に、祈りの対象があるのだけれど、この集りにはそういう対象がない。
それは御本尊即目的ということになっているからである。世界人類が平和でありますように、と
いう祈り言そのものが御本尊的役目を果しているからなのである。
祈りの対象が同じである場合でも、各教団に分れて争い合う程に、セクショナリズムの強い宗教
125祈りが本尊の宗教
信者たちなのだから、祈りの対象が相違していて一つ心になれるわけがない。宗教というのは、神
と人間とが交流し合える教えであり、人と人とが心を一つに生きてゆけるためのものでもある。そ
ういう大調和精神が一番大事である宗教団体が、お互いに自己の所属する宗教団体だけの存在価値
を主張し合ってゆくようでは全く困りものなのである。
そこで私たちの宗教は、何々の神、何々仏、何々菩薩というような祈りの対象的御本尊の存在を
いわずに、人類の大目的である、世界平和ということだけを、祈りの対象にして、大目的の祈り言
の中で御本尊である宇宙大神の大光明に浴し得る、ということになったのである。
宇宙大神の大光明の中には、天照大御神もイエスも釈尊も老子も、いかなる神仏も菩薩も天使も
存在するのであることは、いわずもがなである。私たちの宗教の在り方は、宇宙神の法則の中に、
大神のみ心にすっきりつながった生き方を人類すべてになさしめたい、というところにある。だか
ら、何々の神、何々仏に祈りの対象をもとめなくとも、大神のみ心を人々の心として生きてゆけ
ば、そのまま宇宙神の法則に乗ってゆくことになる。その宇宙神の法則(み心) はどういうことか
というと、宇宙の大調和ということである。いいかえれば、世界平和ということである。
そこで、世界平和の祈りはそのまま、宇宙神の法則に乗ることであり、大神のみ心に一直線につ126
ながっていることになるのである。世界平和を願う祈りは、誰の心にも、どこの教団の中にもあ
る。それをはっきり表面に出して祈りの対象にしたのが私たちの宗教なのである。そこで、私たち
の宗教の御本尊は世界平和の祈りそのものであるということになる。そしてその祈りを大きく援助
しているのが守護の神霊方であるのだ。世界平和という御本尊なら、何教の人でも何宗団の人とで
も調和できるし、祈りそのままが自分の心の浄化にもなるのである。
消えてゆく姿と全託
私の教えの根本の、消えてゆく姿で世界平和の祈りというのは、
うにとの神様の温かい心を、私が取りついだ教えなのである。
全託行を最も易しく出来得るよ
127消えてゆく姿と全託
この地球界の人間は、宇宙人あたりから見ると、実に愚かしい凡夫なのだから、いきなり全託し
くうくり
ろ、空になれといっても、なかなか容易にできるものではない。空の境地になった人から観れば、
本当に馬鹿らしいようなことを、さも大変な一大事なことのように心配苦労している人々が、この
地球界には如何にたくさんいることであろう。
ですから、現在の地球人類に対しては、全託行を為し得た人、空になり得た人が、自分の体験を
通して、空への道、全託への道の易しい通路を教えてあげなければいけない。自分が出来るから人
も容易に出来ると思うのは間違いで、その人その人の過去世の因縁によって、どうしてもそう出来
得ない人々がある。
そこで私は、誰にでも出来る全託行への道、空への道を、消えてゆく姿で世界平和の祈りという
教えにしたわけである。善いも悪いも、不幸も災難も、すべては過去世から今日に至るまでの神か
ら離れていた想いの消え去ってゆく姿で、その後にその人その人の本心の光明が輝いてくるのだ、
というのであるが、その消え去ってゆく業想念波を、どこへ消し去らしめるかというと、世界人類
の平和を祈る、世界平和の祈りの大光明の中に消し去ってしまうのである。そうすると、その人そ
の人が、世界平和の祈りの持つ光明心そのものに自然となってくるので、空の境地や全託の境地と
128
同じような心境にいつの間にかなれてくるのである。
宇宙天使との交流をしていると、一にも二にも余計な想いはいらない、空だ、空だ、と盛んにい
われる。ところが、この空に今度はまたひっかかりそうになる。そこで私は、みんな空になろうと
する想いさえも世界平和の祈りの中に入れて、或いは五井先生と想う想いの中に入れきっていなさ
い、そうすれば、気楽に空の境地になれますよ、とその度ごとに教えているのである。
把われないことに把われては、いたちごっこだ。すべての想いは消えてゆく姿、ただあるのは世
界平和の祈りの神々の姿だけなのである。
そうした日々の祈りの行から、やがて宇宙天使との全面協力による地球世界の大平和がつくられ
てゆくのである。
129消えてゆく姿と全託
130
祈りの必要性
今年(昭和四十五年) は、最悪の体の不調を、度外視して、二度の欧米旅行をしたり、京都での
宗教者世界平和会議や関西大会や、名古屋の大会、神戸での会、伊勢神宮、法隆寺の参拝などと、
引きつづいての強行スケジュールをしているうちに、もう十二月を迎えてしまった。
神様というものは良くしたもので、重大な仕事の時には、最悪の体調が、忽ちしゃんとして、そ
の仕事を果させてくれる。神界と私との相談つくで、どうしたら世界を完全な平和状態にもってゆ
くか、という各種の方法をこうじてやっているわけで、私の体も地球浄化のための一つの道具とし
て使っているわけである。
人間はすべて小宇宙なので、一人の人間の体も精神も、その生き方の如何によっては、大宇宙を
汚すことも浄めることもできるのである。ところが現今の人間はその小宇宙的能力をかえって大宇
宙の調和を乱す、地球滅亡の方向にもっていってしまっているのである。
私たちの同志の小宇宙群は、日々瞬々刻々世界の完全平和達成のための、世界平和の祈りを祈り
つづけ、地球浄化の大きな役割を果しつつあるのだが、先日の宗教者世界平和会議の人々ではない
が、宗教者そのものが、この重大な祈り心というものをわかっていないのである。実に困ったもの
である。
宗教者が、社会や国家の圧迫された民衆を救うというのも、勿論結構なことだが、あまり現実問
題に固着すると、いつの間にか、唯物的社会主義と一つになってしまい、内面的な、神と直通して
いる霊なる本体を、すっかり忘れてしまって、人間をただ単なる肉体人間として取扱っての救済運
動になってしまう。現象的経済問題はその場、その場の一時的現象にしか過ぎない。しかもそれが
国家や民族のことになると、宗教者が、いくら決議しあっても、国家やその民族が、受け入れてく
れるものでもない。何故かと申すと、すべて多量な金や物質がいることなので、おいそれと実行す
ることもできない。しかもそのことを実行しても、焼け石に水のように、根本の救済につながって
131祈りの必要性
ゆかないのである。
私たち宗教者や、直接政治にたずさわれぬ者たちは、国家や対外国的な問題に、直接口を出すこ
とができないのだから、世論として、世界平和の道を切り開いてゆくことが必要なのである。そこ
で、世界平和の合言葉として「世界人類が平和でありますように」という、祈り言葉に、世界平和
を願う、すべての人々の想いを結集させ、世界平和ということを、日本から外国にむけて働きかけ
るようにしてゆきたいと思うのである。
そういう祈り心が根底になって、はじめて戦争をなくす運動も本格的になってくるのだし、貧富
の差をなくす運動も実のあるものになってくるのである。
祈り心とは、神と直通している心なので、神のみ心を現わさずして、世界の平和は絶対にこない
と私は思うのである。そのためにこそ、宗教者が、世界平和運動の中心に起たねばならぬのであっ
て、経済問題のことは、その道の人々に任かせて置いたほうがよいのである。
132
感謝
昔、人の道という宗教の教祖は、おふりかえといって、人の病気や不幸を、身にふりかえて救
う、という生き方をしていたようであったが、私のは私の身心のすべてを、神様に捧げつくして、
この肉体界の私というものを、捨てつくしてしまったところから、今日の宗教がはじまっているの
で、私の一挙手一投足、私にとって良いことも、嫌なことも、すべて神様のみ心の現れと、はっき
り割りきった日常生活を送っているわけである。
こう
ところが七、八年前から、地球人類の業が、地球減亡を決定的にしかねない状態で現われようと
してきたことを私は霊覚で感じとって、これは大変だと思ったのである。すると、神々の方で、私
謝
133感
の身心といっても、もうすでに神に捧げつくしているので、私のものではない筈だが、この身心1
鍵
こうしようめつ
を、地球人類の業消滅の為に全面的に使ってゆく、ということを決定してきた。これは神々の方で
勝手に決定したのではなくて、私の心の願いでもあったからである。地球人類の業のおふりかえ、
というわけである。
それ以来、種々様々な形で、私の体は病みに病むということになってきたのである。呼吸困難に
なることがあるかと思うと、体中が激痛に耐えないような状態になることもあった。
しかし私は、これはみな地球人類の業の消えてゆく姿として、その間何回か外国に道を広めに行
ったり、聖ケ丘の行事にはかかさず出席し、白光の原稿も休むことなく書きつづけてきた。私はこ
の難病の中でも、周囲の者に冗談や笑顔を決して絶やしたことはなかった。
この病体の中で私は、人々の愛はさることながら、樹木や草花の愛情をしみじみと感じたのであ
る。健康そのものであれば、私の体は今より数等倍の忙しさで、東奔西走していたであろうから、
朝に夕に、樹木や草花に接していることはできなかったであろう。病気が却って幸したとでもいう
ひま
のであろうか。朝に昼に夕に、聖ケ丘の庭に休み、庭を歩く、という閑が与えられたのである。
かいどう
春には白梅、紅梅、しだれ梅、椿、山吹、桜の花々。春から夏にかけては、海業、つつじ、ばら、
しようぶたいざんぼく
菖蒲。大きな花の泰山木、とこう書いていればきりがないが、どれ一つとっても、自然の愛をその
りらワ
ままに、あるものは可憐に、あるものは凛々しく、私の心に美しさを満喫させてくれる。
かがよ
それに若葉、青葉に日の耀うさまは、芭蕉ならでも、あら尊うとである。秋から冬にかけて雑木
はだかぎ
林が落葉の山となり、次第に裸木に変ってゆく自然の動きも何んにしても捨て難い美しさである。
私はこの自然の四季の動きの中で、植物と人間の愛の交流を深い感謝で受けとめて、日々が有難
くて嬉しくて、病体の苦痛を超えた喜びで生活しているのである。
この病体もやがて、すっかり晴れきって、また、東奔西走の日がくるであろうが、人間はどんな
時でも、どんな場に立っても感謝の心の湧きでてくるものであることを、私は私の体験ではっきり
知ったのである。
謝
135感
136
むい
無 為の道
人間が救われるということにも、種々の種類がある。病気をいやしてもらうことも救われである
なら、貧乏から脱去させてもらうことも救われであり、配偶者や子供の性質を善化させてもらうこ
とも救われである。
宗教の道に入って、こうした各種の救われを体験している人はかなり多いことであろうが、無為
くうそくぜしき
の道にすっぽり入りこんでしまったり、空即是色の心境に成り得た人は少い。
人間にとっては、眼前の難事を脱去させてもらうことが一番の救われの気がしているので、病気
なら病気、貧乏なら貧乏を消滅させて下さる神様(?) はなんにしても有難いのである。日本には
そうした現象利益を目的とした宗教信仰の人が多いのは事実である。
病気や不幸災難を脱去できることは、切実な利益であって、何人といえどこれを望まぬものはな
い。だから現世利益の宗教などは、と馬鹿にしてはならない。といって、現世利益だけをいっ迄も
追っている信仰だと、いつ迄たっても、自己の霊性は開発されないし、宇宙神の目的である、人類
の進化に貢献することはできない。
人類の進化に貢献できぬ人々は、地球世界が、一段上の階層に進化した時、また現在の地球のよ
うな、或いはもっと低い階層の世界で働きつづけなければならなくなる。地球人類は宇宙の中で、
地球にだけ人類が住んでいるなどという古い考え方はもう捨てさらなければならぬ。宇宙に無限の
星があるということは、それぞれ皆役目があってつくられてあるので、こんな小さな地球だけに神
わけいのち
の分生命の人類が住んでいて、他の天体に人類のような生物はいないなどと思っていたら、とんで
もない迷信である。地球人類の科学力では地球人類と等しい体質構造をもったものは、金星にも火
星にも住めないであろう、ということで、体質構造やその波動が異なった人類のことはまた別問題
おの
なのである。もっと地球の科学力が進んでくれば、自ずからそうした波動圏の異なった人類を認め
ることができるようになるのである。
137無為の道
個人個人が現世利益だけを求めているように、国家や民族が、自己の目先の権益や利害得失だけ
で動いているような、現今の状態では、とても地球の存続はおぼつかない。だから、個人の一人一
人が、現世利益を求めながらでも結構だから、自分の住んでいる国の進む方向が、少しでも地球全
体の利益になり、宇宙の大調和の道に沿ってゆけるように働いてゆかねばならない。あまり自己の
小さな生活ばかりに想いを把われないで、大宇宙の無限の星の中にも、神の分生命である人類が、
それぞれの環境の下で生活しているのだ、という大きな広い気持になって、宇宙の一員としての地
球人類の、自分はその一人なのだなあ、と、大空を見上げて思ってみるとよいのである。
大宇宙の中の小さな地球の、そのまた小さな国家のそのまたまた小さな一家族という殻にだけ入
ろうし
っていて、救われも、損得もあったものではない。だから老子は、先ず自己を無為の境地に置くこ
とを指導したので、自己の脳裡を左右する想念意識というものを、常に、一の中、つまり宇宙の根
源、生命の根源の中に投げ入れてしまうことを教えたのである。私の説いているのは、この方法を
極端にやさしくして、すべての想念行為は過去世の因縁の消えてゆく姿、として、世界人類が平和
でありますように、という大調和の根源の中に消し去ってしまう、世界平和の祈りの日々を説き明
かしているのである。あまりむずかしく考えることはない。のんびりと、すべてを神に感謝しなが138
ら、世界平和の祈りの生活を行じていることによって、その人は人類進化の道に貢献していること
になるのである。
何故ならば、世界平和の祈りというのは、大宇宙の根源から発せられた祈りであるからだ。大宇
はず
宙の根源が大調和であって、不調和とは、宇宙生命の根源を外れたあり方から起るのである。地球
世界の不調和な姿、戦争や天変地変や病気や貧乏など、みな宇宙生命の根源の在り方を外れている
状態から起るので、人類は世界平和の祈りのような、大調和想念によって、地球世界を神のみ心の
法則に乗せきってゆかねばならぬのである。地球人類の進化はこの祈りを根本にしてはじめられて
な
ゆくのである。無為にして為せとはこの宇宙法則の根元よりなせということなのである。
寝ても覚めても世界平和の祈りすべきものなり、あなかしこ、あなかしこ、である。
139無為の道
140
年を積み重ねて
私の前で、母親におむつを取りかえられていた赤ちゃんが、今度は、自分の赤ちゃんのおむつ
を、私の前で取りかえている母親になっている年月の流れを、私は赤ちゃんをあやしながら、涙ぐ
ましい想いで想いかえしていた。私が宗教の先生と呼ばれて、もう二十数年にもなるが、その間万
余の赤ちゃんの名前をつけている。
「この子の天命が完うされますように」
そういう祈り心で名をつけて、大半の子は明るく素直に健康で成育してきているが、神のみ心に
よっては、早くから霊界の指導霊として召されていった子もある。
祖父母から曽孫まで、平和の祈りで明け暮れている一家もかなりある今日、一年一年の年月の積
み重ねを、私はしみじみ尊いことと思うのである。こうした年月の積み重ねによって、純朴に明る
く、世界平和の祈りをつづけてゆく一家が増えてゆくのであり、世界平和の祈りの光明波動が、日
本から世界中にひびきわたってゆくのである。
神だの祈りなどで、人類が救えるものか、といっている宗教者もある中で、自分たちの生活の苦
しみや、感情のいざこざのすべてを過去世から今日に至るまでの「消えてゆく姿」として、私の一
言の真実性を心で把握して、只素直に、「世界平和の祈り」を日々行じつづけている、明るい純朴
な私の同志を、私は愛さないではいられない。
「皆さん、真実にありがとう」私は常に心からその方々に感謝しつづけている。近頃は体の都合
や種々の事情で、昔なじみの人たちにも、個人的対面もできずにいるのを、私はいつも心残りにし
ているが、これも、世界を平和にする為の神々の御都合なので、皆さんの方には祈り心だけ送りつ
づけて、肉体的対面は統一会だけになっているのを堪忍して貰っている。
ともあれ、今年も徹底的に、平和の祈り一本で同志を広めてゆきたいと思う。「世界人類が平和
でありますように」という祈り心の合言葉で、多くの人の心が結ばれたところから、真実の現象面
141年を積み重ねて
での平和を生み出す、智慧や能力が湧き上がってくるものと、私は信じているのである。
14Z
宗教者と科学者
ある講師が、座談会場でお浄めをしたことのある妊婦さんが、生み月近くなって、病院に入院し
ていたが、不幸にも母子ともに死んでしまった、という話を、その後の座談会で会場主から聞かさ
れ「私は何故そういう先の出来事を察知することができなかったのであろう、その親子の運命を知
ることができたら、五井先生になんとか助けてもらえる道ができたであろうし、以前にもそういう
ケースで先生のお力で助かったことが随分あったのですから」と残念そうに私に話すのである。
私はそれに答えて次のような話をしたのである。
亡くなった母子は、今生の運命としてそうなっていたので、私が直接祈って助けるようにはなっ
ていなかったのだ。また私が直接祈っても助かる場合もあるし、助からぬ場合もある。ただ私たち
は、縁に触れた人々のために、真剣な祈りをし、ひたすらなる愛行をしていればよいのであって、
その結果は神のみ心にゆだねるより仕方がないのだ。結果について人間心でとやかくすることは、
カルマ
業想念の波に把われていることであり、執着心というものである。また、肉体的な縁に触れぬ人々
のためには、世界平和の祈りのような、広い人類愛的な祈りがどうしても必要になってくる。
宗教者の行為というものは、すべて肉体人間心でやるのではなく、神のみ心として行うのである
から、愛と調和の心で、瞬々刻々の生命を生かしきってゆくのであって、結果に把われる想いをも
ってはいけないのだ。そのためにたゆみない祈り心、守護の神霊への感謝行が必要なのである。肉
体的に生きつづけるほうがその人にとって幸せなのか、肉体身をすっぽり離れて霊界の住者となっ
たほうが、その人の天命が完うされるのか、神のみが知ることであって、肉体人間の関知するとこ
ろではない。
肉体身として長く有意義に生きたい人々は、この肉体界に存在することが、より多くの人々の為
