光明の生活者


刊行のことば
宗教信仰においては聞くということは大事なことである。録音テープにおさ
めた二十数年前の五井先生のお話を聞き直して、お話が今でもいきいきとして
心にせまってきて、魂の高まるのをおぼえる。ただ録音技術未熟のために、テ
ープとして再生し、皆さんにご紹介することは不可能である。そこで、テープ
より文字におこし、文章として、それもなるべく話し言葉に忠実に再録して、
ご紹介することにしたのが、この講話集である。
このお話によって、読者の皆さんが安心立命し、明るく把われない心で、こ
の人生を生きいきと生きて頂けるよう切望して止まない。
2
目次
人間は罪無き者5
あなたは菩薩18
神の子の自分を体得させる祈り
64
目次
誰でもゴッドマン鵬
光になれ悦
五井せんせいは絶対……
あとがき柳
装慎有沢呈由
3
一糧









人間と真実の生き方
わけみたまごうしようしゆこれいしゆごじん
人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって
守られているものである。
かこせ
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、
その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれぽ必ず消えるものであるから、消え去るのである
という強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなか
ゆるゆるまことゆる
にあっても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をな
しつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の
祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出来るものである。


人間は罪無き者
昭和32年10月市川五丁目会館
一切人を責めない
人間は罪無き者
ねた
よく宗教では、お前の短気を直しなさい、お前の妬み心を直さなければだめだ、といいます
が、そんなことはみんな知っているんです。あΣ自分のここが悪いなって知っているんです。
知っていて直せないから、なんとかして神さまにすがって、なんとかして自分が立派になりた
い、自分の生活がよくなりたい、と思って入ってくるんです。心の奥では、自分の心を立派に
したいという想いもあるんです。それですがってゆく。5
すがってゆくと、すがったつもりの宗教家が、お前の心が悪いから、お前の短気を直さなけ
れば、お前の何んとかを直さなきゃ、とこうやるでしょう。自分で直せるくらいなら、人に頼
みはしないんです。自分で入学出来るくらいなら、家庭教師を雇って勉強したり、どこかの英
数学科へ行ったりして勉強したりすることはしません。自分で出来ないから教わりにゆくんで
しょう。それと同じこと。
ぼんぶ
この社会に生きている人は几夫なんです。肉体人間としては凡夫なのですから、そして自分
で出来ないから、宗教家のところへ行くんです。行くとお前の心が悪いから、なんとかといっ
おど
て脅かすんですね。それではダメだということが、私はわかっているんです。それで私は一切
しら
人を責めない。あんまり白をきっていると言います。ふつうの場合は言わないんです。あL い
かしわで
いです、いいです、ポンポソと柏手を打つだけです。何故かというと、私にすがって来ている
のだから。
ききめ
肉体としては、その人はなんだかわからなくて、あそこはいいと云われたから、効目がある
6
かないか知らないけれど、行ってみよう、というんで初めは来るんだけれど、その人の守護霊
さんは私を知っていて、私に頼みにくるんです。私は守護霊さんから引き受けた以上直さなき
ゃならないでしょう。だからお前の心が悪いなんていわないんです。
幽体の汚れを浄める
人間は罪無き者
その心が悪いというのはどこにあるかというと、幽体という意識の体があります。その幽体
の中に、短気のような想いも積んであれば、恨み深い想いも積んであれば、欲張りの想いも積
んであるんです。いろんな想いが積んであるんですね。積んであるものを自分が消しようがな
いんですよ。消すんじゃなくて普通の場合押えるだけなんです。押えているだけなんです。そ
の幽体にある波、要するに録音してあるテ!プがありますネ、あのテープに声が音波となって
入っているわけですね。それと同じように幽体に、短気の声、欲望の声、恨み深い声、妬みの
声があるわけですが、その声をポソポソと柏手を打って吹きこみ直して、消しちゃうんです。7
テープというのは一遍吹きこみますね、吹きこんだところにまた声を吹きこむと、前の声が
消えて新しい声だけになる。今長唄をやっているとします。それを私がお話をすると、長唄じ
ゃなくて私の講演になっちゃうんです。それと同じように、今迄、短気だとか妬みだとか恨み
だとか、という声を一生懸命吹きこんでいたわけです。自分の幽体、テープレコーダーの中に
ね。そうすると私が「あなたはいい人ですよ、大丈夫ですよ、必ずよくなります、あxいい人
です」ポンポンとやると「いい人ですよーあなたはよくなりますよ、いいんですよ」という
のが吹きこまれちゃう。それで以前の妬みや恨みがどんーどんー消えてゆくんです。
一巻テープがまき終るまで、私が「いいんですよ、あなたはいい子ね、いい子ね」ってやっ
ていると、いい子ねが一杯になっちゃって、それで”いい子ねエ” になっちゃうんです。録音
をかけ直してみると、このヤロウというのがコノヤロウじゃなくなって、いい子ね、いい子
ね、あΣ いい、が出てくるんです。ためしにテープレコーダーで実験してごらんなさい。新し
く吹きこむと前の吹きこみは消えてゆくんです。それを、悪い悪いと自分が思っている上に、
8
お前は短気だ、短気を直しなさい、お前は短気だよ、とやるでしょう。折角消えてゆくべきも
のが、短気短気と中へ入っちゃいますよ。押しこまれてゆきます。その層が厚くなってしまい
ます。
自分のいい悪いを神さまにお返しする
人間は罪無き者
今迄宗教家がたくさん出て、宗教家多くして救われず、なんです。それはどういうことかと
いうと、お前の短気を直せ、心を直せ、因縁をなんとかーそればっかりやっているからで
す。そうした宗教の中で、キリスト教が一番実践的だったんです。キリスト教は隣人を愛せ
よ、隣人を救え、というんで社会事業をたくさんしましたね。アメリカ人がはるばる日本に来
たり、世界の奥地にいったりした。隣人を救おうという教えだから、そういうものが生きると
とてもよかった。仏教の人たちよりもキリスト教の人たちのほうが、余計に社会人類の為に尽
しています。隣人を救えというのが根本でしょう。それでキリスト教は世界に非常に進出した9
んです。
犠牲精神でやったでしょう。ところが仏教系統などの人はそうじゃないんです。お前の心を

直せ、因縁を断て、とかそればっかりでしょう。だからだめなんです。私もだめだと思った。
ほうねんしんらんほうねんしんらん
法然や親鸞もそれではだめだと思って、お前の心を直せなんて法然はいいません。親鸞はお前
の心を直せなんていわないんですよ。人の悪を指摘しませんでした。どうしたかというと、お
ぼんぶ
前さんも私も同じ几夫なんだ、だから几夫が凡夫のままで救われようとしたって救われないん
だ、お前が心を直そうとしたって救われるわけじゃないんだ、いくら修業したって救われはし
ないんだ、私だって同じなんだ、私だって修業して救われているんじゃない、私を救って下さ
あみだ
るのは何かというと、西方極楽浄土におわす阿弥陀さまだけなんだ、阿弥陀様に救ってもらう
んだ、南無阿弥陀仏、阿弥陀さまと一つにさせて下さい、という祈りだけをさせたのです。
ということは、自分のいいとか悪いとかいう想いを、すべて阿弥陀さまの中にお返ししちゃ
きみよう
ったわけです。帰命しちゃったんだから、阿弥陀さまにかえるという意味ですよ、南無阿弥陀10
人間は罪無き者
仏というのは。すべての想いを阿弥陀さまの中に投げ出しちゃったのが法然親鸞の教えなんで
す。お前が悪いとかなんとか一つもないんですよ。
法然さんの献げ床下に、ある時泥棒の親分がしのびこんだという話があるでしょう。法然さ
んのお話をきき、一晩中、法然のお念仏をきいている内に、改心してお弟子になります。法然
さんは小言一ついいません。法然、親鸞は決してお前の心を直せ、なんていっていません。キ
リストだって言ってません。こうあるべきだ、こう生きるべきと話しているんです。神さまだ
くう
けを思わせるようにしているんです。お釈迦さまもそうです。最後には空なんだといっていま
す。お前が悪いという想いもなければ、お前がどうだこうだという想いもないんだ、それはみ
くう
な空なんだ、空になると真実の光、本当のみ仏の姿がそこに現われるのだ、と教えているんで
す。
お前が悪いーというのは、その指導者に力がないということです。自分に力がないものだ
から、救う力がないものだから、お前のせいにしちゃって、信者のせいにしている。お前が悪
11
いんだといっていれば、救われなくたってお前のせいだものね。それではその人は救われない
でしょう。
そこで法然や親鸞がそういったと同じように、私も「あなたが悪いんじゃありませんよ、あ
かこせ
の人が悪いんでもありませんよ。それはみんな過去世の業が消えてゆく姿なんですよ」といい
ます。本当は自分の責任です。責任だけど、自分はさんざん苦しんだところで、その上また責
めちゃ可哀想だから「さあ、みんな私にまかしなさい、神さまっていっても見えないだろう、
神さまにお返ししなさいッていっても、なかー返せないだろうから、さあ私にみんな下さい
よ、あなたの悪いことも善いことも、みんな私がしょってあげますよ、さあよこしなさい」と
云うんです。だから皆な遠慮しないで、なんか悪かったら、五井先生! って云やあいいんです
よ。なんでもかんでも、こっちにみんな想いをよこしてしまえばいいんです。
12
サア私に寄越しなさい
人間は罪無き者
私は天と地をつなぐ柱になっているんだから、寄越してしまえばズーッと上にあがる。ほう
おど
ぽう中で小言をいわれたり、脅かされたり、金を取られたり、いろいろしてやってくる。そし
とく
て初めてここで安心してくるんです。だから初めからここへ来た人は得なんです。現象世界の
この地球世界が、今まさに滅びるか滅びないかというような時に、正しい人が馬鹿をみるよう
なそういう世界でしょう。そういうところへもって来て、お前が悪い悪いといわれたんじゃ立
つ瀬がない。だから私は悪いことは一切ぬきにしちゃった。
人間は神の子なんだ、神の子である者が悪い道理がない。もし悪いとするならば、それは神
こう
さまから来た人間じゃなくて、過去世の業だけなんだから、それはあなたじゃないんだ。業な
んだ。自分が出したものには違いないんですよ。しかしそういったんじゃもう話になりませ
ん。お前が悪いんだから、それは自分で払わなければならない。自分で出した行ないは自分で
つぐな
償え、ということになります。それじゃあ可哀想だよ。それじゃ宗教家が出た意味がないでし
ょう。だから私は、サアその悪いのを私に下さい、私がみんなもらってあげましょう、という
13
んです。さあ下さい下さいって欲張りみたいなんです。そして貰うんです。
どうして貰うかというと、私のことを思えば、私はダメな人間だという想いを先生にやっち
ゃったから、もうダメな人間はないでしょう。病気が悪いという想いも、先生が片棒担いでく
れるから、まあ少し軽くなる。貧乏だというのも、先生がきっとよくなるというから大丈夫だ
ろうーそういうようにみんな私によこせばいいんです。
要するに責められるよりも、本当は許されたほうがその人は救われるんです。何故ならば、
人間というのは罪無き者なのですよ。いいですか、人間は霊として罪あるものじゃない、罪は
何もないんです。あるものは肉体の迷いなんです。物質的な迷いだけで、それは迷いであって
人間じゃない。人間と迷いとは別なんです。人間は神の子であって、迷いは別もんです。それ
は夢幻のものである。実在ではない。それはみんな消えてゆく姿だから、人問は完全円満なん
だ、というのが私の教えです。生長の家もそこの近くまで来ているのだけれど、人を責め自分
を責める精神分析が入ったからだめなんです。生長の家から精神分析をみんな取っぱらっちゃ14
って、人間は神の子一本槍で消えてゆく姿にして、守護霊守護神の存在を明らかにしたのが私
の教えなのです。スッキリしてよくわかります。
私は命をはっている
人間は罪無き者
いのち
みんな私のことを想いなさい、私がみんな引き受けます、というからには、私は命をはって
しよ
いるのです。命をはらないでそんなことはいえません。霊能的な人は一人の人の想いを背負っ
しよ
てもとても苦しんじゃう。フラフラになっちゃうんですよ。その人らが私の所へ来ると、背負
っているものを私によこすでしょう。私は一手引き受けましょう、そうすると向うは楽になる
んです。ところが私は一人や二人や三人や五人じゃないんです。ここに集っているだけでも随
しよしよ
分いますでしょう。これだけの想いでも全部背負うでしょう、家族の者も全部背負うんですよ。
すてみ
さあみんなよこしなさい、というのはこっちが捨身なんです。捨身というのはどういうこと
かというと、肉体がないんです。肉体の個人というものがあったら、みんなの悪いものを貰う
15
おわい
わけにはいきませんよ。みんな貰いやしませんよ。汚機屋さんなら金払わなきゃならないけれ
どさ、汚いものをみんな貰うんですから。だからみんなは私に渡したら、安心しちゃっていい
んですよ。自分が心配する席はない。私だけ心配していりゃあいいんだからね。千人も二千人
も五千人も一万人も心配することを私は引き受けるから、皆さん心配しなさんなっていうの。
みんな心配は私によこしなさいって、神さまは私にいわせているんです。だからみんな心配
なしにくれりゃいいんですよ。それなのに私に心配をさせておきながら、自分でまた半分して
いるんです。みんなは思いきって、遠慮しないでみんなよこせばいいんですよ。先生、おなか
が痛いのをあげましょう。先生貧乏なんです、上げましょう。先生、足がつるんです、上げま
しょう。みんなくれりゃあいいんですよ。そうすりゃあ、ハイハイってもらいますから。
から
さっきも云ったように、自分の想いを神さまに持っていけば、自分の中は空っぽでしょう。
自分の想いが自分の命を真すぐに伸ばさず、いきいきとさせないんだから、自分の想いをすべ
て神さまの中へやっておけば、自分の命は生き生きとして、体も健康になるんです。心配がな16
人間は罪無き者
いから、余計の想いがないからいきいきと生きるんです。いきいきと生きていれば、その人は
いい仕事が出来るんです。
それを余計な想いで折角生きている命の働きを邪魔し、命の光を消してしまっているんです
よ。その消すような想いをみんな神さまに上げちゃいなさい、全部お返ししちゃいなさい、そ
うすれば光だけが入ってくる。本来、神の命なんだから、神の光が入っているんだから、その
光だけがぐるー廻って天命を果すんです。ところが神さまというのは、どこにいるかわから
ないから、お返ししようと思ってもどこだろう、探し歩かなきゃならない。私のをとってくれ
ませんか、と探して歩かなければなんない。実は皆は探して歩いて、私を見つけたんだ。だか
ら、サアいらっしゃい、さあ私に下さいっていうんだから、じゃ先生にあげましょう、といっ
てくれりゃあ、私がみんな神さまのほうへどんどんお返ししてあげます。そうすると、皆さん
の命が光り輝いて回転してゆくわけです。そういうわけなんですよ。17
18
ぼさつ
あ なたは菩薩
昭和32年12月8日市川五丁目会館
私たちの行き方
私が説いております宗教はどういうことかと申しますと、最も易しく最も効果的であるもの
りんざいしゆうあさひなそうげんもつと
なんです。今朝も臨済宗の朝比奈宗源師が話していました。いうことは尤もで、宗教の話だか
ら尤もでないことはないんです。アメリカやソビエトが原水爆や人工衛星の競争をしていて世
界を亡ぼそうとしている、そういうことは馬鹿げたことだと、だから本当の宗教精神があれば
ああいうことにはならない、というんですね。
あなたは菩薩
こう
そしてその宗教精神というのは何かというと、みんな業に流されているから業に流されちゃ
いけない、業を掴んじゃいけないというわけですが、短かい話でしたからあまり根本的なもの
ごうりだつ
じゃないけれども、さてどうしたら業を離脱できるかということが何もないんです。ただ神さ
まか
まに委せるような形じゃ駄目だというんです。要するに根本原理は自分が悟ることであるとい
ぜんしゆう
うような話でした。それが禅宗の生き方ですが、私のいき方は全然反対になるんです。まず人
わけみたま
間の真実は何かというと、神の分霊です。本心ともいいます。内在の仏です。その神さまから
離れた想い、肉体の個人ーが人間だという想い、神さまからきたんじゃなくて神と肉体は別
なんだという想い方です。そういう想い方が積み重ねられた業想念と本心は違うんだ、本心は
神からきた光、完全な光なんだ、業想念は肉体にくっついて廻っている想いなんだというふう
にハッキリ分けている。
しもべ
ところが今迄の宗教はそれをハッキリ分けてない、キリスト教では神の下僕であるというん
です。それで神の子であるのはイエス・キリストだけという。イエスは本当はそうはいわなか
19
げんざい
ったんですよ。しかし今伝わっているキリスト教の大半は、アダムとイブの原罪があって、昔
から人間は生れながらにして罪を背負っているものなんだ、だからその罪を意識して神さまの
すがしんらんざいあくじんちゆう
下僕の如く神さまに縄りつかなきゃならない、要するに親鸞のいい方では、自分は罪悪深重な
んだ、キリスト教のいい方では、自分は罪深きもの、罪の子なんだ、そう思わなきゃ駄目なん
だというわけです。
20
人間の見方
私のいい方もそれと似たところがあるけれども、根本的な所で全然違うんです。私は人間は
わけみたま
神の子、神の分霊であって、神そのものである。それが人間の本体であり本心なんだ。ところ
が人間は肉体ができ上ってから、肉体が人間だと思い始めてしまって神さまから離れてしまっ
こうそうねん
た。その想いが業想念となり、罪の子となっているんです。
だから二つあるわけです。本当は神の子であり本心であり本体であり、完全円満なものであ
あなたは菩薩
こうぼんぶ
るんです。それからある期間から業の子になって、罪悪深重の凡夫である人間が出来た、そう
いうふうに説いている。ですから業想念の自分、凡夫の自分というものを消してしまいさえす
れば、本当の神の子の姿が現われるんだと、それを上手く説いている。
ところがキリスト教の間違った教え方は罪悪深重の凡夫ばかり説いている。お前は罪の子
すが
だ、人類は原罪があるんだ、だから神に継らなきゃなんない、とこういうふうにいうんです。
ところが罪深い人間がいくら槌ったって、それは救われるわけじゃないんです。強盗が殺人を
犯しちゃって、いくら勘弁して下さいーと泣きこんだって、縄ったってやっぱり強盗殺人の
罪に問われます。スリをしたとしても、一遍やればそれは罪に問われる。だから罪深き人間が
いくら神さまーとやったって救われるものじゃないんです。ここがとても大事なところで、
人間が神さまの子であるという所が本当にハッキリしていないんで、罪深き人間だから、イエ
スを通して神さまに救って貰わなきゃ駄目なんだ、ということなんです。ところが私はそうで
はなくて、罪深い人間というものは神さまを離れていた想いなんだ、神さまってつながった時
21
はその想いは本心の想いであって、罪の子の人間の想いではないのだ、
こそ一度は肉体人間は罪悪深重の凡夫だ、と思うことです。
というのです。だから
2
肉体人間は凡夫
うそいつわ
この人間というものは嘘偽りをしなければ生きてゆけない。一生一遍の嘘もつかない、一遍
おこ
の妬みも起さない、一度も恨みも悪い心を起したことがないという人はないわけです。一度も
あぎむの
人を欺かない、人を押し除けないということはない、必ずなんかやっているわけです。しかも
食事においても、植物を食べ動物を殺して食べている。そういうのが肉体の人間ですわね。怒
もつら
るまいと思っても怒ってしまう、恨むまいとしても恨んでしまう、妬むまいとしても妬み心が
湧いてくる。いいことをしなくちゃいけないと思いながらも悪いことをしてしまう。そういう
ような想いが誰にでもあるんです。それは人間が肉体であるという人間観から出ている想いな
んです。
あなたは菩薩
人間は肉体的に個人々々別になっている、自分と人とは他人なんだ、体が違えば他人なん
だ、向うの利益とこっちの利益と違うんだ、まず自分の利益を先にする、自分一家の利益を先
にする、それで余った力で他人のことを思う。いいと思われる人たちでもそうで、他人のこと
思わない人はたくさんある。だから罪悪深重の凡夫だというのです。
なぜならば神さまというものは一つの命であり、一つの命から分れた人間が兄弟姉妹である
のに、兄弟姉妹であることを忘れてしまって、自分と人とは他人なんだ、自分の国と他の国は
利害関係は別なんですね。自分の国は得したい、外国はどうでもいい、というふうにみんなバ
ラーに分れて生活しているわけです。それは神さまのみ心ではない。神さまのみ心というの
なおびわけみたま
は一つ、宇宙神が分れていろーな分霊になっている。直毘から分れて分霊になってどんどん
みなもと
増えてゆくんだけれども、結局元は一つなんですね。だから源の一つの所へ一遍帰って行か
ないと、私とお前は兄弟なんだということがわからないんです。
09ω
罪人はやはり罪人
24
しもべ
ところがキリスト教ではそういうことを説きながらも、分れた生命であるものを下僕とい
すが
い、神さまの召使いにしちゃった。だから下僕である罪深い自分が継らなきゃならない、とこ
ういうんです。ところが罪深い人間が縄っても駄目なんです。ここの所がとっても難しい、よ
く聞いて下さい。罪深いままを意識しながら、私を救って下さい、といっても駄目なんです。
なにとぞかんぺん
私は強盗しました、何卒勘弁して下さい、といっているのと同じなんです。強盗したものは絶
ちようえき
対勘弁ならない。スリは捕まれば懲役になる、人殺しすれば懲役になる、それはこちらの世界
も霊の世界も同じなんです。だからいつも私は罪深いもんだと、いかにも信仰深そうにいうん
だけれども、神さまといいながら神さま観が違うので明るい感じが一つもしない。本当の意味
つみぴと
の キリスト教じゃなくて誤れるキリスト教の教え方というのはみんな罪深い、汝らは罪人であ
るとパンフレットにも第一番に書いてある。私はあれみるとゲッソリしちゃう。
つみぴとつみびと
罪人はやっぱり罪人です。いいですか、罪人という観念はいくらしても罪人なんです。それ

はいくら経っても救われないんです。罪人であるのは誰であるかというと、神の子である人間
おか
じゃない。神の子である人間は罪なんか犯したことはない。誰が犯したかというと、肉体の人
間が犯している。肉体の人間が、神さまは完全円満なのにそんなこと忘れちゃって、自分は神
さまの子であること忘れてしまって、親の中にいたのが放蕩息子のように外へ出て、さんざん
道楽をして、それで私は道楽者だくといっているのと同じ。
神さまは親です
あなたは菩薩
もと
ところが本当は神さまは親なんだから、自分の子供はいつでも可愛いい、早く私の許へ帰っ
ておいで、もう罪なんていうものはないんだよ、帰ってくりゃいいんだよ、そういっているん
です。それが信仰の根本なんです。神さまがそのようにお釈迦さまに説かしたり、イエス・キ
リストに説かしたりしたんですが、聞いたほうが間違っちゃって、罪人だーってことになっ
25
いつたんすが
ちゃった。さあ罪人と一旦なっちゃうと、神さま! と鎚ろうにもなかく継れないんですね。
みなり
例えば自分が身形が悪いーと思っていると、金持の家にはなかー行かれませんよね。自
こじきみなりみなり
分は乞食のようなものなんだ、身形が悪いんだ、あそこは昔の主人だけれどもとてもこの身形
みなりまた
じゃいけない、親の家なんだけどこんな汚ない身形じゃあそこは敷居が高くて跨げない、って
もと
こういうことになるでしょ。だからいくら神さまーって呼んだって神さまの許ヘスッキリと
ひげ
行かないんです。自分が自分をしっかり押えて卑下しちゃっているからね。それじゃあ宗教じ
ゃあないんです。
それじゃ人間の心がいつでも暗くなって、罪深い人間で、いつも神さまの下僕であって、下
僕だから神さまが、この野郎っていえば、ヘエっていうより仕方ない。そんな貧弱なもんじゃ
わけみたま
ない、人間というものはあくまで神の子である、神の分霊であるんです。だから罪悪深重の凡

夫というものの罪悪感を一遍脱ぎ捨てなきゃならないんです。
26
凡夫をぬぎすてる
あなたは菩薩
そこに私のいう消えてゆく姿という教えがあるんですよ◎ 今しまったと思うことがある、今
ねた
怒ってしまう、今妬んでしまう。ああ妬んで悪かったなあと思う、悪かったと思う心は神さま
の心なんです。悪いことして、ああこれでいいんだというのは、これは悪魔の心なんです。業
想念の心。もう再びしまいという時には神さまの心がひびいてきているから、悪いことがいけ
なぐ
ないと思うんです。しまった、これはいけないんだな、あの人を撲っちゃった、いけないんだ
な、と反省の心が起った時は神さまの心が流れてきている◎ 本心が開いたんだから、そのまま
思いきって、もう再びしまい、神さま! といって神さまの中へ飛び込んじゃう。ああ済みませ
ん、ご免なさい、もう致しません、神さま、ってずーっと入ってゆく。

