五井先生の辞書 高橋英雄著


こいまさひさ
世界平和の祈りの提唱者五井昌久先生(1916~1980)
大正5年東京に生る。昭和24年神我一体を経験し、覚者とな
る。白光真宏会を主宰、祈りによる世界平和運動を提唱して、
国内国外の共鳴者多数。昭和44年5月、ブラジルの権威ある団
体オルデン・ドス・カバレイロス・ダ・コンコルジアより宗教と哲学の
探求者、世界平和のために努力し熱烈なる運動を展開する人
道的思想家としてコメンダドールの称号と勲章をおくられた。
昭和55年8月帰神(逝去)さる。著書に『神と人間』『天と地をつ
なぐ者』『小説阿難』『老子講義』『聖書:講義』『五井昌久全集』等
多数。
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麗鷲㎝蓼うv、㎡諦
序文
すべては大調和にむかって進んでいるーというのが、五井先生の思想である。
人生万般、宇宙のあらゆる現象にいたるまで、すべては大調和にむかっている、
というのは、まさに真理そのものである。
こうした真理に基づいた人間観、人生観、世界観は、当然ポジティブな思想に
なる。しかし、現実を見渡すと、いわゆる自己限定したネガティブな思念とその
結果が多いため、人はなかなか想いをきりかえることができない。きりかえても
すぐ元に戻ってしまう。
ここに言葉としてとり出してあるものは、みなネガティブなものであるが、こ
れを「真実のものではない」と否定し、神仏の光明の中に投げ入れつづけることー
によって、人は元の黙阿弥に戻らない生き方、否定の否定、つまり絶対肯定的人
生を生きられるのである。
神人五井昌久先生の日常生活の言動を通して、私たちはそれを学ぶことが出来
る。これからの生き方の参考にして頂ければ幸いである。
著者識す
一九九六年十二月
2
五井先生の辞書目次
4
序文… … 1
はじめに… … 9
一、悲観1 … … 1
ぎよう
二、僥倖… … 14
三、信仰が足りない… … 19
四、卑下慢… … 23
五、打算… … 26
六、恩を売る… … 30
七、不平不満… … 34
八、邪気邪念… … 38
九、罰があたる… … 41
一〇、不信… … 46
一一、逃げるI n … … 50
一二、自分勝手… … 56
= 二、怠ける… ー62
一四、消光… … 6
一五、冷淡… … 70
一六、威張る… … 74
一七、差別… … 80
一八、言い訳… … 84
一九、非常識… … 89
二〇、敵… … 94
5
ミミ0元謡話酋ミミ≒
ユ悲
観H … … 01
 主貝め裁
く::: ー
0