になる、と自他共に思えるような行為を、常々していることが大切である。肉体身の自分だけの幸
143宗教者と科学者
カルで
を思って生きている人は、いつまでたっても、自己の本心が開発できぬので、業がそこに存在して
いるということになり、本心から自己の幸せに感謝し、人々の喜びを受けることができないのであ
る。生きている死骸ということになる。そういう人はあの世での修業が悲惨なものとなる。宗教者
はそういう真理を人々に知らせることが重要なのであって、肉体の生死の問題は従的なことになる。
ところが科学者、ことに医者の場合には、肉体の生死が一番問題になるのであって、肉体を生か
さなくては、医者としての立場がなくなってしまうのである。だから医者は人智の限りをつくし
ぼか
て、病人の治療にあたるのである。宗教者のように、お任せという立場はとれない。ただ心のなか
で神の加護を念じ、自己が病人に対して、万全の治療ができるように、常日頃から祈ることは必要
なのである。現在のように、医者にかかっても治らぬ病気がたくさんあるようでは、医学者たち
が、自らの本分をつくしていないことになるのである。
宗教者はすべての人に真実の神の存在を知らせ、神と人間との関係をはっきり知らせることに天
まこと
命があるのであり、人々に愛と真実の生き方を行じさせるよう導いてゆかねばならぬのだ。
ぽ
こうして、宗教と科学が両々相侯って、人類は神のみ心のままを、この地球界で完うしてゆくこ
とができるようになるのである。私はこの両道を一つに行じようとして、日々励んでいるのであ
144
る。という内容であった。
肉体は神の器であり場である
ゆいがどくそん
宗教団体の教祖や会長という人物には、えてして唯我独尊的な尊大ぶった人が多く、信徒がいく
ら丁重に挨拶しても、一べつも加えないで、すまして通り過ぎてしまうような人がいたり、何を貰
っても当然の如く、礼さえもしない人や、自分の我が通らぬとやたらと幹部を叱りつけ、すべての
マイナスを弟子たちの責任にしてしまうような人たちも多い。
神の教えを垂れたり、道の話をする時には、厳然として権威をもつのは当然であり、何者の反発
をも許さぬものがあってもよい。それはその教祖なり会長なりが、神のみ心そのものに成り切って
145肉体は神の器であり場である
おの
いるので自ずからなる姿であるからなのである。
ところが、それはあくまで神霊の側の働きによるものであって、肉体人間としてのその人の力で
はない。肉体そのものは微妙な波動体と粗雑な波動体との差は勿論あるのだけれど、人間の五感に
触れるものは、やはり一般人と変りない肉体である。だから普通の生活の在り方は、普通人と同じ
レベルにおいて、何も権威ぶったり、尊大な態度をしてみせる必要はないのだ。和顔愛語であり、
裸の態度であってよいのである。
それと全く反対なことは、教祖であり神の使いであるから、普通人とは全く違った存在なので、
痛みも悲しみも苦しみもなく、病気もないのだ、と信徒が思いがちなことである。教祖と呼ばれる
人は、確かに常人を超越したものがあることは間違いない。霊的には勿論のこと、肉体的にも常人
の到底及ばぬ何かを持っている。しかし、肉体がこの世に存在していたこと或いはいることは確か
である。だから、普通人が十の汚れで病気になるとしたら、一万も十万もの汚れでも病気にならぬ
かも知れぬ。しかし無限に汚れを身に受けても少しも病気にならぬ、とはいえないのである。釈尊
ゆいまきつ
でも維摩詰でも時折り肉体は病んだこともある。だがしかし、そうした聖者の病は、自己自身の病
よごややきい
ではなく、衆生病むが故に我れ病む、というこの世やあの世の汚れを自己の身に受けて疾む病なの
146
けが
である。そして自己の気が病に把われることは少しもないのである。すべては三界の汚れ穣れの消
えてゆく姿と観じているのである。
あくまでも肉体は神霊の器であり、場であることを知っている聖者は、自ずから権威をもってい
るけれども、尊大ぶることも何ぶることもなく、神のみ心のあるがまま、そのままに行動していた
のである。いわゆる肉体を神の場として神我一体の生活を送っていたのである。
民衆の一人一人がすべて、自我の肉体を神の器であり、場であると受け取り、神霊の働きを容易
になし得るようにできたならば、この世は忽ち天国浄土となるのであるが、その日の一日も早くく
るために、我々の消えてゆく姿で世界平和の祈りの運動が拡大されてゆくことが望ましいのであ
る。
147肉体は神の器であり場である
148
親の心子知らず
人間は誰しも、自分の考えのわくの中に、他人の言語動作を入れてしまいたい衝動をもっている
ものであるが、この衝動の甚だしい人々は、新興宗教々団の信者さんや、修養という題目をかかげ
ている団体員の中に多いようである。
自分がどのような教えを信じようと、それはその人の自由であるが、その宗教を押しつけたり、
その教えに入らない人々を馬鹿にして見たり、軽視したりすることは、そのこと自体が、もはや宗
教信者としてのマイナスの面であり、そうした信者の多い宗教団体が立派であろう筈がない。
人間はすべて自由でなければならない。お互いが、お互いの自由を縛ばり合って、お互いの信ず
る方向に持ってゆこうとするようだったら、それがそのまま宗教戦争になりかねない。
人間の自由を縛って、自己の信ずる方向に強引にもっていってよいものなら、絶対力をもち、絶
対善である神自身が、神力を振って、一瞬にして悪を根こそぎにして、ご自身の道の方向にすべて
の人間を歩ませしめるであろうけれども、今日までの長年月に、そのようなことはなさっておられ
わけいのち
ない。それは何故かというと、大生命である神は、分霊(分生命) である人間の自由を認められ
て、その自由にまかせて、神の世界をこの地上界につくりあげてゆこうとなさっていられるからで
ある。
であるから地上天国というのは人間自らがつくりあげるものであって、大神様が人間の自由を拘
束してつくりだすものではない。ただし、守護神として、守護霊として、肉体人間のうちに働いて
いる分霊を自由に働かせようと、援助の手は差しのべておられる。そしてこの守護神守護霊の援助
を頼むことは、一向に差し支えないし、実際問題として、この援助を頼まぬ限りは、すでに業因縁
の波に取りまかれている肉体人間だけでは、とても地上天国の完成は出来得ないのである。
ゆだ
人間は大神様から任ねられた生命の力、霊の光を素直に自由自在に働かしていさえすれば、それ
こうしよう
がそのまま地上天国につながる行為となるのであるが、業生の業因縁の自我欲望の自由のほうに行
149親の心子知らず
為してしまいがちなので、いつまでたっても、安心立命できる平和世界ができあがらない。そこで501
私たちは守護霊、守護神の存在と消えてゆく姿の教え、それに世界平和の祈りによる生活方法を拡
じ
める運動をしているのであるが、これを人々に無理強いしようとは少しも思っていない。この教え
ぶ善いのに何故入らぬ馬鹿な奴だ、というようなことも一切思わぬように同志の人々には説いてい
る。
私は人を責め裁いたり、あなどったりすることを、極度にいましめる立場をとっているのであ
る。しかしそれでも、熱心のあまり、あなたの信仰が足りないから、あなたの生活が善くならぬ式
のお説教を後輩にしている人々を時折りみかけて、神様のみ心を真実の行為として知らせることの
むずかしさをひとり思うこともある。
親の心子知らずということがあるが、神を信じ、礼拝しながら、神ひとすじに生きようとしなぶ
ら、かえって自己の心の自由性を失って狭い頑なな姿になって、その姿の中に他の人迄ひぎずりこ
もうとしている宗教信者の姿は、教えの中心者を泣かせるものであることを、宗教信仰者の人々は
よくく知って置かぬといけないと思う。
ひとりよがりでない、愛の心、思いやりの心を、宗教信仰者はまず第一に修さねばならぬと思う
のである。
間違っては困ること
神と人間とボ一体になる道、これが宗教信仰の道であることには違いない。そして、神と人間と
まことおの
が一体になると、その人の行為は、神のみ心そのものである、愛と真と美とを自ずと現わしてゆく
ようになる。
ヘヘへ
宗教信仰の道をたどってゆけば、必ずその人の心は愛が深くなり、まことの心が強くなり、そし
て大らかな自由な心になるのだけれど、宗教団体に入っていて、一生懸命信仰に励んでいるように
みえる人々が、意外といつまでたっても、自分勝手のひとりよがりの想いをもっていて、狭い不自
151間違っては困ること
由な心でいたりするのである。これは一体どういうことかというと、その人の宗教信仰に対する出512
発点が間違っているからなのである。
どこが間違っているかというと、大愛であり、大智慧であり、自由自在な心である神のみ心のほ
うに自分のほうから昇ってゆこうというのではなくて、自己の現世利益や感情の満足のために、神
を自己のほうに引き下げようとする心を、自分に持っていての信仰だからなのである。
こういんねん
その信仰心は過去世からの業因縁の渦の中にすっぽり入ったままで、神を自己のほうにひきよせ
あくこうぜんこう
て、悪業を善業に変化させて貰おうとしての信仰心なのである。そして、自己の想う通りのご利益
がないと、この神様はききめがない、といって、その宗教信仰からぬけていってしまったりするの
である。これでは宗教信仰の土台から間違っているのである。
そうねんこういしようか
宗教信仰というのは、あくまでも、自己の想念行為を、神のみ心である高い理念の中に、昇華さ
かこせ
せてゆくためのものである。過去世からの業因縁につつまれた自己の想念行為を、神の大光明波動
かんげん
の中で、浄めさっていただき、人間本来の光明体に還元してゆくことが、宗教信仰の本来の目的な
のである。こうして生れてきたご利益こそ、真実のご利益であって、業因縁の渦の中での損得など
は、たんなる消えてゆく姿に過ぎない。
この真理を皆さんはしっかり知っていただいて、自分の不幸や病気や貧乏を、自己の想念の中に
もっているままでょいから、世界人類が平和でありますように、という高い人類愛のひびきをもつ
祈り言葉の中に入りこんでしまうことがよいのである。世界人類が平和でありますように、という
祈り言葉の中は神と人間とが全く一つになった、大光明波動に充ち充ちているのである。だから、
にちにちしゆんしゆんこくこく
日々瞬々刻々、世界平和の祈りをしてゆくことは、自己の現世利益の達成とともに、神のみ心との
一体化がなされてゆくのであり、この地球世界の平和実現のためにも、大きな働きをなしてゆくの
である。
153間違っては困ること
154
われ天才にあらずとも
この世の中には、様々な人がいて、甲の人にはとても我慢出来ないことを平気でやれる人もいれ
ば、乙が何気なくできることを、どう努力してもできないという人もある。
とうほんせいそう
市会議員や代議士になるために、東奔西走して夢中になっている人々をみて、何を好んで人々に
悪口をいわれながら、責任の重い、忙しい仕事をやろうとするのか、とその権力欲や地位欲に、と
にだあい
ても自分達と肌合が違うと感じている平凡なサラリーマン。反対にそういう平凡なサラリーマンの
はらんきよくせつ
常に上役の機嫌をとりながら、波乱曲折のない生活を続けているのをよくまあ、ああいう生活で我
慢ができると半ばあざ笑っている人もある。
しかし、いずれの型の人にも長所と短所があるので、長所が出た場合には、人の為になったり、
人に喜ばれたりするが、短所が現われた場合には、人々にきらわれたりするのである。
私が若い頃、天才ぎらいで、べ1 トーベソなどが友人と話しているうち、突然席を立ってそのま
ま帰らなかったり、相手を全く無視して、自分の思っていることだけしかしなかったり、その生活
に思いやりの心や調和の行いがかけていたのが気に入らなかった。だが、今日になって考えてみる
と、芸術家的天才や、発明家達はその作品をこの世に出すことが天命であって、その他のことはど
えおは
うでもよい枝葉のことであった。しかし、平凡な人達にとっては、思いやりの心や、調和の心が大
事であって、そうした心がなくなれば、その人の平凡な生活は、みじめな暗いものになってしまう
のである。
この世には、天才や非凡な人が、特別多いのではないのだから、一般常識人は周囲との調和、社
会との調和ということを根底にして少しでも人の為になるような世界平和の祈りを続けていたら、
非凡な人や、天才達が、短かい期間で成しとげていった天命の達成を、長い期間はかかるけれど
も、光明波動をこの世に蒔き散らしてゆくことによって、その天命をはたしてゆくことになるので
ある。
155われ天才にあらずとも
まき
五月の庭は葉桜を中心に松や棋の緑が、つつじと渾然調和して、
る。そこには理屈も理論もない、ただ調和した世界があるだけだ。
自然の美しさを満喫させてくれ搦
非凡を超える平凡
近来は次第に非凡なものに憧れる風潮が濃くなってきている。その一つの現れが、超能力にひか
れる人々が多くなってきていることである。
しゆゆゆさまざまへいおん
日本の表面的な状態は、種々様々な出来事はあっても、平和な平穏な日々であるといえる。それ
でいながら、その平和さ平穏さというのは、いつ崩れるとも知れぬ不安定なものを、人々に感じさ
せているのである。不安を感じながらも、自分たちの平凡な能力では、その不安定を、安定させる
方法がわからないのである。
たいぼら
そこで、超能力に想いをひかれ、超人を待望することになるのである。確かに今日のように、平
しん
凡な常識や、今日までたどってきたような方法では、個人も国家も人類も、真の平和な状態や平穏
しゆうも
な状態をつくり出すことはできないのは衆知のことである。他国が武力を増強したから、こちらも
せん
増強するという昔ながらの平凡さで、真の平和世界をつくり出せるわけがないし、他国の繁栄を羨
だうゆうり
望して、経済的圧迫を加えたり、常に自国の有利のみを考えて、世界に対しているような、そんな
国家が多くては、とても地球の未来の平安は望めない、ということになる。
しんらんざいあくじんちゆうぽんぶ
これらはみな、親鸞のいう、罪悪深重の凡夫のなせるわざなのである。だから超人的な行動で、
いつきよ
一挙に世界を平和にする方法がないか、と考えたり、超能力で、世界の統一を成し遂げることがで
きないか、などと思ったりするのである。
たつせい
だがしかし、真の平和を達成する大いなる力は、一般大衆の平凡なる日常生活の積み重ねによる
ぎようかんしやぎよう
のである。それは平凡そのものの行である、感謝行の実行である。神への感謝を頂点にして、人々
に対し、物事に対しての日々の感謝、ありがとうございます、の実行こそ、真の平和世界をつくる
モせきもとい
礎石となり、基ともなるものなのである。
157非凡を超える平凡
ていしよう
私の提唱し実行している世界平和の祈りは「世界人類が平和でありますように」という、実に平
びじれいく
凡極まりない言葉ではじまっている祈りである。美辞も麗句もない、そのものずばりの祈り言、教
育の少ない幼児にも老人にも、そのまま心に呑みこめる祈り言である。こうした平凡な祈り言が、
実は、非凡なる神のみ心に通じ、神と人との光の交流を果して、この地球人類に、真の平和を導き
出す、大きな広い道となってゆくのである。
如何なる非凡も、神の愛のみ心を超えるものはない。「人類よ平和であれ」と願われる神のみ心
と全く一つにつながる「世界人類が平和でありますように」という祈り言は、平凡にして、あらゆ
る非凡を超えた、神の愛をこの世に実現せしめる祈り言なのである。
非凡なる行為は、時には平凡なるものの犠牲の上に行われる場合もあるが、世界平和の祈りは、
平凡がそのまま、神の非凡そのもののみ心に同化してしまうのである。そのことを皆さんにも知っ
ておいていただきたいのである。
1’58
いのち
生命を生かす
いのち
私は少年の頃かち、生命のことについて、考えないではいられない性情をもっていたのだが、今
日のようにかなりわかってきたと思える年頃になっても、生命の不可思議さ、有難さに頭を垂れる
ものなのである。
生命というものを突きつめていって、科学者になる人もあれば、私のように宗教者になる者もあ
るが、どこまで深くわかってみても、その根源を思いみると、不可思議さと有難さと礼拝しないで
いけい
はいられない畏敬というものが胸をしめつけてきて、なんともいえぬ感慨にふけるのである。
十一月は私の誕生月なので、誕生日になると、自ずと永遠の生命と過去世から今日までの私とい
159生命を生かす
う個人の生命の遍歴をみつめてみるのである。肉体的な生まれ変り死に変りしての私というものの
要素の中に、どれだけ複雑な様々な要素が入り混じっていることか。そしてその複雑さが、神とい
と
う一言にしていえる単純化された言葉の中に、すっぽり融けこんでしまって、大きく開け、今日の
私というものが此処に存在している。
につ
永遠の生命の中にありながら、肉体生命としての個人の自由を欲しつづける人間という存在は、
かくち
自己と永遠の生命(神)とが一つのものである、ということを覚知しない限りは、常に悲劇の主人
公であらねばならないのだが、そういう真理を大方の人は知らずに、瞬間的な生命の流れの中で生
活しているのである。
個人の生命が吸収している様々な複雑な内容がすっかり統一され、永遠の生命の一つの働きとし
ての個人であり、地球人類である、という、神に全託した単純化の中からこそ、人類のもっている
複雑な内容が生き生きとしてくるのであり、人類に一段の進化がもたらされるのである。
聖ケ丘道場には、皆さんが丹精こめて育てている種々な花が咲いているが、その花の一つ一つの
美しさと、綜合されて放つ美というものが、一体となって庭を飾りたてている。自然の生命の美
が、この庭の樹木や花々となってひびきわたっている感じだ。
160
私はこの庭に立っていると、樹木や草花よりもはるかに複雑な内容をもち、神の美そのものをも
っている筈の人間が、この花々のように素直に素朴に自己の本質を出し得たなら、どんなに美しい
ひびきを奏で得ることであろう、といつも思うのである。
人間の生命は常に生き生きと明るく美しく、愛し合い、調和そのもののひびきをたてつづけて、
大宇宙に働きつづける本質をもっている。その本質は、神との一体化という単純な行為によって現
われるのである。その最も容易な方法が、ありとしあらゆる物事に対する感謝行なのである。あり
がとうございます、という一言は祈りそのものでもあるのだ。
よご
神を知るために、生命を汚さぬために、何事にも感謝行をつづけるとよい。感謝できぬ出来事、
事柄は、自己の過去世の因縁の消えてゆく姿として、光明化してゆくことに、また感謝行をつづけ
るがよい。そして世界の人類の平和を祈りつづけるのである。
それが自分の生命を生き生きとさせ、世界人類の生命の汚れを浄める最大の方法なのである。
161生命を生かす
162
運命を変えるには
今私がこうして書いている原稿は、七月号のものであるが、現在は五月の末である。先のことを