ところが、神さま、宇宙神というのはわからない、目にも見えない、手にも触れない。どう
していいかわからないから、祖先の悟った人である守護霊に対して、守護霊さんお願い致しま
27
す。私、悪いことしちゃったけれども、もう今後再び致しません、というふうに守護霊さんに
きゆうせ
縄っちゃう。また神さまの救世の光としてきている守護神に継ってしまう。守護霊さん守護神
いじ
さんお願い致します、とそのまま縄ってしまう。そうすると、悪いーと自分を苛める気持が
なくなって、その上、守護霊守護神というふうに明るい光の中へ入ってしまう。そうするとそ
の業は消えてなくなっちゃうから、再びしなくなる。
ゐフら
それをいつまでも自分が悪いーと思っていると、例えば人を恨んでしまった、ああ恨み心
は悪いんだ、私は宗教をやりながらなんで恨み心が起るんだろう、私は悪いんだ、と今日も想
あしたあさつて
い明日も想い明後日も想う。一月も二月も私は駄目なんだーと思ったら、仕事なんかできゃ
あしませんよね。そういう心は誤てる宗教の心なんですね。悪いと思うのはその場で一遍でい
わる
いですよ。悪いと思った時にはいい心なんだから。いくら悪いことしても、人を苛めても、悪
もじつ
儲けしても、なんでもかんでもこれでいいんだ、俺は腕がいいんだということをいっていたん
じゃ、それは良心がないから、善も悪もわからないということです。28
あなたは菩薩
光ロ元になる
ところが良心があればそれが悪いとわかる。その良心というのは何かというと神さまの心、
本心なんです。だからその悪いと思った心、ああこれじゃいけないんだと思う心で、そのまま
神さまの中へ、世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、私達の天命
まつと
が完うされますように、守護霊さん守護神さん有難うございます、とこういうふうに祈りの中
へ入ってしまう。そうするとその人は悪い心がそのまま消えてしまって、光一元の心、神さま
の心になっちゃうんです。こういうことを私が教えている。これは山へ入って座禅を組まなく
ても、滝に当って修行をしなくても、毎日くの日常生活の中で出来るわけです。寝ていても
出来る、起きていても出来る、ご飯を食べていても出来る、何をしていても出来る宗教なんで
す。祈りなんです。こういうのを本当の宗教というんですね、それを私は教えている。29
祈リは光明心
30
先生がそういうんだからいいや、世界平和の祈りをやりましょう、世界人類が平和でありま
すように、と子供もやってます。お母さんが世界人類をやれっていうから、なんだかわからな
くてもやっているけれども、世界人類が平和でありますようにという祈りの中には、心の中に
は光明心がある。平和っていうのは光なんだから調和の心がある。だから自然に”世界人類が
平和でありますように、日本が平和でありますように、私達の天命が完うされますように、守
護霊さん守護神さん有難うございます”といっていると、いっているだけで、思っているだけ
で光明化してくるんです。
それはなぜかというと、祈りの言葉はすべて光明心から発しているんです。悪い人は世界人
類が平和で、とはいわないんです。世界人類が平和でありますようにと思うことはもう良い心
なんです。そしてその祈りというのはどこからきたかというと神さまから来た。神さまが私を
通してこれをやれと、これをやればお前さんの周囲が必ず光明化するんだよ、お前たちは光り
輝くんだよ、その周囲がみんな良くなるんだ。それが重ってゆけば世界が良くなるんだよ。戦
争しようとする想いもスーっと光で消されて消えてしまう。自分だけが儲けようと思う心も消
えてゆく。だから一人でも多く、一国でも多く世界平和の祈りをすれば、世界は本当に平和に
なるんだ、だからやりなさい、というふうに神さまがいっているわけです。
日本の取柄は素直な心
あなたは菩薩
いつもいうけど日本はもうやりようがなくなっている。なぜかというとアメリカという強国
はさ
とソビエトという強国の間に挾まってどうにもならない。アメリカから救って貰わなきゃ成り
いろおとこ
立たないような経済力で、軍事力もありません。色男金と力はなかりけりというけど、色男で
とりえ
もないのに金も力もないんですから、なんにも取柄がないでしょ。
とりえ
ところが取柄があるんです。何があるかというと、素直な心。素直な心というのが日本人の
31
とりえきいつ
一番の、最大の取柄なんです。帰一する心、一つのものにスーっと集ってくる心、例えば天皇
しようちよく
陛下というと、スーっと集ってきた。終戦の時詔勅で、天皇陛下のみことばありました。その
たいしようほとん
終戦の大詔を聞いた時にみんなが止める気になっちゃった。僅かにどこかで騒いだだけで、殆
どスーっと天皇の一声で統一したでしょ。終戦になった。そのために原爆の洗礼を二発受けた
くだ
きりであと受けなかった。あれがもし天皇が終戦の大詔を下しても知らん顔して、何いってや
んでえ、俺はやる、ってことでやっていれば、原爆がいくつ落ちたかわからない。東京なんか
こゐつ
はやられているでしょうし、今の一割も生きていないと思います。やられてしまって初めて降
さん
参するような形だったと思います。だから天皇の一声というのはたいした力だったんです。た
つきいつ
だ天皇の力だけじゃなくて国民性が素直にスーっと従いてゆくところ、一つのものに帰一して
ぴてん
ゆくところに素晴しい美点がある。
しゆうちよう
こういう美点は他の国にはないんです。野蛮人には酋長がおどかせば帰一するということが
ありましょう。しかしそんな低次元の在り方でなくて、自然にこれだけ一般知識が高く文明開
32
あなたは菩薩
化が進んでいる国で、これだけ素直な国民というのは日本人をおいて他にないんです。その素
直な心を今は忘れかけている、だんー素直でなくなっている。なんでもかんでも自分のこと
わがまま
を主張して、我儘でもなんでも自分のこと通しゃあいいんだというような自己主義の心になり
とりえ
かかっている。ただ一つの取柄、素直である、中心に帰一する、一遍に団結できる、そういう
大事な心が今日本人の心からだんー遠去かってきている。
一番大事なことは素直な心というものです。素直に神さま有難うございます、という心、素
直にああこれがいいんだという心、そういう心が宗教の進歩によってだんく目覚めてくるわ
けです。目覚めさせるのが私達の役目なんです。
むずかしい理諭ではだめ
宗教は難しい理論では駄目だという時代になってきているのです。難しい話じゃなくて、易
しくわかるような、しかもそれが人間の肉体的なご利益だけじゃなくて、実行していると自分
33
の利益もあり人の利益にもなり、日本のためにもなり世界のためにもなるようなものでなけれ
ばいけなくなった。それは何かというと、やっぱり世界平和の祈りよりなくなってくるんで
す。他のやり方ではもうどうにもならないんです。
神さまどうか商売繁昌しますように、家内安全でありますように、病気が直りますように、
これだけじゃしょうがないでしょ。例え商売が繁昌したとしても、子供の病気が直ったとして
も、それだけじゃまた病気にもなるだろうし不景気もくるだろう。これだけではいつかアメリ
まさも
カとソビエトの間に択まって揉まれて日本は駄目になっちゃう。日本が駄目になれば自分たち
も駄目になる。日本が灘れてしまって自分たちが生きているってことはない。今度の戦争なん
かは水爆戦ですから、何発か落っこちれば世界はみんな灰になっちゃう。そのように日本でも
なんでも、全部へ影響してきて駄目になってしまうような時に当って、自分だけの病気が直れ
ばいい、自分だけの貧乏が直ればいいというような教え方をするとすれば、それは本当の宗教
ではない。世界を救う宗教でもなけりゃ、その人自体を救う宗教でもないんです。
34
あなたは菩薩
自分も救われ人類も救われる方法
だから私は自分が救われると共に世界人類が救われる方法を教えている。それは何かという
と、世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、我が天命が完うされま
すように、守護霊さん守護神さん有難うございます、という教えです。これをやっていると自
分の病気のこと、貧乏のこと、いろいろの悩みがあって、それで頭がクチャーしている想い
がみんな、世界人類が平和でありますように、という想いのほうに行ってしまう。世界人類が
平和でありますように、の祈りにある光の中へ業がみんな入ってしまうと、業が光でみんな消
されてしまうから、自然に自分の中の業がなくなってしまう。それと共に周囲が光明化してく
る、ということになるんです。それが世界平和の祈りなんですね。これをやらなきゃもう駄目
だと思うので、近頃は私は、世界平和の祈りを殆ど重点にして話している。他の話はおまけみ
たいにして世界平和の祈りをなさい、とばっかりいっているんですね。
35
あなたの真実は神界にある
36
一番大事なことは何かというと、何遍もーいいますけれど、人間というものは肉体ではな
ゆうたい
い、肉体は単なる一つの器である、肉体の他に幽体もあれば霊体もあれば神体もあるんだ。そ
ゆうかい
れで人間は神界という所にもいれば、霊界にもいれば、幽界にもいれば、肉体界にもいるん
だ、今ここにいるあなた方がそうなんだと私はいつもいうんです。今この肉体世界にあなた方
こうみようさんぜん
が いるようだけれども、実は神界にあなた方は光明燦然として働いているんですよ、とこうい
うんです。ですから「実は昨日お祈りしておりましたら、天の五井先生がお現われになりまし
て、私の患部を撫でて下さいました。私はスッキリ致しました」なんて体験談やら「五井先
生! ってお呼びしましたら、五井先生がパッと現われて頂きまして、大丈夫だよ、とおっしゃ
って頂きました」っていうのもある。みんなが経験しているんです。
その五井先生なるものはどういうのかというと、それは神界の五井先生ですよ、この肉体の
あなたは菩薩
さす
五井昌久が夜中の三時頃パッと雨戸をくぐっていって摩るわけにいかないでしょ。一度に千人

に呼ばれたら困っちゃう。あっちこっちへ一晩中駈け廻らなくちゃならない。何が行くか、そ
れは私の霊体が行き神体が行くんです。神体というのはどういうことかというと、太陽のよう
なもんで、八方どこへでも光線だから行くわけです。自分のほうで窓を開きさえすれば太陽の
光が入ります。それと同じように、向うが五井先生!といった場合には光がサーっと入ってく
さす
る。そうするとその姿が五井先生という私のような顔でもって現われて、それで摩ってくれ
る、そうすると病気が直ったりする。肉体の五井先生はこの体一つで動けやしない。それと同
じようにあなた方の本当の姿も神体なんです、神さまなんです。五井先生!とみんながいうと
同じに、五井先生という名前で皆さんの前に現われている神さまは、皆さま自身でもあるんで
かり
す。そこのところが難しい。皆さんの本当の姿は五井先生なんです。仮に五井先生という名前
で現われている神さまなんです。それがわかれば実に気が楽になるんですよ。3?
皆さんの本体も私の本体も一つ
38
一挙手一投足、動かしていることはみんな五井先生がやっていることなんです。その五井先
生なるものは誰かというと、この肉体の五井昌久じゃなくて、五井先生という名前で皆さんの
所に現われている神さま、即ち皆さんの本体なんです。皆さんの本体も私の本体もみんな一つ
なんです。何故ならば宇宙は一つだから。こんな簡単な原理がなかーわからない。宇宙神は
一つなんですよ、宇宙神は一つの姿で太陽のように輝いている。その光の一つが皆さんなんで
よご
す 。その光が汚れているか汚れていないかが問題なので、全部きれいに光が澄み通っていれば
太陽と同じ、太陽そのものです。
私はあなたになれる
いのち
神さまどうか私の命をお使い下さい、
なにとぞ
何卒神さまのご用に立てて下さいって、私は神さまの
あなたは菩薩
中に投げ出してしまいました。そのために自分の個我という、肉体の私という者はいなくなっ
ちゃって、神さまの私だけになった。というのは、私が神さまの中へ入り込んじゃった、太陽
まま
の中へ宇宙神の中へ入り込んだ。そのために肉体の五井先生というのはこの儘座っていてもい
くうどう
ろんなことがよくわかる。「あなたの病気はここにありますよ」「医者が空洞があるというんで
すが」「ああそれはないですよ」とか「私はどこか体が変なんですが、どこが悪いんでしょう
か」「ああそれは右の肺に一寸空洞があって大したことない」というのもわかる。
なぜわかるかというと、あなたの体も私の体も同じなんだ。スッとすればスッと現われてき
まして、頭なら頭、胃腸なら胃腸の悪い所が現われてきます。そんなの普通でわかりっこない
でしょ、人間の中は機械でできているわけじゃないのに、こうやってみてわかるんです。それ
いのち
はどうしてかといいますと、あなたの命も私の命も一つです◎ 流れてくる所が一つなんです。
太陽の光のようなもので太陽を宇宙神とすれば、太陽の光線が私でもありあなたでもあるんだ
から、この光線の出どころは神さまの中でしょ。私は神さまの中ヘスッと入れるもんだから、
39
スッスッとこう私の中に入ってくるわけ。そうすると一遍に私はあなたになっちゃうんです。
40
神界にのぼれる梯子
ところがあなた方はそれを知らないから、あなたは私になかーなれないんです。ところが
五井先生ってホソトに思うと、あなたが私になってそこに五井先生が現われちゃう。そこが一
番大事な所ですよ。
これが五井先生じゃなくて、イエス・キリストとしますね、イエス・キリストという人はイ
エスという肉体が、キリストという真理に目覚めて、それで神さまと一つになったわけです。
だから肉体にイエスという人がいたけれども、それは個人のイエスじゃなくて真理としてのイ
エスなんです。全体としてのものが一つに現われているだけです。だから全体という中には皆
さんも入っているんだから、皆さんはイエス・キリストの中へ入っちゃうんです。
昔、イエス・キリストの時代にあなたもいたんですよ。お釈迦さまが生れた時にもいたんで
あなたは菩薩
す。例えば私がイエス・キリストとすればあなた方がイエス・キリストの中にいるんです。イ
エス・キリストの中にみんながいるんだから、イエスのみ名を唱えればあなた方が救われるの
は決っているんです。ところがイエスさんというのは今いない。実際目の前にいないもんだか
らイエスさま! っていったって、キリスト教の人じゃない人は駄目でしょ。そこで五井昌久と
いう人が現われて、さあ私のことを思いなさい、そうすりゃあなたは救われるんです、とこう
いうんですね。
なぜならば私を思いなさい、といっている私は、肉体の五井昌久じゃなくて、神界の五井昌
エツクス
久、即ちX なんです。神さまの世界にいる人なんです。そうすると、五井昌久という肉体が
はしごはしご
梯子になりまして、梯子を通してスーっと上ってゆく。そうすると一遍に神界へ行っちゃう。
それを三段構えにして、あなたの悟った霊である守護霊さんがいて、その上にまた神さまの分
はしご
れである守護神さんがいて、その神霊方を梯子にしてあなたは神さまの世界に上りなさい、と
いっているんです。それで足りなきゃ五井先生がここにいるから、五井先生、と思いなさい。
41
そうすりゃあなたは神界の本当の住居に行くわけです。
42
神の子であることを忘れている
ほけきようほうとうむすここじき
法華経の中にこういうお話があります。ある放蕩息子がいまして家出しちゃう。それで乞食
になっちゃった姿をある日父親の王様がみつける。あ」あれは私の息子だと思い家来に「あれ
を掴まえてこい」という。家来が追っかけて行くと、なんか悪いことで捕えられると思って逃
げちゃう。王様は、あxあれは王子であることを忘れ、金持の出であることも忘れ、ああやっ
て貧しい生活に入ってしまったので、もう自分の本当の姿を忘れちゃった、これでは徐々に救
ってやらなきゃ駄目だと、それで一番初めに卑しい仕事を与えるんです。それでまた次の仕事
を与え、また次の仕事をと、だんー仕事を上げていって、最後に「実はお前は私の子なんだ
よ」という。そして宝をみんな授けるという話があります。
それと同じように本当は皆さんは神さまの子であるんだけれども、それを忘れちゃって、業
想念の中に入り込んでしまっているので、あなたは神さまの子なんですよ、イエス・キリストと
同じなんですよ、といってもわからない。「そんなこというけれど、キリストというのは偉い
んでしょ、一人しか出てこないんでしょ」という。そんなことない、キリストと同じなんで
あいつきちがおそ
す。こんなことをクリスチャソの教会でいったら彼奴は気違いだといいます。ああ恐れ多い、
ばちあた
罰当りっていいます。罰なんかちっとも当らない、イエス・キリストと同じなんです。
あなたも仏陀、私も仏陀
あなたは菩薩
私は修行している仕上げの頃、ある時祈っていると、スーっと全然体がないんです。祈って
いる時は光り輝いている。
れんげだいほうじゆ
そうすると向うからはじめお釈迦さまが蓮華台にのってハッキリ現われ、それで宝珠を二つ
さかき
くれたりお榊をくれたりしました。それが消えると同時にイエス・キリストがまた光り輝いて
ニコーして十字架にかかったまま現われた。十字架というのは何かというと、自分という肉姶
まつさつ
体の観念を抹殺するということ、肉体という観念、罪という観念を抹殺して本当の神さまが現
われる、お前の本当の姿が現われるんだというために、イエスが十字架にかかっているんで
す。それでイエスが私の中ヘパッと入り「汝はキリストなり」こういった。私もそうだと思っ
た。普通ならば汝はキリストなり、なんていわれたら、とんでもございません、キリストだな
んてある筈がないって辞退するんですけど、その時私は本当の意味がわかったんです。誰でも
キリストなんだということがわかった。誰でも仏さまなんだということがわかったんです。あ
ぶっだ
なたもキリストであり、私もキリストであり、あなたも仏陀であり、私も仏陀であるというこ
とがわかったんです。
44
本当の人間はキリストであり仏陀である
それはどういう意味でわかったかというと、中にあるあなたの本当の姿はキリストであり仏
陀であるということがわかった。肉体そのままで仏陀であるわけがない、肉体そのままでキリ
あなたは菩薩
あい
ストであるわけがない。肉体というものは罪悪深重の凡夫と神の子の合の子です。光と業想念
が入り混っているものでこれが現われている。それで神の光の強い人がいい人、業想念の強い
人が悪い人であると、まあこういうわけです。
さんがい
ところがそれはあく迄も現界の三界のことであって、本当の人間じゃないんです。だから人
間っていうのは仕方がないものさ、人間だからこれくらいのことはしょうがない、若い中は楽
しいんだ、酒飲もうとか、よくそういうふうにいうでしょ。それは間違いです。人間だからこ
そ立派でなければならない、人間だからこそ浄らかでなければならない、人間であるからこそ
まことうじむし
愛と真があるんです。動物じゃ仕方ない、蛆虫じゃ仕方がない。踊る神さまじゃないけど、蛆
虫ども乞食どもじゃしょうがない。本当の人間というものは迷っているものではない。汚れて
いるものではない。神であり、キリストであり、仏陀である、ということを私が統一していて
わかったんです。
それ以来私は普通になって、普通のままわかるようになった。そうするとみんなが先生がお
45
話していると光り輝いています、先生の後にお釈迦さまがいらっしゃる、キリストがいらっし
おもはゆ
やるという。そういうこといわれると普通だったら面映い気がするでしょ、私はああそうです
よ、当り前だと思って聞いている。
なぜ当り前かというと、私は一寸も自分の利益を考えていない。自分のこと一寸も考えてな
い。ただみんなが立派になって世界が平和になるように、その想いだけだからそれは神さまの
想いなんです。だからキリストであるといえば、そうだ、仏陀だといえばそうだというんで
す。個人の仕事をしている時はキリストだといえば、いえ違いますといいますよ。仏さま、い
や違います、私は肉体の五井昌久です、というかもしれないけども、こうやって壇上で話して
いる時、ものを書いている時、それは確かにキリストであり仏陀です。だからあなた方も本当
に真理のことを書き、真理の言葉を吐いている時にはキリストであり仏陀です。キリストが話
をし仏陀が話をする。だから私がこうやって話をしている時には仏陀であり、キリストです。
46
小我が消えればみなキリスト
あなたは菩薩
この間神田の講演会にお医者さんご夫妻がきて、私に初めて会ったんです。その人はクリス
チャソで、ある霊能者が連れてきた。今迄教会へいっているけれどなんらキリストを感じたこ
とはなかった、ところが私にただポソーと浄められたらキリストを間近かに感じたというん
です。その話を紹介した霊能者に話したら、その霊能者がどういう浄めをした時にキリストが
現われたかみようと思って、そのお医者さんを私が浄めている時に向うからみていた。そした
なるほど
らああ成程キリストを感じたというわけだ、なぜならば浄めている人がキリストなんだ、とこ
ういうわけ。私という肉体の五井昌久がキリストと一つになっちゃって、キリストがここへ降
りてきて浄めている。だから向うはキリストを感じるわけだ、とこういうわけです。私もそう
だろうと思います。普通ならば遠慮しちゃって、恥ずかしい、穴があったら入りたいというで
こうまん
しょう。私は穴なんかいらない、当り前だと思っている。そうなるとなんか傲慢のように聞え
47
るけどそれが当り前なんです。人間は欲がなくなってただ相手のことばかり思い、人類のこと
ばかり思えば、みんなキリスト、みんな観世音菩薩です。なんでも本当に身を殺してその人の
ことを思う時にはそれは菩薩でありキリストです。だからいつでもキリストでいたいと思った
ら、いつでも人のことを思って、一生懸命人のためにつくすんです。
ひげ
日本人というのは。バカに高慢になったり、バカに遠慮してみたり、おかしいんです。”卑下
こうまんけが
高慢いつれもいのち汚すもの己れをしかと打出さむのみ”。私の歌があります。みんなキリス
いのち
トそのままなんですよ、キリストを現わさなきゃならない。だから人のために命を投げ出して
やっている時は、その人は少なくともキリストの光、菩薩の光が出ているわけです。
48
世界平和の祈りは菩薩の心
世界平和の祈りというのは、キリストの心、仏陀の心、観世音菩薩の心です。世界人類が平和
になるということは一番いいことでしょ。宇宙平和でもいいけども地球に住んでいる人は、世
あなたは菩薩
界平和のほうがわかり易いからそういうんですが、世界平和ということは神さまの望むことで
あり、人類全部が望むことです。人類全部が望むことをやることはそれは菩薩心というんで
す。だから世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、という時には菩
まつとさぐ
薩心なんです。我が天命を完うせしめ給え、という時には自分の本体を探る求道心なんです。
げんそう
自分の心、自分の本当の姿を出したいと求道する。世界平和、日本の平和、と唱える時は還相
といって、菩薩になって悟って帰ってくる姿です。天命を完うせしめ給え、という時には自分
が昇ってゆく姿、これを一緒にくるめている。それでみんなその責任を守護霊さん守護神さん
まか
に委して、守護霊さん守護神さん有難うございます、と感謝する。そういう祈りは菩薩の祈
り、キリストの祈りですから、誰でも菩薩になれ、誰でもキリストになれる祈りが世界平和の祈
りなんです。そういうふうに易しく天の五井先生から、いわく宇宙神から説かされている。だ
から肉体の五井昌久が偉いわけでもないんだけれども、肉体を通して素直に神さまのみ心を通
すということが偉いことなのです。神のみ心を素直に通して行なうってことが偉いことです。
49
念仏の真義
50
一番危険のない、一番易しくて一番確率があるのが、世界平和の祈りなのです。だから世界
平和の祈りをやれば自分も救われ人も救われる。よく考えて下さい、今迄の宗教と違うところ
なむあみだぶつ
がそこなんですよ。今迄は南無阿弥陀仏といわせても、南無阿弥陀仏の本当の意味がわからな
おうじよう
い。南無阿弥陀仏といえば自分が救われる、死んでから極楽往生すると昔いっていた。本当は
南無阿弥陀仏といえば生きている時でも極楽往生しているんです。なぜ南無阿弥陀仏というと
極楽往生するかというと、南無阿弥陀仏というのは神さまと一つになるという意味、私は神の
なむぎみょうあみだぶつ
子であるという意味なのです。南無というのは帰命する、一つになる。阿弥陀仏というのは阿
あみだ
弥陀さま。阿弥陀さまというのは神さまのことです。阿弥陀というのは宇宙に充ち充ちる光と
いうことです。阿弥陀さまと一つになるということは神さまと一つになることと同じです。だ
か ら神さまと私は一つであるー、とこういう意味なんですよ。それをお願いするような口調
あなたは菩薩
で南無阿弥陀仏くという。本当は神さまと私が一つでありますように、という意味です。
そう思って、いつもなにか恨みが出てきても、病める想いが出てきても、みんな阿弥陀さま
まか
に委して、南無阿弥陀仏とやりさえすれば本当の効果があったんですね。それをなんかただ救
って貰おうというだけで南無阿弥陀仏やっている。それだから割方効果がなかった場合もあ
やり
る。効果があったのは、お百姓さんでも職人さんでも、南無阿弥陀仏一本槍でやった人で、そ
みようこうにん
れを妙好人といいます。南無阿弥陀仏一点張りで、なんにも理屈は知らないで、それで本当に
いいことをして、自分と仏さまが一つであるということが本当にわかったのです。
念仏と世界平和の祈り
ところが、もっと易しいのが世界平和の祈りです。こうやって話を聞けばわかるけれど、南
無阿弥陀仏というと、なんか考えなきゃならないから、普通ではなんだかピソとこない。世界
人類が平和でありますようにと聞けばピソときますよね、子供だってわかる。わからない人は
51
いない。しかも外国へ行ってもわかります。世界人類が平和でありますように、これに反対を
唱える人はいない。何いってんだ、世界人類が平和でありますようになんて祈るな、という人
はないんです。こんなにわかり易いんだから自然に心の中でいつでもいえるんです。そういう
ふうに私が変えてしまった。南無阿弥陀仏と同じなんですがただ南無阿弥陀仏だとうっかりす
ると、自分のことだけを思っているような気がする。ところが世界人類が平和でありますよう
には、その言葉そのものがもう人類のことを思う。反対になってくるんです。南無阿弥陀仏の
場合には自分の利益を思って、自分が救われることだけを思って飛び込んでいって、やがて悟
おこ
れば人にも光を投げかけるけれど、私のは逆に世界人類って大きなー菩薩的な心を起さして
おいて、祈っていると自分も共に救われてゆく、とこういうやり方しているのです。南無阿弥
陀仏を一歩前進させておいて、もっと積極的にさせるわけです。
52
菩薩心を起させる
あなたは菩薩
仕事をする時でも世界人類が平和をやればいい、お掃除する時でもなんでも世界人類が平和
でが心にあれば、その人は菩薩心を起している人なのです。人を救おうという心を起している
時は菩薩心、だから世界平和を祈っている人は菩薩。だから自分を軽々とみないほうがいいで
すよ。自分は駄目なもんだと思う必要はない。自分は駄目なものと思うその想いがもう業想念
で消えてゆく姿、業なんです。自分は駄目ではない、神さまの子なんだ、キリストなんだ、そ
れがわからないで自分は駄目だという想いは、神さまから離れた想いだから、それは消えてゆ
く姿なんです。神さまの子である自分が悪いことはない、駄目なことはない。駄目だと思う想
いは消えてゆく姿だから、神さま有難うございます、とこうやらなきゃ駄目です。病気して苦
しい、ああ苦しい苦しいと思うその想いは、痛む想いは中の業想念が毒素になって、それで熱
おかつか
に冒されて出てゆく姿、消えてゆく姿。その消えてゆく姿をまた掴んで痛いーと思う。しか
し痛いのは痛いんですよ。痛んでも痛くないと思えなんて馬鹿なこといわないですよ。お前は
ねはん
キリストなんだから痛い筈はない、なんてそんな馬鹿なこといわない。お釈迦さまが浬架に近
53
あなんさずあなん
くなって、体中が毎日のように痛み、阿難に摩らせたりする。「阿難よ、背中が少し痛む、手
あなん
を当てよ」といわれて阿難は手を当てる。やっばり肉体があればお釈迦さまだってキリストだ