自己憐慰… … 1
1
嫌な顔… … 171
憎む… … 23
」己ー⊥
 借
りをつくる… … 2

ヨ自己嫌悪
I H… … 3
1
 お説教
… … 3
1
強制… … 41
 自己嫌悪皿
… … 5
1
 自己限定
… … 5
1
分別… … 61 1
6
三三、エンジョイ… … 6
2 1 三
四、サタン… … 71
む三五、
自分はどうなってもいい… ・:
18
三六、真実の無神論者… … 餅
三七、老醜… … ㎜
ヨ三八、焦
り… … 20
三九、邪霊・悪霊… … ㎜
 四〇、相手をやっつけ
る.倒す… …
21
カバー写真「きらめく旭光」
撮影前田真三
装丁小山忠男7
「..1 ..ー..1 ..1 ..ー..1 ..1 :ー冒.1 ..1 ..ー:1 ..1 ..1 ..1 ..ー..1 ..1 ..ー..1 ..1 ..1 .嘲
… 人間と真実の生き方{
一わけみたまごーうしゆこれいしゆごじん一
… 人間は棄神の分霊であ.て業生ではな文つねに守馨守護神によ.て 
一守りれているものであゑかこせ}
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、一…
「その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。一
一いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから・消え去るのである一
一とい曇い信念と・今からよくなるのであるとい審念を碧どんな困難のな≧
一にあって含分を樵し人を轡自分を愛し人を愛丈愛彙と撚しの言行套 
掛けてゆ… に守馨平守護神への感謝の心をつねに想陵世界平和の㎜
… 祈りを祈りつづけてゆ綾個人も人類も首六の救いを体得出来るものであゑ一
「,■1 ・・1 ・・ー..1 ・・ー。.1 .・ー。.1 981 =1 ・●1 ・・ー・・1 ・・ー・・1 ・・1 ・・ー■■1 ・・ー■噂1 ・.ー・.1 ・0
8
はじめに
はじめに
ナポレオンは「余の辞書には、不可能という文字はない」と豪語した、といわ
れている。
ナポレオンという一代の英雄を語るエピソードはたくさんあるだろうけれど、
この言葉ほど有名な言葉はない。
不可能と思われることも、すべて可能にしていった、その信念の強さと行動力
が、彼をフランスの英雄に押し上げていったのであるし、またその傲慢さが、彼
を敗北と孤独におとしいれたのである。
一語よくその人を現わす、というところであろうか。
さて、何もここでナポレオンを書こうというのではない。ナポレオンのその言9
葉のひそみにならって「五井先生の辞書」というのを編んでみようというのであ
る。
「五井先生の辞書には○ ○ はない」というように、○ ○ はないにあてはまる言
葉を羅列してゆくと、五井先生像が自然と浮び上ってくるのではないか、と思う
のである。
そこで順序に関係なく、思いつくままに、その言葉を挙げていってみることに
したい。
10
悲観1
1.悲観1
五井先生の辞書には「悲観」という言葉はない。
ご修行中のことであった。ある骨相をみる人に出会った。その人は先生の頭をさ
わるなりいった。
「あッあなたは気違いになる!」
いう奴もいう奴だ。がその時、先生は「シメタ!」と思ったというのである。
この世の中を救うということは、ふつうの人間の力では出来ることではない。
常識を超えた超常識の人にならなければ、人をも世をも救えない、と思っていた
ので、
「ああ俺は超常識の人になれる! 」
11
と、かえって勇気がりんりんと湧いて来たというのである。そうお話しして下12
さったことがある。
またある時、予言したことが、悉くはずれてしまったことがあった。ふつうな
らば、そこで面目丸つぶれ、自分の力もウソものか、と悲観するところであるが、
先生はその時も、「シメタ!」と思ったというのである。
私を導いているのは高級神霊に間違いない、と確信されたのである。
何故なら、低級な霊魂ほど、この肉体界にその存在が近いため、その予言は大
変よく当るが、高級神霊はそんなことはどうでもよくて、つねに人の心を明るく
し、いのち生き生きと生かす方向へ、人をもってゆくからだ。そのためには、嘘
も方便という手段を使うこともある。
予言がはずれたことを悲観するより、ああこうやって高級神霊が私を訓練し、
私を使いやすい器にしようとなさっておられるのだ、有難いと思われたのである。
つねに事態を明るい方向へ、神のみ心にむけかえてゆくその心づかいが、五井
先生を神我一体の境地に、誤りなく昇華せしめ、徹底した光明思想の実践者、唱
導者にしていったのである。
“憂うつそうな顔、暗い心を神さまは最も嫌われる

とおっしゃって、
“天を仰げ、天からは陽気が降ってくる”
そう私たちを導いて下さったのである。
1.悲観1
13
14
二康. 俺
五井先生の辞書には”僥倖” という言葉はない。
五井先生は僥倖をたのんだことはなかった。
棚からボタ餅式の生き方は大嫌いだった。
とく
何も努力しないで、楽をして得をしよう、などということはなさらなかった。
そういうさもしい根性を軽蔑された。怠け者が大嫌いだった。
天才というのは、エジソンの言葉をかりれば、九十九% の努力と一% のインス
ピレーションによって生まれる。
先生の霊覚という超能力も、このまま生きても死んでもよい、生きるのも神さ
まのみ心のまま、死ぬるも神さまのみ心のまま、という覚悟の底から、神さまよ