原稿に書く場合、一番苦手なのは、季節の風光を書くことである。
今私の家の庭には、白ばら紅ばら、黄色のばらと、色とりどりにばらの花が、その美を競ってい
こなね
るし、えにしだの黄金色の花も咲き残っている。
ところが、七月の庭は全く別な風光になってくる。五月の末に七月の風光を書くには、過去の
年のその月の季節感に浸って、今年の風光として表現してゆくわけである。そうした想像的な現わ
し方でも、その月になれば、その月に書いたものと何等異なることのない描写になっているわけで
ある。
このように季節というものは毎年同じ法則で動いていて、細かい相違はあっても、大綱的には全
く同じことが同じ時期に繰り返えされていくのである。人間の年代というものも丁度これと同じよ
うなもので、少年を春とすれば、青年、壮年、老年と、四季の変化を人間はもっている。これは確
定的なことであって、年を逆さにとっていくわけには絶対にいかない。
ところが個々人の運命というものは、少年の頃悪かったが、老年になってよくなった、という人
もあれば、少年青年期に恵まれていたが、晩年になればなる程悪くなった、という人もあって、非
常に個人差があるものである。
男女の性別や、年令の高低などは、現在の人間の力ではどうにもならないものだが、運命を変化
させることは、現在の人間でもでき得ないことはない。でき得ないことはないといったのは、人間
の運命も、過去世からの想念行為で、一応は定まっているのであって、容易に変化でき得るわけで
はないから、でき得ないことはないと、反語をつかったのである。
四柱推命学や、人相骨相姓名学などが、相当な確率をもって、運命の予言をしているのも、運命
は一応定まっているという証左なのである。そこで、運命をより善く変えるためには、大変な努力
163運命を変えるには
が必要なのである。
何んの努力もせずに悪い運命環境を変えようなどということはできる筈のものではない。努力と
いっても、生命の法則を知らずに、ただ無我夢中で努力したとて、その効果はない、すべての努力
は、先ず生命の法則を知ることを第一にして、そこから新しい歩みをはじめなければいけない。生
命の法則を知るためには、科学が自然の法則を発見したと同じように、人間の肉体構造の不可思議
みひら
さに心の眼を瞠き、生命の神秘性に深く頭を下げて、敬震な気持で真剣に大生命宇宙神のみ心の中
から新しい運命の道を頂き直す努力をすることが必要である。それが運命改善の最大の道であり、
その方法が祈りなのである。そして生命の法則そのものの生き方が自然にできる方法が世界平和の
祈りなのである。
164
人のふりみて祈りを深めよう
人は誰でも、言葉でいってしまってから、はっとすることがある。それは人の悪口である。「あ
いつはあんなことをして」とか、「あの人あんなずるいことしてるのよ」とか、人に話してしまっ
て、さて、自分にその人のようなずるさや悪さが少しもないか、というと、案外、自分の中にもそ
たぐい
うした類の想いがかなりあるのを発見する。
人は善と悪、正と不正という二つの想念をもっている。どんな善い人といわれる人の中にも、幾
分の悪や不正の要素はあるもので、真実の善い人正しい人は、少しの悪要素、不正要素でも、自己
ざんき
の心の表面に出してみて、漸塊し反省して、その想いを消し去ろうとして努力する。
165人のふりみて祈りを深めよう
そして、偽善的な人程、そんな悪要素、不正要素など、少しもないという風に、自己をみせよう
とし、人の行為を裁いたりする。どんな人間でも、たやすく人の悪口をし、人を責め裁くことはで
しんらん
きない。それは自己の中にも責め裁かるべき要素が幾分なりともあるからである。親鸞程に行に徹
ざいあくじんちゆう
した人でも、自己を罪悪深重の凡夫として、阿弥陀仏にすべてを託して生活したのであって、人を
責め裁くというのは容易なことではない。
しかしながら、連合赤軍派の行動のような常軌を逸した行為にも、何かと理由をつけて、その行
為をかばおうとする向もあるが、ああいう不合理、不調和極まりない行為に同調する想いの中に
は、自己の不合理を自己弁護するおかしな心理があるのである。
すぺての行為は、自己の本心に照し合わせて想いみるべきで、自己の感情想念で判断して、対処
してはいけない。
そこで私は、自他共なるすべての想念行為を、一応消えてゆく姿として、大調和波動である、世
界平和の祈りの中で消し去って頂いて、改めて、対処する態勢をとるように、人々にすすめている
のである。
何事も、一度は、消えてゆく姿として、何気なく空の境地、無為の境地を通りぬけ、神仏のみ心
166
の中から、真理の現われた自己としての答を出してもらうことを、
それが、消えてゆく姿で、世界平和の祈りの行なのである。
私は行じているのである。
峻厳なる愛
しゆんげん
神の愛には峻厳なる愛と、柔和な優しい現れ方をする愛とがある。私などは後者の愛を受け持つ
側の宗教者であるが、時には肉体の私が止めようとしても止めきれぬ峻厳さを神が人々に向けるこ
とがある。
柔和さ優しさだけでは、神の愛の現われの万全をきせないためなのであろう。私などは、法話を
するにしても、統一指導するにしても、また個人の生活指導をするにしても、常々は柔和さ優しさ
167峻厳なる愛
で人々霜対しているのであるが、千に一度の割ぐらいに、打ち砕くように烈しい誰を人々雫畑
すことがある。勿論肉体の私の感清で怒るわけではなく、内なる大いなる存在者(神) のみ心によ
るのであるから、心臓がどきどきしたり、額に青筋が立ったりするようなことはない。心は至極平
ヵルマ
静なのである。しかしその叱陀の烈しさは、いかなる業をも打ち砕く気合がこもっていて、この叱
声に合うと、必ず居合せた人々まで、魂が浄まり、心がすうーっとするそうなのである。
だが叱陀する当人にとっては、柔和に優しく指導するよりよほど嫌な愛の現わし方であって、私
本来の心からでてくることでないことがよくわかるのである。霊能者や霊覚者というものは、肉体
の自己というものと、背後の或いは内なる心というものが、常に一つになっていないと、肉体で想
くらし
わぬことを、内の力でやらせられて、この世的に生活にくくなったり、人々に嫌がられたりするも
ので、普通人よりこの世的にむずかしい生き方になる。
せば
私なども霊修業中には、随分この世の生きる道を狭めて生活してきていたのだが、今日のよう
に、肉体の自己というものと、内なる神のみ心とが全く一つにつながっていると、生きてゆくその
まま、現われてくるそのままの姿に奇異な感じもなく、人々に不快感を与えることもなくなってく
るので、人々に頼られ慕われることはあっても、人々に嫌がられるということはないのである。
ようしや
ただ私の本質的生き方の上に、私自身としてはできにくい現われ方でも、時によっては容赦なく
守護の神霊や内なる力が表面に出てくる。柔和であるべき私が、叱声を発するがごとくである。
今後会の動きが一変するに当っても、長年毎日のように直接指導してきた古い信徒の人々にも統
一会以外ではお会いできなくなることが、私にとっては情愛的に耐えられないことであったが、神
ゆだ
のみ心はより大きな浄めに私の力を注ぐことをなさるために、多くの個人指導を講師の諸氏に任ね
いくしゆう
て私は執筆の仕事、統一会、錬成会、それに特別私でなければ解決できぬ個人指導のための豆修庵
での面接ということになってしまった。これは私が情愛に弱い人間で、私に会いたい人には誰にで
も会って力になりたい、という今迄の形を自分では崩すことができないので、神様がちょっと私の
体を病体のようにみせかけて、一大改革をなさしめたのである。
小の虫をも大の虫をも生かすことはむずかしいことではあるが、小の虫をいつまでも小の虫とし
て扱っているような生活指導の在り方は、深い神の愛ということはできない、と今更のように悟っ
たしだいである。
信徒の皆さんは、講師の諸氏を私と見立てて、生活改善並びに本心開発のための指導を受けられ
るようにおすすめする。私はもっぱら聖ケ丘道場での法話統一、白光誌における法話等において、
169峻厳なる愛
皆さんの本心開発のために働きつづけることにする。
皆さんは自分を甘やかすことから脱皮して、一人でも多くの人に世界平和の祈りをすすめ、人類
光明化のために働かれるよう努力されたい。法施こそ、自己にとって最大の宝となるのである。
170
天勇
堪
の
心
青空の心
えだしげまつてんそらすしおなわむね
枝繁き松の天なる空澄めり潮鳴りとうとうと我が胸にする
かつてこのような歌を作ったが、澄みきった天を眺めていると、人間はこの青空のように、いつ
も澄んでいなければいけない、とつくづく思うのである。
かんじようそうねん
このように澄みきった清らかな大らかな、人間の本心を覆うものは何かというと、感情想念であ
せいぎよおの
る。この感情想念を巧みに制御出来れば、人間は素晴しい神の子の姿を自ずとそこに現わすのであ
る。
悲しみ、苦しみ、喜び、痛み、そういう喜怒哀楽を感情想念といい、この感情想念がこの三界、
173青空の心
こうしニひごうそうねん
業生の世界の運命を作っているのである。これを業想念というのである。この業想念を超えるため
にはどうしたらいいか。感情想念をもったままでいいから、祈りに入ってしまうのである。じ: つ
もんこん
と本心の中に想いを入れてゆくのである。いわゆる鎮魂してゆくと、本心の奥にある神のみ心がず
ーっと表面の心に伝わってくる。それが祈りなのである。
ぎようしゆく
祈りの中で一番いいことは、世界人類が平和でありますように、という深い大きい愛の心が凝縮
した言葉である。
‘毎日毎日、怒りの想い、妬みの想い、淋しい悲しい想いなどがくるその時に、神さま有難うござ
います、守護霊さま守護神さま有難うございます、世界人類が平和でありますように、とひたむき
に世界平和の祈りの中に入ってゆけばいいのである。
ほうねんしんらんねんニつなむあみだぶつ
法然、親鸞が念仏一辺倒で、なんでもかでもすべてを南無阿弥陀仏の中に入れたと同じょうに、
すべての感情想念を、世界人類が平和でありますように、守護霊さま守護神さま有難うございま
す、と感謝と祈りの中へ入れきってしまうのである。
しようか
そうするともろもろの感情想念は次第に薄らぎ光に昇華して、青空のように澄みきった心になる
のである。174
いつも心が澄みきっていて把われがない、いつもさわやかで愛に充ちている、そういう心境を自
分のものにすることが宗教の極意なのである。現象利益があるのは勿論有難いことであるけれど
も、それはほんの枝葉のことである。
今日も明日も青空の心を心として、祈りに祈りつづけ、守護霊守護神に感謝しつづけていくこと
である。神さまは必ずあなた方を守りつづけて下さるし、あなた方は神さまと一体になって、誰に
さわ
何をいわれなくとも神の子の、爽やかに澄みきった日常生活が送れるようになるのである。
天奮
地竃
の心
あめつちといのち
天地の心に融けて人の世に生命光らす身とはなりつつ
175天地の心
おの
正月はなんといっても明るい月である。年が改まると、新しい生命を得たような気持になり、自
ずから希望が湧き上がってくるものである。天地も新しく人間も新しく、これからいよいよ天の岩
戸開きをはじめねばならない。
人間は天地の精髄を集めてできている。天地があって人間が在り、人間が生れでたことによって、
天地の妙がそこに現わされる。天地の心と人間の心とは本来は全く一つのものであって、共に神の
み心の現れであり、働きなのである。
なに
神は一なるものでありながら、多くの神々として宇宙万般の働きをしている。そして、人間は何
びとすえひと
人といえどそうした神々の喬でないものはない。人とは霊止であって、霊の止まっているところで
ある。そうしたことの自覚ができてくるにしたがって、人間は立派になってくるのである。
人間は天地万般を生きいきとさせるために在るのであって、天地のすべてを汚し乱し、不調和に
カルマ
するために存在するのではないのに、この地球人類の業想念は、輪のように廻り巡って、天地の運
行を不調和、不完全にしてゆこうとしている。
せいちより
宇宙はひろらかであり、天地は清澄である。私たちは、年の初めの一切の行動にさきがけて、天176
地の心の中に自己というものを融合させる祈りをささげ、そこから天地と一体になった自己となっ
いのち
て生命生きいきと働きいでたいものである。
ごと
その祈り言は、なんといっても世界平和の祈り言による、救世の大光明に対する感謝の言葉が最
も意義の高いものであるのは事実である。世界人類が平和であるということは、とりもなおさず、
人類の天地との一体化であり、神のみ心の現れの姿であるのだから、祈り言そのものにも、すでに
大調和の光明が輝きわたっているのである。
私はまず自らがそうなり得て、神のみ光をこの地球界に照り輝かす日常生活をしているのである。
世界平和の祈りの同志は、平和の祈り言を自己のものとした時、すでにその人々からは世を輝かす
光明の波がひびきわたっているのであることを、年頭に当って改めて確く信じていただきたいもの
である。
177天地の心
178
天地の調和
あめつちいぶととのあらとし
天地の息吹き調ふ新年とならせ給へよ平和の祈り
さざんか
暫くの間、私たちの心を和ませていてくれた山茶花の遅咲きの花ももう散って、寒椿の花が咲き
きにわくさお
はじめている。狭庭は狭庭なりに、広庭は広庭のように木々も草生も花々も、天地の息吹きの調和
の姿を木々と繁らせ、花々と咲き競うのである。
天地の調和なくして、この自然の姿はないのである。人間もまた自然の一つの現れであって、天
地の調和なくしては、生存し得ないものなのであるのに、人間はその真理を忘れて、自ら天地の調
和を乱しつづけているのである。
原爆実験などその調和を乱すこと甚しいものであるが、人間一人一人の不平不満や、争いの想い
など、眼に見えぬことながら、天地の和の波動を乱しつづけているのであって、天変地変の起らん
とするその根幹となっているのである。
神々の慈愛は、天となり、地となり、太陽となり、空気となり、水となって、人類をはじめあら
ゆる生物を発育生成させようとしている。太陽にしろ、空気にしろ、水にしろ、どれ一つなくて
も、人間は生きられないのである。
人間はそうした天地の大恩を忘れ果てている。そして、言いたいほうだいのことをいい、やりた
いほうだいのことをやっている。太陽の有難さを思ったら、空気の有難さを思ったら、人間は何一
つ不平不満など言えないものなのである。
人間は先ず天地への感謝から一日の行事をはじめなければいけない。この新年のはじめにも、先
ず天地へ感謝の柏手を叩き、平和の祈りをするのである。
天地の息吹きが調うことと、人類大調和の生活とは全く一つのものなのである。人間一人一人の
平和の祈りが、戦争を防ぎ、天変地変を防ぎ得る唯一無二のことなのである。
元日からその決意を新たにして、この一年の天地の調和を、私たちの祈りによって成就させてゆ
179天地の調和
かねばならない。
180
一歩一歩の歩みの中で
はだしゆんれつたいき
寒風膚をさす峻烈な大気は、人の魂をきりりとひきしめさせて、私は好きである。
春の季節は、勿論好ましい季節だが、この厳冬の膚をさす寒風は、魂をよみがえらせるような
ひびきをもっている。
けんきやく
昔私は、健脚をほこっていたので、たいがいの道のりは、車にも乗らず、歩きつづけたものであ
め
る。春は花々を賞で、冬は、魂をきりりとひきしめて、自然にとけきって歩いていたものである。
いく
実に歩くことは、いいことである。現在のように地球の業の浄化のために、呈修庵を一歩も出られ
ず、祈りつづけていると、そうして歩いていた頃がなつかしい。
この浄化のための祈りが終ったら、又再び歩いて歩いて歩きまくりたいものである。
天は父、大地は母、天の父を仰ぎ、大地の母をふみしめていると、天地の恩をひしひしと身に感
じてくる。老子さんがいっておられたが、大地の歩みの一歩一歩を、おろそかにしてはならない。
一歩一歩の歩みに、感謝をこめて歩くのだ。という言葉が今でも私の心の奥底でひびいている。急
ぎの用や、遠い所は勿論車を使ってよいが、人間は歩くことの大切さをわすれてはならない。
祈りということでも、ただ座って祈らなければならないということではない。一歩一歩の歩みの
中で、世界平和の祈りが、なりひびいているようになることが望ましい。
さんせんそうもくちよラじゆう
天に和し、地に和し、山川草木、鳥獣に融合しているのが世界平和の祈りである。人間の生活の
中では、よほど立派な人でも、すべてに和して生きていくことはむずかしい。そのおぎないを、世
界平和の祈りがつけてくれるのである。
きゆウせ
世界平和の祈りは、救世の大光明と、守護の神霊と、肉体人間の一体化によって、なりひびいて
いる祈りである。だから、肉体人間のたらざるところは、神霊方が、すべておぎなって下さるので
ある。座って祈り、歩いて祈り、仕事をしながらも、その祈りの中で、生活できるのが、世界平和
181一歩一歩の歩みの中で
の祈りなのである。自分の環境や立場にこだわらず、空気を呼吸するように、世界平和の祈りを祈鵬
っていこう。
富士山
富士山ほど、日本人の多くの人に、敬愛されている山はない。私も富士山を敬愛する一人であ
えにしまさみ
る、というより、神霊的縁が非常に深い山なのである。娘の昌美にとっても同じなのである。
山というのは、いずれも神霊の働きのある所であるが、富士山は特に高級神霊の働いている山な
おの
のである。あのなんともいえぬ形の美しさと、品位の高さは、日本人ならずとも自ずと心をうたれ
るのである。
かつて、私の短歌の中に、
あめつちあいやまとかむふじ
天地の心ととのひ生れ出でし山にしあらむ日本神富士
かむふじ
という歌があったが、実に富士山は、神富士というにふさわしい山なのである。
昔から私は、しばしば富士山に行ったが、どんな雨の中を出かけても、どんな雲の厚い日に訪れ
ても、富士山の裾野にくると、全く不思議なように雲一つない晴天に変貌してしまって、富士山の
美しい姿は、全容を私達の前にみせてくれるのである。いつの日でもそうであるから不思議なので
ある。
不思議といえば、三年程前、人一倍血液の少ない、家の階段を上るのにも、呼吸をはずませて、
やっと昇れるほどの病弱であった昌美が、神の至上命令で、人間的には絶対無理だと思われる富士
カルマ
登山を実行せよといわれたのである。富士山上に世界の業を引き寄せて、神々の大浄めをなさる器
えにし
として、昌美を使おうというのである。これは富士山の神々と、昌美との間に深い縁があるからな
のである。
結果はみごとに、病弱の昌美が吉田口登山道入口から周囲を浄めながら、遂に、頂上に達したの
しんぎよう
である。昌美の日頃からの身体の状態を知っていた人々は、この神業の不思議さに、ただただ感嘆
183富士山
するほかなかったのである。