って痛むんです。痛むがままで、普通の体でいながらしかも普通の人を超えている所に偉さが
あるんです。初めから普通の体と違っちゃって、普通の人は痛いのに自分は痛くないというの
ではないんです。痛いんだけれども痛みなんか問題にしていない、そんなものはみな消えてゆ
く姿と知っている。
誰でもお釈迦さまのようになれる
お釈迦さまが痛む時は、それはみんなの人類というよりも国の、地上の人間の業想念を背負
はりつけ
って痛まれた。キリストが礫になったのも、キリストともあろう者が、神の子であるならば
はりつけ
傑なんかにならなくて逃げたらいいだろう、パッとやったら姿が消えるだろう、誰かが救っ
はりつけ
てくれなきゃならないわけでしょ。それがわざー礫にかかったということは、誰でも自分
54
あなたは菩薩
のようになれるんだ、誰でもキリストになれるんだ、誰でも仏さまになれるんだということを
はりつけぷつだ
示すためです。わざーキリストが礫にかかったり、或いは仏陀が病気になったりして死ん
はりつけじんつうりき
でいる。逃げれば逃げられるのに礫にかかったり、仏陀だから神通力偉大で、天の人とも話
ができ、なんでもできる力がありながら、わざく病気をし、腸チプスのような恰好で死ぬん
ですよ。なぜそんな神通力偉大な人がわざー病気のような姿をして死ぬかというと、それは
私もあなたも肉体として同じなんだよ、同じだけれども、誰でも私のようになれるんだよとい
うことを示すために、わざー病気のようになって死ぬ。五井先生は神さまの使いだから便所
にもいかないだろうって(笑)。肉体がある以上肉体の法則があるんだからご飯も食べるし、便
所にも行くし、ただ違うことは例えばどんなに痛みがあろうとも、どんなに熱が出ようともそ
れがあんまり問題にならない。痛いのは痛いんですよ、私なんか四十度ぐらい熱があっても平
気で話していることがある。しかしそれは問題にならないんです、みんな消えてゆく姿だと思
っているから痛いのは痛いままで、ああ痛いーなんていってないで、「先生、大分熱がおあ
55
りのようで」「あΣありますよ」「お苦しいですか」「あ」苦しいですよ」「如何ですかおやすみ
になりませんか」「あ工大丈夫ですよ」それだけ、そこがちょっと違うんです。
普通の人は痛いーって、あ工大変、寝なきゃ、ということなんです。ところが私はそんな
ことはどうでもいい、なぜかというと自分に天命が決っているでしょ。私はこういうことをし
てそれで死ぬんだということがわかっていますから平気なんです。私はまだ腸チブスになるの
は早いんです、死ぬことはまだ早いから、死なないってこと知っているから、痛いの我慢しさ
えすればいいでしょ。だから痛くたって平気で休んだことありゃしません、熱があっても平気
で話をしている。
私は皆さん方に使われ方が割合激しいんですよ。朝から晩まで何百人かお浄めして、お話を
して、帰ってから原稿書く。来年はもっとー激しくなる覚悟ですが、しかしそれはそれでい
い、はげしくなればなるほど人が救われてゆくでしょ。だから痛くてもなんでもない。たまた
ま家に帰って「あなた大変ね」って、うちの家内が同情するけど、同情して貰うのは有難いけ
56
どそれはなんでもない、役目でしょ。
置かれた立場で誠意をつくす
あなたは菩薩
不平不満で仕事していればちょっとしたことでもくたびれちゃう。なんだこんな仕事、って
やっていたらちょっとしたことでもくたびれちゃいますよ。なんでも置かれた立場が天命なん
だから、今置かれているところ、例えば小使さんなら小使さんが天命なんです。だから小使さ
んが十分まこころを尽くせばその人はやがて小使でなくなります。この世では七十でそのまま
終っても来世でもってよくなる、或いは霊界へ行ってよくなる。この世で一番悪いような仕事
をしていたとします。そこでまこころを尽くしてそれをやっていたとすれば、その人は霊界へ
かげんだいじん
いったらスーっと上になります。片っ方は大尽でいてもいい加減なことをしていたとすれば、
かわ
今度は地獄へ落ちます、入れ替るんです。
まこと
一番大事なことは、その人がいかにまこころを尽くすかということです。愛と真と勇気でや
57
っているかいないか、不平不満が多いか少ないか、個人的な不平不満が多ければ多いほどその
人は地獄なんです。不平不満がなくて喜びに輝いていればいるほど、その人は天国なんです。
簡単な原理です。喜びというのは光です。そうでしょ、みたってわかります。ニコー笑って
いる人はなんだか光り輝いてみえます。私の夫はいつも道楽ばかりしていてと泣いてばかりい
てごらんなさい、光り輝いてみえないでしょ。あの人は泣いてて光り輝いている、なんていう
人ないでしょ。ニコー笑っていればなんだか光り輝いている。五井先生の所へ行っても、五
さいせんさいせんばこから
井先生が泣いてばかりいてごらんなさい、うちはお審銭が上らなくて、いつもお奏銭箱が空
で、なんて(笑)泣いてごらんなさいよ、私の所へこなくなっちゃいますよ(笑)。私は横関
まか
さんに一切委せて、一切関係なくて、それでのうーとやっています。だからこの人はただの
お客さん、この人は金持だからなんて(笑) 区別していませんよ。ただであればあるほど、余
計キャラメルなんかやってますわ(笑)。
58
天国の心
あなたは菩薩
そういうもんで、いちー置かれた立場で不平不満があったら駄目です。置かれた立場がい
かに悪かろうと誠心誠意尽くしていれば、その人は次の段階で素晴しいものになる。例えば結
婚して夫が悪い、妻が悪いとします。夫が悪かろうと妻が悪かろうと、それは前生の因縁で、
自分が前の世でやってきたことが返ってきて、ここで現われて消えてゆく姿なんです。夫に一
なぐ
っ撲られたら、あ』これで一っ過去世の因縁が消えたんだな、有難うございますと思うのが本
さかねじ
当なんですよ。妻に少し逆挨食わされたら、あΣ これで一つ消えたんだと思う。
げんいんけつかいんねんいんが
みんな原因結果なんだから、因縁因果というのは原因結果ということです。原因結果という
ことはこの世だけではなくて、前の世前の世の原因が現われて結果になって、今現われてい
る。何遍もー生れ変った前の世の想いが今結果として現われて消えてゆく。それを「私なん
にもしないのに」というけど、そうじゃない。なんにも私しているんだ(笑)。それは前の世
59
であるかも知れない、今生でも相当やっている、それが現われている。それをされたことばっ
かり考える。何かされた、自分に不為のことばかり考える。あN自分はなんて情けない者だろ
う、自分ほど不幸せな者はいない、と思うような人は、その心が不幸せ。自分は不幸せなんだ
よろこ
と思う心が不幸ですよ。はたからみて、どんな不幸せな環境にあっても歓びに輝いていれば、
その人はその人柄で、あΣなんて立派な人だろう、まるで天使のようだと、こうなりますよ。
そういう心が天国の心なんです。だから生きながら天国地獄が決まっているんですよ。この
肉体にいながらも天国地獄は決まっている。同じ畳の上に住んでいても地獄に住んでいる人
と、天国に住んでいる人とあります。この天国地獄の心がそのまま霊界に持っていかれるんで
す。今天国の心にいて死ねばその人は天国です。今地獄の心で死ねばその人は地獄です。そし
て地獄に落ちることを救ってくれるのは唯一つ、神さま! って感謝しちゃって、神さまの中に
入り込んじゃうことです。自分じゃこの悶々たる想いをどうにもできない、不平不満をどうに
もできない。どうしても不平が起る、どうしても不満が起る、どうしても妬みが起る、どうし60
ても怒りが起る、そういう想いをすべて神さまに委せきった時にその人は天国なんです。
地獄の想いをとってくれる守護盟さん
あなたは菩薩
それは神さまがその不平不満を取ってくれるから。それが守護霊さんの役目であり守護神さ
んの役目なのです。お前には不満がある、あ』前生の因縁で仕方がないけど、今生からみると
無理もないな、よし私にそんなに頼むのだから取ってやろうって、懐に入れてくれるんです。
不平は不平のままで、不満は不満のままで、妬みは妬みのままで、そのままで神さま有難うご
ざいますく、守護霊さん有難うございます、守護神さん有難うございます、とやっていると
知らない間に不平不満が少なくなってくる。そうするとその生活が明るくなってきます。金が
あるから幸福じゃない。地位が高いから幸福じゃない。地位が高くて金があって心も安心立命
していたら一番幸福で、その人は前生の因縁がよかったんです。それで死んでも天国、これは
かんべき
一番いいけれどこれはなかくない。そういうふうに全部完壁にいいというのは前生の因縁が
61
いいことなんだから、ますー感謝して私の前生さん、どなたか知らないけれども、確かに私
であったに違いない(笑)どうも有難うございます、と自分に感謝すればいいですよ。
62
悪い環境にも感謝出来る
でももし悪い環境だったら悪い環境のまま感謝する。それはどういうことかというと、この
世で悪い環境であることは地獄へいかないということなんです。自分は力があるのに今地位が
低くて貧乏で叩かれている。そういう場合にはそれは感謝すべきなのです。なぜかというと、
かこせ
過去世でさんざん犯してきた罪が今この世で肉体があるうちに消えてゆく。これが消え去って
ごまか
しまえば天国です。それを前生の借金を背負ったまま、しかも胡麻化して、地位が上だったり
金を持っていると、この世ではいいようにみえるけれど死ぬ時の苦しさと、死んでからの苦し
うんでいばんり
さは、この肉体の世界の苦しさとはもう雲泥万里の違いなのです。
悪い心があるままで死んでごらんなさい、それはすごい地獄へ行きます。この肉体を離れた
繋とか地獄とかいうものは自分の想いがそのまま現われるんです・とにかく肉体の衣を騰
でみりゃ、肺いで腹を割ってみるといいんです。俺の腹は黒いか白いか、光りがあるかしら、
たどん
炭団かって、眺めてみると自分でわかりますよ。
あなたは菩薩
63
64
神の子の自分を体得させる祈り
昭和32年12月27日神田神保町区民会館
神さまトリオ
今、船戸倉蔵さんがお話しましたけれど、なかーよい話でした。観ていますと、廿七、八
才で亡くなった天台宗のお坊さんが船戸さんのうしろについていまして、その人が一生懸命し
ゃべっている。船戸さんプラス守護霊さんなんですね。
人間というものは、自分がやっているように思うけれども、実は自分の肉体がやっているん
うし
ではなくて、後ろの守護霊さんがやっているんですね。自分の分霊と守護霊さんと守護神さん
とトリオが三重奏をやっているわけです。それを普通は知らないで、自分がやっているんだ、
自分の分霊だけでやっているんだと思うんです。分霊がわかればまだよいけれど、分霊なんて
わけがわからなくて、肉体の自分がやっていると思うんです。それで苦しくなってしまう。
肉体は神さまの容れもの
神の子の自分を体得させる祈り
私は二、三日前から体がちょっと変なのです。いろんな想いが来まして、昨日は非常に熱が
出まして、だるいし、頭が痛いし、寒気がしたので、少し早目にねました。今日は大体治っ
て、声が少しかれていますけども、話は出来るんです。ふつうですと、肉体が病みますと、熱
が出たりしますと、自分は病気だと思っちゃうんですね。病気と思うと病念はもう脳裡を支配
してしまいます。それで病気になり、起きられない。ところが私どもの世界では病気というこ
とが無いんです。
病気というのは妄念の消えてゆく姿なんです。私の場合は、皆さんが頭が痛い五井先生、何
65
々だ五井先生でしょ、そうするとこちらへ割当が廻ってくるんです。株の配当ならよいけれ
ど、業の配当まで私に廻って来まして、私のほうにくるんですよ。ところが私は肉体を単なる
器と思っています。肉体は神さまの容れ物である、そう思いこんでいますし、実際そうなんで
す。いろんな想いが自分に入って来ましても、それは或る期間がすぎれば必ず消えてゆくもん
だ、ということをハッキリ知っているんです。ですから昨日、四十度の熱がありましても、ど
うせこれは或る期間で消えてゆく姿、神さまが必要ならば明日会があってもお話が出来るん
だ。それがもし必要でなければ、代理の人に代ってやってもらい、五人なり六人に話してもら
って、私は休んでいるほうがよいんだからそれでもよい、と思っていたんです。そしたら朝に
なったら治りまして、出て来たんです。
さっきある人がご馳走してくれるというんで行きました。東大の病院に行ったんです。その
人は病院の食堂を経営していたんです。やっぱり病院というものはいろんな想いが集っている
処なのね。病気を治してもらいたいという想い、すがりたいという想い、亡くなった人の迷っ
66
神の子の自分を体得させる祈り
た想いもたくさんあります。また病気を治したいという霊団の想いもあるんですよ。そういう
処で商売なさっていらっしゃる方で、ご馳走してもらいました。そこに一杯妄念がありますか
ら、それを浄めていました。まさかお医者さんがたくさんいますから、パソバソと柏手を打つ
わけにいかないですよね。私はジーッとしていました。猛烈な光が体中に来まして、顔が真赤
になっちゃった。柏手を打てば楽なんです。浄めるのにこちらから光がピューッと行きますか
ら、向うを寄せ付けない、途中でもって浄めますからね。柏手が打てない時は黙ってやってい
ますから、みなくるんです。一遍引き受けますと、いつもの倍も三倍もの光がパーッと入って
来て、まるで体が焦げるくらい熱くなって、真赤な顔になっちゃった。その中にみんな浄めま
したので、帰って来たんです。
ハッキリ知っていること
私の心では肉体というもの、肉体についている業想念というものと本心とは別だ、というこ67
とをハッキリ知っているんです。人間という者は神の分霊であって、病気なんかに負けるもの
でもなければ、貧乏や不幸に負けるものでもなくて、神さまそのもの、完全円満性が現われて
いるものなんだから、いかなる病気が来ようとも、いかなる貧乏が来ようとも、それにとらわ
れて負けてしまうようなものじゃない、ということを私はハッキリ知っているんです。だから
幾ら熱が出たって平気です。ハッキリいいますと、今日あたり熱がうんとある。だから座って
いても足がしびれるんですよ。そういう状態だったけれど、別にどうっていうことはない。
頭は痛いし体は痛いでしょう。だけど頭が痛かったり、体が痛いことと、心が煩わされるこ
ととは別なんです。心が煩わされるということは、本心から想いが離れていること、本心から
業のほうに入っているから心が煩わされる。たとえば外で雨が降っている。そして傘を持って
来なかった人があるとする。そうすると雨は帰りに止むかもしれないのに、帰りはどうしよう
と、雨をどうしようと、ここに来た時から思います。それはくだらないことなんです。何故か
というと、あとで止むかも知れない。先のどうにもならないことを考えるよりは、考えないほ
68
神の子の自分を体得させる祈り
うがよいでしょう。病気も同じなんですよ。熱が出るなら熱が出るでいいんです。熱が出ると
いうことは、何か汚れたもの、想いが毒素となり、その毒素を解かしてそれで発散させてしま
うために、熱が出るんです。だから毒素を解かして流し出してしまえば、熱が下るんですよ。
私はお浄めをしながら、今日は薬缶一杯、お茶を飲みました。私はお茶なんか殆んど飲まな
いんです。ご飯を食べる時しか飲まない。今日は朝から薬缶一杯。それで便所へ行くこと十数
回、それでみんなサーっと流しちゃった。特に自分の役目を果す時には全然ものに把われがな
くなってしまって、なんでもないわけなんです。今話していても頭は痛くないし、何でもない
です。ただちょっと声がかすれるくらいで、別に差し支えないわけです。というように、誰で
も病気というものに想いが把われなければ、その人は病気ではないんです。
体が痛むことと心が病むことは違う
一月号にお釈迦さまのことを書いていますが、お釈迦さまが病気になりましたね。お釈迦さ69
まほどの神通自在な人が何故病気になるか、病気になりゃしないですね。お釈迦さまが病気だ
ゆいまきつ
というんで、阿難が薬をさがしに行くんです。そうすると維摩詰居士という仏さまみたいな偉
い人が「お前たちなんで薬なんかさがしに行くんだ。お釈迦さまを病気にすることないじゃな
いか、仏陀が病むことはないんだから」という風にやられちゃったことがあります。長い間お
釈迦さまに仕えていながら、お釈迦さまが痛いというと心配しちゃって、病気のほうに把われ
てしまう。お釈迦さまだって背中が痛ければ痛いですよ。やはり肉体があるんだから。痛いこ
とは痛いけれども、痛いほうに自分の心が把われていないんですよ。お釈迦さまの本心はちっ
とも揺いでいない。何も揺いでない、平気なんです。ただ痛いことは痛いから「さすれよ、阿
難」といってさすらせます。
体が痛むということと心が痛むということは違う。それをへたな宗教の人たちは、病気して
いると「お前の心が悪いんだ、お前が変なことを想っているから病気するんだ、お前が貧乏す
るのはお前の心が悪いから」とこうやるんですよ。ところがお前の心というのはそれは業なん
70
神の子の自分を体得させる祈り
です。お前の心が悪いんだ、というのは心でなくて、想い想念で、病気のほうにくっっいてい
るほう、それを取り上げて、お前の心が悪いんだというのは、それは宗教家として教え方が非常
に軽率です。下劣です、下手くそです。ところが今迄の宗教というものは殆んどそうなんです。
お前の心が悪いから貧乏するんだよ、お前の心が悪いから病気になるんだよ、お前の心が悪
いから夫婦仲が悪いんだよーそういえば本当はそうなんです。そうなんだけれども、そのお
前の心というのは、この世だけの心でなく、前の世、前の世の前の世、過去世の心なんです。
私がいつもいうように、前の世からの想い、想念行為が現われて、今、夫婦仲が悪かったり、
親子仲が悪かったり、嫁さんと姑さんとが悪かったりするんです。それを掴まえて、その想い
を掴まえて、お前の想いが悪いんだといったんじゃ、宗教が成り立たないんですよ。
自分の心を自分では変えられない
この世の中で、自分の心を自分で変えることの出来る人は殆んどいないんです。日本人だけ71
でも一億以上いますよね。しかし自分の心を自分で器用に変えることの出来る人は少ないです
よ。お前の心が悪いんだ、夫を拝みなさい、とやられます。ところが夫が酒飲みで、帰えって
来た。そして「オイ」といってガミーいって、髪の毛を引張って、ぶんなぐったりする夫が
いるとしますと、その夫に従うということはちょっと出来ませんよね。教えるほうの立場は自
分がそうじゃないから、夫が何といっても夫に従いなさい、夫が酒飲んで来ても、夫の本性を
拝みなさい、とこういうわけです。夫にぶたれても、有難うございます、といいなさいと無理
に教えるんです。ところが実際問題として、夫がぶんなぐって髪の毛を引張ってけとばして、
おつと
その上稼ぎもしないで酒を飲んで来たらですよ「夫さま有難うございます、よく私を打ってく
れました」といえればその人はそのまま完全菩薩です。しかしなかーそういうわけにはいか
ない。
72
やれば出来るのが宗教の教え
神の子の自分を体得させる祈り
宗教がただそういう風に教えるとすれば、それは観念論で、何百万人に一人が出来るような
ことを教えてもそれはダメ。宗教というものは誰にでも出来る、どんな人でもやりさえすれば
出来る、やらなきゃダメですよ、出来ませんよ。やりさえすれば出来る教えでなければ、本当
の宗教の教えということにはならないんですよ。ところが今迄の宗教は、みんな観念論、お前
の心お前の心、とこういうんです。天理教をはじめ全部そうです。お前の心が悪いからーそ
れは間違いないんですよ。業が全然なかったらよいかもしれない。しかしそういう人はこの世
の中に生れて来ない。この世の中に生れてくるという者は、肉体に生れてくるという人は、菩
薩以外はなんらかの業があって、業想念が前の世であって、魂がまだ本当に神さまとつながっ
ていないために、生れて来ていろんな苦労をして、それで業をきれいに払って、神さまとつな
がってゆく。そして今度は霊界に行くんです。霊界とか神界へ行って、或いは違う星の世界、金
星だの火星だのへ行って暮すんです。だから肉体に生をうけている問は、その人間は業想念と
まじ
神さまの心とが混って生きているわけです。神さまの光と業の想いとが混って人間になってい
73
るんです。
74
人の真価を決めるもの
それで昔から哲学では、人間の性は善なのか、悪なのかたΣかわれているんです。人間の性
は善なりという人もあれば、人間の性は悪だという人もあるんです。人間は本来善いもんだと
思う人もあれば、人間は悪魔のような者だ、悪そのものだと思う人もある。人間の本心を観た
ほうは人間の性は善なり、というんです。業想念のほうを観た人は、人間なんかもう悪魔のよ
うな者だ、と悪魔の申し子のように思う。それは両方共に間違いではない。人間は悪魔のよう
な動物のようなものがある、といって神さまのような心もある。それが混ぜ合わさって人間が
出来ているんです。
そこで人間が神さまの光を余計に現わすか、業想念のほうを余計に現わすかによって、その
人の真価が決まる。高さが決まる。立派さが決まる。いかに口でうまいことをいっても、その
人の行ないが神さまの面を現わさないで、悪魔的な面を現わしていれば、その人は魂の低い人
です。何もしゃべらなくとも、何にも目立たなくとも、その行ないが神さまの光、神さまの光
は愛ですから、愛そのものの行ないが出来れば、その人は神さまに近い人です。そういうよう
になっているわけです。
神のそばに引張り出すこと
神の子の自分を体得させる祈り
そこで一番大事なことはどういうことかというと、人間が本心そのままでこの地上界で生き
られるようにならなければならない、ということです。そうしなければ世界はダメになってし
まう。今迄、天変地変があったり、戦争があったり、長い間いろんなことを繰返している。戦
争が済んではまた戦争をやる。各国で細かい戦争もあれば大きな戦争もありました。大きな世
界戦争が二回ありました。今度は三遍目で、三度目の正直でダメになってしまうかもしれない
というわけです。
?5
そのような危機感が迫っているのはどういうわけかといいますと、人間の業想念がこの地上
界に満ち充ちているんです。充ち満ちていたものが一つ戦争をしては消えるのです。また一つ
戦争をしては消えるのですけれども、業をまた作るんです。全部消えないで少し残っている上
に、その倍もする業を出すからますます業想念が深くなってしまう。そこで神さまが守護神の
中心みたいな方、キリストとか仏陀とかいわれる聖者を時々世に現わしている。けれどもある
はら
時間が来ないと業がみんな浮き上らないから、どうしてもそれを一遍に祓うことが出来ないん
です。中に潜んでいますからね。消してやろうと思っても遠く向うへ離れていたら消えないん
です。太陽が照っていても、家の中に入っていれば太陽が当らないと同じように、やっぱり太
陽のところに引張り出さなきゃならないんです。すべてのものを神さまのところへ引っ張り出
さなきゃならない。どんな方便を用いても神さまのそばへ引寄せなきゃならないでしょう。
ところが今迄の宗教はむずかしすぎるんですよ。もう一つはあんまり低俗すぎるというこ
と。片一方ではむずかしい理論で一般大衆に全然わからない。自分たちだけ理論としてはわか
?6
神の子の自分を体得させる祈り
っている。本当に正しい理論であっても、一般の人にはどうにもならないような理論をいくら
聞かされてもダメですね。そういう理論宗教と、それからその場の儲け仕事、ただ病気が治る
だけ、ということだけで引張ってゆく。ですからいつまでたっても本心が現われないです。病
気そのものはちょっと消せば消えます。しかし病気の種を心の中に置きっ放しにしておいて、
現われである病状症状だけを消しても何にもなりません。
商売のことを聞きにいって、商売のことを教えてもらって儲かったとします。ところが儲か
っただけではそれは功徳ではないんです。それでは宗教ではない。いつでも明るく生きていら
れる、楽しくしながら儲かるという線に自分が入って行かなければならない。また入らせて下
さるものでなくちゃ宗教じゃないですね。病気をする、一遍は治してもらう、二度三度病気を
するとだんー治らなくなる、心は悩みに悩む。そういうようなものでは宗教ではないですよ
ね。いかなる病気をしようとも、病気というものは消えてゆく姿なんです。どんな病気をして
も、それはみんな消えてゆく姿なんだ、自分の本心じゃないんだから、本心が病んでいるんじ
77
やないんだから、これは必ず消えてゆくんだ、ということがわからなければだめなんです。
78
人間は神さまから来たもの
もっといいかえれば、人間は神さまから来ている者であって、他の何ものからも来ているん
じゃない。この宇宙に存在するのはただ神さまだけなんだ。神さまだけがいろんな形で現われ
ている。だからこの世に悪のように見える、不幸のように見える、そういうものはすべて神さ
まから離れている時の想いが現われているだけです。だからみんなが一人一人神さまにつなが
れば、業想念は現われて消えてしまうんです。そういう人が多くなればなるほど、地上天国は
早く出来る。地上天国が早く出来るためには、みんなが神さまの中につながらなければいけな
い、というのが私の教えです。
神さまといってもふつうではわからない。宇宙に満ちている神、唯一の宇宙神というものは
動いているんではない。宇宙神は生命として動いている。命として自分の中にいる。自分の中
神の子の自分を体得させる祈り
にもいる、動物の中にも、山川草木の中にもみんな命があります。それは宇宙神の分れとして
ある。いいかえれば、自分というのは神さまの命なんだから神の子です。ところが神の子が肉
体という器をかぶってしまって、着物を着てしまっているから、神の子ということがわからな
いで、カメの子ぐらいに思っているんですよ。実際には神の子なんです。神の子が神の子の姿
を現わすのには、肉体の世界の業想念が邪魔になるんです。
たとえば体が一つあるとする。向うの体と自分の体は違いますね。そのまた向うの体も違う。
自分が例えば呉服屋さんをしているとする。隣りも呉服屋さんだとする。するとこれは商売仇
です。向うが売ればこっちが売れなくなってしまう。「畜生、負けてなるもんかハイ、いらっ
しゃい」とやるでしょう。片一方が十円出せばこっちは五円出す。五円出せぱ三円出す、しま
いになくなっちゃったりして、お互いに損をしちゃうでしょう。それはこの現象世界では仕方
がないでしょう。商売仇きがあればどうしても争う気持になるんです。その争う気持になるの
が業想念なんです。
79
一生もつお金は決まっている
ある人が来まして「先生、実は人口が限られている私たちの町に、新しく薬屋が出来るんで
す。それでばかに安く売りそうなんです。家がダメになっちゃいます」といいますから、私が
“ダメにならない、あなたのお金というものはあなた自身が稼ぎ出してくるもんじゃないんだ
よ、あなたの一生のお金というものは、生れた時から死ぬまで決まっているんだ、あなたのお
金は決っているんだから、あくせくしたって仕様がない。食べていける。決っているんだから
いかなる商売屋が出来ようと、そんなことは全然あなたには関係ありません”といいました。
そしたら、かえって売れて来た。限られた人数の町ですよ、同業者が出来て余計に薬が売れて
きた。それはどういうことかというと、その町にアパートだか寮だかが出来たんです。その人
たちが分散されて来た。だからその薬屋さんも売り上げが減らないし、また新しく始めた人も
やってゆける、そういう風に自然になるんですね。
80
神の子の自分を体得させる祈り
がたき
それを初めっから恐れちゃって、商売仇が出来た、お客は減っちゃうだろうと思っちゃう。
向うの人が金持になって、自分がいつまでも貧乏なのがとてもシャクでしょうがない。羨まし
くてしょうがない。女の人はそうですよ。「ほら見なさい、お隣りの奥さん、自動車を買った
じゃないの、うちは自転車も買えやしない、どうしてくれるのさ」とこうでしょう。隣りは隣
り、こっちはこっちだよ。隣りは自動車を買うだけのお金があるんでしょう。それは前生の徳
なんだ。ただそれを有難がらないで、無駄使いをしていれば、前生の徳が消えてしまう。だん
もくあみ
ー消えてしまう。そのままで使い果してしまえば元の木阿弥になっちゃう。こっちは徳があ
るんだけれど、未だ現われてないんだから、これから現われるんだからもっと喜ぺ、という風
に私なら教えます。
たかだか八十年の人生のために
人が良くなっているのを灘が必要など毛頭ないんです。この現象の世界で、いくら金を持っ81
ていようと、地位がよかろうと、そんなもの関係ないです。何故関係ないかというと、この世
の中はやがて消えてゆくからね。自分が三十だとする。八十になれば大概死んじゃう。長く生
だいじん
きたって百までだ。大して違わない、やがてなくなってしまう。いかなる金持でも大尽でも、
やがてその体というものはなくなるのです。肉体がなくなってしまうとどうなるかというと、
自分の想い、常に想っている想念行為が自分の未来を決定するんです。自分のゆく先を決定す
る。幽界へ行くか地獄へゆくか、霊界へ行くか神界へ行くか、それは現在の肉体の地位とか、
たか
お金の多寡によるんではなく、自分の日頃からの行ない想いによって決定するんです。長くて
せいぜい八十年。ところが霊界というのは何百年か何千年かわかりません。永久につづくんだ
からね。
けが
たかだか八十年のために、自分の命を猿して地獄へゆく必要はない。本当に損ですよ。この
世のためだけにあくせくし、人を都め人を麟し、そうしてお金を齢けたところでたかがしれて
ふぎょうよ
いる。それだけの話です。ところが自分の生き方が傭仰天地に恥じない生き方、いわゆる愛に
82
神の子の自分を体得させる祈り
満ちて親切で、思いやりがあって暖かで優しくて、そういうような行ないが出来る人は、たと
せきひん
え貧乏であっても、赤貧洗うが如きであっても、その人の心は明朗に澄んでます。何も悪いこ
とはしない、少しでもお役に立っている気持になりますから、それは気持がよい。その人はい
つまでも貧乏ではいません。その人は必ず貧乏でなくなります。
お金の持ち方
おご
人はこの世の富を薯ってはいけない。イエスはいってます。富める者が天国に入るのはらく
らくだ
だが針の穴を通るより難しい。大きな酪駝が針の穴を通るというのは実際出来やしないです。
俺は大尽だ、俺は金持だ、という富める想い、高慢な想いが神さまの波長に合わない。心貧し
き者は幸いなり、とキリストは言っています。どういうことかというと、心の謙虚なへりくだ
った者は幸いである、ということです。心が貧しいというのは訳し方がまずかったんでしぽ
う。心の貧しい者じゃおかしいですね。曲解されます。心がへりくだった者は幸いである。そ
83
の人は神さまの心に叶うんだね。だから心が奢っていちゃいけません。
お金は幾ら持っていたってよい。千億円持とうと一億円持とうといいです。一兆でも三兆で
も持っていても、いつでも心が柔和で、いつでも貧しい人たちの為に尽している優しい心でい
るような者は、富と神の心と両方持っているから、それは非常によいですよ。一番いいです。
そういう人は来生の因縁もまたよいです。しかしそういう人はまれなんです。どうしても富を
おご
持ったり位が出来たりすると、奢りたかぶってしまう傾向があるんですね。だからそうした想
いがなくなることが一番よい。貧しい人は貧しい人で、貧しいということに卑下し、ひねくれ
て、自分を小さくすることはありません。
富とか貧しいとかいうのは、この現象の世界のことで、魂とは何等関係がない。富んでいよ
うが貧しかろうが、位が高かろうが低かろうが、そんなことは神さまのことに一向関係ないの
です。イエスはとにかく貧乏大工の伜でしょう。ところがキリストになった時には、二千年前
の人が今世界を風びしているわけでしょう。大工の子だということになんにも関係ないです。
84
イエスは富など問題でなかった。イエスの神の子としての現われ方、神の心を現わしたその現