2.僥
り授けられたものである。
なんの努力もしないで、与えられるものなど全くない。
それを間違えて、就職でも、試験でも、神さま神さまといっていれば、神さま
がなんとかしてくれるだろう、となんの就職運動も、勉強もしない人がいた。
五井先生はご自分の就職さがしには、足を棒にして歩かれたのである。あっち
で断わられ、こっちで断わられても、神さまが必ず私にふさわしい働き口を与え
てくれる、と少しも焦らず、暗くもならず、不安にもならず、明るい顔をして歩
き廻ったのである。
そして尋ねた建物の中で、予期せぬ旧友に出会い、その旧友のすすめで、就職
されたのが中央労働学園出版部だった。
神さまはここで、五井先生に唯物論、共産主義と労働運動を勉強させ、そして
その主義者たちの実態をつぶさに観察させたのであった。
15
霊覚者になられてから、住居を市川市新田から、八幡に移された時もそうだっ
た。
たのこころ
先生ほどの能力なら、ご自分の住まう家の在り場所など、掌をさすごとく、
簡単におわかりになるはずである。
しかし、五井先生は毎日のお浄め個人相談が終わると、あちこちに家さがしに
出かけられた。会員さんの紹介するところをみたり、ご自分でよさそうなところ
をごらんになっていた。
たまたま葛飾八幡宮の前を通ったら、八幡さまに「五井先生、五井先生」と呼
び止められた。
「五井先生のお家はちゃんと用意してございます。ご安心下さい」
ということだったという。それから暫くして、今のお宅が見つかったというこ
とだ。先生も奥さまも、この家が大変気に入られた。土地は借地のままであるが、
16