そして今日、昔買ってあった三万坪の土地に、神命によるピラミッドを作って、富士の裾野にお
おおかみわざ
ける大神業の第一歩を踏みだしたのである。
富士山の神々と私たちとの協力、そして、宇宙天使群の叡智による科学的指導による、地球人類
おおかみわざ
救済の大神業が、富士の裾野を中心にして繰りひろげられてゆくのである。
184
春の
心
さざん花が咲き、寒椿が咲き、
の季節が訪れようとしている。
私の最も好きな白梅も紅梅も咲き満ちて、聖ケ丘にも、じきに桜
冬には冬のよさもあるが、二月となり三月となり四月ともなると、自然と心が明るんでくる。春
という季節がもっている明るさが人の心にうつってくるのであろう。
その春の季節を代表するものが種々様々な花の姿なのである。
私はどの花をみてもその花に語りかけたくなってくる。すると、花のほうでも喜びの表情一杯に
おの
私を迎えてくれる。お互いの生命が通い合い自ずと愛の交流がなされるのである。
ところが私の日々というものは、普通の人には感じられない波動の世界における生活なのであ
る。地球の業波動を一身に受けて、その波動を現実生活の不幸の事態として現われぬように、神の
慈愛によって、その以前の世界で浄め去る、その器として働いているのである。
だから、地球を蔽っている業の黒雲が、間断なく私の体に襲いかかってくる。私の体にひきつけ
ておいて、神々の大光明は、この業を、消しつづけているのである。
そういう眼に見えぬ働きが、私の天命の一つなのだから、常に業の黒雲の中で働いているという
ことになる。そういう立場にいると、美しいものがより美しく感じられてくる。大きくは大自然の
美。小さくは庭の花々の美。精神的には、人と人との愛の交流。そして祈り心で生活している人々
の心のひびきの美しさ。祈りが光りのひびきであることが実によくわかるのである。
185春の心
地球が汚れていればいる程、個人々々は、美しさを求めねばならない。そして自らも美しいひび
かな
きを奏でなければいけない。地球の汚れを浄めるものは、人間一人一人の浄まった美しい心のひび
きに他ならないのである。
私は日々業の黒雲を祓い浄めながら、人間は樹木のように素直に、花のように美しく生きつづけ
なければならぬ、と思うのである。そのためにも真実の祈りが必要である。その祈りを、私たちは
世界平和の祈りとして、神様からいただいているのである。
186
花のように生きよう
いくしゆうあん
今年もまた花の季節となってきた。寒椿が咲き、梅が咲き、そして我が呈修庵の庭も、ヘへ
しよ㌔よ
桜の花が咲き競って、道を求むる人々の心を美しく色どる庭になってくる。
木々の花々にも草花にも、自ずと人の心を浄めるひびきがある。美のひびきによる浄めである。
じねん
人にして美にひかれぬものはない。花々の美は簡素にして自然に人心を美に同化せしめる。人の世
をうるおす大自然の愛の心の一つの現れである。
花の季節には必ず強い風がつきまとう。折角の花の生命を散らし、人の心を乱す強風こそ春の夢
を破る敵であるとも思えるが、花の生命が美しく短かくあることも、人々の心になんらかの教えを
垂れているともいえるのである。
人生には春の強風のように、平安な生活を破る様々な事件や事柄がある。あるというよりなかな
か多いのである。たとえ個人の生活は平安のようであっても、国家や人類全般が平安でなければ、
その波は必然的に個人の生活にかかってくる。
現在の世界情勢を見渡してみて、いかに地球世界が乱れきっているかがよくわかるのである。
その乱れを直すのは、各国家でなければならないのだけれど、各国家ともに、自国家の権力や自
己本位の考え方で、ますます乱れを大きくしてゆき、人間智ではもう到底世界の平和など成り立ち
そうにもないのである。そして、戦争や天変地変が起これば、個人の平安など一べんにふっとんで
187花のように生きよう
しまう。イソドシナの戦争が如実にこの事実を物語っている。ベトナムにしろカンボジアにしろ、
戦争状態が治まらなければ国民の平安はないのである。
日本にいる私どもは一体それならどうしたらよいのか、ベトナム戦争反対といくら叫んだところ
カルマ
で、これは米国やベトナムの考えでやっているので、勿論これがお互いの業の波に流されている誤
った考えにしても、日本国民である私どもの手の出しようもない事柄である。これは中近東の問題
にしても同じことである。
私たちのでき得ることは、自分の心から、争いの想いや怒りの想いや自分勝手の想いをなくすよ
うにして、調和したひびきを自己の周囲にひびかせつづけ、少しでも戦争や天変地変になる想念波
動を消してゆくことである。それを実行するために、神との一体化、本心開発のための祈りが必要
になってくる。そしてそれを積極化するために、世界人類の平和を常に祈りつづける、世界平和の
祈りが生れ出たのである。力の弱い者も、無学の者も、老人も子供も誰にでも積極的にできる、世
界人類のための働き、これが世界平和の祈りである。
いかに強風が吹こうとも、その強風を魂の錬磨と観じて自らの生命を短時間の間でも美しく花咲
かせてゆく、花々のような素直な生き方を、私たちはしてゆきたいものである。自分の生命ある限188
り、美しく明るく調和した姿で生きてゆこう、そういう想念になりきった時、その人の心の平安を
乱す何もの何こともなくなってくるのである。その最も力ある生き方が世界平和の祈りの生き方な
のである。
春の嵐
ヘルマンヘッセの小説に「春の嵐」というのがあるが、春には強風がつきもので、折角寒さから
さかふぜい
解放されて、柔かい温かい日ざしの中で、咲き盛る花の風情に心を融けこませている人間の平安
を、一瞬にして混乱させる。こうした春の嵐は、青少年の生活の中にも吹きつける。
梅の花やクロッカスからはじまって、様々な花の咲き出でる春の季節は、一年中で一番心が開く
189春の嵐
季節なのだが、逆に一番心を締めつけられる月日として過しているのが、入学試験に立ち向う青少901
年なのである。
入学試験というのは、当の青少年だけではなく、その父母はおろか親戚一同の苦労の種ともなる
のである。私などこの時期には、試験合格を願う親御さんたちの手紙や面接で、一苦労するのであ
る。
大学浪人ならまだしも、高校浪人などになっては親御さんもたまったものではない。私もそのお
子さんたちの開運を真剣に祈って差しあげるのだが、その人その人の未来のためには、すうーッと
さんたん
苦労なく入学してしまったほうがよいのか、苦心惨澹して入学するのがよいのか、はたまた、何回
か浪人の憂き目にあったほうがよいのかは、その人の守護の神霊だけが知っていることであって、
その子にもその親たちにも判るわけがない。
だから私は、その子の合格を神に願うということより、その子に神の光明を当てて、その子の未
にんげんこころ
来の天命達成が容易にできるように祈ることにしているのである。とはいっても人間心では、誰も
彼も無事入学出来ますように、と祈らずにはいられないのである。神のみ心と人間の想いとの差
は、人々によって相違するが、その差を縮めるためには、やはり、人類愛の祈りである、世界平和
の祈りより仕方がない、としみじみ想うのである、
ひじりがおかきそムぷき
聖ケ丘の庭には桜の花が、春の嵐の中で、咲き競っている。私はその花吹雪の庭で、合格した子
は合格で、不合格の子は不合格であったことによって、少しでも本心開発の道に入ってゆけるよ
う、周囲の人たちが祈ってあげていただきたい、と願うのであった。
人類進化のために
いんうつかな
梅雨空を眺めながら、庭の木々が風に揺れているのを見ていると、風の心が陰諺で哀しげに感じ
られてくる。これが夏空の照りつける太陽の下では、さわやかな明るい心になって風の心も生き生
きとしてくる。
191人類進化のために
人の心が風にうつるのか、風の心が人にうつるのか、人間の生活の中で、風の心の動きはかなり
その影響力をもっている。その最もはっきりしているのは、台風である。台風は人間に恐怖を与
え、人の生活を破壊する。
人間の心をより進化させようとする、大自然のみ心の一役を買って、風は働きつづける。しか
し、人の生活を破壊するのは、風にとっては悲しいことなのである。
神のみ心は、常に人類の進化を願って働かれる。進化をつづけぬ限り、人類はいつかその存在価
値を失ってしまうのである。人類は今、最大の進化の道を進んでいる。進化が大きければ大きい
程、その苦しみは甚だしい。進化以前の過去の段階にあった、様々な癖や生活様式はすぺて消し去
り、捨て去らなければならない。その苦悩の中に今人類は立たされている。その消えてゆく姿が人
類の表面に現われてきて、心ある人々が心を痛め、眉をしかめねばいられぬような、醜い愚かな事
柄が世界中に充ちているのである。
地震も台風もあらゆる自然の現象は、すべて過去の未進化の人類の悪癖を消滅させ、浄め去るた
めに、神々のみ心によってなされている現象なのである。そうした天災を逃れたいと思うならば、
人類はそのような天変地異の起らぬ前に、自己の心を進化の法則に合わせておくぺきなのである。192
進化の法則とは、釈尊や老子やキリストがそれぞれの言葉は違えど、説きさとされているよう
に、神のみ心と一つになることである。大宇宙、大自然すべてとの調和の心を、人間の心の第一と
すべきである。雨にも、風にも、神々の人類進化のためのみ心が働いているのである。
雨降らば雨の心になりぬべし風吹かば風に融けて生くぺし
私は世界平和の祈りの中で、すべてとの大調和を願っているのである。
松と毛虫
私の家の門の脇には、俗にいう見越の松というのが植わっている。植えてからもう拾七年にも
なり、立派な大木になって、家の門を飾っていてくれる。しかしながら、私は毎日夜遅く帰えり、
193松と毛虫
朝迎えの車に飛び乗って出掛けてしまうので、松の木があるということは勿論承知しながらも、改秘
めて松を仰いで出掛けるということが少ない。
妻は妻で、リリーと呼ぶスピッツ犬が老衰してきたのと、昨年から家にきた、アイヌ犬の二歳に
みほろ
なる美幌という猛犬の世話で、来客や電話で忙しい上にまた忙しくなり、小さな木や草花の変化に
は気づいても、これまた松の身の上まで眼がとどかなくなっていた。ところが、お恥ずかしいこと
ひん
ながら、近所の人の注意で、はじめて、松の木が毛虫の大群にむしばまれて危機に瀕していること
を知った。私たちはびっくりして、人に頼んで毎日毛虫取りをはじめ、どうやら松の生命は長らえ
そうになってきているのだが、私たちは、折角私たちのために門を飾って、私たちの心を楽しませ
ようとしてくれていた松の木に対して、私たちの心なさが申し訳けなくて、毎日松さんにお詑びし
ながらお祈りしているのだが、ここで今更のように改めて考えさせられることがあったのである。
それは、松の木は松の木で、自己の天命を完うさせることが、なんにしても一番大事なことであ
るのだが、この松の木をむしばんでいた毛虫のほうのことである。毛虫は毛虫で自己の身を守るた
めに、松の葉と同じような保護色をしていて、毛虫取りの人の眼から逃がれようとしているのであ
る。毛虫がしているというより、毛虫をこの世に存在させている、自然の力が、毛虫の生命を保護
して生かそうとしているのである。自然の力は、松の木も毛虫も共に生かそうとして働いているの
である。人間にとっては、松の木は必要であるが、毛虫は必要のない存在なのである。毛虫のよう
に嫌われる、という形容があるように、毛虫は人間にとって嫌われものである。
しかし、人間にとっての嫌われものの毛虫を自然の力は生かそうとしているのである。こうして
なへん
人類にしては矛盾したような事柄がこの世には非常に多い。果して神のみ心は奈辺にありや、とい
むじゆんじねん
いたいところである。だが、私はこの矛盾を、自然に受けることにした。毛虫には毛虫の生かさる
るべき天命があるに違いない。毛虫ばかりではない。蟻でも蚊でも、人類にとって不都合なすべて
の生物や事件事柄も、すべて、神のみ心が真っすぐにこの地球界に現われて、この世が神の世とな
るための、一つの現れであるのだ。だから、すべてを神のみ心を離れていた人類の過去世からの、
誤った想念行為の消えてゆく姿として、消えてゆくにしたがって、すべてが真実調和した世界にな
ってゆくのだ、と私は説いているのである。そこで私たちは、すべての生物の天命の完うされるこ
とを祈り、すべての不調和、不合理が一日も早く消え去り、真実の神の世が実現するように、と祈
りつづけることが必要なのである。
ところで、正義の心の強い人ほど、この世の矛盾に憤りを感じ、静かに祈っているような心の余
195松と毛虫
裕がなく、何やかと主義運動に走ったりするのであるが、この世の矛盾は矛盾のように見えてい櫛
て、大きな眼からみたら、実は矛盾ではないことを、私は霊覚で知っている。だから私たちは、世
界平和の祈りを根本にして、こうした矛盾したように見える世の姿を消し去ってゆきたいと思って
いるのである。
ちなみに十七年間も無事であった松の木に、急に毛虫が増えたことは、様々な公害で、鶯や尾長
鳥までいた我が庭に、雀までがほとんどいなくなってしまったので毛虫はそれらの小鳥に喰われて
しまうことがなくなり、急に増え出したというわけである。人類があまりにも自分たちの目先の都
合だけを考えて、大自然の総体的な姿を考えずに、事を運んでいる利己主義の結果が、大自然のバ
ランスを崩して、かえって人類の不為となってかえっているのである。皆で考えるべきことであ
る。
蝿や蚊がいることでも、人間の生活の不潔さを改善させるために現われているかも知れない。人
間の周囲を清潔にすれば、忽ち蝿や蚊が生まれてこないことは事実だからである。
ともあれ、私も妻も、その日、松の木の天命を祈り、毛虫の天命を祈って、祈りを根本にした生
活以外に、この世の矛盾を解決する方法のないことを、深く思っていたのである。
人間の自由と天変地異
しぐれ
蝉時雨の時もあっという間に過ぎてしまって、台風シーズソともいうべき九月の声を聞くと、暑
さにうだっていたような人の心が、なんとはなく、すっきりとひきしまってくる。
季節の変化は人の心にも生活にも、大きな影響をもっているが、日本の季節としては、九月十月
の季節が、台風の禍いさえなければ、最も快適な働きやすい季節ではないかと思う。ところが、こ
のよい季節であるべき九月十月が、毎年のごとく、台風の災禍で乱されてしまうのは実に惜しい気
がするのである。
一朝にして豊作を潰滅し人間を傷つけてゆく台風の足跡を、人間はただ呆然と見送るばかりで、
197人間の自由と天変地異
なかなか台風襲来を防ぐまでに智恵や力がまわりかねているのが、現在の日本の状態であるが、鵬
これは、政治力によって幾分でも災禍を少くすることはできるのである。しかし、それよりもっと
大事な問題は、台風をはじめ天変地異というものが、どうして起るかということを知ることなので
ある。
天変地異はどうにも人為の致し方のないものである、というのが一般の常識になっているのだが、
私はこの世のすべての出来事は、そのすべてが、人為でどうにでも為し得るものと思っている。
この地球世界の出来事は、すべて地球に住む人間の責任であって、人間以外の何者の責任でもな
い。人間の権利を主張し、自由を主張する限りは、すべての出来事を人間の責任として、人為では
致し方がないなどという、逃げ口上はいえないものである。人間が自分たちの権利だけは主張し、
義務責任は逃れようとしている問は、この人間世界は、真の自由を自分たちのものとすることはで
きない。天変地異はすべて人間の想念行為の誤りの消えてゆく姿として起るものであるので、天変
地異は人為のいかんとも為し得ぬところと、一方で責任をのがれていながら、人間の自由は確保さ
るべきものだといっても、そんな自由は天変地異の前になんの力ももたないタワ言の自由でしかな
い。
人間が真に生命の自由を得ようと欲っするならば、天変地異さえも、自分たちの責任として、天
変地異を起さぬような、神のみ心にかなった想念所業で、この世の生活をしていかなければならな
いのである。
天変地異さえも自由に消滅し得る程の力にならなければ、永劫に人間世界に真の幸福も自由も訪
れないのであるのだから、人間の心に、争いの想いや妬み恨みの想いがあるようでは、やがては戦
争か天変地異の前に地球人類は潰滅してしまわなければならない。
私は、天変地異さえも自分たちの責任と感じる人たちが世界の指導者として起ち上って、真実の
自由とは、その想いが、常に神のみ心の現れである、世界平和、大調和の中に融けこんでいなけれ
ぽならぬものであることを、全人類に教える程でなければならない、と思っている。
人間世界の出来事は、すべて人類自身の想念所業によって起ってくるものであるのだから、その
想念所業を、愛と美と真との神のみ心と等しいものにしてゆけば、神の国そのままの完全円満な、
少しの禍いも起らない地球世界になることは疑う余地のないことだと信じている。
その最もやさしい方法として、私は世界平和の祈りを根底にした生活方法を提唱し実践している
ものなのである。
199人間の自由と天変地異
200
台風によせて
空がどんよりと曇りはじめ、湿った生温かい風が次第に風速を加え、大粒の雨が横なぎに強く地
面を叩きはじめると、人間の心はなんともいえぬ重い恐怖感に覆われてくる。
秋になると、必ず日本を通過してゆく、台風○ 号、○ ○号。
今年は七月下旬から、さきがけの豆台風が、近畿地方から各地を襲った。幸いに被害は少いよう
ヘヘヘヘへ
であったが、七月から十月頃まで、台風襲来の恐怖で日を送るのではたまらない。
、、、、、、、、、
たまらないといえば、この世の中には、たまらないことがなかなかに多いのだが、このたまらな
いことを、消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に入れてしまうのが、私の教えなのである。
台風によって起る被害などは、実際目を蔽うものがあるが、台風一過の青空に激励され、被害者
たちは、勇気を振い起して立ちあがる。全く人間の力というものは大したもので、打たれても叩か
れても、起ちあがる気力がどこからか湧きあがってきて、かえってその以前より素晴しい復興を成
し遂げる。
実際問題としては、災難という災難は一切ない方がよいにきまっているのだけれど、その災難
を、マイナスにしてしまうか、かえってプラスにしてゆくかは、その人々の気力の持ち方によるの
である。
倒れても倒れても起ち上がり得る気力をもっている人は、何事にも必ず大成する。ところが生来
しな
の弱気の人もある。何か事が起るたびに心が萎びてしまって、だんだん衰えてしまう。そうした気
力の弱い人でも、勇気のある人と同じように、強く生きられる方法が一つある。
それは、たゆみない神とのつな演りである。いわゆる祈り一念の生活がそれである。祈りにつぐ
祈りの生活こそ、弱者をも強者に変え得る唯一の方法なのである。
私はそれを、世界平和の祈りにまで高めて、すべての誤った想念行為、あらゆる災害を、自他の