わし方にみんなが魅きつけられてゆくわけです。だからあなた方一人一人が神の心をこの世の
中で現わせばいいんですよ。そうすれば世界が平和になるんです。
神の子の自分を体得させる祈り
まず神さまにつながること
原爆実験反対!と叫んだってそんなことでもって、大国は原爆の実験を止めやしないでしょ
う。幾ら叫んでもそんなことじゃダメなんです。皆さん一人一人が政治がどうのこうのといっ
たってダメでしょう。岸内閣がダメだといったって何にもならないでしょう。アメリヵが、な
んて言ってもダメでしょう。ソビエトの畜生といったって仕様がないでしょう、言うだけ無駄
です。一般大衆には無駄なことなのです。
大体、まず選挙になれば頼まれた人に票を入れるんだから。コ寸知り合いがありましてね」
「これ家のお得意関係でね」お得意さんから頼まれれば、どうせどっちだっていいからと入れ
85
てしまいますよ。大半がそういう心でしょう。共産党だけですよ、頼まれなくたって共産党に
入れるのは。一般大衆がいくら政治をとやかくいったって、世界の状勢をとやかくいったって
何んにもならないんです。犬の遠吠えにすぎない。それよりもその暇に自分自身が神さまにつ
ながっちゃったほうが早いです。そのつながり方の一番よいのは、世界平和の祈りだと私はい
うんです。南無阿弥陀仏でもよいし、南無妙法蓮華経でもよいですよ、ナムカラタソノートラ
ヤーヤーでもよいです。けれども一般の人には意味がわからないでしょう。現代には現代の言
葉がある。現代の言葉で一番みんなが望んでいることは、世界の平和でしょう。それで私は世
界平和の祈りをやるんです。
86
世界平和の祈りとは
世界平和の祈りは自分自分という業の自分が祈っているのではないですよ。世界平和という
のは、業の自分も本心もそのままで一緒に、神さまのところに昇ってゆくわけです。世界人類
神の子の自分を体得させる祈り
が平和でありますように… … という時には、自分全体が神さまと一つになっている時なんで
す。何故ならば神さまは世界の平和を一番欲しているからです。その神さまのみ心につながっ
てしまうんだから、一番よいわけでしょう。私の病気を治してというんでしたら、病気という
ものを掴まえている業です。私の貧乏が早く直りますように、というのは貧乏というものを掴
まえている業です。そういう業がある内は本当に神さまにつながらない。病気を治して下さ
い、といって病気が治ることが随分あります。一生懸命やれば自分の想いでもって治ることが
あります。ありますけれどもそれは宗教信仰ではない、我欲の想いです。
病気を治す秘訣
私こうやって話しているでしょう。熱がなくなりました◎ 全然体がしゃんとなりました。何
故しゃんとしちゃうかというと、話していますと、光が】杯入ってくるんです。だから何も痛
くもありません。この前も新橋の蔵前会館で講演したことがあるんです。その時も足がガクガ
87
クするくらい熱があったんです。ちょうどエレペーターが休みで、階段を上るのもガクガクし
ちゃってね、座って話し始めたら治っちゃった。というように業想念なんか放っておけばいい
んです。熱なんか放っておけばいい、病気なんか放っておけばいい。そうすればこんな病気も
熱も、こんなに私を可愛がってくれない人のところにいたってしようがない、というんでいな
くなっちゃう。私は病気よッてあまり大事にしすぎるので、病気はもっといてやらなきゃ悪か
ろうといるんです。
病気のことばかり考えていて、病気を治そうと思ったってダメです。貧乏のことばかり考え
ていて、貧乏を直そうと思ってもダメですよ。何故かというと、自分の想いがいつも病気の中
に入っている、貧乏の中に入っている。想いがそうした中に入っていて、病気や貧乏を直そう
というのは間違っています。いいですか。自分が泥田の中に入っていて、あがいているだけで
は泥んこになるだけで出られませんでしょ。神さま神さまと本当に呼ばなければだめです。大
きな声で呼ばなきゃだめです。自分が暗い中に入っていて、電気もつけないで騒いでいるのと
88
神の子の自分を体得させる祈り
同じです。
いつもいうけれども、真暗な部屋の中にいて、窓もあけず、電気もつけないで、暗い暗い、
私の運命はなんて暗いんでしょう、といっても自分が勝手に自分の心を暗くしているのだから、
人の責任じゃないですね。うっかりすると、怒ったような顔になっちゃったりしてね。妻やは
たの者に怒ったりして、姑さんがひどくするから私は病気になった、なんていう。そんなこと
はない。自分の想いです。自分の想いが自分の運命を創るんだから、自分が暗い中にいて、電
気をつけなればいつまでたっても暗い。もし自分で電気をつけられなければ、誰かつけて下さ
い! っていえばいいんですよ。神さまつけて下さい、といえば神さまがつけてくれます。
病気だったら、病気というものをひとまずそのままにしておいて、神さまだけ呼ぶんですよ。
神さま有難うございます、守護霊さま守護神さま有難うございます、世界人類が平和でありま
すように、そればかりやればよい。そうすると病気の想いがいつの間にか、神さまの中に入っ
てしまって、いつの間にか病気は消えちゃう。誰でも出来ますでしょ。私は修練が積んで熟練
89
者なんです。だから人のもみんな引受けている。引受けても大丈夫。
五井先生!と呼びなさい
この間、或る娘さんが来まして、霊的な人なんです。その娘さんが暁け方、死んだ叔母さん
といとこが重なって現われて、一枚の写真を持って来たのだそうです。それをみると、そこに
十五、六人迷った人がいる、みんな自分の記憶、前生の記憶があって、その叔母さんだかいと
こだかが、五井先生のところへ行って助けてもらってくれ、という夢のようなものをみた、と
いうんです。私のところへ肩をコチンコチンにこらしてふらーになってやって来ました。私
がパンパンとやったら、肩がファーッとなって軽くなっちゃった、といって帰えって行った。
その十五、六人は私のところにしがみついているわけです。かまわず浄めつづけているうちに
きれいになくなりました。
いくらでも誰でもいらっしゃい、なんでもいらっしゃい、とこういうわけでしょ。くれば来
90
神の子の自分を体得させる祈り
る程、向うが浄まるのです。ただ神さまにつながっていないといけないんです。神さまという
のは見えませんから、守護霊守護神という祖先の悟った人が必ずついているから、それにすが
りなさい、といいます。それで面倒くさかったら、五井先生!ていいなさい。また実際問題、
いざ急に何かある時は、守護霊さま守護神さまでは間に合わないらしいんですね。それで五井
先生! っていっぺんにいっちゃう。五井先生っていうのはいい名前で、呼びやすい。短かくて
呼びやすいんですよね。長い変な名前だったら呼びにくいでしょ。ジュゲムジュゲムゴコウノ
スリキレじゃないけれど困っちゃうでしょう。それで守護霊さま守護神さまというと長い、と
いうんで五井先生になっちゃったらしい。それでも結構、なんでも結構。私のほうに来ますか
らね。ところが私のは専売特許で、神さまがここにいますから、神さまにみんないっちゃう。
ただ少しカスが残り、熱や風邪となって消えてゆきます。
91
さわりなど心配ない
92
いかに想いが来ても、神さまにつながっていれば、大丈夫なんです。よく行者さんみたいな
所へいって、あなたの家には障りがある、こんな人が首くくっている、とおどかされてくるん
です。しかしそれは驚くことはないんです。浄めてやればいいんだからね。浄めるのはどうし
たらよいかというと、神さま! っていって神さまにやっちまえばいいんだ。私なら私に、五井
先生! っていって五井先生のほうに寄越しちゃえばいい。そうしたら私が引受けますよ。私が
一人苦しめばたくさんだ、皆さんが苦しまなくとも。イエスさまはその為に出たんです。イエ
スキリストは人間の考え方が間違ってしまって、迷いに迷っているから、自分が犠牲になって、
十字架にかかり、罪を抹殺した。あなた方の罪けがれはもうないんだ。私が代ってやったんだ
から、あなた方は罪のことを思っちゃいけない。あなた方は罪深い者ではなくて、それは業生
で、消えてゆく姿としてそこに不幸があるんだから、その不幸の想いを私が代って十字架にか
神の子の自分を体得させる祈り
かって消したんだから、あなた方はもう苦労することはないんだ、ただ私の名前だけを呼びな
さい、そしたら神さまにつなげてあげます、とイエスさまはいったんですよ。
それを間違えちゃって、罪深き者よ罪深き者よ、と教会はいっているんです。罪深き者とい
うのは肉体にまつわる業想念です。人間の本体というのは罪の子ではないんです。神の子なん
です。人間の本体が神の子じゃなかったら、宗教も何もない、救いもない。みんな死んじゃっ
たほうがよい。救われっこないんだ。ところが神の子であることをイエスさまもハッキリ知っ
ていたし、私も知っています。
キリスト教の人たちが、イエスの御名を唱えなければ救われない、というのは無理もないん
です。イエスの御名を通さなければ、あなた方がいくら神さまにすがっても救われないよ、と
いうのは一理あるんですよ。何故一理あるかというと、イエス様というのは大守護神のような
もので、天と地をつなぐ梯子なんです。イエスというものをトットと駈け上がればいい。そう
すれば天につながる。これは確か真理です。ところが今、イエスさまはいない。仏教の人もあ
93
る、神道の人もある。そういう人がイエスさんといっても、イエスはいいけれども、家族はみ
なノーっていう。イエスを全然思わなかったでしょうね。
そこで私たちみたいな人が、守護霊さん守護神さんっていうんですよ、と教える。その守護
霊守護神が私に頼んでくるんです。皆さんが私の所に来る場合には、あなた方の守護霊が連れ
てくるんです。「先生お願いします、うちの子孫です、まだ何もわかりませんけども、頭なで
てやって下さい」っていうんで、あxよしよしとやっているうちにわかるんです。だから守護
霊の名前を知る必要も、守護神の名前を知る必要もないんです。神さまの使いが自分の祖先と
なって、ここで守っていてくれるんだ、と思えばいい。それを思えない人は、私がここにいる
んだから、五井先生! と想えばいい。そうすると想いが五井先生を通して、神さまの中に入
っていっちゃう。私の肉体を通して、五井先生の中へ入っちゃう。
94
神さまが中で働いていらっしゃる
神の子の自分を体得させる祈り
呼ぶのを遠慮することはないですよ。そのためにこっち(地上界) に来ているんですから
ね。それを今迄の宗教家は、自分の名前を呼びなさい、なんていうと何だか高慢なような気が
から
しちゃうんですね。自分が空っぽなら高慢もへったくれもない。人間、特に日本人というもの
は、急に高慢になってみたり、ばかに卑下してみたり、小さくなってしまったり、とても甚だ
しいんですよ。
「卑下高慢いつれもいのち汚すもの己れをしかと打出さむのみ」
という私の歌がありますが、自分をしっかりと出せばいい。自分をしっかり出すということ
は、裸にならなきゃならない。裸になるということは、いつも想いを神さまの中に入れちゃう
こと。神さま有難うございます、神さま! わが生きるはわが生きるにあらず、自分が生きる
んじゃなくて神さまがここで生きている。神さまがこの中で働いていらっしゃる。神さまが歩
いていらっしゃる。神さまが電車の切符を買って下さる。神さまがお金を下さる。自分が働い
ているように見えるけれども、それは神さまが自分を働かして下さってお金を下さる、すべて
95
神さまからくる。
96
お金は神さまから、中継ぎしてくれる人は菩薩
雑貨屋さんは雑貨で商売して儲けても、それは神さまからくる。会社で働いて、お金は社長
からもらうように見えるけれども、神さまからくる。だから神さま有難うございます、といえ
ばよい。ところがこれを間違えちゃって、昔、松雲閣に泊った人がありましてね、その人は
「神さんがー、神さんがー」いつもいっていた。「わしは神さんに動かされてー神さん
に… … 」ってやっていたんです。それはいいんですよ。その人がボロボロの服を着ていたので
す。それで或る人が可哀相に思って、自分の洋服をその人にあげたのです。「あx神さん有難
う」それっきり何もいわない。神さまにもらったといって、その人にちっともお礼をいわな
い。これは一寸行きすぎです。神さまにお礼をいうのは勿論だけれど、くれた人も中継ぎなん
だから、有難うございますっていやあよいのに、神さまに貰ったといって、くれた人にお礼を
神の子の自分を体得させる祈り
いわない。
ぼさつ
根本は神さまから貰うんですよ。それで中継ぎしてくれた人は菩薩さんだ。たとえば社長が
給料をくれたらば、社長は菩薩だ。神さまが菩薩の手を通してくれるんです。お客さんでもそ
うです。お客さん菩薩だ。買ってくれなきゃ困るものね。神さまが菩薩を通してその店で物を
買わせるんです。お客さん来たから有難うございます、というのは儲かったから有難いという
はんじよう
意味ではなくて、菩薩さま有難うございます、と拝むような気持になれば、その店は必ず繁盛
ぷつ
します。拝むような気持で、有難うございますっていうでしょ、相手がいいもの。ところが仏
ちようづら
頂面して、面倒くさい、また一人客が来やがった、なんていってたんじゃ、あのヤロウいやな
奴だって、来ませんよ。だからお客も菩薩です。
会う人はみな菩薩さま
ことこと
自分が会う人会う人悉くみな菩薩です。お金をくれる人は菩薩です。病気を治してくれる人97
なぐ
は菩薩です。何か教えてくれる人は菩薩です。自分の頭を撲る人も菩薩です。なぜ菩薩かとい
うと、頭を撲られるということは、撲られるだけの因縁があるんですよね。あとになればだん
こぶ
ー因縁がふえるのに、早く撲ってくれただけ瘤が一つで済んじゃうんですよ。ほんと。そう
しうとめ
いう点でいけば嫁さんも菩薩なら姑さんも菩薩なんだけども、みんなボサッとしているから
わからない。みんな菩薩なんです。そしてキリストなんです。それがわからない。これがわか
れば地上は天国になるんですよ。
現われてくるものはみんな菩薩だ。だけどわざー思おうと思ってもだめです。髪の毛を引
っばって撲ってくる旦那さんを、あΣ菩薩さま、と拝むまでにはなかー修行がいるから、一
遍にやろうと思っても無理です。そこで、あxこれも過去世の因縁の消えてゆく姿なんだな、
撲られた時はシャクにさわっても、あとでもって、撲られるということは何か前生の因縁があ
って、消えてゆく姿として撲られたり、蹴飛ばされたりするんだから、あNこれで一つ消えた
んだ、有難うございます。またやられたら、また一つ消えたんだ。またやられたらまた消えた
98
んだ、その中に坊主になっちゃったりしてね。消えちゃうのだから坊主になってもよいです
よ。なるぐらいなんでもない。イエスがいっています。もし目が汝をつまつかせるならば目を
えぐ
挟っちゃえ、全身地獄の火の中に落ちるよりいい、足が邪魔するなら足を切ってしまえ、それ
でも地獄の火の中に入れられるよりはいいんだ、地獄へ行くよりいいんだーと。
形あるものを通して神へ
神の子の自分を体得させる祈り
肉体はいつか滅びる。肉体の健康よりも魂の健康のほうがよほどいいんです。魂が健康にな
れば肉体も健康になります。私は五尺一寸ちょっと十一貫ちょっとで痩せているんです。冬に
なるとだんー厚く着るでしょ。太って見える。夏に見てごらんなさい。着物を着ていたら、
体があるかないかわからないんです。細くて偏平胸といって胸がペチャソコで、まるで肺病み
たいです。それで子供の時は弱くて弱くて仕方がなくて、いつ死ぬかわからないと思ったです
よ。というように親は思ったんです。だから親泣かせだったですね。弱いもんで医者にもかか
99
ったり、通いつづけても、だめだということがわかった。どうやってもだめだと思って十幾つ
010
ぐらいから正座を始めた。毎日正座して自分で治そうとした。父の故郷の越後の山へ行って、
山の中で座ったりした。まだ神さまというのがハッキリわかっていなかったです。中ではわか
っているんですよ。だからやるんだけども、すべてを運命にまかせちゃおう、自分でやろうと
思ったですね。それが今の基になったんです。
形のあるものにすがっているうちはダメですよ。形のあるものにすがったように見えても、
形のあるものを通して神さまにつながっている。それでなければだめですよ。形あるものの形
だけつかまえていてはいけません。お医者さんでもそうです。薬でもそうです。形のあるもの
は実は、菩薩として神さまの使いとして来ているんだ、というような想いでお医者さんにかかれ
ばそれは効くでしょう。薬を飲めば効くでしょう。しかしみんなはそうじゃないんだものね。
誰でも神さまの使いとして見てごらんなさい。そうすると神さまの使いになっちゃう。みん
な自分の前に現われるものは、全部神さまの使いであることに間違いないんです。地獄の使い
神の子の自分を体得させる祈り
と思えば地獄の使いになる。その練習なんです。その練習も常に守護霊さま守護神さまにつな
がって、守護霊さま有難うございます、守護神さま有難うございます、と感謝の想いがなけれ
ばそこにいかない。やさしいことですよ。守護霊さん有難うございます、守護神さん有難うご
ざいます、とお礼をいうのはわけないですよ。いい加減にやっていてもだんー本当になって
来ちゃうから。
神さまの世界にかえる
世界人類が… … とやっていても、やっているうちに本当になって来ます。やっているうち
に、知らないうちに想いが祈りに入ってゆく。何故入ってゆくかというと、世界人類の平和を
祈るその祈りの中には、神さまの光が充満しているんです。自分が想うと思うまいと、グーっ
と光の中に引張っていかれちゃう。だからどういう形でもよい、寝ながらでも世界平和をやっ
ていたら、そのままよい気持でねちゃいますよ。眠れないなんていうことはありません。言葉
101
として世界人類、世界人類と想っているからダメなんです。
012
声に出る言葉じゃない。想いの前のものなんです。世界人類の平和というのはそこのところ
がむずかしいんです。想い以前なんだ。何故ならば本心の中では世界人類は平和なんです。い
いですか。神さまの世界、神さまが創った真実の人間の世界というのは平和なんです。そこへ
帰えるだけなんですよ。帰えるだけなんだから、はじめっから平和なんです。はじめっから平
こうそうねん
和なんだけども、平和でないように見えている◎ それは業想念が消えてゆく姿として、まるで
めちゃくちゃな世界が出ている。業想念の中で、政治が悪い、アメリカが悪い、ソビエトが悪
い、あいつが悪い、あの会社は間違っている、なんていろいろ言っている間はダメなのです。
そんなことはどうでもよい。やりたい者はやらしておけばいいんです。他の国はどうであろう
と、こっちのことはどうであろうと、そんなことは自分たちでいったってしようがないんだ。
それよりも、世界人類が平和である、という想いの中、神さまの中に入っちまうことです。
入っちまうと、なんだかんだというのは空廻りしてゆくんです。そして祈りの光明が今度は逆
神の子の自分を体得させる祈り
に地上界に天下って来て、世界を浄めるんですよ。だから世界平和の祈りをやる人が多くなれ
ばなるほど、戦争の危機は遠のくし、天変地変もなくなるし、すべてはよくなるんです。それ
を知らせたくて私はしようがない。だんくだんーみんなわかって来ました。どんな理屈を
いったってダメです。宗教なんか理屈ではありません。天界ではこうなって、こんなでーそ
んなことはどうでも良いです。神さまの世界はこんなでそんなことはどうでもよい。幾ら理論
的な頭でゴタゴタこね廻したってダメ。そんなことはどうでもいい。ただ自分たちが神さまに
つながればよいo
世界平和の祈りは明るい
ほうねんしんらん
親欝や法然の時には南無阿弥陀仏でやった。しかし南無阿弥陀仏というと何か陰気臭くて、
病気のお見舞に行って南無阿弥陀仏とやってごらんなさい。ご愁傷さまになっちゃう。世界人
類が平和でありますように、とやってごらんなさい、病人もよい気持でしょう。言葉は時代に
103
よって現われ方が違います。病人の枕元でお経ばかり読んでいるのがあるんです。読まれると
困るんですよ。病人がなんだか陰気臭くなっちゃって。お経というのは亡くなった人にあげる
ようなもんでしょう。その癖がついているから、お経を読まれると病人は死にそうですよね。
守護霊さん有難うございます、守護神さん有難うございます、神さま有難うございます、この
病人を癒し給え、と祈るならばよいですね。そういう風に明るい想いにすべてを変えていかな
ければいけない。
世界人類の平和の祈りは明るいですよ。とても明るい。南無阿弥陀仏よりも明るい。南無妙
法蓮華経よりもずっと落着いています。南無妙法蓮華経にはその意味があります。あるけれど
も誰でもがやれない。宗派が違えばやれないです。世界平和の祈りなら、宗派は何もいりませ
ん。キリスト教の人でもやれます。仏教の人でもやれます。マホメット教でもやれます。どこ
でも世界中でやれます。世界人類の平和を祈るのは嫌だ、という奴はないでしょう。共産党だ
ってやります。共産党の人たちが神を全然思わないかというと、そうでもないですよ。神を想
104
ったりするんです。徳田球一が死んで何年忌なんてやるんだものね。やっぱり死んだ人の霊魂
を知らないうちに想っているからやるんです。自分たちは知らないだけなんです。
神さまの愛が働いている祈リ
神の子の自分を体得させる祈り
誰でも祖先や死んだ人がそのまま生きている、ということは潜在意識としては知っているん
だけれども、それをわざと消しているだけです。その奥が神さまなんだから、祖先をさかのぼ
っていけば神さまに還っちゃうでしょ。だから大神さま守護神さま守護霊さまというようにつ
わけみたまちよくれい
ながっているんです。大神さまの分けられたのが直霊であり、直霊から各分霊となっている。
なおびちよくれい
人間側に働かれるのが直霊、直毘といいます。その分霊がみんなに入ってこの肉体を動かして
いるでしょう。だから宇宙神から来ている光と、外部から保護のために来ている守護の光と、
両方から人間をよくし、地上天国をつくらなければおかないような、そういう神さまの愛が働
いているんですよね。
105
神さまは必ず地上界を立派にしようと思っています。それはそうでしょう。神さまは自分が
016
完全円満なんだから、完全円満な方が不完全な姿を現わすわけがない。不完全な姿が現われて
いるのは今、途中だからです。工事の途中です。工事の途中でもって完全になりゃしません
よ。ビル建築中は鉄筋や屑が散らかっていて汚ないでしょう。建てば立派だけれど。この世の
中が悪く現われているのは、神さまの大神業がいまだ途中だからです。途中ですが大分進んで
来まして、建物なら早く壁を塗らなきゃ困るというような時になっています。
トンネルならトンネルを掘りきって、向うに穴をあけなければ光が入って来ないから苦し
い、それで穴をあけなきゃならない。いわゆる天の岩戸開き、そういう時期になっているんで
す。そういう時期になると、むずかしい理論ではわからない。むずかしい説法など何にもなら
ない。やさしくわかるように説かなければならない。そのために私のような人が現われてい
る。私の説くことは易行道法華経といったり浄土門法華経というんです。やさしく法華経を説
き、やさしくキリスト教を説いている。
役目のない人はいない
神の子の自分を体得させる祈り
イエスさんといわなくてもいいんです。その代りに五井先生の名を通せばいいんです。五井
先生といっても肉体ではない。この五井昌久という体は器です。これは器であるけれども、こ
の顔と同じものが神さまの中にいるのです。皆さんの顔は人間の肉体でしょ。けれどその本体
はそのまま神さまの中にいるんです。全然違ったものが現われることはないんです。自分の神
さまである神体というものは、形を変えればやっぱりこの顔と同じことになるんです。ただこ
れ(顔)よりきれいなだけです。美しいだけです。形を消せば光になっちゃう、私の霊光写真
あまてらすおおみかみ
のように光の玉になっちゃう。それこそみんな天照大御神だ。光の玉でありながら、神々の分
れでありながら、神界にいて、それぞれの役目を持っている。
初め肉体に生れていろんな仕事をして、また霊界にゆき、また肉体に生れてまた霊界に帰え
り、転回しながら役目をだんだん果してゆくんです。ですからこの世に生れた人で役目のない
107
人はありません。金を儲けるだけが役目ではない。それはこの世の生活の方便だ。本当に神さ
まの姿を現わすために、みんなはいるんです。人と人とをつなぐ役目もある。道を説く役目も
ある。病気を治す役目もある。夫を一生懸命働かせる役目もある。子供を育てる役目もある。
いろいろな役目があって、それが転回してこの世の中が今に完全になるんです。
108
誰でもゴッドマン
昭和3年1月12日市川五丁目会館
誰でもゴッドマソ
生れない前からの交わり
しゆくめいつうじんつうりき
宿命通という神通力があります。それは統一してみると、「あi、この人は前の世でこれこ
れこういう時に、私がこれこれこうであって、こういう交際をしていた」ということがわかる
通力です。
お釈迦さまのお弟子には、そういう通力をもった人がずいぶんいたんですが、宿命通がなく
09
ても、直感的に「あー、これはふかーい交わりがあるんだ」ということを感じる人があるんでー
すね。それはやっばり宿命通の一種なんです。
110
肉体的に見れば、私は五尺何寸の体で、四十何才ですが、四十何才の私に、六十の人が「私
は生まれない前から会っていたような気がする」と云ったらおかしいでしょう。反対なのはあ
りますよ。六十の人に対して、四十の人が「私が生まれない前からあなたに会っているような
気がする」という。これはわかります。お腹の中で会ってたということがあるから。あるけれ
ども反対の場合に、六十の人が四十の人に向って「私は生まれない前から、あなたにお目にか
かっていたような気がいたします」と云ったら、普通ではおかしいんだけれども、霊的に見る
とおかしくない。なぜならば、私の中に働いている生命の力、神さまの力、あるいは霊団の働
きというものは、あなた方の前の前の前の世からあなた方と親しい、あなた方を教えていた人
達、あるいは、あなた方を育てた人たち、そういう人たちが私のところにみんな集っているの
です。だから五井昌久というこの体の中には、あなた方の祖先がみんな入っているんです。そ
れであなた方を私のところに導いてくる。その導いてくる祖先が守護霊さんなんです。あなた
誰でもゴッドマン
方の魂の親なんです。魂の親がここへみんな連れてくるんです。それでこの肉体は器なんで
す。この器の中に、たとえば、秋山さんという人があると、秋山さんの先祖、つまり秋山さん
の守護霊が私の中に入ってきちゃって知らん顔をしているんです。五井昌久の顔をしてここに
いるんです。「こんにちわ、はじめてお目にかかります」「あΣ、こんにちわ、はじめまして」
こっちは実ははじめてじゃない。「お前が生まれない前から私はお前を見ているんだ」とこの
中ではあるんですね。守護霊さんというのは、魂の親だから、魂の親がこっちへ入って来ちゃ
って、この上にまた守護神もいて、その魂の親の親までいて、ここで見ているんです。こっち
はいくつもの目でもって見えてるんです。それで「あー、いよいよ子孫が来たな」というん
で、こちらが守護霊と相談しちゃ話をしている。「お前の悪いくせは、私は前の世から知って
るけど、お前の悪いところはこうなんだから、こうしちゃいけないよ」というふうに教えてゆ
くわけです。前の悪いくせをとってしまって、長所をのばしてゆく。そういう形にするんで
す。だから、みなさんが本当に神さまを知るということは、まず、祖先というものを知らなけm
れば駄目なんです。祖先の守り、というものが本当にわかると、神さまというものがわかる。12
1
他人というのはいない
いち
一月号の巻頭言に書いてありますが、一月の一というのは始めであると。一なるものは神で
ひとひとやおよろず
ある。一つなるものは神さま。神は一つなんだけれども、その分れとしては八百万のたくさん
わけみたま
の神さまがある。その神さまの中から分れて来た分霊として祖先があるんです。そのまた分霊
として子孫がある。またその分霊として子供があり、孫があって、ずーっと分れてくるわけで
す。今いう分霊の親が、守護霊なんです。その上に守護霊の親が守護神なんです。そのまた親
があるわけです。それで最後には直霊といってその中に入ってしまうのです。
直霊というのは、神道ではナオピと云います。それは何かといいますと、宇宙神が人間界に
働きかけるための一番最初の分れなのです。みなさんが、形が違ってこうやって分れているけ
れども、本当は最後のところへ行くと一つになっちゃうんです。みんな兄弟姉妹なんだ。みん
な一つなんだっていうことになるのです。みんな一つであって、他人なんてありゃしない。そ
れがみんな他人のような顔をしているんですね。日本人同志だって、通りすがっても、挨拶し
ないです。知った人だって、うっかりすれば、挨拶なんてしやしません。ところが、本当だっ
たら歩いていて、正面に会ったら、ニコッとしたっていいんです。ニコッとしたりなんかする
と、「アイツ、おかしなやつだ」なんてね(笑)、「オレの顔をみて、笑いやがった」と。
親しい者同志が集まる
誰でもゴヅドマソ
本当は兄弟姉妹なんです。ところが、兄弟姉妹の中でも、親しい兄弟と、親しくない兄弟と
この世でもあります。前の世の中でもそうで、前世において親しかったものが、こうやって集
まっているんです。だから、はじめてあっても、とても親しい人もあれば、長くつきあってい
ても、親しくなれない人もある。それが前世の因縁、過去世の因縁というんです。ところが、
13 神
さまの場合には、神さまの中から生まれてきたんだから、親しいも親しくないもなくて、みー
んな、慕わしいにきまっている。慕わしいんです。だから本当は、私なら私に会った場合に、14
1
神さまといわなくても、祖先が働いている、その上に守護神が働いている。やっばり神さまで
すね。神さまがここに働いているんだから、会った時に何も理屈をいわなくても、なんだか慕
わしいような、親しいような、なんかそういうような感じがするのがあたりまえだ。と、私は
思うんです。
最後の五分間まで頑張れ
それで、神さまが守っていて下さるんだから、最後のドソ詰りになっても、最後の五分間ま
で頑張っていさえすれば、最後には、神さまが助けて下さるんだと、これは、あたりまえなん
です。絶対にそうなんです。最後まで頑張る人を神さまは捨てることはないのです。神さま有
難うございます、守護霊さま、守護神さま有難うございますといって感謝を続けながら、最後
まで頑張る人を、捨てることは絶対にありません。寿命がなくなって亡くなる人はあります
誰でもゴッドマソ
よ。もう寿命で、この世にいるよりも、あの世に往った方が、この人は幸せだという場合があ
ります。そういう場合には、神さまにいくら祈ったって死にます。死にますけれども、その人
の魂は救われます。だから、肉体の生き死にではなくて、魂の、命の救われというものは、必
ず最後まで、神さまを思う者の上に輝くわけです。神さまを思うということは、神さまと一つ
になるということなんです。守護霊さん、守護神さんありがとうございます、ということは守
護霊という自分の魂の親と一つになること、その魂の親の親と一つになること、宇宙神と一つ
になることです。だから、守護霊さん、守護神さん、神さまありがとうございますということ
は、自分が祖先とも一つになり、宇宙神とも一つになって行くことです。宇宙神の力というの
は、無限であり、もう完全円満であり、絶対力なんです。その絶対力と一つになることなんで
す。それが救われなんです。そういう簡単なことなんだけれども、なかなかその簡単なことが
できない。
115
ガンジーの信仰
116
イソドの聖雄ガソジーという人がいますね。ガソジーの修養団というのがありまして、その
教団の信徒への手紙を、本で読みました。ガソジーという人は、実に純潔で、純一無雑なる人
なんですね。神に全部を捧げて、神の真理というものに対しては、あくまでも、どんな犠牲を
はらっても実行しようとする、そういう人なんです。そのことが手紙にありありと現われてい
るんですが、実行するにはとてもむつかしいんです。
どういうことが書いてあるかというと、第一番に、真理を行なわんとするもの、つまり、神さ
まと一つにならんとするものは、ある時は、苦業のために命をすてることもある。そういう覚
悟がなくては駄目だ、というんです。それから、少しの欲でもあっては駄目だ。真理を求めよ