2.僥
家を買い、きれいに磨き修理したら、見違えるような家になった。
“人事を尽して天命をまつ
“という格言があるが、先生はご自分の体験から”天
命を信じて、人事を尽せ”といわれている。
守護霊守護神が必ず生かしてくれる、と信じて、そして人事を尽されたのであ
る。
人事を尽くさなければ道は開かれない、と知り、神さまのご加護を信じて人事
を尽せば、道は早く、大きく開かれることを体験されたのである。
やたらに奇蹟をのぞむ人がいる。
しかし奇蹟といわれる現象は、そう滅多に起こるものではない。己れの生命と
引き換えに神さまが下さるものである。
神さまに自分の最も大事な”いのち”を捧げず、わずかの金銭をあげたのみで、
神さまと取引をしようとする卑しい心に、神さまのひびきが合うわけがない。17
神さまのみ心に合ってこそ、はじあて奇蹟がそこに生じるのである。いや、そ
うなれば奇蹟という現象が起こる、起こらないは、もはや問題ではない。
神さまにいのちを捧げる、神さまにいのちを全託する、その行為が出来た、あ
るいは出来るということだけで、幸せなのである。
何も他にはいらない。
僥倖をたのまず、天命を信じて人事を尽して、真摯にこの人生を生きてゆく、
それが五井先生とそのあとに従う者の生き方の特長である。
18
三信仰が足りない
3.信仰が足りない
五井先生の辞書には「信仰が足りない」という言葉はない。
新約聖書によれば、イエス・キリストがよく弟子たちにいっている言葉に”あ
あ汝ら信仰うすき者よ” とある。
弟子たちはこの言葉をどう聞いたであろうか。ああ情けない、なんてダメなオ
レたちなんだろうと、嘆いたであろうか。もし、五井先生の口から、そういうお
言葉を聞いたら、私は自分を責めさいなみ、自己嫌悪におちいって、どうしよう
もなかったであろう。
しかし、幸いなことに、五井先生は「お前の信仰が足りない」などと一言もおっ
しゃらなかった。誰にむかってもいわれなかったと記憶している。
19
五井先生はこうおっしゃっている。
「その説くところの教えを、最も正しく、しかも一番楽にやれるようにするた
めには、中心に立っている者が、いのちをかけなければだめです。いのちがけで、
サア私が全部引き受けた、という形にならなければ、みんなついてきません。
それを何か間違ったことがあると『お前の心が悪いからだ。お前の心を直さな
ければいけない』という。それは『私のせいじゃないよ、私は知らないよ』とい
うことと同じです。
私はそういうことはいわない。どんなことがあっても、私のやり方が悪かった
と思う。あるいは、私の力が及ばなかったと思う。お前が悪いんだ、とはいわな
い。お前の信仰が足りないせいだ、ともいわない。
自分のことをかばおうと思わない。五井先生の名を汚したからいけない、なん
て思わない。私はその人の天命をひたすら祈るだけですよ。だから私は全力を尽
20
3.信仰が足りない
して、みなさんをかばいます」
母鳥がひなを己れの羽の下でかばうように、私たちを五井先生は守って下さっ
た。そして今も、それも全力を尽して、とおっしゃった。
ああ五井先生ご存命中、このことについてどれほど思ったことがあるだろうか?
自ら問うてみると”全くといっていい程、考えていなかった” という答えがか
えってくる。
先生はそんな私のためにも、すべてをご自分の責任と感じて、人のせいにされ
ず、自分の力が及ばなかったせい、となさっておられたのだ。
よく、自分を恰好よく見せるため、そういう人もいるが、そうではない。芯か
ら先生はそう思っていらっしゃっていたのである。そして私どもにわからぬよう
に、私どもをカバーしていて下さったのである。
五井先生は「信仰の足りない分は、私が代ってやってあげるよ」とおっしゃっ
21
ているのである。
だからその説くところ、すべて愛と赦しになるのである。
22
四卑下慢
4.卑下慢
五井先生の辞書には、卑下慢もなければ、高慢もない。
高慢というのは、はたから見て、鼻が高くなるからハッキリとわかる。だから
人からも注意されるし、時にはボキッと折られることもある。そうされることに
よって、高慢の鼻はなくなるけれど、卑下慢という自慢はなかなかなくならない。
うわべは卑下したような態度、言葉をあらわすが、実は謙虚でもなく、卑下し
ているわけでもなく、自分は偉いんだと思っているのだから、厄介なことだ。
五井先生は「鼻の高いのは直しようがあるが、心の鼻をへこましているのは、
なかなか面倒なことだ」とおっしゃっていた。
「面倒なのは好きじゃないよ。何故、もっと素直にならないのかね」と先生は23
おっしゃったものである。
私は信仰薄いものでございます、私が悪いのでございます、私なんかダメです
よ、とよく信仰している人がいう場合がある。
では、そういう人に対して、まともに「そうですね、あなたはだめですね」と
か「信仰薄き者よ」とか「あなたが悪いのです」といったならば、きっとその人
は鼻白むことであろう。或いは、そんなことはない、という顔をするであろう。
心の中はいつも言葉とはウラハラだからだ。
「私は信仰はうすいけれど、守護霊さまに助けられています」とか、
「私はまだまだだめだけれど、立派になろうと一所懸命努力しています、とこ
ういいなさい」
と五井先生はおっしゃっていた。
これなら、自分の本心も想いも偽わっていない。
24
人にほあられて、へんに強く否定する人があるけれども、先生は「素直に、有
難うございます、と感謝しなさい」とおっしゃっていた。だから私はそのように
している。
卑下高慢いつれもいのち汚すもの
己れをしかと打出さむのみ
という五井先生のお歌がある。
いのちというのは神から来たものである。そのいのちを卑下慢という慢心は汚
してしまう。高慢も卑下慢も想いのくせとして、消えてゆく姿にして、世界平和
の祈りの中に投げ入れ、浄めていただこう。