罪にせずに、過去世からの因縁の消えてゆく姿として、そうした想念をすべてもったまムでよいか
201台風によせて
ら、世界人類の平安を祈る、世界平和の祈りの中に入れきる、日常生活をすエめているのである。
台風も実は、人類や国家のもっている、過去世からの業想念の消えてゆく姿として起るのである。
私は台風の影響で、風雨に荒れている庭をみつめながら、その底に限りなく広い青空を想い出しな
がら、神と人間とのつながりを楽しんでいるのである。
202
敬老の日に思う
今日の世界は悪い、今日の社会は悪いと、口さえ開けば、
いが、よくく世界の歴史や日本の歴史を振り返ってみて、
るとよい。
現代社会の悪さを強調している人が多
本当にそうなのかをじっくり確めてみ
私は、昔に比べて日本の社会が、より悪くなっているとは思わない。悪くなっていると言うよ
り、良くなっている部面が非常に多くなっているのを、身に沁みて感じている。日本だけの例をと
ぜいたくざんまい
ってみても、貧富の差が実にはげしく、日夜贅沢三味に暮している人々の近くで、多くの餓死者が
せんごくあしかが
横たわっているといった状態が、足利時代でも戦国時代でも、徳川時代にはいってからでも目につ
いていたのである。それは、封建時代の政治の悪さであったのであり、社会観人間観の無智による
きまま
ものであったと思われる。将軍や大名や武士階級の自由気儘な振舞いに対して、百姓、町人は何一
しよほつ
つ自己主張ができず、自己主張をすればただちに処罰されてしまう。だから支配階級はそういう一
般国民の思わくを少しも考えず、自分達の思いのままの生活をしていたのである。
そういう社会に生活していた一般国民は、何事につけても現代の国民のように自由に振舞えず、
老人になれば家族の者は別れをおしみながらも、一日も早くロベらしのために死んでもらいたい、
と思わざるを得なくなったり、ひどいところになると、ある年令になると山に捨てられてしまうと
いう話もあったくらいである。
それが今日ではどうであろう。年毎に老人対策というものが考えられて、老人が一人になっても
ほそだそ
困らぬよう、細々ながらでも生活してゆけるよう、なるべく無料か、無料にちかい金で病気をみて
203敬老の日に思う
‘もらえるよう等々、なんとかして老人を助けようとして、政府の人達も考え、社会の心ある人達も
考えて、次第によい方向に、老人の幸の道を開いていっている。
昔のように、その身分の階級によって社会生活が異なるというような状態がなく、どんな人とで
も、対等の立場でものが言え、国民として全く一つの取り扱いを受けうるようになっている現代社
会は、人々の人間観がいちじるしく、向上した一つの証左である。
かえり
だから現代の人々は、現社会のあり方に、不平、不満ばかり言っていないで、昔を顧みて、昔と
くら
比べれば随分自由な便利な世の中になったなと、感謝の気持をもつべきである。公害の問題や、国
際聞の問題などは、又別に考えるべきである。
敬老の日にあたって、私はそういうことを考えていたのである。
204
雲
ケ
丘
聖ケ丘の統一
秋から冬にかかろうという、十一月の大気は、一年のうちで最も澄みきった感じを受けるのだ
が、私たち世界平和の祈りの同志の奥の院ともいうべき聖ケ丘の大気は、深山幽谷にも等しい、霊
妙清澄な感じを人々に与えている。
この月の二十二日は私の誕生日なので、私と志を同じくする人々が、この聖ケ丘の道場に集っ
て、誕生祝いをかねた統一会を、毎年行うことになっているので、今年も行うことになるのであろ
うが、この道場での統一会は、集った人々の誰も彼もが、全く純粋な心になりきっていて、神人合
一の輝やかな光りを、宇宙一杯にひびきわたらせるのである。
207聖ケ丘の統一
人間の体というものは不思議なもので、肉体そのものは一堂に坐していながらでも、その本体は082
宇宙一杯に働き得るものなのである。もっとはっきりいえば、肉体が肉体自体に執着した想念行為
で、右往左往と動き廻ってくれぬほうが、本体の真の人間のほうは働きやすいものなのである。
この地球世界の人間たちは、肉体の頭脳や手足を動かしていないと、働いていないような感じを
もっているけれども、真実の働きのできる状態は、肉体頭脳を駈けめぐる想念によって体を動かし
くう
ている働き方ではなく、そうした想念を一度空にした状態、つまり神のみ心に全託した心の状態か
ら働きだした時に、人生に意義ある働きがおのずとできてくるものなのである。
そうした真実の働きができるように、宗教の世界の祈りや統一行があるのだけれど、私たちの統
一会は、その統一状態が、そのまま、人類の浄化のための働きになっている、世界平和の祈りの統
一行なのである。
世界平和の祈りの統一をしている姿は、そのまま救世の大光明の輝やく光を、人類世界にひびき
わたらせている状態になっていることは、数多くの霊能者の心に映じているのであり、脳波による
科学実験においても、明瞭に記録されているのである。
くう
空の状態、全託の心の状態が、人類世界の平和のために、どれだけ必要な状態であるかは、有識
者の間でも次第にわかってきているが、それに加えて、世界平和の祈りによって、救世の大光明と
全く一つになれる統一行の偉大さを多くの人々が知ってくれたら、どれ程地球人類の精神面、物質
面、両面の損害が少くなるかを、私はしみじみ思っているのである。
しかし、この世界平和の祈りの大きな力が、急速に人々に知られてゆくことは、大神様のみ心の
中に、はっきり定められてあることなので、私たちは、ただ、ひたすら世界平和の祈り一念の生活
を送り、その普及を無理押しせずにすすめていればよいということになるのである。
今日も聖ケ丘の統一会をすませ、清らかな明るい大気の庭に仔って、私は同志の人々の、喜悦の
心で今日増築が完了した道場の新しい木の香に感謝の想いを抱きつづけていたのであった。
(昭和三十五年)
209聖ケ丘の統一一
210
自動車
はんらん
近来はすべてがスピード化されてきているが、街中に出てみて、自動車の氾濫には驚かされる。
歳末だからといって急に自動車の往来が繁くなったというわけではなく、毎年自動車族が増えてい
るようなのである。
ところで私は、昔はあまり自動車には乗らなかったが、近頃は非常に多忙なため、自動車に乗る
ことが多くなった。
聖ケ丘の往き帰えりなど以前は徒歩とバスでやっていたものを、今頃は必ず自動車で往復するよ
うになった。これは会員の方のご親切によるものでありがたいと思っている。
ところがいつも実に肩身の狭い思いをするのは、聖ケ丘近くの畠道で、会員のお年寄りや病弱の
身にむち打って、聖ケ丘統一会に来られる方たちの側を通りぬける時である。
いくら自分の乗用車でないとはいえ、前方を足弱な人たちがそろりそうりと歩いてゆくのを、こ
ちらは確かな足腰を持ちながら車中にでんと納まりかえって通りぬけてゆけるものではない。
えみ
私は全くの低姿勢で、顔中一杯笑を浮べて、左右に叩頭しながら通りぬけてゆくのである。申訳
けない気がしてならないからなのである。そして心の底からこの人たちが一日も早く真の幸福の道
に入りますように、天命が完うされますように、と祈らないではいられなくなるのである。
自動車に乗ることが勿論悪いわけではなく、自家用車を持っていることも、別に悪いわけではな
い。ただ自分の優位な境遇になれ過ぎてしまって、自分の立場が一般の人たちにくらべて、どんな
に便利な有難い立場にあるかと云うことを、時折りは思い出して、世界人類の真実の救われのため
に自分の出来得るだけの力を注がなければいけないと思う。
人間はどんな人たちも平等であるべきなのに貧富の差だけによって不平等になってしまうことは
哀しむべきことであるのだ。そこへゆくとうちの会の人たちの中には、貧富の差も地位の差もない
平等な附き合いがつづけられているので、改めて世界平和の祈りの素晴しさが思われるのである。
211自動車
212
新道場完成にのぞみ
ニニろよ
何事も大きく広がってゆくのは気持のよいものである。天を仰ぐのが快く、海に臨むと雄大な気
持になるのは、人間は常に自己が大きく広くなりたい気持を持っているからなのである。
私たちの世界平和の祈りも、日毎月毎年毎に各地に広がってゆき、日本全国、同志のいないとこ
ろは殆んど無いといってもよい程になってきている。近頃では各国語の祈り言葉ができているので
いつの間にか諸外国にも広まってゆきつつある。
元来世界平和の祈りというのは、どこの国の何人でも、なんの把われもなく祈れる祈りなのであ
るが、うちの会のように、日常茶飯事、寝るにも起きるにも歩くにも、世界平和の祈り一念で運行
されている集団は他にはない。こうした会の生き方が世界中に広がれば、すべての理窟ぬきで、世
界中が平和を念願する軌道に乗ってくる。真実の平和世界をつくるのには、まずこうした想念波動
の統一からはじまらなければならない。私はその道の先駆者と自ら信じてこの道一念で歩みつづけ
ている。
宗教団体の白光真宏会が、世界平和の祈りの会と大きく広がってきて、聖ケ丘に統一と講演専門
の道場ができたのは六、七年前のことであったが、つぎ足しすること五度びで現在の大きな構えに
なってきたのだが、それもはや手狭になり、今度改めて新道場構築の運びとなり、同志一同の心か
らの御協力によって、八月光日落成となった。
この道場とて千五百万円程の建築費なので、他の宗教団体の何億何十億という建築とは異なり、
あまり飾り気のない、各種の施設のない簡素なものではあるが、私の念願である多勢の人が入れる
道場という希望は叶えられて、建坪二百数十坪の殆んどが統一会場になっているのである。
ところが、落成記念日の集会では、もう前から後までぎっしり一杯という有様で、落成記念日早
々、またその次の建築の話が出る始末であった。
こうして世界平和の祈りが着々として広まってゆくことは、なんといっても嬉しいことで、この
213新道場完成にのぞみ
日は神々が特に多く集まられ、光明燦然と祝福して下さっておられた。私たちはこうした神々の祝
こた
福に応えて、ますます平和の祈りの宣布に精進し、一方では旧館をそのまま専用の研究所として使
用できるようになった宇宙子科学の研究に、身を粉にしてでもぶつかってゆくつもりである。
世界が一日も早く平和になりますように、改めて皆さんの御協力に感謝する次第である。
(昭和三十九年)
214
いくしゆうあん
呈修庵の庭にて
地球世界の混乱の治まる気配さらになく、ますます激化している今日、私は世界平和の特別の祈
りのため、聖ケ丘呈修庵に籠って、日夜を限らず祈りつづけているが、その祈りの行の合間には、
時折り庭に出てみる。
聖ケ丘の庭は、長年にわたって、素人ばなれした庭づくりの上手な、田中勇吉さんという人を中
心に、職員や奉仕の人たちの協力で、次第に形がととのってきた。中には庭づくりの奉仕をしてい
るうちに、体の非常に弱かった老婆が何人か健康そのものになってしまった話まである。
私が種々な花が好きなので、豆修庵の庭は樹木や池や石などの配置の邪魔にならぬ限り、草花も
たくさん咲くようになっている。いちいち名前を聞いては、すぐに忘れてしまうが、可愛いい小さ
な花々が歩いてゆく足下に小首をかしげて咲いていたりすると、なんともいえず、愛らしく、いじ
らしい。
今朝も庭を歩いていると、今迄気づかずにいた場所に、寒紅梅のつぼみが三つ四つ五つとついて
いて、中にはあどけなく紅の口を七八分開いた花片もあった。また背丈けの低い、幼い木なのに、
セぜん
せい一杯、自分のいのちの花を咲かせようと、寒風の中に毅然としている姿は、雄々しくもいとお
しく、よくやっているね、美しいね、と思わず口に出してしまった程である。
私はその幼い花に掌をかざして、私たちを慰めてくれてありがとうよ、と心から礼をいって、そ
ほほえん
の場から歩みをうつしたが、花の妖精が、嬉しそうに微笑でいるのが心に残ってはなれなかった。
215呈修庵の庭にて
こんなに機れのない自然のいのちを、人間の欲望に充ちた想いが、常に汚しているかと思うと、
神様に申し訳けない気がしてくる。もっともそのための私たちの世界平和の祈りなのだから、花の
心を汚さぬためにでも、世界平和の祈りは必要なのである。
人間の心の汚れを、すっかりはらい浄めて、自然と人間の気の交流がすっきりとなされるように
なった時、万物すべてが生きいきとしてくるのであろう。やがてまた私は部屋に籠って祈り一念の
私に入っていたのである。(昭和四十七年)
216
池の鯉
私は毎朝、道場の庭を一廻りすることにしている。
いくしゆうあん
呈修庵を出て、道場の正面までくると、道場
∠
の左端に大きな四角い噴水の音の絶え間ない池があって、そこには真鯉に緋鯉に変り種の大小数十
匹の鯉がいて、訪れる人々の心を和ませている。
私はこの鯉たちに餌をやるのを楽しみにしていて、毎朝の散歩は、この鯉の朝食からはじまるの
である。
ところが、その道の専門家のいうところによると、鯉は大体水の中の微生物だのこけだのを喰べ
ていればよいので、あまり餌を多くやらないほうがよい、ということなのである。
しかし実際餌をやってみると、池の側に私が近づくのが気配でわかるのか、さあーと先きを争っ
て鯉たちは私のいるほうに泳ぎよってくる。
もう水面にまで身を乗り出して、可愛い口をしきりにばくばくさせる。餌を水面にばらまくと、
まるで餓えてでもいるように、重なり合って餌のほうに口をもってゆく、水しぶきがすさまじく私
のほうにはねかえってくる。
毎朝餌をやりにくるといったが、雨の日だの用事のある日だのは、餌ぬきになってしまう。前日
餌をやらなかった日などは、その餓え方が物凄い感じである。素人の私には、こんな少い餌のやり
方でよいのか知ら、と思うのだが、餌をやり過ぎると、体の色が悪くなってしまうし、健康にもよ
217池の鯉
くない、と専門家はいうのである。18
2
そういえば、樹木の場合など、花がつき過ぎるといけないといって、これから美しい花が開くと
いう蕾を、惜し気もなく枝ごと切りとってしまうのが植木屋さんなのである。私など一枝でも余計
花が咲いているほうがよいし、折角咲きかかった蕾など、とても切る気がしない。
動物を育てるにも、樹木の手入れにも、私のような性格のものは不適当なのかも知れない。動物
や樹木の将来ということより、現在眼に触れている状態に重点を置いて、餓えているようで可哀想
だ、折角咲いているのに可哀想だというようになってしまうからである。
それにつけても、世の父母たち、なかんつく母親たちの子育ての状態は、私が鯉や樹木にもって
いる感情のようなものでやっているのではないか、と思うのである、その場その時々の子供へのご
機嫌取りや、愛情過多のいたわりなどは、その子の将来をマイナスにしてしまうだけで、立派な子
供教育ということにはならないのである。
今日の学校では、数学や科学や英語という技術面の勉強だけで、人間そのものの生き方というこ
との指導がなされていないのだから、せめて家庭で、人問の本質的生き方を教育しなければ、これ
からの青年は心の凸凹の頭でっかちの人間にばかりなってしまうのではなかろうか。
池の鯉に餌をやりながら、私自身をたしなめながら、こんなことを考えていたのである。
(昭和四十九年)
夕暮のあじさい
いくしゆうあん
林の空が夕陽に輝いている美しさをみつめながら、門内に入ると、呈修庵への道の両側に、この
世の憂いを秘めたようにひっそりとあじさいの花々が咲いている。
いっみてもあじさいの花の色は不思議な色で、この世のものと思えぬ夢うつつのごとき色が、し
かもいろくと変化して咲いている。幽幻という言葉が正にぴったりする花の色である。
まして夕暮の空のいろをみていると、あじさいの花の心がうつし出されてみえてくる。地球の業
219夕暮のあじさい
を純化させる日々の祈りに明けくれる、私の心には呈修庵の庭の木々や小鳥や花々の存在が殊更に脚
有難く思われる。梅や桜や木蓮のように、素直にそのまま私を喜こばせてくれる花もあるが、この
あじさいのように変に人生を考えさせる花もある。あじさいとは全く複雑な心の花である。
少年の頃、浅草の片隅で育った私は、庭という庭をみたこともなく、ごみくと建てこんだ家並
の多い町しか知らなかった。その反動とでもいうか、私は自然にあこがれ、庭木々に心をひかれ
た。
毎夏休みを越後に旅し、きまって一ケ月以上も父の故郷で過していたのも、自然にひかれる心の
せいであった。毎朝のように、近所のお寺の庭ですごしていたが、周囲を巨木に囲まれたその寺の
広庭に寝ころんでいるのが、こよなく楽しかった。だがその寺庭の巨木も大方は切り取られ、池を
囲んで咲いていたあじさいの花も私の頭の中では咲いているが今はもうないという。
むモじ
その間数十年の年月が経っているのだが、六十路に近い私は、世界平和実現という、大きな現実
きようじゆ
問題に取り組みながらも、少年時の夢を今、現実の情景として日々亨受していられる幸にあるので
ある。
おもまわ
池の面に咲いていた水蓮の花は夕暮にはしぼんでしまうけれど、池の囲りのあじさいの花は、夕
あや
迫る程その真価を現わしてゆくように妖しく咲いていた。(昭和四十九年)
冬の鯉
木枯吹きすさぶ厳冬の時季ともなると、平和の祈りの光の波の中で生きている、聖ケ丘道場脇の
さすが
池の鯉も、流石に滅多に水の面に顔を出さず、大きな岩の陰に身をひそめている。
時折り私がいって、掌をかざすと、特別な光の波動を感ずるのであろう、岩陰から次々とその姿
を現わし、口をばくくさせながら水面に顔を出してきたりする。鯉は冬のうちは、殆んど餌も食
べずに、岩陰にひそんでいるようで、姿を現わしても、睡ってでもいるように、水に漂っている状
態である。
221冬の鯉
・.暫く私の掌から光を放射させて、私は池の側を離れてゆくのだが、生き物は鯉によらず、小鳥に
よらず、犬猫によらず、愛らしいものである。
朝な朝な部屋の窓を叩いて、私を起しにくる小鳥の声の愛らしさ。この人は自分に食事をくれる
にきまっていると信じきって、しきりに大声を挙げて、食事を催促する本来は野良ちゃんである猫
の親子兄妹。
用事の無い時は、自分と遊んでくれるのが当然であるというように、吠え立てる、アイヌ犬、美
幌号。危うく保健所行きで生命のなかった捨て犬ハッピー嬢の、今は処を得たというように構え
にら
て、睨みをきかす玄関番ぶり。
こういう愛らしい生き物より更に大事な生き物は、人間様である筈なのだが、この生き物、近頃
次第に愛らしさを失ってゆく。神様からごらんになったら、鼻持ちならぬ小生意気な態度で、自分
たちの権利や主張だけを言い張って、人類全体の調和など、そっちのけにしてしまっている、個人
と国家民族。
神様が愛したくとも愛せなくなってしまいそうな人類の態度は、神様のみ心に少しでも近よって
いる人間からみたら、危っかしくて仕方がない。自分たちの掘った墓穴に、自分たちで飛びこんで222
しまいそうな状態なのである。
人類はもう一度、動物や植物のように、生かされたいのちのままに、素直に生かして下さってい