う とするものは、他に心を想いを馳せては駄目だと。だから男の人が女の人に想いを馳せた
ら、場合によっては女の人に想いが行っちゃうから、真理から遠ざかる。また女の人が男の人
誰でもゴッドマン
を想う場合には、その男の人を一生懸命想うから神からはなれる。だから結婚はいけないん
だ、とこう書いてあるんです。それから、たとえ盗賊がきて、自分の物が盗まれたにしても、
その盗賊を、盗賊とみてはいけない。その盗賊を、武器をもって追払ったとすれば、その盗賊
はほかへ行って、ほかの人の物を盗むであろう。そうすると、ほかの人も自分も一つの命だか
ら、ほかの人のところへ、追いやったんでは、それは真理にそむくというんです。そして盗賊
とうそく
も真理においては、一つの生命なんだから、盗賊はやっぱり家族の一員としてみる覚悟がなけ
ればならない、とこう書いてあるんです。
光をかかげて行進してゆく
じゆんいつむざつ
まことに純一無雑なる信仰です。すごいものです。ところが、その手紙の通りに実行できる
人が、この日本のなかに一人もいないと思います。本当に神を求めるということは、切実なる
問題であり・真剣勝負の・ぎりぎりせっばつまったものなんです。ところがそれをガソジーは瑠
やった。けれどもイソドはそれほどよくならなかった。ネールでもやりかたが全然違います。18
1
むていこうしゆぎひようぼう
ガンジーは、あれほどに自分の命を投げだして、無抵抗主義を標榜して、誰をも恨まず、しか
も悪に負けたんじゃない、業に負けたんじゃない、業にむかって堂々と進軍して行く。しかし
抵抗して行くんじゃなくて、光をかかげて進んで行く。それが、あるときには断食になるんで
ぼうりやくイギリス
す。断食して英国の謀略に対してむかって行ったわけです。しかしその悪に対してむかって行
くんであって、何も英国を恨んで行くわけじぬ、ない。それを武器をもたないで、断食でもって
行なったり、あるいは説法して行なったわけです。そういう熱烈なる、真理のための行者とい
うのはちょっと少ないです。すごいもんです。そういうすごさは、とても素晴しいと思うけれ
ども、それを誰にでもやれということは、とても無理です。弟子たちのなかでも、それができ
得る人は、ほとんどないんじゃないかと思うんです。
易行道をひらいた法然、親鸞
誰でもゴッドマソ
ほうねんしんらんほうねんしんらん
私はそれと対比して考えるのは、日本の法然、親鸞なんです。法然、親鶯は、自分でもさん
いのち
ざん命がけの修行をしてきて、あΣ こんなに修行してもこんなに学問しても、とうてい真理を
悟ることもできなければ、行じられることもできない。自分はいつでも、心のなかに欲望もあ
るし、いろんな想いがでてくる。迷いの想い、自分をいとおしむ想いや、痛い、かゆいの想い
も出てくるし、寒いのは辛いし、お腹がすきゃ飢える。そういうものが出てくる。自分たちの
ようなこんなに修行したものでも、そういう想いがでてくるんだから、普通の一般大衆の人た
ちは、なお想い迷うだろう、それじゃ人間を救うわけにはいかない、といって、南無阿弥陀仏
いぎようどうじようどもん
の易行道、浄土門をひらいたわけなんです。
ガソジーと全然反対の行き方をしたのが法然や親鸞なんです。ガソジーのようなやり方をし
しようどうもんまと
たのは禅宗です。支那でも、日本でもそうだけど、禅宗は聖道門といって、自分の身を的にし
かいりつ
て、自力でもって修行してゆく。これをしてはならない、これをしてはならないと、戒律をも
19 ざぜんかんぽう
うけて、座禅観法している。ところがそういう行き方をした人の中から、そう偉い人は出ちゃー
いない。特別の人は出ていますよ。けれども、やった人の百分の一も偉い人は出てこないんで20
やこぜんー
す。みんな途中で駄目になっちゃう。野狐禅みたいになって、ろくに出来てもいないのに、酒
をのんでもオレは把われなきゃいいとか変なふうに理屈をつけるようになってしまう。何故そ
うなるかというとあまりにもむつかしすぎるから。
易行道浄土門法華経
現代になりますと、日常生活がとてもむつかしい。食べるのに大変です。働らかなきゃなら
ない。だからとても山へこもったり、滝にあたったりなんかして、修行しているひまがないん
です。一般の人は全然ないんです。そこで、人口の多くなった社会構成のむつかしくなった現
代においては、禅宗的なやり方、ガンジーのようなやりかたでは、どうにもこうにも追っつか
なくなってきたのです。
そこで、いま大衆の一番やりやすい方法は、やっぱり法然、親鸞のいったような、浄土門で
誰でもゴッドマン
なければならない。易行道でなければならない。やさしい行ないによって道が開かれてゆく、
やさしい行ないによって、自分が救われてゆくという教えでなきゃ駄目なんです。それを私は
いはついぎようどうじようどもんてきほけきよう
法然、親鸞の衣鉢をついでやっているんです。私の教えは易行道浄土門的法華経、と自分でそ
う思っています。浄土門というのは、キリスト教とやり方がよく似てます。法然はここにきて
働いているし、親鸞もいます。そういう易行道の人がたくさんきていますから、浄土門的教え
を説かされているわけです。ですから、自分の教えを見ていて、法然や親鸞の教えとよく似て
いると思います。ただ違っていることは、みんながよりやさしく、より理解できるように現代
語で書いていることです。それで南無阿弥陀仏にかえて、世界平和の祈りというものを出して
いるわけです。
真理を求めるのに急ぐあまり
ふつうの人は勿論、自力門の人たちでも、まず肉体の人間というものと、仏である自分、つ拗
わけみたま
まり、神からきている神の分霊としての自分というものを、ゴチャゴチャにしています。その
ぎよくせきこんこう
二つを一緒にしてそれを人間としてみる。それを磨いていこうとするわけです。玉石混鴻にし
ておいて、一生懸命いらないものを自分の力ではがしていこうとするわけです。ところが、は
ますい
がすたびに痛い。痛いからはがすのは嫌でしょう。手術でも麻酔をかけないですれば痛いでし
ぎようぶしつかん
よう。おそらくいま、胸部疾患があって肺を切るという場合に、麻酔もなにもかけないで手術
をするからといえば、みんな拒否すると思います。昔のように荒っぽい人たちが住んでいる時
はできるけれど、現代の人の感覚では、麻酔をかけないで手術なんかは、とてもできないでし
ょうo
ところが、今の禅宗のやり方とか、ガソジーのやり方をすれば、麻酔をかけないで悪いとこ
ろをとっちゃう。乳ガンだ、よし手術してとる。肺が悪い、悪いところをとってしまおうとい
う形で、女の子はとてもできない。男でもできやしない。私もいやだね。昔の禅宗のやり方や
ガンジーのやり方は、真理を求めるのに急ぐあまり、この肉体を粗末にし、肉体を軽視しすぎ
122
誰でもゴヅドマン
て、肉体の痛みとか、肉体のつらさとかいうものを、全然忘れてしまっている。わからなくな
っちゃう。選ばれた人が説くんだから、選ばれた人はできるんです。自分はそれに耐えること
ができるんだけれども、それについていく人がいなくなっちゃう。ただ、学生がちょっと一週
間ぐらい坐禅にいったとかね、そんなものは何んにもならない。
現世利益ばかりを追いかける
それで、そんなものは駄目だというので、現世利益だけをうたう宗教がたくさん出てきた。
「うちへくれば、病気が治るよ」「うちへくれば、みなあててやるよ」というふうなことにな
っちゃって、新興宗教が盛んになったんです。
ところが、現世利益ばかり追っかけていると、魂の問題がおろそかになる◎ 本当は苦しんだ
ほうがいい場合もたくさんあるのです。貧乏したり、仕事が失敗したりしたことによって、魂
が浄まっていって・真実・魂の救われの道に入ってゆくのです・それを途中でもって苦しみを伽
いちじ
止めちゃって、その場を一時救ったようにみえても、それは麻酔でその苦しみを止めたのと同24
1
じことになるんです。業をきれいに解いて、苦しみを救ってやるんなら、それはいいんです。
業はそのままにしておいて、それで苦しみを救ったとて、業がまたほかのとくっついて重なっ
ていくだけです。かえって増えちゃって、こんどはひどい苦しみが出てくるんです。現世利益
はあっても、その現世利益が、こんどは二倍、三倍、十倍の苦しみになって戻ってくる。そう
いうような救い方をしているのが、新興宗教の全部とはいえないが、大半がそうなんです。
ところが、禅宗のような既成宗教というものはその逆で、肉体の生活なんかどうでもよい。
肉体の生活をよくするために、われわれは道を説くのではない。魂の救われなんだ。命の救い
なんだというふうに説くわけです。
人間のかがみ的存在
もつと
ガンジーはその最もなるものです。自分個人が救われるということよりも、社会というもの
誰でもゴヅドマソ
を救おうと思っているんでしょう。けれども少し行き過ぎちゃっているもんだから、社会は実
際は救われてはいない。イソドなんかちっとも救われちゃいないです。ガソジーのような人が
かがみ
いたということは本当に素晴しい。あΣ、あんなに立派な人がいた、ということは、鑑になり
ます。そのために魂の浄まる人はずいぶんある。
シュワイツァーなどもそうです。シュワイツァーという人は、音楽家で、医者で、ノーベル
平和賞をもらった素晴しい人でしょ。その人が三十までは、自分のために勉強する。三十過ぎ
ては、人類のために命を投げ出すんだというんで、わざわざアフリカの奥地に行って、原地人
の病気を治しています。大変なところへ行って治している。そういう姿をみていると、あΣ立
派な人があるもんだ。自分の命、自分の名誉、自分の権力というものを全部放棄しても、人類
のために尽そうとする、しいたげられた人々を救おうとする、そういう素晴しい愛の深い人が
いるなあ、ということはとてもみんなの魂の高揚になるんですよ。魂の浄めになります。しか
しみんなに・そういうことをしなければ人類のためにならない・といっても誰もついて行くも伽
んじゃない。だからそういう人は、こういう行ないは素晴しい、人間はこれ程まで高まらなき
216
やならないということを、行ないで示しているのであって、みんなの道をひらく光にはなりま
す。光にはなるけれども、その道を誰も彼も踏んで行くということは、とてもむつかしい。ガ
ンジーのことは勿論そうだし、シュワイツァー博士の真似も、一般大衆には出来やしないでし
ょう。その人々の存在は人類の光にはなるけれども、直接の教えにはならない。直接の教えと
いうのはやはり、誰でも彼でも子供でもお年寄りにでも出来るものでなければならない。
楽に救われる教え
まつぼうこんじよう
末法といわれる今生において、楽に救われる教えということが一番の眼目になるのです。そ
れで私が生れて来て、身心ともに楽になる教え、楽に救われる教えを説いているのです。魂も
楽になるし、体や生活も楽になってゆく。私は初めから現象利益がありますよ、とはいわな
い。自然に浄めて、話を聞いて、本を読んでいるうちに、だんー魂がおだやかになってゆ
誰でもゴッドマソ
く。平和になってゆく。それとともに現象利益も出て来るんです。魂が浄まれば現象世界もみ
な救われてゆくんです。苦労も不調和もなくなる。魂が浄まらないうちに利益を得てしまって
は、借金をしているのと同じなんだから、その時はいいように見えるけれど、いつかは二倍に
三倍にも利息も借金も重なって、余計返えさなければならなくなる。
どこかに病気を治すうまい人があるから、一寸行って祈ってもらう。あそこで祈ってもらう
と商売がうんと繁昌する、というものにひきづられて行くような心では、とても魂は浄まらな
い。私のところにもそういう人が来ますよ。私はハイハイといっています。けれど私は、この
人の商売を繁昌せしめ給え、と祈っちゃいない。この人の病気を癒し給えと祈っちゃいない。
何を祈っているかというと、その人の魂が光り輝くようにと祈っているのです。魂の輝きを邪
魔している業想念を払っているのです。そうすると、病気が治りますようにと祈らなくたっ
て、商売が繁昌するように祈らなくたって、商売が繁昌するほうがその人の魂に必要であれば
商売は餐する・病気が今すぐ治ったほうがその人の魂に必要であれば・その人の病気は治つ脚
てゆく。病気を長びかしたほうがその人に必要なれば長びくのです。
281
病気をしていても、一人は一ぺんに治って、有難うございますと涙を流している。他の人は
三ケ月たっても治らない。一緒に来たんだけれど私が治らないのは、私の心がどこか悪いのか
というけれど、それはあなたの心が悪いんでも何んでもない。三ケ月かかったほうがその人に
はいいんだ。苦しんでいることによって、その人が何んらか魂にプラスするものを得るから、
それで長びくのです。そういうことがわかってくることが信仰の第一歩なんです。現世利益だ
けでくる人は、現世利益があればそれだけで終りです。
本ものの利益
私のところに初めて来て、翌る日から商売繁昌しちゃって、先生有難うございます、おかげ
さまで昨日は一人か二人しか来なかったのに、今日は二二五人も来ました。といったとて、私
はあx それはよかった、というだけです。そういうことは私は別にいいとも悪いとも思っちゃ
誰でもゴッドマン
いない。それも結構だと思います。しかしそんなことは根本の問題ではない。二二五人が明日
は減っちゃうかもしれない。業があるままで前生の因縁が一杯たまったままで救われたように
見えても、それは救われているのではない。本当の救われというものは過去世の因縁というも
の、神さまから離れていて積んだ想いがみんなきれいに消えてしまって、安心したという状態
です。安心した心の中から生れて来た現世利益というものであれば、それは本物です。これが
一番幸福だ。
安心も致しました、何が来ても驚きません、みんな神さまにまかせてあるから大丈夫です、
という心境の中から生れて来たお金であったり、地位であったりしたらそれは本物です。それ
こそ、本当によかったな、あなたも立派だったな、よかったね、おめでとう、と私も涙を流し
て喜びますよ。そうならなければならないし、またそういうものでなければこの末法の世では
価値がないんです。やさしい教えで入れるけれども、これで悟った場合には深い深い境地にゆ
けます。世界人類が平和でありますように・とやっているだけで・ガソジーが到達した・ある加
いは道元が到達したようなところまでいかなくとも、
ようにならなきゃならないし、行くのです。
みんなその近くまで行くんですよ。行く30
1
人間は神さまの中にいる
何故行くと私が断言するかというと、行くことに決まっているからです。改めて行くんじゃ
なくて、そこにいるんだから。いつもいうけれど、人間というものは神さまの中にいるんです
よ。ハッキリいるんです。それをハッキリ自分たちが知らないで、こっち(肉体) にいるんだ
とばかり思うんです。こっちにいるものは何かというと、魂の光の波と業の想いとがまじった
波があるのです。私がいろいろな印を組んでお浄めするでしょう、いろいろな波でもって現わ
れているということなのです。分解してみれば波動、ひびきなのです。波が来ているのです。
あなた方は波なんです。光と業の波が集ってここに来ている。形がこんなにあるように見える
けれど、本当は形ではないんです。うんと顕微鏡で拡大すると穴だらけなんです。みんなは穴
誰でもゴッドマン
だらけなんですよ。それを知らないで、私の肉体は充実しているなんていっている。波が来て
いるだけです。波である自分を可愛がって、波の元の太陽のように光り輝いている本当のも
の、大事なものを粗末にしちゃっている。大事なものが神さまの世界にあるんですよ。輝いて
いる自分をすっかり忘れちゃって、時がたてば消えてしまうような波ばかり追いかけて、あた
しの生活が、私のなんとかが、と一生懸命現世の生活だけを追っかけている。
はかな
いかに百万の富があろうとも、地位があろうとも、そんなのは優いもので消えてしまうんで
すよ。だから、自分というものがいつでも神さまの世界にいるんだ、自分の本体は神さまなん
だ、ということをハッキリ知らなければダメですよ。ハッキリ知れば、肉体が生きようと死の
うとそんなこと問題じゃないですよ。守護霊さま守護神さまありがとう、私は守護霊と一緒に
いるんだ、祖先と一緒にいるんだ、祖先の悟った人と一緒にいるんだ、またその上の神さまと
一緒になれるんだ、いつでも神さまの世界の中にいるんだ、ということをいつも思っているん
ですよ。
131
肉体は波の現れ
この固まった五尺何寸の肉体だと思っちゃいけません。肉体じゃないんですよ。波の現れな
んですよ。いいですか。光と業との波の現れです。いいですか、波が現われているだけですよ。
幽界という世界があって、そこに自分の想い、あれがほしい、これが欲しい、あいつが憎らし
い、あいつが怨めしい、が一杯溜っているんです。その上に霊界というのがあり、神界という
のがあって、そこは光り輝いているところで、その光の波がここ(肉体) に到達するまでに、
幽界という波の中を通ってくるものだから、光と業想念が混ざってしまって、肉体に現われる
時には善悪混合の人間になっている。しかし人間というのは皆さんにこんな形に見えるけれ
ど、こんなのではない。単なる波にすぎない。その波を幸福な波に変えるにはどうしたらいい
か。光と暗とがまじったようなものを一べん捨てちゃって、神さまだけが入ればいい。それに
はどうしたらよいかというと、神さま神さまと呼べばいいんです。守護霊さん守護神さん有難
132
うございます。神さま有難うございます。みんな神さまにおまかせします。とやっていれば、
最後の五分間までやっていれば必ず救われる。救われるということが連続して自分の体験にな
おび
ってくると、どんなことがあっても心が怯えることがなくなっちゃうんです。
超特別の人でなければ出来ないガンジーの教え
誰でもゴヅドマソ
ガソジーのようにやれればいいけれど、出来ないでしょ。ガソジーの教えについてゆくのが
本当にしても、男は女を想ってはならない、女は男を想ってはならない、結婚してはならな
い、ましてや家族が多ければ多い程真理から離れる、というんでしょ。それは本当です。雑念
が一杯そちらへいきますからね。けれど今更そんなことをいったって始まりません。結婚した
人は多いし、子供は出来ちゃったし、この世を卒業しようとする人がたくさんあるから(笑)
ガソジーのいったことを真剣にそのままやろうとすると、真面目な人はどうにもならなくなっ
て・苦しくなっちゃいます・鎚
しゆつけかるかやどうしんさいぎよう
昔、子供や妻をおいて出家した人がいる。苅萱道心とか西行とかいるでしょう。私はちっと34
1
も偉いとは思わないですよ。何故かというとずるいですよ。お釈迦さまになればいいです。中
とうひ
途半端な人が家族を捨てていったのではずるい、逃避したと同じでしょ。あとに残された家族
は食うに食えなくて困ってしまいます。自分の良心の命ずるままに、自分だけのために家族を
よわ
捨てて、逃避して、山の中に入っちゃうような、そういう弱みそをつくろうとは私は思わな
い。そんなものはダメですよ。
ところが真面目な良心的な人はそうしなければ気がすまないでしょう。ガンジーの教えなど
を聞いて、心がガンジがらめになって(笑) その教えに縛りつけられちゃうんです。教えに縛
りつけられちゃうようではだめなんです。それで私は、人間には出来ることと出来ないことが
きこんきこん
ある、出来る機根の人と出来ない機根の人とある。出来ないようなことをいってもだめだ。ガ
ンジーや禅宗の本当の教えをそのまま実行するとなると、余程優れた人でもう超特別の人でな
いと行なえない、というのです。あるいは、前世でよっぽど悪いことをして、さんみ\ 人を苦
誰でもゴッドマン
しめて、自分はどんなに苦しんでも苦しみ足りないものなんだということが魂に染みこんで生
れ変ってくると、どんなに苦しくともどんなに殴られてもやりますよ。そういう人は出来るの
です。
偽善者をつくリ出してはいけない
修養所に行ったり、坊さんになったり、行者さんになったりする人の中で、前世で相当な過
ちを犯した、実際に犯したか、自分で犯したと思ったかどちらかわかりませんが、そういう人
が灘悔のつもりでやる場合があります。自分では知らない、魂が知っているだけで、瀧穫ジし
けがはら
たりして苦しむんですよ。そういう人たちは案外平気で出来るんです。罪猿れを祓おうと思っ