そして、与えられた立場、環境でせい一杯働く。努力する。それが神から来た

いのちを生かすことである。それをしっかりと打ち出すことである。卑
4 この先生の歌をつねに念頭において、己れのいのちを生かすことに真剣になろう。25
26
五打算
五井先生の辞書には「打算」という言葉はない。
五井先生の人生はソロバン勘定をはじかなかった人生である。つねに打算の外
にあった。損だ得だ、ということを度外視していた。普及活動においてもそうで
ある。
ふつう新興宗教といわれる団体で、人数がどんどん増えてゆく一つの原因には
「人を五人連れてくれば救われる」とか「三人連れてくれば因縁がきれる」とい
う方法があるからである。
しやにむに
そういわれれば、自分が助かりたいために、遮二無二人を連れてくる。仕事の
義理をからませ、つきあいの情をからませて、入会入信をすすめてゆく。無理が

5 打
あろうと何があろうと、人のご都合など一切おかまいなしである。
そして、一旦入れば、簡単には抜けられなくなる。仕事がからんでくるから、
止めるわけにはいかない。気持は全然そっぽをむいている人が出てくる。
そんな人を何人連れて来ようと、なんにもならない。自分の救いにならないし、
人の助けにもならない。
これだけ連れて来たのだから、それに見合うだけのおかげがあるだろう、と思
わせることは間違っている。信仰とはそんな取引き、打算の世界ではない。
五井先生は決してそういうことはなさらなかった。家庭婦人が、家事を放り出
して、布教に飛びまわることを「よし」とはされなかった。家事の合い間に、家
事に喰いこまずにするように、すすめられた。家庭の調和を大事になさったので
ある。
右の方を向いている人を、ほっぺたを叩いてでも、左にむけさせるようなこと27
は、ご自分もしなかったし、人にもさせなかった。
無理を通せば道理ひっこむ。無理はいけない、と口癖のようにおっしゃった。
先生のもとに通ってくるのでも「来なければ救われない」とか「助けない」など
という言葉は一切なかったし、そんな態度はチリほどもなかった。
それ故、白光真宏会には一切の強制はない。善いことも強制されては善いこと
でなくなる。信仰の押売りはなかった。各人の自由意志と自覚のもとに、普及活
動はなされている。だから会員数の増加率は低くても、歩みは確実なのである。
本ものの信仰心に目覚め、自己を深め高めるプロセスにおいて、人それぞれの
持ち味のまま、それぞれの場において、己れの生命を生かしている。
生かすこと、生かされていることに喜びがある。己れの生命を生かす、という
ことが、信仰生活、普及活動の源泉なのである。
「損得勘定でなく、人の気持を大事にすることを第一にすること。会が損をし
28
てもよいのだ。つまり仁のつきあいが大事だ」
と五井先生はいつか教えて下さった。