る大きな力にすがって、自分たちの世界を建て直さなければいけない。神様からみて、愛らしい人
間にもう一度立ちかえらなければいけないのだ。そのためにも日々の世界平和の祈りの宣布が大切
である、と私は思っているのである。(昭和五十年)
223冬の鯉
行雲流水
‘
白光誌発刊五周年にあたり
私が、私という個人のすべてを、神様にお返えししてしまって、はや十数年。市川に定住しても
う十年になる。個我というものをすっかり神の中に入れてしまうと、実に楽なものでみ心のままに
生かされてゆくことが、そのまま自我が生ききることになり、天命を完うして生ききってゆくとい
うことにもなる。
こううんりゆうすいじねんほうに
行雲流水という言葉や自然法爾という言葉のように、私の一挙手一投足はすべて神のみ心によっ
てなされていることが、私自身にも、私について来られる人々にも、みな一様にうなずけられるよ
うになってきたのは、やはり十年の歳月のしからしむるところでもあろうか。
227白光誌発刊五周年にあたり
私が市川で教導をはじめてから数年の間、宣伝紙も機関誌も一向に出さないので、信者さんの中282
では、お浄めや当てものは先生の得意なことであっても、文章を書いたり教えを説いたりすること
は、不得手なのだと勝手に解釈して人々に話しておられた方もあった。
あぜ
神のみ心というものは、常に先々まで見通しておられるので、自己宣伝をさせたり、焦って機関
誌を出させたりすることではなくて、一番適当な時機に適当な方法を講じるように自然になさしめ
るのであることを、私は体験として熟知していたし、私の心には肉体人間的想念というものは全然
なかったので、誰が何んといおうと、別に気にかからず、苦にもならなかった。
ところが、急に「神と人間」を出版することになり、それについで、肉体的想いの中には、何ん
の計画もないのに、突然というように、白光誌が発刊され、機関誌になってしまったのである。
そんな無計画で雑誌をつづけてゆけるかしら、という妻の不審そうな顔に微笑をむけながら、白
光誌は本格的な神誌に次第に形づけられてきた。
「天と地をつなぐ者」にしても、「阿難」(釈迦とその弟子) にしても、ぶっつけ本番という書
き方で、ペソの動くままに書きつづけて、阿難などは遂いに三年も連載することが出来、出版され
た今日になって、不備なところも多々あるが、私のような立場のものでなければ書けない、人の為
6
になる本が出来た、と心億しい次第なのである。
編集の高橋君も、いつの間にか隠されていた自己の才能が表面に現われてきて、どうやらいっぱ
しの編集者になってき、この五年間の白光誌の発行によって、救いの道に入れた人々が相当な数に
のぼってきたことは、やはり、雑誌や図書というもののもつ指導力の偉大さを改めて感じざるを得
ないものであった。
ともあれ、現象的には私にお会いになれない地方の方々でも、私の教え、私の生き方が、かなり
くわしくわかって頂ける白光誌のあることは有難いことである、と私はそう思いながら、毎号の文
章を書いているのであるが、近頃は斎藤さんや村田さんやその他の人々が、それぞれの立場で、真
理を書きつづられるようになったことも、嬉しいことであって、白光誌のもつ意義が、ますます重
大であることを感じさせられる。
春夏秋冬、それぞれの季節がそれぞれのよさをもちそれぞれに大事であるように、人間一人一人
が、それぞれの持ち味をもち、それぞれの天命をもっているのであるから、皆さんも白光誌を通し
て、各自の本心を開発し、それぞれの特徴を発揮して、世界人類救済の一つ一つの役割を果して頂
きたいものである。
229白光誌発刊五周年にあたり
その根抵はやはり、世界平和の祈りの中に日常生活を投げ入れて、日々新(神)生の気持でこの
世の生活を送ってゆくことが大事であると、私はこのペンを取りながら、しみじみ思うのである。
(昭和三十四年十月)
230
白光百号をむかえて
白光も今月で百号を迎えることになった。短かいようで長かったし、長いようで短かくもあった。
九年前に高橋君と松浦君たちが、雑誌を発行したいが、白光とつけてもよいか、と相談にきたの
で、君たちの好きなようにやりなさい、と答えておいた。はじめは若い人たちの文芸雑誌のような
の
形ではじまったこの白光が、三号から私の話と、自叙伝を載せるようになり、やがて年月を経て、
次第に内容が充実してきて、今日のような白光誌にまで成長してきたのである。
昔を考えると、実に恥ずかしいような雑誌だったが、今日では全く神誌とでもいえるような、大
光明誌になってきている。
じねんほうに
私のやり方は、すべて自然法爾で、会員の人たちのやりたいように任かせて、私はその流れに乗
って、自ずと自己の立場が定まってゆく、というあり方である。
だから白光の発行でも、会の運行でも、私がとやかく指図してやってゆくというより、誰がどう
いうとでもなく、自然に現在の形になってきているのである。
会をはじめて暫らくは、ただ個人指導だけをしていた私をみて、生長の家関係の人たちは、私が
文章も書けず法話も出来ぬ、単なる当てものやのように思い違いをしていたようであったが、〃神
と人間〃の本を書き、白光が発行されて、種々と文章を書いたり、法話をしはじめたりしたので、
私を改めて見直したようなのである。
尤も白光誌発刊以前の私は、素晴しい? 当てもの上手であったらしく、未来の予見を、相手か
まわず、ずばりずばりとやってのけていたようであった。
例えていうと、人に迷惑ばかりかけている不良者が、ある人にもう耐えきれぬような悪事をする
231白光百号をむかえて
ので、その人が泣きの涙で私に相談にきたことがある。その時私は即座に、なんの心配もいらぬ、
その不良者は、何月何日の何時何分に汽車にひかれて死んでしまうとはっきり予言したのである。
ところがその通りに、一分違わずその不良者は死んでしまったのである、というような工合だった
のであった。
そんなことで集った人々だから、私の真の力、世界平和を築きあげる大光明力の在り方など知り
ようもなかったのである。それが年月を経るに従って、私が当てものやの範囲から、真の宗教の道
への本道を歩みはじめたのであるから、集ってくる人々の範囲も当然それに従って急速に変ってき
て、今では、世界平和を念願する人々の集りと、大きな変化をしてきているのであり、白光誌の発
展はそのまま世界平和の祈りの発展となってきているのである。神のみ心の地球界に正しくうつさ
れるための大きな力である、白光誌の発行部数がますます多くなるよう皆さんの御協力をお願いす
る次第である。(昭和三十八年二月)
232
結婚式に臨んで
先日編集部の高橋君が木下藤子さんと結婚した。高橋君は白光誌発刊当初からの編集者で、瀕死
の重病から起ち上って晴れの日を迎え得ることができた人である。
人間の運命は一体どこに分岐点があるかわからぬもので、高橋君の場合などは、正に私のところ
に縁があったことが、重大な運命開拓となったものといえよう。そうした体験談の詳細は〃新しい
朝〃に掲載されているが、常識的な考え方からすれば、実に不思議に耐えぬような事実である。
ところで、高橋君の結婚式当日は、前日までの悪天候がまるで嘘のように思われる、麗らかな春
日和となり、高橋君の今日までの献身的神業への奉仕を、賞め讃える諸神善霊の慈愛の眼ざしに輝
233結婚式に臨んで
やくような光の色に、街中はいうどられているのであった。刎
いわいきやく
大概の結婚式には、義理はりつくで参加している祝客がかなりいるものであるが、この日の結婚
式にはそうした参加者は一人もおらず、全くの心からの祝客ばかりで、各人の祝辞も誠が籠ってい
て実に快かった。’
結婚というものは、守護の神霊のむすびつきによる結婚もあれば、業因縁の消えてゆく姿とLて
の結婚もある。私自身は、守護神の命のままに、人間的常識ではとてもできそうにもない手段方法
た
で今目の結婚をしたのであるが、十数年経った今日になってみて、私の結婚が隔私の宗教の道の上
において、大きなプラスになっていることを、はっきり認めることができるのである。
高橋君の場合は、今度は私が守護神そのものになって結ぼせた結婚なのであるから、必ず御神業
の仕事の面においても、この結婚がプラスになってくることを信じているものなのである。
これから結婚なさる方々は勿論であるが、もうすでに結婚されている方で、消えてゆく姿の方の
結ばれと自分たちで思われているような方々でも、守護の神霊は、常に貴方たちの身近において貴
方たちの開運のために働きつづけておられるのであるから、そうした守護の神霊の働きかけを忘れ
ずに、感謝の想いをいつでもその方にむけていることが必要である。その一番最善の方法として世
界平和の祈りがあるのだから、常住坐臥世界平和の祈りの中に自分たちの想念を入れておけば、消
えてゆく姿の結婚生活でさえもが、守護の神霊の結ばれである結婚生活にと変化してゆくことが多
々あるものである。
こうした体験も私はかなり聞かされたり、みせられたりしているのである。
天地の結合と等しい人間の結婚生活の輝かならんことを、私は高橋君の結婚式に臨んで、全家庭
人のために祈らずにはおられなかった。(昭和三十五年四月)
苦手を克服するには
.私は元来、音楽や文学畑の勉強をしていたので、数学や化学の学問は、至って苦手としていた。
235苦手を克服するには
ところが、宇宙子科学の研究がはじまってきて、今では、数学や化学の勉強が絶対に必要になって
きた。
歌を唄ったり、文章を書いたり、宗教理論を説いたりすることなら、日常茶飯事のことのよう
に、何んでもなくできるのだが、数学や化学の勉強となると、みなれぬ楽符をみせられたような工
合で、しばしば戸惑ってしまう。
ところが、宇宙子科学の数式となると、10に0が80も90もつくようなものがたくさん現われる。
数をみる眼がなれないと、どうにもならない。従って、地球科学の種々な学問を土台にしてみっち
り勉強しないわけにはゆかないのである。
いわば、こうした土台がなければ、宇宙子科学の真髄には一歩も進めない状態になってしまう。
絶体絶命といった形である。やらねばならぬ学問となれば、苦手などとは云っていられない。そこ
で私たちは肚をすえた。私たちと云うのは、側近の研究員の高橋君はやはり文章畑の人であり、昌
美も国文科出身であるからだ。
そう肚がきまると、いつの間にか苦手という気持がすっかり消えて、数式も化学方式も吸いこま
れるように頭に入ってくる。そして今では数学や化学の勉強が楽しくて仕方がないくらいになって
聯
きた。それにつれて、宇宙子科学は急速に進んできた。もう少しで、地球科学では判然としなかっ
た、根本理論がはっきりしてくる。
ここで私が皆さんにいいたいことは、苦手を克服するには、その事柄が、自分にとって絶対に必
要な事柄であることを認識することである。絶対に必要だという認識が起ってきたとき、はじめて
苦手は消滅するのである。
学問の世界もそうであるが、人生万般もその通りであって、必要性を認めたことに人間は懸命に
なるもので、懸命になればどうしてもその仕事は上達する。
世界平和の問題でも、この世の中で、なんにもまして絶対に必要なのは、世界の平和なのだ、と
いう認識に起った時、各人の生活も世界平和を根本にしての生活になってくるに違いないのだし、
どうしたら世界が平和になるかという問題に真剣になってくるに違いない。
そういう認識に人々を起たせる為にも、私たちは世界平和の祈りの運動を、何事にも優先してし
つづけなければならないと思う。
世界人類が平和でありますように
この一行の祈り言に世界人類の多くの人々の想いが集中した時、世界人類の平和はそこに大きく
237苦手を克服するには
道を開いてゆくのである。(昭和三十八年十一月)
238
科学的ということ
世人は兎角科学的ということを重視する。科学的とは現象のデーターを綜合したり分析したりす
る態度をいうのだと思うが、宗教の世界には、現在の科学ではどうにも判別出来得ぬ事態がしばし
ば起っている。
いわゆる科学的態度で処しようにも処し得ない事実もかなり多くある。私などのように、人の心
がそのままわかったり、まだ会ったこともない人の性質や体の状態がはっきりわかったりする人間
は、もうすでに科学的な秤にはかからない部類に属する。
しかし私は、宗教討なことも、出来得る限りは常識でわかるように、科学的に説明できるように
と心がけている。
今度宇宙人との交流が本格的になってきて、宇宙人の姿を、科学的に多くの人々に知らせなけれ
ばならぬ段階になってきたので、一枚一枚の写真を撮るにも厳密な点検の下に撮っているし、撮影
された写真も、専門家に種々と調べて貰い、駄目押しの上で、これは正しく、私の霊光である、或
いは不思議な科学的には判らぬ現象である、と云うようにして発表している。
四月号口絵写真の私が霊光になりかかっているものや、円光になってしまったもの、または宇宙
人の光体写真なども、光が入ったためのものではないかと、ネガを厳密に調べたりしても、科学的
な反論が成り立たぬので掲載したようなものなのである。
今月号には多分もっと不思議な写真が載ることと思うし、またこれからの世界は、急速に現在の
科学では割り切れぬ不思議な事態が繰りひろげもれてゆくと思われるが、そうした不思議と思われ
る事態も、次第に科学が進んできて、いわゆる科学的な解釈がつくようになるのであろう。
これから私たちのやろうとしていることは♪ 恐らく、科学的な解釈をはるかに超えた超現実的な
様相を呈してくることであろうが、それさえも、やがて科学的に判明してゆく事柄になってゆくこ
239科学的ということ
とであろう。
私たちは常に常識と云うものを大事にしているけれど、地球世界の現実をより立派にしてゆく為
には、どうしても現実を一歩進んだ、常識を超えた行動をしてゆかねばならぬことと思う。宇宙人
との交流の問題など、その最たるものであるのだ。
科学的と云う言葉が、急速に高められ、広められるよう、私たちは切に願ってやまないのであ
る。(昭和三十七年五月)
脚
み心のままに
み心のままに、という言葉が、私は非常に好きである。野山に咲き盛っている花々など実にみ心
ヘヘへ
のままに、そのいのちを生ききっていて、人間の生き方の手本のような気がする。
先頃から私が預って霊修業をしている二人の乙女がいるのだが、この乙女などは、種々様々な普
通では味わうことのないような苦痛を心身共に味わっているが、殆んど不平不満をいったことがな
い。彼女らは、私から言葉で教わる他に、守護の神霊の、内部からの教えを受けることができるの
ヘヘへ
だが、この神霊は、くどくどとくだらぬ枝葉の教えは決してしないで、特別の時以外は常にみ心の
ヘヘへ
ままにというのである。
なか
妻などは、知性派なので神愚り現象には、かなりうんざりさせられているので、霊能に対して
は、批判的であるが、二人の乙女の守護の神霊の教え方には非常な好感をもっている。その第一は
み心のままに、という教え方がよいというのである。
後になれば自然とわかるような、どうでもよい枝葉末節の予言などは、妻の心を打たないが、み
心のままに、というような根本的なことを常に教えるような背後霊ならば、必ず立派な守護の神霊
であるに決っている、というのが、彼女の見解なのである。妻は勿論なにかと私に口出しするよう
な女性ではないので、一寸したロの端にその意見が漏れただけなのである。
私も妻の意見には全く賛成で、霊覚をもってしないでも、その教え如何によって、その人の背後
241み心のままに
たやす
霊の高低を見るのは容易いことなのである。そうした知性が、霊能的な人たちにも是非欲しいもの姐2
である、と私はしみじみ思っているのである。
神の大愛を信じ、すべてを神に全託でき得るような人なら、絶対といってよい程、変な霊能には
ならないが、奇蹟的なことだけを好んだり、自分を誇りたいような気持を持っている人たちには、
霊能のあることが、かえってマイナスになることが多分にある。
霊能的素質のある人程、常に自己の心の在り方を顧み、神のみ心に全託する境地まで、いち早く
自己を高める努力を必要とするのである。
知性と直感とが融合した人格こそ、これからの霊能者の資格ともなるのである。
み心のままに、という言葉でも、神のみ心のままに、というのであって、業想念波のままに、と
いうのではないことを、よくよく考えてみなければいけない。(昭和三十七年六月)
その場その時を活かせ
かしわでいん
今年も二月に入ってから、私の浄めの方法が大分変ってきて、今までは柏手と印によってなされ
ていたものが、急に、口笛と声を主とした浄めになってきた。
今日までやってきた柏手の浄めは、ラジオでの放送の時の、その道の博士の科学的データーによ
ると、普通人の二百倍のエネルギー量を放射するひびきだ、と発表されていたが、二月以来私の体
を通して放射される光明波動が急速に増大してきて、個人指導時においての柏手の浄めはその放射
する光のひびきが強すぎて、相手のカルマが一度に浄め去られるので、そのショックを与えぬ為
に、もっと光の波動を柔らげた、口笛と声のひびきによる浄めがなされるようになったのである。
243その場その時を活かせ
私のすべての行動は、神のみ心と私の意志とが、自ずと合致したところから生れてくるので、何必2
ひら
らのたくらみも計らいもなく、自然法爾に進んだり展けたり、変化したりしているので、まことに
のどかな大らかな明るい生き方となっているのである。
口笛や声のひびきによる浄めに変化したことなども、私が若い時に声楽の勉強をしていたことが
充分に生かされて、浄めに大いにプラスしているのである。
専門家としてステージに立たせたわけでもないのに、貧乏人の伜の私に、何故、あのように懸命
わざ
に音楽の勉強などさせたのか、と思っていたが、今になって、神のみ業として、その時代の修練が
このように役立つようになろうとは、その頃の私の察知すべきもなかったことで、今更ながら、神
のみ心の用意周到さに驚嘆させられるのである。
考えてみれば、私が少年の頃からやってきた、諸々の苦労は、すべて今日に役立っていることが
改めて思われる。この事実は私だけのものではなく、世界人類の何人の上にも証明されることなの
で、神の遠大な計画性に託せきって、現在おかれている環境の今の一瞬一瞬を大事に生きてゆくこ
とが必要なのである。
たとえそれが、如何なる悪い環境であり、嫌な事柄であっても、その人が、神のみ心に入る祈り
の生活をしていさえすれば、その環境は後になって、その人の為に必ず役立つようになることを、
私は私の経験をもってはっきり証しするものである。
神は大愛であり、大智慧者であって、人類のみ親である。何んで人類に不幸を与え給う筈があろ
カルマ
う。今人類が、悪や不幸の中にあるように見えるのは、神の大愛のみ心から離れていた業想念が、
人類の真性を顕現するために消え去ろうとしている過程にあるからなのである。だからその業想念
を一日も早く消し去るための世界平和の祈りが必要である、と私は叫びつづけているのである。