ているからね。ところが普通一般の人は出来ない。だから禅宗の道でもガソジーの道でも、真
ぎぜんしや
直ぐだけれども、自分にそんな機根がなく、耐え得る力がなくてやりますと、偽善者になって
しまう・カソリ・クのお坊さんたちの中にも偽善者が多い・戒律がとても多いですし・自分で塒
やれもしないのにやっているような格好を見せる。たとえば心の中に女の人を想えば煮緻した
まい
るものなり、とイエスはいうんでしょ。あれをまともにやってごらんなさい。全部参ってしま
う。想ってはいけない、ということを想った、あx私はもうダメなものだ、切腹しなきゃなら
ないですよ(笑) ちょっとでも悪いことを思っちゃいけない、欲を出しちゃいけない、という
ことになりますと、少し出しても真理を外れるから、もうだめということになる。欲を出さな
い人などありゃしません。
腹がへった、食べたいな、というのは欲だもの。あの人は美しいな、なんて思ったらもうい
けないんだ。厳密にいうとそうなる。一人も合格者は無いんですよ。良心的な人はそれで蔵瞭
してしまう。そうでない人はいかにも戒律を行なっています。自分はなんにも思っていませ
ん、という顔をしている。そうすると偽善者になります。心に女の人を思えば悪である、と牧
師が説いていたとします。その牧師が自分は好きなことをやっているんです。或いは度胸がな
くやれなくて、悶々としている。あそこに遊びに行きたいな、止めた、あx いきたいな、いき
136
誰でもゴッドマン
たいな、年中そう思いながら暮している者もあるでしょう。それで人には「してはいけませ
ん」と説いていたら、それは偽善者です。
人間は神の生命において同一なんだから、すべてを愛さなくてはならない、盗人さえも許さ
なければならないのである、と説いていながら、一寸自分の悪口をいったら、その人を憎んじ
ゃう、自分に一寸従わないと憎んでしまう、その上人の悪口をいっている人がいる。口に清い
ことをいっても行ないに械れたことをする人がたくさんあるんです。宗教家にうんといるんで
す。宗教の先生方、導師という人の中に、言葉できれいなことをいい、いかにも自分だけは行
ない澄ましているような、人にはしてはならない、いけないといいながら、自分は年中してい
る奴がたくさんいるんです。それを偽善者という。純情な青年が弟子になったりすると、青年
は煩悶しちゃう。悪の種を蒔いたも同然です。
だから宗教というものは、あまりきれいごとを並べ、人間が出来ないようなことを並べたっ
てだめだというんです・ガンジゐよう葎い人がいったのはいい・ガソジ… はやったから偉餅
い。これは特別偉いよ。道元さんも特別に偉い。しかし次の弟子が説きはじめると、次の弟子
はやらないのだから、やらないで先生のいったことばかりいうんだから、偉くない。宗教がい
かに多くの偽善者を作っているか、ということは私はよく知っているんだ。偽善者になってし
まう。いかにも自分はやったようなことをいって人を責めながら自分は一つも出来ない。自分
なか
が出来ないようなことを人にいう勿れ、です。法然、親鸞はそれがよくわかっていた。
138
想いが神さまの中に入っていればいい
法然さんは、本当にむずかしいんだ、出来ないんだ、それで誰にも出来る教えをというんで
南無阿弥陀仏を唱えたのです。西方極楽浄土に阿弥陀さまがいらっしゃるから、南無阿弥陀仏
といえば誰でも救われるよ、といった。そして念仏に専念しちゃったんです。これは偉いです
よ。誰にも出来ますもの。念仏をして、白光十二月号に書いた妙好人のように、下駄屋の職人
さんでも南無阿弥陀仏といっていれば、本当に阿弥陀さまの光と一つになって、高い心境にい
誰でもゴヅドマン
ってしまう人もたくさん出るのです。理屈も何もありやしない。ただ念仏一念だったのです。
まつこう
ところが現代になると、南無阿弥陀仏だけでは抹香くさくてしようがないから、世界平和の祈
りのようなわかりやすい、子供が聞いてもお婆さんが聞いても、世界人類が平和でありますよ
うに、はわかりますね。日本が平和でありますように、もわかります。わかる言葉を並べたの
です。
本当は、どんな言葉だっていいんです。どうしていいかというと、自分の想いが神さまの中
にさえ入っていればいい、神さまの中に平和を念ずる想いで入っていればいい。みなが救われ
ますように、みんなが平和でありますように、という想いが神さまの中に入っていさえすれ
ば、その人の個人の想いはないんだから、その時には神さまと一つでしょ。自分の本体に帰っ
ていることになるから、どんな祈り方をしたっていいわけですよ。だから南無阿弥陀仏でもい
しがい
いんです。しかしそれでは何か沈んでしまって、死骸にあげるようでしょ。結婚式で花嫁さん
に、南無阿弥陀仏ーーとみんながやったら、お葬式のようでしょう。世界人類が平和であ塒
りますように、これなら結婚式にやったっていい。時、場所をえらばず出来るものでなければ
410
だめでしょ。声に出してもいい。結婚式が終った。さあみんな世界人類の平和を祈りましょ
う、みんなを祝福する意味で。世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますよう
に、誰々と誰々の二人の天命が完うされますように”とやれば立派です。結婚式のはなむけに
なります。けれどみんな並べて南無阿弥陀仏ーーとやっては新婚旅行には行きにくいわね
(笑) 念仏というものを、死骸にあげるものだと一般大衆が思っている。もうそういう時代で
はなくなっている。それは法然さんも親鸞さんもいっている。あなたの肉体が代っていってく
れとこういうわけです。
さはんざいあくじん
南無阿弥陀仏もいいです。日常茶飯にやっているお婆さんもいます。このなんとかの罪悪深
ちゆう
重の婆を生かして下さいまして有難うございます、とやっています。念仏宗の人はいつでもや
っている人はあります。だけどそれだけでは物足りないから、世界人類が平和でありますよう
に、と祈ることになったのです。親鸞さんも法然さんも一緒にやっているんです。日蓮さんも
みんな世界平和を念じているんです。世界人類の平和を念じるということが、
つでも神さまの中に入っているということなんです。
自分の想いがい
いいも悪いも神さまの中に投げこんじゃえ
誰でもゴッドマン
要するに私のいいたいことは、この三界の現象世界のごみくた(いろいろな想い) はいらな
いんだということです。こうしなければいけない、あΣしなければいけない、あいつがいけな
い、こいつが憎らしいとか、世界はダメだとかという余計な想いを全部なくしちゃうというこ
とです。なくすことが自分で出来ないから、世界平和の祈りをして、ごみくたをみんなそのま
ま投げ出してしまうと、邪魔がなくなるから、神さまの光がスーッと入っていくんです。まっ
すぐに入ってくるんです。この世界がパーヅと光ってくるのです。それを私が説いているので
す。親鷹法然が南無阿弥陀仏と教えたのもそういうことなんです。
自分でこれがいけない・あれがいけないとやっていたんでは・いつまでたっても泥田の中にm
いて足をもがいているようなものです。泥田から一ぺん上って、神さまの中に入ってしまっ
412
て、それからやろうじゃないか、というのが法然、親鸞の願いだったのです。それを五井昌久
が世界平和の祈りとして説いているわけです。この頭の中に去来する業想念、いいとか悪いと
か、私はダメな姑ですとか、嫁ですとか、ダメだーという想いは全く邪魔ですよ。ダメだと
思ったらよくなればいいんだ。よくなりもしないのにダメだーといってもしようがない。だ
からそうした想いを一ぺん全部なくすために、世界人類が平和でありますように、と祈るので
す。
私はダメだ”世界人類が平和でありますように”私は駄目だ”世界人類が… …”となんでも
想いを世界平和の祈りにもっていっちゃうんです。なんでもかんでも神さまにもっていってし
いつこうせんねん
まう。一向専念世界平和の祈りをすればいいのです。そうすると、とやかく思う想いが世界平
はしご
和の祈りを柱にして、梯子だんにしてどんー神さまのところに昇ってゆく。いつの間にか業
想念が光り輝いた波に変ってゆくんです。業想念と光とが混っていたものが、業想念がどん
ー上へ昇って浄化されてゆく、そして光が入ってくる。取替え取替えしているんです。
やれば出来る教えでなければ
誰でもゴッドマソ
茶碗に一杯汚ない水が入っているとします。そこにいつもきれいな水をどんどん入れつづけ
てゆきますと、汚ない水はあふれ出て、ついにはいい水で一杯になります。と同じように、そ
きせい
の人は立派になるんです。それを、お前はこうしなければいけない、という戒律で規正しなく
とも余程楽でいいです。それが易行道浄土門というのです。
ガソジーの教えがやりよいと思う人はやったらいいですよ。女を想ってはいけない、男を想
ってはいけない、家族のことを想うのはとんでもないことだ、というんでしょ。それをやれた
らやっていい。やれっこない。やれないことをやろうと思っても無駄だから、やれることをす
るんです。世界平和の祈りは出来ますね、神さま有難うございますと思うことは誰でも出来ま
43 す、やれば
いいんです。とてもやさしいことだと思うんですよ。坐ってたって、起きてたっー
て、ねていたってやればいいんですから、想うことは楽ですからね。世界平和の祈りを想うこ
414
とが出来ない人は誰もいないんです。それが面倒だという人はもうしようがない。もう一べん
やり直して来い、ということになります。
必ず立派になれる
先生の教・兄はむずかしい、という人もあるんですよ。何いってやがんだ、もっとやさしい教
、兄があったらどこかで拾って来いっていうの。どこにもないから。うちの教えよりやさしい教
えはありません。やさしくて高い高いところへ連れてゆく教えはないと思うんですよ。これを
つづけていきさえすれば、必ず立派になります。
どんどん皆さんは立派になっています。変って来ています。どうして変るかというと、この
肉体のまわりに幽体があって、幽体の中に過去世の想いが一杯つまっている。それが世界人類
が平和でありますように、とやっているうちに、いつの間にか汚れがきれいになってくる。こ
こにいる市川のおばあさんだって、初めて来た時はヨボヨボしていたんです。顔色も悪かっ
た。うちに来ている問に顔色が変って来て、うちのおばあさん光って来た、と息子さんが喜ん
でいる。本当に光って来た。そうでしょう、いつも嬉しがっています。おばあさんでも嬉しが
る、まして若い人は先があるのだから、なお嬉しがらなければならない(笑)。
私はどこへでも現われる
誰でもゴッドマン
私は理屈なんて云っちゃいないんだ。やさしいことばかりいっていて、ポソポソと浄めてい
るうちに、みんな仲良くなってくる。だから皆さんは、私に会える間はかまわず私に浄めても
らい、もし会えなくなれば世界人類の平和だけ祈っていればいいのです。私にもし会えなく
て、肉体がみんなに会えなくなる時には、チャンと現われます。
この間、ある女性が昔、知り合いだった神道系の行者さんのところへ、何か用があって尋ね
ていった・そしたらそこにもう天いて・何か行をやっていた・あなたは霊媒の素質がある・燭
霊媒になりなさい、というんですって。その人は嫌だーといっていたんですが、無理無理坐
らされた。合掌しろといったから合掌した。途端に手がピューッと上っちゃったんです。当人
はどうなることかと思った。ところが眼が開けられなくてどうにもしようがないんです。神が
かりになってくる時は、どうにもしようがない。眼をつぶっちゃって、手が上っちゃってどう
にもならなくなった。そしてエーイーと気合が出てくるんですね。神道の行者が、サアお
かかかみがか
懸りになった、と思ったわけね。その人は五井先生五井先生と念じていたんですが、神懸りに
なった。行者は「お騰りになったのはどなた様でございますか」ときいたんです・これは糠神
するときの常識なのです。そしたら自分は云おうと思わないのに「五井昌久」というんだって
(笑)あNそうでございますか、どちらにお住いですか、ときいたら「神界の最上級」と云っ
こんじき
たんです(笑) では色はどんな色ですか。「金色」と自分が勝手にいうんですって。今はどち
らにお住いですか。「どこにでもいる、どこにでも現われる」私の声そのままになって「さあ
なんでもお聞き下さい、なんでも教えてあげますから」とこういうんですって。行者さんが
146
「○ ○ さんの息子は一寸家を出ているんですが、今どこにいましょうか」ときいたわけ。そし
たら「どこにいるか、それは聞かなくてもいい。知らせる必要もない。この子は今、一生懸命
働いているから、今に立派になって帰ってくるから心配するな」と答えたんです。それで話は
終ったわけ。
神霊がぎっしりつまっている
誰でもゴッドマン
かか
そのように五井先生が現われちゃったんです。本当かウソか。本当なんです。変なものが懸
って来ては困るんで、こちらから行って助太刀したんです。五井先生が本当にいったか、霊団
の一人がいったか、それは別です。私の霊団にはたくさんいるんです。お前一寸行ってやれ、
ハイよござんす、とパッといってくれるんです。ピラミットのようにこの霊団の中には上から
ずけつと
下までズ!っと揃っているんです。この役は誰々という風にね。今日の助人は、大したことな
いからお前行け、まだ守護霊の中に入りたての新参者が行って助太刀してくる。あれは一寸手即
こわ
強いからこの辺が行ってくれ、ハイと行くわけよね。すぐ飛んでいってちゐ、んと現われてくる48
1 ひとやく
のです。そして一役を果してくるんです。
この婦人の場合もへんな霊媒にされては困るから、パッと防いでくれたのです。そんなとこ
ろへは行きなさんな、と私にいわれたけれどね。そういうわけで、いざとなると五井先生は幾
人にもなって、どこへでも現われるんです。だから五井先生と呼べば必ず防いでくれます。絶
体絶命でも防ぐことを私は保証しますよ。本当に真剣に呼ばなければダメですよ。どんな呼び
方でもいい、便所の中で呼んだって行きます(笑)。中村あいさんの坊やみたいに、うんちが
つまっちゃって、便所の中で、五井先生五井先生、ボクのうんち出して下さい、と祈ったら、
うんちが出たというんで喜んで私のところに来ましたけどさ(笑) このくらい無邪気ならどこ
でも呼ぶでしょうね。どこで呼んでも行くんです。
神づまりに神づまっているんです。その中の一つの神霊がいけば相当の力なんです。今、形
の上においては私どもより大きい宗教団体がたくさんあるけれども、実は神界においてこの霊
団はとてもでかいんです。ものすごく大きい。それがわかると皆びっくり仰天する。霊団に所
属する霊がありますが、その霊に関係した人たちがたくさん肉体界にいるわけです。その中に
は、現在一つの宗教の教祖などもいます。そういう人たちがだんー集まって来るのです。そ
れがみな手をつないでやってゆくことになるのです。その手をつなぐ会を一昨日はじめてやり
ました。ともかくこの人のまわりというとおかしいけれど、ギシギシいっぱいにつまっている
んです。そういう神霊たちがいつでもどこへでも、五井先生と呼ぶと助けにゆきます。
誰でもゴヅドマソ
ゴッドマンになる
この間、どこかの坊やが三輪車に乗っていて、自動車の下に入っちゃった。アッと思ったけ
れど坊やが自動車の下から、ニコニコして出て来て、ヵスリ傷もおわなかった。それで早速報
告に来ました。それから横関実さんの外孫が、本部の二階で遊んでいたんです。手すりに登っ
49 て遊んでい
るうちに、コロソと一回転して屋根の上に落ちた。ふつうだったら勾配がついていー
る屋根ですから、コロコロところげて落ちなければならないのに、屋根の上にポコソと坐った
50
1
きりで動かなかった。お守りしていた人が驚いちゃって、心臓が止まったような気がしたそう
です。あとで聞いたらゾーッとします。そういうこともあるんです。また、ある人は電車の踏
切りのところで、つまづきころんでしまった。ふつうだったら前にのめるのが、ガクッとうし
ろへひっくり返った。そしたらそこを電車が通って無事だった、というのです。
常に常に神さまが守っているのです。内なる神、つまり直霊の神から来た分霊の光を出すこ
とは、自分一人ではなかー出来ない。そこでまず外から守ってもらう、光でだんだん業をは
しんじんまとナ
いでもらって、中の光と外の光と一つにすると、その人は神人、ゴッドマンになるのです。、仏
さまになるのです。そういう祈りが世界平和の祈りなんです。その中心となってやっている人
が五井先生という人です。これは人間の名前ではない、神霊の集合団体の名前なのです。この
ことたま
間言霊の研究をしている人が来まして、五井というのは実に面白い苗字ですね、というので
てんのまない
す。井というのは、天真名井といって、知恵が吹き出すところ、生命力が吹き出すところ、な
誰でもゴッドマン
いずず
んでもすべてが吹き出すところ。その上に五がかぶさっている。五というのは五十鈴、五十音
といってすべてのすべて、中心の数。天真名井の上に中心がのっているとはーと考えていま
した。
五井というのは個人の名前でなくて、働きの名前なのです。五井昌久などという個人はあり
ゃしない。五井昌久という働きの名前です。私は働きなのです。神の働きがみんなにくるんで
す。だから私は誰と会っても、宗教の教祖と会っても、こっちが偉いとか、向うが悪いなんて
思いもしない。みんな働きなのだから、働き同志がみんな手をつなぎ合って、本当の世界をつ
くるんです。オレは一番偉くてお前は一番下だ、といったらだめなのです。ですから私は今、
宗教のとりまとめをやろうと思っているんです。着々と始まっています。
151
152
光になれ
昭和33年2月9日市川五丁目会館
素直な心は正しさをつかむ
素直な生き方というのは非常にいい、私なんかも素直に生きてこうなったんですが、素直と
いうことは大事です。
こう
それで素直とは何かというと、業に素直になれっていうんじゃないんですね、真理に素直に
なれ、本当のもの正しいものに素直になるという、この素直さなんですね。本当に素直な心っ
ていうのは必ず正しさを掴むんです。業に素直ってことは本当はない、言葉としてはあっても
光になれ
本当の意味で素直という場合には、真理に素直であるということになるわけです。業に素直に
なるってことはそれは怠惰なる精神ですからね。
そこで只今の佐藤さんのご自分の体験された話を聞いてまして非常にいい話だと思いまし
た。佐藤さんは神秘主義者ではないんだけれど、神秘なること、目に見えない実在を掴みたい
ために生長の家をやったり、ヨガの研究をして呼吸法をやったり、いろいろな方法で研究なさ
ってみた。ところがなかなか実在は掴めない。それが空飛ぶ円盤の話を聞いたり読んだりなさ
って、それが確かだろうという直感がするわけですね。それは私の目からも確かなんです◎ そ
こで私は確かだという裏付けをしたわけです。
その確かさというのがだんー今度は私たちの仕事の上にはっきり現われきつつある。私た
ちもその方向に動いているわけです◎ ですから佐藤さんは空飛ぶ円盤の研究を、この会として
は一番最初にやっている人なんです。宇宙人との交流や円盤の研究はやがてこの会で実現して
きます。それは年の初めに申し上げたし、昨年もなんか申し上げた筈です。宇宙人との交流体
153
験はだんー本格的になってきて、
らないんですから。
今にびっくりすると思うんですよ。まだ世間の人は誰も知
514
スーパーマンに憧れる
今のこの乱れに乱れた混濁した世の中というものは、常識通りにいったんではもうどうにも
こうにもならない、常識通りにいけばやがては滅びるに決っている。ですからこの世の中を本
当に救うのは超々々々超常識です。なんだあんなことあるものかというような、例えば忍術で
パッと消、兄てしまうような、馬鹿々々しい話のように聞えますね、ところが現在では忍術映画
はやはや
ってのがとても流行っています。宇宙人の映画もずい分流行ってますね、スーパーマソってい
はや
うのが流行ってるんですよ。赤銅鈴之助だってあれスーパーマソだからね、えーいッとやると
人間が倒れたりパーっと風が起ったりするでしょう。あれは子供ばかりが好きじゃなくて大人
も好き、みんな好きなんです。
光になれ
人間の肉体の力というのは限度がありますから、一歩一歩しか歩まない。市川駅まで行くの