(昭和三十七年七月)
245その場その時を活かせ
246
何事も練習によって上達する
数字をみることが最も苦手だった、芸術畑の私が、宇宙子科学がはじまってからは、どうしても
数字に親しまなければならなくなってしまって、といつだかの原稿にも書いたけれども、数字をみ
るだけならまだしも、宇宙子科学には、数学が絶対に必要なのであり、次々と数式が出てくるので
宇宙数字やその記号と、地球数字の入りまじった代数の計算を毎日のようにやっている。
きようみしんしん
近頃では宇宙科学独特の方程式をやるのが、実に楽しく、興味津々としてやっている。興味でや
っているからそう疲れもしない。この数式はますます複雑になってくるのだが、複雑化すればする
程、興趣が一段とつのってくる。
ところが問題は研究員が全員集まっての、研究発表会の時で、どうしても私がその講師をつとめ
なければならない。黒板に楽符ならぬ数字を書きならべて方程式の説明をするわけだが、聴講生の
ほうに専門家が多くいるのだから、この新米先生、聴講生の質問のほうにかえって耳を傾けてしま
い、成る程成る程そういう考えのほうが正当かも知れない、などと、どちらが先生だかわからなく
なってしまう。
そこで折角宇宙天使から教った方式に、種々と疑問をもちだしたりしてしまう。しかし、次の瞬
間には、宇宙天使のほうから私の心に、その式はそれでいいのだとか、あなたのその答でよいの
だ、とか即座に注意が伝わってくる。そこで、私の講師ぶりも、どうやら、あまりぼろを出さずに
済んでいる、といった工合である。
こうして数字や記号をみなれ、プラス、マイナスの計算にもなれてくると、大学出たての昌美嬢
には計算速度は及ぼないが、どうにか調子をあわせて、次々と答を出していけるようになってきた。
聞くところによると、・事務局長の斎藤さんも、六十に近いお年頃もなんのその、一生懸命? 涙ぐ
ましき勉強をしているとか、何事も練習、何事も努力、と今更に思っているのである。
(昭和三十九年七月)
247何事も練習によって上達する
蹴
断食
宇宙子波動生命物理学の研究メソバー全員の、精神と肉体両面にわたる浄化のための断食行がは
じめられた。期日はわずか三日間ではあるが、一年間では一番暑い季節の八月中のことではあり、
三日間水分だけで通常と同じ仕事をつづけつつやるのであるから、短期間の断食ではあるが、相当
こたえる修業であった。
この三日間で又改めて感じられたことは、人間の想いというものが、いかに肉体に影響を及ぼす
かということであった。メンバーの一人などは胃腸があまり丈夫でないので、二食や三食ぬきでい
ることがしばくある人なのだが、三日間は食物を摂ることができないときまると朝食をぬいただ
けで、もう何んとなく体から力がぬけたようだといい、二食ぬいて働いた夕方には、もうげっそり
して目まいがするといっていたりした。
胃腸の具合で喰べたくなくて喰べないのは、いつでも喰べられるという心のゆとりがあるので気
持が食物に把われていないし、不安な想いはないので、体に影響することが少ないのだが、三日間
喰べられないという気持と、喰べたいのに喰べられないという想いが、不安感を起して、体に大き
く影響してくるのである。喰べないという事柄は同じでも、想念の状態が違うと肉体への影響がこ
んなにも相違してくるのかと思うと、人間の想いというものは実に肉体にも運命にも重大な役目を
もっているものだと、今更ながら思わされるのである。
私が二十年程前に、ニヵ月余も殆んど生水やお茶だけで宗教運動をやっていたことがあったが、
その時の私は神にすっかり生命を投げ出し切っていた時であり、肉体というものから全く想いが離
れていた時なので、そんなことができたのであろう。想念の在り方、在りどころによって肉体の状
態も運命の方向もどうにでも展開してゆくものなのである。
たいぼう
だからといって、現在の日本人に戦時中の耐乏生活をやれといってみたところで、実際にそうい
う状態になった時でなければ、あの真似のできるものではない。
食
249断
想念の習性や在り方というものをよく研究して、その国の人々を自ずと国政に順応させてゆくよ
うでなければ立派な政治とはいえないのである。日本の政治は果してどうなのか、想念の流れとい
う、こんな重大なことをないがしろにしての政治などは、真実の政治とはいえないことに今後はな
りてゆくことであろう。(昭和四十一年九月)
250
植芝盛平翁の昇天
合気道創始者植芝盛平翁が、去る四月二十六日昇天された。翁は私とは非常に親しい仲で、肉体
的にはそう度々お会いすることはできなかったが、霊的には常に交流しあっていて私の仲間の人た
ちが伺うと、心から懐しがられ、私と一緒に写した写真をみせては、「五井先生はいつも私と一緒
にいらっしゃる」と例の鋭い眼が、にこやかな柔和そのものの眼になってしまわれる、という話で
あった。
昇天の日が近づかれた頃は、体のご不自由なのもいとわず「五井先生のところへ案内してくれ、
今から市川へ伺う」と会の人の顔をみると、子供のようにせがまれたそうである。
植芝先生は、武道修業の極致から、霊覚を得られた方で、天地の理法をはっきり知っておられ、
人の心を見透すことは勿論、その人の霊位までも見極められる方であって、私との初対面から「五
井先生は祈りの御本尊であり、中心の神の現れである」といわれ、私が植芝先生を上座に据えるの
を、自ら下座に坐わられ、若輩の私に上座をすすめられたりせられたものであった。真理に徹して
おられぬとなかなかそういうことができるものではない。
植芝先生の肉体というのは、普通人の肉体ではなく、神霊そのものの体であって、宇宙の根源に
統一できる体であった。だから、八方から槍で囲んで、同時に打ってかかっても、打ってかかった
ほうが、まるでわざと倒れるような格好で、一度に倒れてしまい、当の植芝先生は、小ゆるぎもみ
えぬそのままの状態で立っておられる。その状態はもう技というのではなくて、翁の肉体が透明に
なり切り、宇宙大に拡がってしまっている状態なのである。
251植芝盛平翁の昇天
そういう真の姿を知っているのは私だけかも知れない。翁はいつも、「私のことを真実に知って
いるのは五井先生だけだ」と高橋君などによく話されていたという。私が神人植芝盛平翁を讃うと
いう詩を、大きな額にしてお贈りしたら、それが嬉しくてたまらぬらしく、来る人ごとに私の話を
してきかせていたようである。
昇天一ヶ月位前に、昌美と一緒にお見舞に伺ったら、ちょうど病院から帰って来られた直後で、
昌美が掌を背中に当ててお祈りすると「魂の立派なお嬢様だ、光がよ1通る。よー通る」と大変喜
ばれ、大分体の痛みが和らいだようであったが、天寿はいたし方なく、神界に昇ってゆかれてしま
った。昇天された日に新聞の写真を通して、私の体にうつって来られたが、その姿は、猿田彦命そ
あめのむらくもくき
のままでもあり、天叢雲九鬼さむはら竜王と常に翁がいわれていた竜王の姿でもあったが、神楽舞
を舞われつつ、私の印の中に融けこんでゆかれた。その時、「祈りによる平和運動に全面的に参加
する」というひびきを伝えてゆかれたのであったが、今この原稿を書いている私の体の中で、にこ
やかな笑顔をむけられているのである。
この世に再び現われるとも思われぬ、不世出の武人霊覚者は、この世とあの世の人々を、宇宙法
則のひびきに乗せるため、救世の大光明波動の中で、大いなる働きをつづけてゆかれるのである。
魏
ほこ
翁が開かれた合気の道は、全く世界平和の道であって、真の武とは、才を止めるという文字の示
す通り、戦争や争いを止める道なのである。植芝先生こそ、正に世界において、はじめて武の奥義
に達した人というべく、昇天して私と共に平和運動に働かれることも、すでに神界において定めら
れた道であったのだろう。植芝盛平先生の神界における今後の活躍に期待すること大なるものがあ
る。
大いなる合気の神の加はりて平和の祈り光りいや増す
(昭和四十四年六月)
253植芝盛平翁の昇天
年末年始
年末の言葉
今年はもう十二月。この年の十一ケ月が、すでに過去となってしまって、どこかへ消え去ってし
ひとつき
まい、残るは一月ということになってきた。
今年中での一番深い想い出は、一体春風のなかに残っているのか、秋風と共に過去となってゆく
のか、それは各人各様であるのだろうが、冷い風に皮膚を刺されながら、万人等しく切望して止ま
ないものは、真実に世界中が平和の気に充たされて、誰も彼も安心して伸びのびと生活してゆける
ということである。
世界人類が平和であり、個人々々が平安に生きてゆけるということほど有難いことはないのであ
257年末の言葉
るが、そのどちらもがまだまだ望み薄いところなのである。
しかし今年は望み薄だからといって、来年も今年同様に望み薄だとはいえない。神のみ心は大調
和なのであり、人間はすべて神の子であることに間違いないのだから、神の子の光を蔽い隠してい
カルマ
る業想念を消し去りさえすれば、必ず世界人類は平和になるのである。
カルマ
業想念を消し去るにはどうすればよいか、それは神の大光明を地球全体に照り輝やかせばよい。
それには各人が平和への念願を、祈りにまで高めあげて、世界平和の祈り一念に自分たちの生活を
きり替えてゆくことが必要なのである。
世界人類が平和でありますように…… …
この一行の祈り言の中に、すべての人の想念を結集させてゆくことはそうむずかしいことではな
い。ただたゆみない宣布が必要なだけなのである。
それにつけても思われるの億、キリスト教の宣教師たちが、未知の国々を廻り歩き、生命をかけ
て宣教してきたあの尊い姿である。だからといって、世界平和の祈りの運動もそのようにしなけれ
ばならぬというのではない。
世界平和の祈りというものの重大性をより深く認識して、日常生活そのままの立場でよいのだか258
ら、少しでもより多く、人々にこの祈りの大事さを知らせていただきたい、と思うのである。
師・
避
に
想
汽ノ
あが
昔は師とか先生とか呼ばれる人は、人に崇められていて、めったに人々は師を走り廻わらせるよ
うなことはしなかった、という意味で、その師さえ走り廻わらねばならぬ程忙しいのが十二月だと
こんにち
いう。そこで十二月を師走というのだそうだが、その意味は今日ではだんだん通用しなくなってい
る程、今日の師は常に走り廻わらなくてはならなくなっている。
今日の弟子たちは、昔のように師を崇め敬う気持がなくなり、中には師のほうが丁寧な言葉で話
しかけ、弟子たちのほうが、師に対して馬鹿呼ばわりしたり、おまえ呼ばわりしたりする、皆さん
259師走に想う
ご存知の教授と全学連の学生とのやりとりをはじめ、家庭における親子の間、職場における先輩後620
輩の間などでも長幼の序がなくなりつつあり、下の者が上の者に対する礼というものが失われてゆ
きつつあるのだ。
いつだつ
師が師たる立場を失い、弟子が弟子たる立場を逸脱し、親子が、夫婦が、先輩後輩が、すべてそ
はず
の立場を外してしまったら、一体この世の秩序はどうなってしまうのであろうか。いかなる国にお
いても、いかなる時代においても、礼儀というものが絶対に必要なのである。礼を失い、義を無く
したところに、真の人類の存立はあり得ない。それはただ動物の集団にすぎないのである。ただ自
己を主張し、自集団の主張を強要していて、それが民主主義の在り方であり、自由主義の生き方で
あるとしたり、社会共産主義をつくりだす道であるとするならば、そんな主義主張そのものが、も
う人類のものではなく、外道のものであり、獣類のそれと等しいのである。
人類の存在は礼を正し、義を全うするところにその存在価値があるのである。その人類根本の生
き方である礼儀を失った主義主張などは、人類にとってマイナスになればとてなんらプラスになる
ことはないのだ。
いせいしや
こういう傾向に日本をしてしまったことは、為政者にも教育者の先生方にも、両親にも先輩に
しんしようひつばつ
も、なんらかの落度があることは勿論である。その落度の第一は信賞必罰の精神に欠けていること
である。賞むるべきことは明らかに賞め、罰することは必ず罰する、ということである。罰する時
には涙を呑んでも罰しなければならない。愛の心で罰することは、その者の魂の浄化に役立つので
ある。誤りをそのまま是認する時には、それを善しとして、その誤りの道に馴れ親しんでしまう。
そうなることはその人の魂の転落につながることであり、かえって愛する同朋を、兄弟姉妹を突き
落してしまうことになるのである。
そのためには、為政者も教育者も両親も先輩も、自らの生き方を正しく律し、神仏のみ心を体し
た勇気を持っていなければならない。国民や子孫や後輩の指導をするために、自らが神仏のみ心に
叶った生活のできるよう、祈り心を常にもちつづけていることが必要なのである。
そうらん
そういう為政者や先生方の出現こそが、革命や騒乱に学生や国民を追いこむことを防ぐ最も望ま
たて
れることなのである。先生方がいたずらに政府や指導層に楯ついて、自己の溜飲を下げているよう
な在り方は、自らの首をしめていることにもなるのである。礼儀を正して、真の調和世界をつくり
か
出すこと、これがすべての人間に課せられたる使命なのである。
261師走に想う
262
年末になって
年末になって、いつも思うことだが、今年もどうやら地球世界は持ちこたえた、ということであ
る。毎年毎年地球は危険の状態を持ちこたえてきていることを、心ある人はみな知っている。
天変地変の危機、戦争の危機、公害の危機、これはヨハネ黙示録をみるまでもなく、現実を正直
にみつめていれば、誰にでも推察できることである。
自分は地球の為に何も働かずにいて、どうにかなるさ式の、安易な他への依存は、全く通用しな
い時が次第に近づいている。地球の運命は、地球人自体が守らなくて、何んで守り終わせること
か、それをはっきり知らなければならぬ時が、すでに来ているのである。
もうここまで地球の運命が押しつめられてくると、今日までの宇宙観や人生観を、すっぽりと変
えない限り、どうにもならないことなのである。
よくよく考えてみて下さい。表面的に世界各国の話合い政治にうつってきたようにみえても、各
国の心の中は、依然として、自国優位の立場をとろうとしているのであり、対立抗争の心の状態を
少しも変えてはいない。心の中の対立抗争はやがて現実的な戦争に発展する公算が多大である。天
変地変も公害も、みんな人間の誤った生き方がつくり出すものなのである。
私は光明思想家で、世界の光明化の為に働いているものであるが、只現実に眼かくしして神だ、
カルマ
光明だといって、安易な気持をつくり出しているものではない。自身の心身を地球の業の波の中に
ヵルマ
投げ出して、地球の業の黒雲を、心身に全面的に受けながら、地球浄化の働きをしているもので、
カルマ
地球人類の業を浄めることが如何に大変なことであるかを、身をもって知っているものなのであ
る。
だから私は、安易な言葉で、地球人類は救われる、といっているのではない。地球人類の中で、
そつせん
まず自分たちの今までの生き方が誤っていた、と気づいた人たちから率先して、真の生き方に転向
してゆかねばならぬことを、説きさとしているのである。
263年末になって
カルで
人類が、肉体人間として自己の存在をみている限り、対立抗争の業の中で、地球を滅亡にひきず謝
っていってしまう。地球の運命を救い、更に進化の道を突き進んでゆくためには、人間の本来性で
ある、神の大調和のみ心の中に、自己を投げ入れて、改めて、神の子としての光明身で、この世の
生活を行ずるようにしなければならない。
神のいのちを、この肉体身の中で生き通す、という人生観にならぬと、もう地球の運命は行き止
ってしまうのである。一人一人の人間が、真実、肉の子でない、神の子として生きる覚悟をきめる
ことによって、神々の大光明が地球救済の大きな力を発揮して下さるのである。
いちによ
これからは神人一如の働きでなくては、地球の運命を開いてゆくことはできない。この世もあの
世もすぺての世界が、神の大愛で運行されており、地球人類の一人一人がみな神の子であること
みずか
を、自らがまず、祈り心で体得してみることが大事である。
その最も近道が、私の提唱している、消えてゆく姿で、世界平和の祈りなのである。「世界人類
が平和でありますように」という祈り言葉の中に、自己のすべてを託して、世界平和の神のひびき
の中から、改めて自己の生活を行じてゆくことこそ、真の光明思想の生き方なのである。只単に、
さんぜん
神の子人間とか、光明燦然とかいう安易な言葉の祈りではなく、自己のすべてを世界平和の祈りの
中に投げ入れ神の平和のひびきの中から、日々瞬々生れ変って生きてゆくことこそ、光り輝く人間
としての生活となるのである。
てい
そういう人の一人でも多く誕生するよう、私は身心を挺して行じているのである。巻頭言にしては
とろ
少し堅苦しい言葉であるが、年末に際して、私の日頃の考えを吐露したものである。
師走の覚悟
毎年、あっという間に一年がたっている。世界中にも日本中にも、全く毎年いろいろな事件があ
るのだが、今年も例年にもれず、さまざまな事件があった。
何千万光年という単位でその世界を計る、大宇宙の運行にくらべると、単に小さな星の一つであ
265師走の覚悟
カヲメぱと
る、地球世界の運命など、硝子箱の中での大騒ぎにすぎない、と思われるが、ところが実は、この
大宇宙からみれば、硝子箱の中の出来事のような、地球人類の運命も、親神さまにとっては、ただ
笑って捨てておけるようなものではないのだ。親神さまにとって、大宇宙の最も大なるものから、
最も小なるものの中にも、御自身のみ心を生かしておられるのである。
その親神さまのみ心を、最も充分に生かしきらなければならぬのは、地球世界の人類にとって
は、地球人類そのものでなければならない。それが実に残念なことに、地球人類の大半は神さまの
いのちやみ心を生かすのではなく、地球という物質世界の、肉体人間という物質本位の幸福感とい
うものにのみ想いを把われて、それが民族といい、国家という集合体になると、ますます物質本位
になり、お互いの物質世界の幸福を得るために、神のみ心の愛とか調和とかいう、一番人類にとっ
て大事な生き方を忘れ果ててしまったのである。
もう地球人類そのものの力だけでは、多くの民族や国家が、お互いの体をひきさいてしまいそう
な事態にたち至ってしまったのだ。じっと心を澄ませて、世界各国の行っていることをみれば、こ
の事実がよくわかるのである。
なんどき
しかしどうやらこうやら、今年も地球滅亡までゆかずにすみそうだが、いつ何時どうなるか、常
266
に心の覚悟をしていなければいけない。いったいどんな覚悟をするのかというと、生きても死んで
もよい、いつでも神さまのみ心の中に入りこんでいよう、という覚悟なのである。生きているうち
も死んでからも、神さまのみ心の中にいるんだ、という大覚悟こそ、自分を救い、世界人類を救う
唯一無二の道なのである。
それを私は、世界平和の祈りという祈り言にして、消えてゆく姿で世界平和の祈り、という生き
方を提唱しつつ、今年も真剣に全身全霊を挙げて生きてきたのである。勿論、来年も、今年と同じ
気持で祈りによる世界平和運動の道を突き進んでゆくのである。
267師走の覚悟
z6s
師走の庭
広い庭の手入れを一手に引きうけておられた、田中さんが昇天されて、後は池内青年がその後を
ひきうけて、孤軍奮闘しているが、まあ、よくも一人でやれるわい、と思うほどの手入れをつづけ
ている。
草花が次々と花を代え、松の枝ぶりも見事に整えられているうちに、いつの間にか聖ケ丘にもう
十二月の声がきかれてきた。
ざんかはだかぎさ
毎年のように、十一月の中旬になると早咲きの山茶花が咲き、次々と裸木が増えてゆく。春夏秋
冬、自然の動きは微妙に巧妙に美しい変化を遂げて、来る年も来る年も人間の心を慰めつづけてく
れながら、今年も一年の終りであり、厳寒に入ってゆく十二月になってしまった。
今年一年を振り返ってみると、やはり前年と同じように、世界は平和の方向には少しも動いてい
ない。どこを見渡しても、不調和そのものの波動の世界である。
こうカルマ
業の波を感じない人々には判りようがないが、この地球世界の業の波の物凄さは、言葉にも文字
にも現わしようもない程で、その業を一身心に引き受けて、浄めつづけている、私の役目というの
は、これは並大抵のものでないことを月毎、年毎に烈しくも感じてくるのである。
しんじつくう
瞬々刻々浄めつづけていても、大きな黒雲が次々と押し寄せて、真実空の身心でないと、一瞬で
息を引き取ってしまうかも知れない程のものである。
世界各国の指導者も、宗教者も、皆それぞれに人類のことを想っているであろうが、まず一番に
なさねばならぬことは、自らの神とのU体化である。神と一体になって、神界から光明波動を、こ
の地球世界に導き出さなければ、地球は救われることはできない。
私たち同志は救世の大光明を頂いて、世界平和の祈り一念の生活をしているのであるが、いよい
よますます、その祈りを強めていかなければいけない、としみじみ想うのである。
269師走の庭
270
この年を光明の年に
おお
新しい年が来たからといって、この現れの世界が、急にぱっと変貌するわけではないのだが、大
みそか
晦日の一夜を越えて元旦を迎えると、自己の周囲の万物が、妙に新しい感じで見えてくる。
おおみそか
一年一年のくぎりが、大晦日と元旦というようにはっきりとつけられていることは、人間生活に
とっては、気持を改める上において非常に大事なことであると思われる。
.そ
うしたはっきりした区切りがなく、だらだらと年月が過ぎ去っていったら、心の締めくくりが
つかなくて弱ることがあるだろう。
一月は初春といわれるように、前途の温かさ、明るさを匂わせていて、十二月の押し迫った陰の
感じから解放される。
しかし、そうした温かい明るい感じをもった一月の陽気の中にあっても、今日の現れの世界は、
暗い媛しい零囲気につつまれている。どのような表面上の政治技巧をもってしても隠し終わせぬ米
ソの主権争い、それにひきずられつづけている日本の国内状態。
今年はどうやらそうした妖しい雰囲気が、国内的にも国際的にも、表面的な火花になりそうな感
じがする。
肉体人間の智慧才覚では、どうにもならない、というどん底に、今年は突入してしまうことを、
人類等しく感じはじめるに違いない。はっきりとその一事を感じてくれなくては、本当に人類は滅
びてしまうのだ。
もうそろそろ人類すべてが、業想念行為の世界から、神のみ心の世界にしっかりと結びついても
よい頃になってきた。業想念(カルマ)が、すっかり地球界の表面に浮び出してしまっているから
だ。
浮ぴあがれば、すべては消えてゆく姿になる。その消えてゆく姿を、人類の悲劇にせずに、神の
慈愛のみ光で消し去ってくれるのが世界平和の祈りなのである。
271この年を光明の年に
今年こそ、大救世主のみ心の、世界平和の祈りが、日本から世界中にひびきわたってゆく、意義72
ある年になりそうだ。是非ともそうならせなくてはならない。そのためにこそ、私たち世界平和の
祈りの尊い力、偉大な浄めの力を知っている者たちが先頭に立って、高々と世界平和の祈りの行進
をしなければいけない。
世界平和の祈りは大光明である。世界平和の祈りは天地をつなぐ慈愛のみ心である。
この年を光明の年にするために、世界平和の祈りの同志を一人でも多く増してゆきたい。
大声を挙げて騒ぎまわる必要はないが、あなた方のたゆまざる日常茶飯事においての祈りこそ、
世界平和の祈りを、人類全般にひびきわたらせる第一の善事となるのである。
あか
心の垢を流そう
大晦日には誰でも、その一年間の汚れを洗うような気持で風呂に入るものである。新しい年のは
じめを、綺麗な体で迎えたいからである。
人間というものはおかしなもので、大晦日も元旦も、一日ということには変りはないのだが、一
年の終りと新年のはじめということにおいて、その一日が、まるで違った感じの一日となるのだ。
新しい年を迎えるということが、なんとなく人の心を活気づけるのは、人間が未来というものに
常に希望を持っている証しなのであろう。
そこで、古い衣をぬぐような気持で、風呂に入り、衣服を新しくし、気持を新しくして、元旦を
273心の垢を流そう
迎えるわけである。2
鴨
ここで一番問題になることは、体の垢を流し、衣服を新しくするということもよいことだが、も
っと大事なことを、真剣に考えずに元旦を迎えてしまうことである。
一番大事なこと、それは一年中の心の垢をすっかり洗って、新しい年を迎える心構えである。そ
こで、心の垢を洗うということは、どうすればよいかということになるのである。
それは、宗教の道しかないのである。体の垢は自分で流せるが、心の垢というものは、自分では
決してとれないものである。心の垢を取って下さるのは、神様より他にはないのである。
神様にどうやって取ってもらうかというと、祈り心になるより方法がない。祈り心というのはど
ういう心かというと、神様のみ心の中に自己の全想念を向けてしまうことである。更に神様のみ心
というのはどのような心かというと、真善美の現われた心、愛の心である。もっと簡単にいうと、
全人類が仲良く大調和してゆく心である。
もっと端的にいうと、世界平和の心である。そこで、世界平和を祈る心が、神様の心と全く一つ
の心である、ということになる。
そこで、自分の心の垢を流すには、神社仏閣に詣るのもよいけれど、それよりも、もっと簡単で
効果のあるのが、どこにいても、どんな場所ででも行える、世界平和の祈りなのである。人類が平
和であれ、と願う宇宙神のみ心が、そのまま現われている救世の大光明につながる、世界平和の祈
りこそ、自分の心の垢を流すと共に、人類全体の心の垢を洗い浄める祈りとなるのである。
この世界平和の祈りこそ大晦日の夜に、元朝に、そして、日々のあらゆる機会に、たゆみなく行
うべき、心の洗濯のための祈りなのである。
世界平和の祈り一念の生活を
一月というと、誰しもが心明るむ月なのだが、本年の一月をそして一年を名実共なる明るい月に
し、明るい年にしてゆくためには、どうしても一人一人の正しい道に乗った生活態度が必要であ
275世界平和の祈り一念の生活を
る。762
個人と個人、国家と国家、主義と主義とが常に相対的な対抗意識で、相手に優越感を持っていた
い、という現在の心の状態では、争いや不調和な想いの波が、この地球世界を蔽ってしまうのは仕
方のないことである。
冷戦、暗殺、クーデター等々の国際的な不調和な雰囲気が、世界を大戦の方向にひきずっていっ
てしまうようでは大変である。
今年こそ少しでもそうした暗い雰囲気をはらいのけて、明るい平和な雰囲気に変えてゆかなけれ
ばいけない。その責任は、世界中の政治家諸氏や、トップレベルの指導者たちにあるのだけれど、
人類全員にもあるのである。
そんなこといわれても、私たちにはどうにもしようのないことだ、と口をとがらしていう人があ
るかも知れない。しかし、世界の動乱をそのままに打ち捨てて置くことは、やがてはあなた方一人
一人の運命の上にも、その禍がかかってくるのである。
どうにもしようがない、と口をとがらせているうちに自分の上に世界の暗い波動がのしかかって
きてしまうのである。私たちの運命は私たちの一人一人の想念の在り方でどうにでも切り開いてゆ
けるものなのである。その事実を人々は是非共知らなければいけない。
それはたゆみない祈り心によって切り開かれてゆくのである。
世界人類が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
こうした世界平和の祈り言の中から神々の救済の光明が地球世界に降りそそがれてくるのであ
る。個人が救われると同時に世界人類の暗黒想念を消滅させる、大救世主の救済宣言が世界平和の
祈りなのである。
貴男も貴女も、あなたも君もこの年の一月を出発点として、世界平和の祈りの生活に身心を投げ
入れて頂きたい。それが唯一の人類救済の方法なのである。世界平和の祈りの中に世界中の人々の
想念を結集させてしまう一役を、貴男も貴女も是非共買って頂きたいのである。
私たちはそうした世界平和の祈りの大光明波動に乗って、宇宙子科学の完成に灌進してゆく固い
決意でいるのである。宇宙子科学完成の暁こそ、地球世界は全く明るい世界に変貌してしまうので
ある。
277世界平和の祈り一念の生活を
278
年頭における私の主張
新しい年が、またはじまろうとしているのだが、今年の世界の最大の問題は、一体どんなことな
のであろうか。私にとっては、いかなる年も、世界完全平和樹立という問題より他に最大の問題は
ないと思っているのだが、くる年もくる年も、世界中の各国が、自国の権益問題に左右されてしま
って、昨年までは、積極的に世界平和に乗り出した国はない。
ロでは世界平和を唱えてはいるが、腹の中は、常に自国に都合のよいような行為しかできないで
いるのが、現在の地球世界の各国の在り方なのである。
いかなる国でも、政治を司どっている人たちには、自国の権益問題をひとまずおいた、真実の世
界平和政策を推進でき得るわけはない。何故ならば、国家となると、どうしても眼前の自国の権益
を外にした政策を行えないようになっているからだ。
しかし、真実のことは、人類永遠平和という大眼目を中心にしてこそ、真の自国の生命が生きて
くるのだし、各国の権益も守られてゆくのだが、そこまで真理に目醒めている政治家は、どこの国
にも見当らぬようだ。
そうなると、一体誰か世界永遠の平和の道を切り開いてゆくのかということになる。私が今年も
強く主張したいことは、やはり、国民の一人一人が、世界人類の一人一人が、この地球世界の平和
は、自分たちの一人一人がつくり出してゆくより仕方がないのだ、という真実のことに気づかなけ
ればいけないということである。
私の提唱し推進している世界平和の祈りの運動は、そうした一人一人の力を問題にして、はじめ
られた運動なのである。一人一人の戦争防止の願いが、天変地異を起したくないという切望が、世
界平和の祈りに直接結びついているものであることを知らせる運動でもあるのだ。
個人個人が妬みや恨みや争いの渦の中で、不安混迷の生活を送っていて、どうして世界に平和を
築きあげられるものか、国家も人類もすべて個人の集合したものの総称である。
279年頭における私の主張
そういう調和に反した業想念波動は、万物の霊長たる神の子人間の真実の姿ではない。それはす80
2
べて消えてゆく姿なのである。私はそこで、そういう想念行為のすべてを消えてゆく姿と断じて、
それをそのまま、世界平和の祈りの中に送りこんで、日々新しい神の子人間の生命体として生きて
ゆこうというのである。そういう生き方をしている人々の集合の力こそ、真実に世界平和を築きあ
げてゆく力となるのだということを私は確信しているのである。
新しい世界
年が改まるということは、毎年のことではあるが、やはり心が改まる想いがするものである。新
しい年に対する期待というものが、誰の心にも少しつつでもあるもので、前の年が悪い年であれば
なおさらに、今年こそ善い年であるようにと思うし、前年善い年を過した人は、今年はより以上善
い年にしてゆこう、と思うものである。
虚無的にデカダソスに、来る年来る年を投げやりな気持で過している人たちは、自分たちの生活
に善いこと楽しいことを望んでいないのかというと、そうではなく、善いことを望んで得られなか
った過去(過去世) の経験が潜在意識にひそんでいて、善いことを望んでも得られぬ失望感を味わ
いたくないために、あらゆる希望を心の奥に抑えこんでしまっているのである。その形が虚無的に
もみえ、デカダンスにもみえるのである。
人間の本質は神の子であり、完全円満性を内に持っているのだから、誰しも完全円満な充足した
生活を望むのは当然なことなので、それを得られぬ反発で投げやりな生活になっていったりする人
があるのだ。ところが、虚無的になったり、デカダソスになったりすることは、自己をさらに不幸
に不自由にしてゆくだけではなく、人類のためにマイナス面をつくってゆくので、遂いには終生救
われようもない、地獄に住みついてしまうことになるのである。
ヘソ曲りの作家などは、俺は天国など性に合わぬ、地獄の生活のほうが好きだ、などといってい
るが、真実の地獄世界を知らぬからそんな寝言をいっていられるので、実際に地獄に陥ったら、そ
281新しい世界
れこそそんなたわ言はどこへやら、必死に救いを求めつづけるに違いないのだ。私はそういう実例舩2
を霊的によく知っているのである。
人間は、少しぐらい自分の望みが叶わなかったからといって、すぐ心を暗くしたり、虚無的にな
ったりすることほど馬鹿気たことはない。これは自ら地獄への穴を掘り下げてゆくようなものなの
だからである。人間は常に神の子の本質を求めつづけ、明るい未来の希望を持ちつづけなければい
けない。どんな暗い不幸なことがつづいたとしても、すべては過世去からの自らが神を離れていた
誤った生活の消えてゆく姿なのだから、消えてゆく姿と想って、神を求めつづけ祈りつづけなけれ
ばいけない。神は永遠の生命であり、真と善と美そのものであるからである。祈りつづけてゆくう
ちに必ず自らの生活に光明がさし来り、運命は好転してくるのである。その事実を信ずるか信じぬ
かによって、その人の天国への道も地獄への道も定まるのである。
世界の完全平和は生易しいことでできるわけではない。政府がどうの、米国がソ連が中共がどう
のということよりも先に、自分自身の心を、昔からの自分勝手な想念から離して、神からいただい
た生命である、神によって生かされている生命なのである、という観念に変化させてゆくことが必
要なのである。個人個人の唯物観念を、神一元の観念に変化せしめることこそ、真実の世界平和を
つくり出す、古くまた新しい道なのである。
人類はすべて兄弟姉妹である、ともに手を取って進むべきものである、という人類愛の心は、日
々のたゆみない世界平和の祈りから培われる。世界平和の祈りこそ神と一体になる祈りであり、人
類愛そのままの祈りであることを知っていただきたい。新しい平和世界は、この祈りからはじまる
のである。
今年も明るく生きよう
つたいとお
拙なきも達筆もみな愛しや我れを慕ひて書ける賀状は
除夜の鐘が鳴り終った暫くの静けさは、これから開けてゆく、
くのフ
新しい年の運命をはらんでいる空
283今年も明るく生きよう
の境地のような感じである。
しきモくぜくうくウくうモくぜしき
色即是空として、現象の物事事柄を、すぺて空の中に融けこませ、空即是色として、すぺてを輝
やく実体の現れとしよう、という神々の理念を、人類がしっかりと心に把握した時、地球人類の夜
明がくるのだが、昨年までは、まだその時期に至っていない。
私たちの世界平和の祈りは、年々歳々世界中に広まってはきているが、まだまだこれからという
ところである。毎年私に来る年賀状は山のように積まれて、私の前にくる。私は一枚つつ祈りつつ
いとお
目を通しているが、各人各様にそれぞれの真心がにじみ出ていて、なんとも愛しいものである。
あまりにその数が多いので、その一人一人に対して、返事を書くことは到底出来ないので、その
点は勘弁していただいている。
こういう私の同志たちが、日夜にわたり、祈りつづけている世界平和の祈りは、その平和のひび
きを、つねに地球全体に否宇宙全体にひびかせつづけているのである。この世界平和の祈りは、神
界と人類との結びつきの祈りで、この祈りを祈る人の身心は、光明に輝いてゆくのである。これは
多くの霊能的な人にみえるところであって、事実なのである。そういうことも、やがて科学的に証
明される日も必ずくるのである。284
今年も、世界中の様々な変化や出来事に把われず、たゆみなく平和の祈りをしつづけ、光明波動
を全世界にひびかせつづけてゆくのが、私たちの使命なので、皆さんも、世界の暗い動きや、悪い
出来事に想いを把われず、つねに心を明るく、神の愛を信じて、平和の祈り一辺倒で生活していっ
ていただきたい。そのうち大調和の科学が生まれて、宗教精神とマッチして、急速に地球の救われ
が成就してゆくことになるのである。
今年も南天の実が、可愛い真赤な顔をして我が家の庭で正月を迎えている。あんな小さな実です
らも、この寒空に命生き生きと生きているのをみると、神様はすべてを愛していらっしゃるのだな
あ、と思わず私も神様の心になって、南天の実を心から愛するのである。まして同志の皆さんを愛
するや切というところである。
285今年も明るく生きよう
私たちは、人間とその生き方については次のように考え、実行しております。
『人間の真実の姿は、業生ではなく、神の分け命(分霊) であって、つねに祖先の悟った霊である守
護霊と、守護神(大天使) によって守られているものである。
この世の中のすべての苦悩は、人間の過去世から現在に至る誤った想念が、その運命と現われて消え
てゆく時に起る姿で尚る。
いかなる苦悩といえど、現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであるという強い信念と
今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難の中にあっても、自分を赦し、人を赦し、自分
を愛し、人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心を
つねに想い、世界平和の祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得できるものである』
《世界平和の祈り》
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が完うされますように
守護霊様有難うございます
守護神様有難うございます
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