に何分もかかる、そういうような肉体の物体的な動きにもう人間は飽きてきたんです。物質を

超えた動きというものを好む、探求してゆくという精神があるわけです。子供は素直です。だ
さるとびさすけ
から子供はスーパーマンが大好き。猿飛佐助なんか子供の頃はみんな好きだった。私も大好き
でした。霧隈聴灘博戸涯雌塊鷲惣なんとかね、たくさんありましたよ。ああいうのが好きで読
んでました。
パッと姿を消したり、空を飛んでみたりすることは実際にできてくるんです。それが出来た
購は科学的にこれーこういうわけであるという論理が成り立つわけです・イギリス㌦・
D ・ホームっていう霊媒がいましたが、その人は空中に浮んで、窓からすーっと出たりまた窓
から入ったりした。そういうことをした人が実際いるんです。※ 十九世紀の霊媒(男性)
日本でも山で修業した人たちの中で仙人と呼ばれる人は空中を飛びました。パっと空中を飛
5
んで、何百里もある所を一遍に行って来たりする、そういう人は現在でもいるんです。目に見1
えない姿をしている、イソドにも日本の山中にも実際にいるんですよ。
はできないわけじゃない、出来るんです。






し・



156
夢がなければ進歩はない
ところが常識人というイソテリ層というのは、そういう神秘的なことは全部否定しようとす
るんです。とにかく自分ができないから、自分ができないと人も出来ないだろうと思ってみん
な自分のレベルへ引き下ろしてしまう。けれども子供とか純粋なる素直なる人というものは、
自分の程度にみんなを引き下ろそうとはしないんです。自分が一つの夢を描いて、理想を描い
て、それでああいうものになりたい、ああいうことがあったらいいだろうな、ああいうふうに
空が翔べたらいいだろうなあ、という夢があるんですね。その夢が人間を進歩させて行くんで
すよ。例、兄ば飛行機がなかった時代に、ああ空が飛べればいいなあという夢があって、それが
科学的な研究によって飛行機ができた。飛行機ができて今度は、もっと速く飛べばいいなっ
光Y’なれ
て、ジェット機が出来たりしてね、今度はロケットが出来、今、人工衛星ができたりしている
わけです。
あれはみんな夢が実現するんです。夢が実現するのだから、夢のない人間というものには全
然進歩がないんです。他の人がなにか超常識なことをして、素晴しい人間ばなれのことをやる
ごま
と、ああそれは奇術だ、あれは嘘だ、誤魔化しだというように、自分のできないことはすぐに
否定してしまう。霊界がある、というと、自分がみえないから、霊界なんかあるもんか、幽霊
なんかあるもんか、霊魂なんかあるか、人間の世界は肉体の世界だけしかないんだ、肉体以外
の世界なんか絶対あるもんか、というように、自分の頭で判断できないことはみんな無いとす
る今の常識的イソテリ層は、進歩をみんな阻害してしまう。
自分たちより偉い人ができてしまうと困るもんだから、みんな足を引っばって自分のレベル
まつぼう
に引き降ろそうとしているんだけれど、もうこの末法の世になってここまできてしまうと、そ
れではどうにもこうにもならなくなってしまったので・だんー神秘力を持つ・肉体の力では捌
不可能な力を持つ人たちが現われてくる。その人たちが寄り集って、
手を組んで、それで最後の、人類の地上天国を完成するわけですよ。
それに共鳴する人たちと
518
直感の時代
それで佐藤さんのように素直に神秘力を信じて、素直に理想を持ち夢をもって、ああこうな
ればいい、こういう人が現われればいいなあ、と常に思っている人がいろー研究したりし
て、ああ確かに自分の直感でもこういうことがあるに違いない、例えば空飛ぶ円盤があるに違
いない、地球以外に人間と同じようなものが住んでいるに違いない、直感的に思うんですよね。
その直感というのは馬鹿にならないですよ。ところが人間というものは直感力に頼っちゃい
けないというような想いがあって、科学的、科学的という。けれど科学というのは本当は直感
から始まっているんです。空が飛べたらいいなア、という夢があり、実際に研究してゆくうち
に、出来るんであって、初めは夢をもち、とび離れたことを考え、それがだんー実現してく
る。例えば絹や木綿でなくて、なんか着物ができたらいいなあ、そういう夢をもって研究し、
人造絹糸とか化学繊維とかができた。だから理想とか夢とかがなければ、人間も世界というも
のも今以上、発展しないわけです。
末法の人類救済運動
光V’なれ
まつぼう
そこでこの末法の世になって、こうなったらいいなあと思う人が増えてくるわけです。地球
世界は今のままでいったらアメリカとソビエトが戦い合って、本当は地球と宇宙人との交流の
ために作られなければならないはずの人工衛星までが、戦争の道具に使われているという現状
でしょう。アメリヵをごらんなさい。人工衛星を作っているのは陸軍と海軍でしょう。まさに
軍事目的で作っているわけですね。勿論ソビエトもそうです。軍事目的に人工衛星を作ってい
るような頭では、この地球世界を滅ぼしこそすれ助けることにはならないでしょう。そういう
人たちに任せておいたんでは滅びてしまうという神さまの羅しがあって・前生からいろー畑
修業した体をもって生まれてきた人たちを使って、本当の救済の仕事をさせるわけです。それ60
1
を人類救済運動、人類救世運動っていい、今盛んに始まっているんです。各所にスーパーマン
ができているわけです。
インド
アメリカにも本当の意味のスーパーマソがいます。イギリスにも印度にも日本にもいます。
ス!パーマソがうんと集って、最高峰のス1パ! マソ、その次のスーパーマソ、それからもっ
と下のスーパーマソというものが円形のピラミッド型になって、それでいよいよ人類の救済を
する、地球世界が本当に天国でありますように、本当の地上天国ができるように運動している
わけなんですね。それで皆さんの中ではそういうのを感じる人もあれば、感じないけれども直
感的にそうだなあ、確かにそういうことになるに違いない。神さまは愛なんだからこの世界を
滅すことはないんだから、なんか特別な力でもってやるに違いない、というふうに思うんです
ね。思った人たちがまあこうやって集ってくるわけです。
想いの波が運命をつくる
光になれ
それで私なんかはどういう構造になっているかというと、肉体がこうあって、あなたの肉体
も私の肉体もみんな同じにみえますね。大人だったら十何貫あって、五尺何寸かあって同じ身
体にみえるのだけれども一人一人全部違う。どういうふうに違うかというと波の速さ、なんて
いいますか波長っていうんですか、違うんですよ。ひびきが違うんです。私なら私の波長はど
あら
ういうふうに出来ているかというと、非常に細かくも動けば粗くも動ける。細かーく、もう無
くう
に近く、空になる、波を全然出さないでもいられる。ところが普通の人は波を出さないではい
られないんです。年中想いの波を出している。自分が出した想いの波でもって自分の運命は作
くや
られていくのですから、年中悔んでばかりいて、私は病気だ、私は病気だと思っている人は、
病気の波の中に包まれていて病気になっている。貧乏だ貧乏だって想いを持っている人は、そ
の想いの波の中で包まれて貧乏を作っている。
161
ところが今貧乏であろうと、病気であろうと、どんな不幸であろうとも、ああこれは過去世
612
の因縁の消えてゆく姿なんだ、俺は神からきている神の子なんだから、こんな貧乏なわけはな
い、病気なわけはない、今現われているのは過去世の因縁が消えてゆく姿なんだ、と本当にそ
う思っている人はどんー消えてゆく。なぜ消えてゆくかというと、自分の波で自分の運命を
作るからです。だから明るい波を持った人は暗い波を持っている人より得なんだけれど、暗い
波に慣れている人、年中悪いことばかり考える癖に慣れている人は、それはそうだけれども思
えないんです、とこういう。明るい想いを出そうと思っても、どうしても暗い想いになっちゃ
う、そういうんですね。病気じゃないと思おうと思うんですが、病気に思っちゃうんです、不
幸にならないだろうと思うんだけれども、不幸に思っちゃうんです、こういうんです。それは
癖なんです。
なんでも練習しなきゃ駄目。練習しているうちになるんですね。スケートをやるんでもスケ
うま
ートの技術の本だけ読んだって、こうやればこうやればっていったって、やってみなきゃ巧く
うま
ならない、練習をする度びに巧くなるんです。今、不幸の波の中にあって不幸ばかっりか思え
ないような想いの人であっても、ああ、先生がああいうんだからやってみようと思って塩世界
人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、私どもの天命が完うされますよ
うに、守護霊様守護神様有難うございます、と簡単なんだからそれをやっていればいい。やっ
ていさえすればそれがだんだん癖になってしまって、今までは言葉の先でやっていたのがだん
ー心の奥へ入ってしまって、しまいには身体全体でやり、魂全体でやるようになる。そうす
かげ
るといつの間にか暗い騎がなくなってしまう。今うちへ来ている古い人たちはみなそうなんで
す。
私の体はどうなっているか
光になれ
また話を元に戻して、私の身体はどうなっているかというと、暗い想いも明るい想いもな
い・私自身の想いはなんにもないんです・何があるかっていうと・神さまの光の波が年中ここ鞠
に入っている。ある時は小さく、ある時は大きく、相手によってはうんと大きく入って流れて
ゆく。ぐるぐる体の周りをつつみ、身体を通って相手に流れて行くんです。そういう身体なん
ですよ。
それでもう一方では集ってくる人たちの想い、あるいは世間の想い、あるいは人類世界の想
いが波になって押し寄せてきてここに感じてくる。感じてくるものはみんな消えてゆく姿って
ことをちゃんと知っていますから、みんなするーするー消えてゆく。だから神さまの光の
波と、横から入ってくる業の波と両方があるだけで、自分というものが一つもない。ですから
何百人、何千人が、先生! お腹が痛い、頭が痛い、と頼んでこようと、その想いは必ず飛ん
つか
でくるんだけれど、飛んできてもここへ来た時にこれはそのまま廻って、掴みませんから、あ
Σ痛い、これはなんの病気だって思わない、思わないからそのまますーっと通り過ぎて消えて
行っちゃう。それであるものは何かっていうと神さまだけ。神さまの波が年中流れているでし
ょう、だから業の波がいくら入ってきてもきれーいになっちゃう。
164
光になれ
太陽が照ってる時にいくら闇がこようとしても闇はこられないでしょう。電灯がついている
時暗いもんが通れない、事実は通っているけど一瞬に消えちまうから見えない。それと同じよ
うにいつでもー心の中に神さまの光を通していれば、いかなる病気がこようと不幸がこよう
と、誰々が恨もうと、どんなに頼もうとそれはみんな消えてゆきます。それでないと私のよう
な仕事は出来ないんです。なぜ出来ないかっていうと、もう何千人何万人って人が、先生助け
て下さいって思っているんだから。そういう想いは夜中だって我慢しているわけにいかないか
ら思うでしょ。便所へ入ったってお風呂へ入ったって、どこへ入ったって思うんです。その想
いが入ってきて私があΣ痛いって掘まえていたら、掴まえている分にはなくならないんだか
ら、溜ってしまって私は倒れて死んでしまうんです。
ところが死なない、いつでも元気でいる。なぜ元気でいるかというと、それは消えてゆく姿
ってこと、もうわざー消えてゆく姿って想うんじゃなくて、もうちゃんと知っているんです
65 ね。心
の底から消えてゆくも何もないと思っている、問題にしてないですよ。痛いっという想1
いが過ぎてゆくだけで、天と地をつなぐ光の柱があるだけです。それを霊眼でみると光り輝い6
1
てみえる。「先生は光り輝いてみえます」「ああそうだろう」って私はいう。普通なら遠慮し
て、いやそんなことありません、っていうかもしれない。けれどそうなんだからそうなんだと
いう。そのまま光り輝いている。だから何がきても、どんな悪魔的想念がきても、私を恨んだ
ってぶつかってきても大丈夫。
行者のさか恨み
この前も話したように、ある行者さんの所へ行っていた人がうちへ来てしまってねエ、それ
ごまた
で向うじゃ私を恨んで、よし五井のやつ、やっつけちまおうって、護摩かなんか焚いてイヤー
とたん
ヅってやったらしいんですねエ。ところがやった途端に向うが病気になっちゃった。私はピン
ノへしている。なぜかっていうと、私は全然受けつけないですから。業が入ってもスーっと廻
って向うへ返って行くから、向うが病気になっちゐ、う。なぜかというと自分が恨んだだけの想
はイソド
いが跳ね返ってゆくから、病気になるんです。印度にもそういう話があります。ヨガの聖者を
ある人がやっつけようと思って毒のお酒を飲ませるんです。その聖者は平気で飲んじゃう、飲
んだ途端に飲ませたやつが、ウーッと苦しみ出す。聖者は平気な顔をしている。ワアー助けて
くれ、苦しいー。「お前は私に毒をのましたけれど、私のほうにはなんにも害意がないんだ
から、私は光なんだから、お前に戻って行っただけだ。よし助けてやる、今度からこういうこ
としちゃ駄目だぞ」って、助けてやるんです。こちらがすっからかんに光一元ならば、向うが
傷つけて来てもこちらは傷つかないんです。そういうものなんですよ。
菩薩のこころ
光になれ
全部光になることはなかなかむずかしい。むずかしいけれども世界平和の祈りを続けて行け
ばやがて全部光になるんです。世界平和の祈りを三年も四年もやっていれば、もうきれーいに
なってくる∴ ,朋やったってきれいになります・なぜ世界平和の祈りをやるときれいになるか餅
というと、世界人類が平和でありますように、という祈りは愛なんですよ。人類を愛する想
い、人類愛なんです。菩薩の心なんです。その菩薩の心を出すわけです。菩薩の心を出すと、
本心から光が出て来ている。本心が曇っていて業想念で固まっていれば、あいつが倒れればい
いなあ、えーい地球なんか滅びたら面白いなあ、ああ天変地異がきたらおもしろいがなあ、面
倒くさい、滅びちゃえっていう心になる。それは悪魔の心でしょう。ところがどうかあの人が
幸せになりますように、みんなが幸せになりますように、人類がよくなりますように、という
心は本心の心であって菩薩の心なんです。本心の心は光、神さまは光なんですから、そういう
心は光なんです。
神さまというのはどこにいるかというと、自分のなかに、本心としてあるわけです。良心と
もいいますね。分霊としてあってもっと奥に直霊というのがあるわけです。内面的にみると分
霊があって奥に直霊がある。外面的にみると、後に守護霊があってその上に守護神がある。二
段構えになっている。それで普通、神さま神さまという神さまはどういうふうにみんな説いて
168
いるかというと、中の、仏教的にいえば本心、直霊のことをいうんですね。人間すべて仏性な
り、すべて仏の心があるんだというんです。人間の内にある。それだけしか普通仏教では説い
てないんです。お釈迦さまはもっと詳しく説いたけれども、今伝わっている仏教っていうのは
みんな中の仏さまだけいうんです。だから唯物論みたいになっちゃって、死んだ先の世界なん
かあるもんかって、死んだら命がないもんだと思っている人が沢山あるんです。真宗のお坊さ
んにも沢山あるんですよ。
神は天にも地にもいます
光になれ
それから神さまというのは、天にましますわれらの神よって天にあるんだ。それで自分たち
しもぺ
は下僕なんだね。神さまの下僕であって罪悪深重なんだ、とこういうふうにいうんです。天に
はあるけれども自分にはない、本当はキリストはそんなこと説かないですよ。キリストは神の
69 国は内にあ
ると説いているんだけれども、クリスチャソの中で間違った教え方の人たちが多いー
んです。その人たちは天にましますわれらの神よがあって、わが内にまします神がないんです70
1
よQ 説かないんです。本当のキリスト教はそうじゃないんですよ。間違った人は、お前たちは
神の下僕なんだ、罪深いものなのだ、お前たちはもう原罪があるんだからイエスさんにすがら
なきゃ駄目なんだ、とイエスさん以外には継らせないんです。他の者に継るんだったらみんな
ゲヘナ(地獄) におっこっちゃうとおどかして、キリスト教に帰依させようと思っている。本
当のキリスト教はそんなものじゃない、本当に神につながればいい。それをイエス教なんだね、
イエスだけにつながれっていう。ところがイエスっていう人はいないでしょう。イエスさーん
と呼んでも、イエスともノーとも答えやしませんよね。だから困るんですよ。
そこでどうしたらいいかってことになるんです。仏教ではそのために観世音菩薩の像を作っ
たり、いろんな像を作ってお像に向って拝みます。お地蔵さまって拝んだりします。人間とい
う者は一つの対象がないと、なんだか救ってくれるような気がしないものなんですよ。ある特
殊な人たちはイエスさんと思えばイエスが現われたりして、本当に感じたりします。だからイ
エスさん、イエスさーんといっていれば、私が守護霊さん、守護神さんといっているのと同じ
ように救われるんです。ところがなかなかそうは思われないで、かえって罪深いしもべだ、お
前は罪深いんだっていうような想い方が強くなって縮んじゃって、人のことを責めるようにな
ってくる。あの人はあんなことしている、あんな恰好しているって、人ばっかり責めるよう
な、小さい善人みたいな、本当は悪人なんだけど、善人じゃないんだ、そういう小さい善人ば
っかり作っちゃう。それじゃ駄目でしょう。
小さな善人から大きな善人へ
光になれ
仏教はどうかというと、仏教の本当の深い教えはなかなか実行しにくいでしょう。汝の中に
仏がある、汝の仏性を出せばいいんだ、だから欲望に迷うな、五欲をたちきれ、悲しいと思う
な、恨めしいと思うな、憎いと思う心を出すな、こうやるでしょう。そいじゃねえ、出すなっ
ても出てくるから、出る度びにあΣ自分は駄目な人間だと思う。駄目だ駄目だと思っているかm
らだんだん縮まっちゃう。宗教をやっている人はみんな縮まっちゃって、宗教をやらないよう
な人たちが、悪いような人たちが大胆不敵になってこの世の中を支配している。いいですか、
宗教をやっているような人が縮んじゃって、唯物論者みたいな人たちが俄然羽をひろげて、の
びのびとやっている。なぜかというと恐れないから。良心があまりないから、恐れず平気でな
んでも出来るために、いくらでも金儲けしたりして大きくなっている。良心的な人ほど自分を
苦しめてしまい、良心的でない人ほど苦しまない。それならばいっそのこと良心的でなくて悪
だいじん
いことでもなんでもやって、それで自分の地位を築いたり、大尽になったりしたほうがいいだ
ろうという考え方になるんですよね。
172
プラスが余る人生を
ところがそうできないんです。良心的な人はやっぱり良心的なんです。悪いことはできない。
恵いことできないほうがいいんですよ、どんなに貧乏であろうとなんだろうと構わないから良
て五井先生はお話をすすめていらっしゃる。時々個人名が出てくるのはそうした加減である。
末筆乍ら、テープ書き取りにご協力して下さった上田義則氏、田村範子氏、上杉恭子茂、桜
井明子氏、神崎きみ子氏に感謝申上げる次第である。
昭和五十五年師走
高橋英雄
198
あとがき
あとがき
五井昌久先生は昭和五十五年(一九八〇) 八月十七日ご帰神なさった。六十三才と九ケ月で
いらっしゃった。若き頃より、人間愛、祖国愛に情熱をそそぎ、ついに人類救済のため神に一
身を捧げられた。すがってくる一人一人の苦悩も解決し、病める心をいやし、更に世界平和実
現という大菩薩心、大慈悲心を燃やし尽されて、神界にスッとお帰えりになってしまった。私
たちに残されたのは無量の愛であり、宏大なる菩薩心であり、純一無雑なる信仰心である。先
生の肉体亡きあとも、先生の敷かれた平和への道、白光の道を私たちは今迄通り明るく歩いて
ゆこうと誓い合っている。
この講話集は実に貴重なる私たちの財産である。講話集であるから、なるべく話言葉に忠実
であるよう心がけた。しかし冗長になるところはカット修整していることをお許し願いたい。
97
当時、お話をなさる前に、会員の方が一人ないし二人、体験談を発表している。それを受けー
めているんだから、空っぽに話したってなんにもなりゃしないのに、とスヅパぬいたんです。96
1
その話を私きかされて、なかー味なことをいってくれた、と思ってねエ、私は内心安心し
たんです。だからクチャークチャー私に話かけてもダメです。必要なことは一度いえばわ
かるんです。いわなくともわかるんだ。それを二度三度四度と繰り返して訴えても無駄なんで
すよ。三度訴えたら三度のききめがあるかといったらそんなことはない。云わなくたって同じ
なんです。前に坐ってお浄めをしてもらえば、それでいいんです。
五井せんせいは絶対
ます」「先生、電話なんですが」「あNそれはこうなる」こっちで話しても、向うで話しても
一遍に三つも四つもみんなわかるんですよ。何故わかるか、空っぽだから。
空っぽというのはみんな向うの心が写っちゃう。だからみんなわかっちゃう。先生!という
時にはもう向うの心がわかってしまう。この間、どこかの座談会で、船戸さんが話したそうで
す。道場で船戸さんが唐紙の外で座っていた。あの人も霊能的ですからね。私が唐紙の中で個
人相談している。ところが長い話の人があるんです◎ 同じことを何遍も何遍も繰り返してい
る。実をいうと、私は聞いちゃいないんだ。あx今日は、ポンポソと浄めていればもう用が済
んだんです。だまーっている時は浄めている時なんです。向い合っていても黙っている時は用
がすまないんです。ところが向うが話している時に、私がパソバソバソバソとたたいている時
があるんです。そういう時は何も聞いていないんです。私は唐紙の向うへ行って、待っている
みんなを浄めているんです。それを船戸さんがスッパぬいちゃった。先生にいくら長くしゃべ
ったって損ですよ・長い時には先生の霊は向うへ行っちゃって・みんな待っているξ 」ろを浄鵬
い。何故ならば肉体に働いていますからね。ここに肉体にいますから、
五井先生になる。なるんです。そうすると非常に偉大な力が現われる。
五井先生! っていえば94
1
私の肉体は空っぽ
から
それでこの肉体の五井先生は何かというと、いつでも空っぽなんです。私はなんにも想わな
い。黙ってみなさんの顔を眺めているのです。何か考えているように見えるかもし・れません
が、なんにも考えていないです。何も考えないで何しているかというと、光を当てている。あ
る人と私が会っている。この中では何んにも考えていない。何んにも考えていないんだけれど
も、仕事をしている。何が仕事をしているかというと、五井先生が話している。霊と霊が話し
合っている。守護霊と神さまが話し合っている。守護神と守護神とが話し合っている。そうい
から
うわけなんですよ。だからこの肉体の五井先生というのは空っぽですよ。空っぽの器で何んに
もない。だから「先生実はこれーこういうわけでどうなりますか?」「ああそれはこうなり
五井せんせいは絶対
からしだね
芥子種ほどの信仰があれば、山に向って海に入れ、と云えば山が動いてゆく、それほどの力な
んです。だから本当に神さま/ と深く思えば、その人は神さまと一つなんだから、何んでも
出来るわけでしょう。そういうわけで、自分の都合のいいことをやるんじゃないんですよ、人
類の救いになること、神さまのみ心に叶うことならなんでも出来る。
皆さんのためには、五井先生という名前で現われているんです。それは救世主の力なんです。
救世主が五井先生の顔をして現われる。アメリカならアメリカでそういう人がいればアメリカ
たれがしたれがし
の誰某になるでしょう。イソドならインドの誰某になるでしょう。イギリスならイギリスの誰
々になって現われるでしょう。だから、本当に誠心で神さまを呼んだ人はみんな救世主になる
んです。ところが救世主というものをみな間違えて、キリストの再来、イエスキリストという
かんちが
人が肉体に現われて、救世主として働くとカン違いしている。一人一個の人間と勘違いする。
救世の大光明であって、呼ぶところに現われる。本当に救世主を深く呼べば救世主は現われ
る・けれどただ救世主というより・五井先生なら五井先生というものを思ったほうが想いやす鵬

いうのは救世主なんです。その五井先生というのはこの肉体ではありません。間違えちゃいけ
912
ません。この器は地上界のものでしょう。しかし働いている光は救世主なんです。絶対なる力
はら
です。この五井先生を呼んだら、どんなものも、どんな魔でも祓えます。これば私.が保証冨
す。いかなる危機にあたつても、嵐の真只中にいても、本当に五井先生!といえば波は鎮ま剃
ます。
キリストが船にのって湖に出た。キリストはねているんです。波が荒くなって船が沈没しそ
うになった。すると弟子があわてて「師よ、どうして寝ていらつしゃるんですか、起きて下さ
い、嵐です、大変です」といってキリストを起すわけです。キリストが「汝ら信仰うすき者
よ、こんなものはなんでもないじゃないか、お前たちは神さまを本当に信じれば、こんな波な
どいくらでも押えられるじゃないか、よし私がやろう、波よ鎮れ!」と云ったら、波がスーッ
と鎮まったという話がありますねエ。あれはイエスキリストさんだけが出来るんじゃなくて∀
誰でも出来る。誰でも出来るんだけれど出来ない。何故出来ないかというと、信が足りない。
ってくれたでしょう。この間も五井先生になった人がありますけどね、正式には斉藤さんが第
一号だね。誰でもなれる。どんな子供でもなれる。それで今話をしてもらったんです。それを
よーくかみしめて下さい。
どんな魔でも祓えます
五井せんせいは絶対
人間というものは肉体ではないんです。五尺何寸の肉体ではない。肉体は器です。いれもの
です。容れものでありますから、その中に働いている生命をそのまま一〇〇パーセソト出せ
ば、神さまになってしまう。一〇〇パーセント出すためには神さま! っていつも想わなければ
ならない。あなた方の場合、五井先生! っていえばいいんです。私は昔、遠慮して、五井先生っ
ていわせなかったんです。守護霊さん守護神さんていわせていたんですけれど、もうこうなる
と本当のことをいわなければならないからね。本当のことをいわないと仕事にならなくなって
来た。それで本当のことをいうと、みんながあまりいうから云わなきゃならない、五井先生と
191
!
だれ
体の五井昌久というところで働いている力も、斉藤秀雄というものに働いている力も、何ノ誰
かし
某、何ノ誰子というものに働いている力も、本当はみんな一つなんですよ。本当に自分が神と
一つなんだ、ということがわかれば、神さまそのものが働くのだから、どんな魔が来ようと、
はら
どんなものが来ようとみんな祓えるのです。いいですか。みんな神さまの子なんですよ。斉藤
さんだけが特別出来たわけじゃない、横関実さんも出来る、誰でも出来るんですよ。
から
誰でも出来るけれども、本当の意味で空っぽになって、先生が来てくれるという絶対なる確
信で呼ばなきゃだめなんです。そうすると斉藤秀雄という人は無くなっちゃって消えてしま
う。消えてしまうということはどういうことかというと、斉藤さんの魂が宇宙大に拡大じて、
救世主の中に全部入ってしまうことなのです。すると救世主の光がそのまま入ってくる。,それ
で五井先生になっちゃった。.そうするとどんな浄めでも出来るんです。ですから皆さん一人一
人がみんな五井先生になっちゃえぽいいんですよ。全部が全部五井先生になったら大変な力で
すよ。一人の人が何千人救えるか何万人救えるかわからないんです。いい案配に斉藤さんがや
190
五井せんせいは絶対
さんが五井先生ッて呼ぶ時には、必ず五井先生がそこにいる。その五井先生というのは何かと
いうと、神さまなんですよ。救世主の姿。
救世主が仮にみなさんのところで働く場合には、皆さんは五井先生より知らないでしょう、
それで五井先生という名前で救世主が現われる。わかりますね。五井先生という肉体のこの人
が救世主でもなんでもないです。いいですか間違えちゃいけませんよ。この肉体は肉体の五井
うつわうつわいい
昌久で、器です。器なんですよ。容れものです。容れものになるにはなかなか骨なのです。し
かし容れものです。ところがこの中に働いている五井先生というのは救世主なんです。大光明
です。その五井先生がどこでもいける、誰の中でも入れるんです。どんな体の中にでも入れ
る。それをこの間、斉藤秀雄さんがやってくれた。
やせた五尺何寸の斉藤さんという人がいますねエ。実をいうとやせた斉藤さんも何もありゃ
しないんですよ。人間の生命というものは一つなんです。人間の生命というものは一つであっ
89
て、横にはみんな兄弟姉妹で、二十何億かいる。縦には神として一つなんです。だからこの肉1
188
五井せんせいは絶対
昭和3年2月19日市川五丁目会館
こいせんせいって何?
この五井先生というのは、ふつうわからないんですよ。肉体がありましょう。しかし肉体が
なきゃ困るし、あれば邪魔になって、五尺何寸の体きり見えませんから、五井先生がほうぼう
へ飛んでいったり、どこまでも飛んでいけるし、どこへでもいけるということはなかー感じ
られないんです。ところが五井先生というのは、アメリカでも、イソドでも、ロシアでもどこ
へでもいけるんです。一瞬にしていけるんです。そして誰の中でも入れるんです。ですから皆
ます、守護神さん有難うございます、といつも想っていると自分がよくなると共に世界人類も
よくなってくる、私の話したいのはこれだけなんです。これだけが話したいために汗かいて
ね、冗談いったりしているんだけれど、これは光り輝いた汗なんですね。真理のことばをしゃ
ほとばし
べる時には、ことばは光になって湛るんです。
悪いことば、ニヒルな虚無的な言葉を吐き、マソボを踊ったりするんなら、光が出ていない
ほとばし
けれど、いい音楽とかいいお説教とかというものは光のことばで、光が遊っている。だから皆
さんも常にー世界平和を祈ればいい、ただひたすら世界平和を祈ればいい。他のことはあと
でちゃんとできるんです。世界平和を祈りさえすれば功徳があるのです。
光になれ
187
いうと、世界人類の平和を願うのは神さまのみ心だから。世界平和というものは神さまのほう
こそ願っている。なぜ願うかというと世界人類というものは神さまが創られたもの、人間とい
うのは神さまが創ったものだから、人間が不幸になっていることは神さまとしては困るのです。
人間が不幸だということは神さまも不幸なんです。神さまを不幸にするのは人間なんですよ。
186
光がほとばしる
そこで神さまのほうでは人間をいつでも幸福にしようと思って、人間の世界の幸福を願って
いるんです。そこで神さまのことがわかる人を創る、聖者とか偉い坊さんがたくさん出ていま
すねエ。みんな神さまが自分の代りに守護神として遣わしているんです。守護神の中でもこの
世の中に生まれてきている守護神もあれば、あちらの世界で働いている守護神もあるんです。
この世の中に肉体を持って生れている守護神と目にみえない守護神と協力して人間の世界を救
おうと思っている。それで個人ーにはどうしたらいいかというと、守護霊さん有難うござい
光になれ
幽体をきれいにする
ですから一人一人が天国に行って本当に魂の安定を得るにはどうしたらいいかというと、い
つも幽体をきれいにしておくこと。肉体はお風呂へ入ってきれいにすりゃきれいになります。
しかし幽体っていうのはお風呂で磨いたってきれいになりません。幽体を磨くにはどうしたら
いいかというと、神さま有難うございます、って神さまを想うことより以外に磨けないんで
す。常に神さま、神さまと想っている人は幽体がきれいになっている。
そこで一番いい方法は世界平和の祈り、ということになるんです。世界人類が平和でありま
すように、そう想った時には神さまの中に自分の想いが入っているんです。どんな病人が寝て
いながらやろうとも、貧乏で明日破産しようとする人がやろうとも、小さな子供がやろうと
も、誰がやろうともちゃあんと想いが神さまの中に入っている。今の煙突掃除ですよ、想いが
幽体を突き抜けて霊界、神界まで行っている。なぜ世界人類の平和を願うと神界まで行くかと
185
と自分の運命が必ずよくなる。自分の運命が必ず良くなると共にそういう人に会うと、近所の
いのち
人も周囲の人もみんなきれいになってゆくんです。なぜならば自分と人とは同じ、生命におい
てすべて一つ、人間は生命において一つなんです。一つなんだけれどそれがわからない。
なぜわからないかというと、個我というのがあって包んでいるのでわからない。自分と人と
は他人なんだとこう思うからわからない。ところが実際は自分と人とは兄弟、肉体という形が
あるために分れているだけで、生命においての兄弟、同一生命なのです。それをわかるために
はどうしたらいいかというと、肉体、幽体、霊体をきれいにして透き徹らしておくと、ああ貴
方も私も兄弟、姉妹だと思うんです。
だから自分の子ばかり可愛いがって人の子は憎いなんていうのは悪魔の心、業想念のかたま
りです。自分の子が良くなると共にひとの子も良くならなきゃ駄目でしょう、自分の子ばかり
が可愛いくってひとの子が憎いんじゃ困ります。困るっていうのは自分自身が困る、自分が業
を積んで行くんだからその人は天国に行きやしない、地獄へ行く。
184
てつき抜ければ光が入ってくる。煙突掃除じゃないけれど年中そうやっているうちに光がすー
っと入ってくるんです。人間には肉体の他に幽体、霊体、神体があるんです。幽体の中に一杯
ヘヘヘへ
こもくたを積んでちっとも掃除しないから、業がぐるー廻って新しい業を新しく積んで置く
からいつ迄たっても霊体、神体までいかれない。だから守護霊さま有難うございます、守護神
さま有難うございます、と幽体の中を掃除していればいつの間にか神さまの中へ突き抜けちゃ
うんです。それできれいな光の穴があく、煙突掃除だと思えばいいですよ。守護霊さん、とい
う度びに煙突掃除、守護神さんというとまた掃除した、こうやって光がすーっと入ってくるで
しょう。そうするといつもー光が入ってきているんですよね。わかり易く話するのに苦心す
るんです。固苦しく話したんじゃわからないでしょう。
光になれ
人間は生命において一つ
83
自分の中にぐるー光が入ってきてそれで自分がきれいになる。自分の幽体がきれいになるー
なっている。丁度工場地帯の煙突から煙が出て空が曇っていると同じに、そのくもりの中に光
812
が包まれているから光が全部発揮できない。だからこの地上世界ばかりみていたら、肉体世界
ばかりみていたらば、いつ迄たっても光がそれ以上降りてこない。そこで神さまって想いを上
に向ける、太陽のほうに向ける、天空に向ける。向けると光が向うから入ってくる。向けるの
に一番いいのは自分のそばについている守護霊さん有難うございます、その上についている守
護神さん有難うございます、神さま有難うございます、というように順々に向けて行くと、ず
ーっと天まで想いがつながっていって、光と想いが一つになる。そうすると重い業の想いが消
えちゃって、光だけが年中入ってくる。
つきぬければ光が入ってくる
こう想えばいいんだ。天と自分には光の交流する穴があると思いなさい。だから神さま! ,
って想いを向ければ向うから光が入ってくる、また曇ったら、神さま! という想いで掃除し
光6’なれ
コトパコトパ
光は即ち神なりき、神は即ち光なりです。言は即ち神なりきっていいますね。何が言かとい
コトパ
うと光のひびきを言という。光のひびきが言葉なんだから明るい心をだしていれば、それは明
るい言葉を出していると同じなんです。いくら言葉で、おきれいですねえ、っていったって、
うわついたほめ方じゃ嬉しくない。黙っていてもニコーと優しい人のほうが気持がいいで
す。言葉でいくらちゃかーお世辞いって誤魔化しても、そんなのは愛の言葉じゃない。常に
相手の幸福を想っている、明るい想いで人に対していれば自ずから光が向うに伝わって、向う
はなんだか嬉しくなる、会ってみたくなる、そういうもんなんですよ。だから光にならなきゃ
だめだ。文句はいらないんですよ。光になるほうがいい。
宇宙人の金星人とか火星人とか土星人とか、他にも星の世界にいるけれども、地球の人間よ
り進歩した人類というのは、光により近い、光が余計出ているのです。肉体の人間というもの
は神から離れた想いが一杯溜っていて、それが黒雲のようになって、あっちをやっつけ、こっ
ちをやっつけ、戦争をしたり、恨み、妬みつらみ、いろんなものが地上界の業になって真黒に捌
それはなぜかというと、世界人類の平和を願う想いというのは、自分の業の心が想っている80
1
んじゃなくて、自分の本心が想っている。そこが光に満ちているから光にみんな会いたいんで
す。例えば暗い街を歩いていて、或いは野原を歩いていて向うに光がみえた、あああそこへ早
く行こうって光が懐しくなって行くんです。虫でもそうです。蛾なんかでも暗い所へ行きやし
ない、明るい所をねらうでしょう。
人間だってみんな暗い所を欲しない、明るい所、明るいほう光のほうへ慕って寄って行く。
光を慕わないのは泥棒とか恋人同士、恋人達は塀の陰、街灯のない所ばっかり探って歩いて行
く。そうじゃないと手が握れない。公明正大ならいつでも明るいほうへ行きます。だから人に
敬まわれたかったり、人が慕って寄ってくる生活がしたいと思うならば、まず心を明るくしな
きゃならない。心を明るくするということは善なんです。
光になる
光Y’なれ
それはなぜかというと光が向うに伝わってゆくだけで、なんのたねも仕掛けもない。なにが
あるかっていったら自分の心が愛= 兀になっている、ああみんながよくなりますように、って
いう心がわざー思うんじゃなくて、過去世から練習してー練習しつくしたんだね、だから
愛いっぱいに盗れている。それが向うに伝わる。そうすると懐しくなる。余程業が深く詰って
いると、なんだか私の所にきて自分の本心が見破られそうな気して、逃げてゆく人もありま
す。けれどもそれはたまーで大概は懐しくなる。
心を明るくすることは善である
それは私ばかりじゃなくて誰でも懐しくなるようになれるんです。どうしたらいいかという
から
と心を空っぽにすることです。空っぽにすることはなかーできないからいつも神さま有難う
ございます、守護霊さま有難うございます、守護神さま有難うございます、世界人類が平和であ
りますように、という想いが心の中にありますと、その人に会うとなんだか懐しくなります。
179
ても明日行く気にならないっていうんですね。ところが私は、はいさよならで、明日来なさい
718
も何もいわないのに、明日来なさいっていわれたほうへは行かないで、もう私に会いたくて会
いたくてしょうがなくて熱海から飛んできました。
それで懐しくてーしょうがない、ああ有難いって涙流して喜んでました。なぜおいでなさ
いともいわないんだけれど続けて遠い所からきて懐しがるかというと、その人の魂のお母さん
がここにいる。その上の神様の魂の大親様もここにきている。だから懐しいに決まってるんで
す。初めて会っても私の顔みて懐しくなって涙を流す人が随分ある。
ヘへ
なぜ涙を流すかというと、私の中に自分の魂のもとをみつける、魂のもとがみえるんです。
おばあさんでも、おじいさんでも、中年の人でも、会うとまた二度来てみたくなりまた三度き
てみたくなる。なぜいらっしゃいともなんともいわないのに会いたくなるかというと、その人
の魂のお父さん、或いはお母さんがこの中にいて、ぴーんと感じる、愛が身に沁みて感じる。
ああごんにちわ、こんにちわ、よく来ましたねえ、これだけで愛が身に沁みてゆくんです。
か、おかしい。ほかの娘さんを年中連れて歩いてごらんなさい、年中優しくしていてごらんな
さい、おかしい、ってこういわれる。ところが五井先生は大丈夫。娘さんを愛そうと、奥さん
を愛そうと、全然疑われない。何故疑われないかというと、こっちになんにも把われがないか
ら、まっすぐ神さまの中に入ってますから、どんなに愛そうとなんともありやしない。みんな
来る人全部百パーセソト愛する。心から向うの幸福を願う、心から愛する。どうかその人が幸
福であるようにっていう心が充ち充ちているから、A の人もB の人もC の人もみんな同じに愛
から
せるんです。なぜ愛せるかというと空っぽだから。光は愛なんです。光が出てる時は愛が出て
いるんです。だから向うはなんだか懐しくなる。
光になれ
なつかしくなる
この間も熱海からきた人が一遍私に会った、それでとっても感じがよかったんですね。その
7
帰りに他の宗教へ行ったら、まだ用が残っているので明日来なさいっていわれた。でもどうしー
中の光も出ていかない。そこで真っ暗な世界を自分で作っていみ。自分の想いが自分の世界を
作ることは間違いないんです。想いが廻ってくるのです。
そこで一番無事な想い方は何かというと、やっぱり神さまの大光明と一つになっていること
が一番いいんです。神さまの光の中に入っている、神さまにまかせてしまうことが一番いいん
まか
です。私のように神さまに任せきっちゃって、さあ神さまいのちをあげます、どうぞ自由に使
って下さい、どんなに使っても結構です、なにしても結構です、って投げ出したものは、暫く
は苦しかったですよ。散々にいろんな修業をさせられて苦しかったけれども、もうこうなって
しまうと苦しくもなんともない、何がきたって平気、にこやかにしていられます。
176
百パーセント愛する
私は自分は得だと思っています。みんなに愛されるし、誰も彼も愛しています。ところが他
の人が人の奥さんに優しくしてごらんなさい、うちのおやじは隣りに馬鹿に優しいじゃない
光になれ
はどうかなりやしないか、私の運命はどうなるだろうって悪いことばっかり考える。それで自
分の光を包んでいる。
自分の心をいじめてはダメ
そこで宗教家が出てきて、みんな汝の本体は光なんだと叫ぶんですよね。それを私なんか一
番先に叫んでいる。人間の心は神なんだから、光り輝いているもんなのだから、それを包んじ
ゃいけない。少しぐらい間違ったことをしても、光の自分を包むよりまだいいんですね。人を
いじ
撲れば皆がみていてやがては撲られる。しかし自分を苛めて、自分の光を消してしまったもの
は誰も責めません。自分だけが苦しむ。だから優しくみえてとてもいいような人が、案外亡く
なった世界で地獄へ落ちている場合があるんです。
いじ
それはなぜかというと自分を苛めて、ああ自分は駄目なんだ、自分は悪かった、とそればっ
かりいって自分の心を暗くしているから光が当らないでしょう。前の光、上の光も当らない、
175
というと、太陽のようなもので、光明燦然と輝きわたっているのです。その明るい神さまの心
を無視して暗い心になったら、暗い心になっただけ神さまを汚したということになる。
くろずみむねただ
ですから黒住教の黒住宗忠という人が、神というのは太陽だ、太陽神だ、人間の中にはみな
太陽があるんだ、太陽が輝きわたっているものなんだ。だからその自分の中の太陽を汚しちゃ
かげ
駄目だ、暗くしちゃ駄目だ、騎らしちゃ駄目だ。自分の中の太陽を甥らすということは暗い気
持になることね、暗い気持になったらそれだけ神さまに申訳ないんだから、明るい気持になら
なきゃ駄目だって説いているんです。私も同じこと。どんなにいいことをしようとも、自分が
暗い気持になってれば、やっばり自分の運命はよくありません。私はあんなに人を助けたのに
私はいつでも苦しんでいるっていう人がよくあります。なぜかというと暗い気持が多いから。
だから暗い気持なんて全然いらないんです。暗い気持というものは光が隠れた姿、光がない姿
です。だからこの人生には光のほかにはなんにもいらないんですよ。それを光のほかのものを
みんな掴んでいる。闇を掴んでる。不幸になりやしないか、病気になりやしないか、うちの子
174
ゆうつう
心的に生きたほうがいいんです。けれどその良心にひっかかってしまって、なにもかにも融通
がきかなくなってしまったらそれは駄目なんです。それならばかえって悪いことしても、堂々
と大きくなって、子分やなんかを助けてるほうがいいことなんです。いいですか、片方ではう
んと悪いことするけれども、子分やなんかを助けて随分人を救っている人も沢山ある。政治家
なんか大体そうですよ。片手じゃ悪いこともするけれども片手じゃいいことをしている人もあ
るんです。そのほうが小さな善人よりも良くなってしまう。なぜって働きが、プラスマイナス
でプラスが残ってきますから。
神さまの心は明るい
光になれ
一番いけないのは、コチョーコチョー、自分が悪い、人が悪いって、しかもいかにも宗
教的のような顔している人たちなんです。そういう人たちを偽善者という。なぜ偽善者という
73 か
というと、神の心を全然知らないで神を偽っているんです。神さまというのはどんなものかー


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です