5.打
29
30
六恩を売る
五井先生の辞書には「恩を売る」という言葉はない。
恩とは、恵みということである。慈しむということである。情け、感謝という
意味もある。
恩という字は、因と心とによって出来ている。つまり原因を心にとどめる、と
いうことで、或る辞典によれば、
「恩とは何がなされ、今日のこういう状態にいられるか、その原因はなんであ
るかを、心に深く考える」ことなのである。恩を知る人という言葉の原語は、仏
典によればカタンニューということで、それを直訳すると「為されたことを知る
者」となるそうである。
6.恩を売る
私は五井先生に命を救われた。
肉体的にも魂的にも共に救われた。両肺の結核、腸結核、咽頭結核という三つ
の結核で明日をも知れぬ状態でねていた私だった。
昭和三十一年五月二十二日午後七時すぎ、五井先生は私宅まで見舞いに来て下
さった。まず喉に手を当てて祈って下さった。それまでひどかった喉の痛みが、
先生の手がそこから離れたとたん、消えてしまっていた。声帯が凸凹になって声
も出なかった私は、眼に無量の感謝をこめて、先生を見上げた。
先生はいろいろお話し下さった後、立ち上って部屋を出ようとされた時、ふり
かえって私に、一言おっしゃった。
「高橋くん、私にすべてをまかせなさい」
そのお言葉に、私は深くうなついた。おまかせします、と私はお答えしたので
ある。そしてその時より、先生に教えていただいたお祈りの言葉をしつづけた。
31
“み心のままになさしめ給え、わが天命を完うせしめ給え
” と。32
その晩、そしてその次の晩、不思議な現象が起こって、私はグッスリと眠れた
のである。それからめきあきと体はよくなり、快方にハイスピードで向かったの
であった。
その夏、ニキロは離れている先生宅まで、歩いてご挨拶にゆけるようになった。
そんな私をごらんになって「”汝の信仰汝を癒せり” の言葉を如実に現わして、
高橋君が元気な姿を見せてくれた」と白光誌の後記に、五井先生がお書き下さっ
た。
けれど私は自分の信仰で自分が癒されたとは思えなかった。自分の信念の強さ
で癒ったとは、どうしても思えないのである。五井先生のお力とこ愛念によって
肉体を治していただき、心にかかる想いの曇りをはらっていただいた、と今でも
思っている。それしか考えようがないからである。
6.恩を売る
その後、結婚のお世話もしていただき、土地も家も与えて下さり、生活も不自
由ないようにと、何かとご面倒をおかけした。今日あるのは、全く五井先生のお
かげなのである。なのに、先生は「私がお前の病気を治してやった」とか「私が
してやっているのに、どうのこうの… … 」ということは、一言もおっしゃらなかっ
た。「よく治ってくれたね。有難うよ」とおっしゃったのである。
ご著書『運命を恐れるな』の中に、私の体験記を引用して下さっているが、そ
の校正の時「ああよく治ってくれたね… … 」と涙をポロポロとこぼされたと、後
で聞き、そのご恩情、慈しみのお心に、私は泣けて仕方がなかった。
今も涙が出て止まらない。涙の中から、五井先生を恋い慕って、先生を呼んで
いるのである。
33
34
七不平不満
五井先生の辞書には「不平不満」という言葉はない。
先生は、ふつうでいえば気管支喘息という症状であった。あるいは気管支拡張
と名づけられるようなものであった。
来る日も来る日も、どこから湧いてくるのかわからない疾にせめられて、体の
休まるいとまがなかった。
気管がつまってしまう時は、体を小きざみに、ぶるぶるとふるわせて、疾を出
しておられた。
寒い冬の最中でも、汗をぐっしょりとかかれていた。どれだけ体力がそれで消
耗されるか、およそ知れるというものだ。
7.不平不満
疾がつまってくると、食物が喉を通らないとおっしゃって、食事も充分にお
とりにならなかった。むりやりご飯を体の中に押し流していらっしゃるようだっ
た。
「これだけ食べたから、もういいよね」
まるで他人の食事のことを話しておられるようだった。
先生としては食べたくはないけれど、まわりの者が心配するから、といって食
べていらっしゃったのだった。

おなかの筋肉が、つねに咳きこむために、こちこちになり、胃の痛みをしばし
ば訴えられた。タオルを熱湯につけ、固くしぼって、おなかにのせたこともあっ
た。
これも一時しのぎだよ、とおっしゃって、ほんのわずかの時間しかなさらなかっ
たけれど、熱湯タオルのため、おなかの皮膚の色がとうとう変わってしまった。
35
そんな状態が約十年つづいたのである。
ぬかるみ
昔、軍歌に”いつまでつづく泥檸ぞ… …” というような文句があった、と記憶
しているが、われわれには先の見通しの一切つかない泥沼のような状態が、お体
のうえにつづいていた。
それにもかかわらず、五井先生の口からは一言半句の”不平不満” “ぼやき”
の言葉は聞くことはなかった。
これは伝記作者がよくやる、美々しい光彩を添えるための言葉ではなく、真実
に本当だったのである。私はお側にいてよく知っている。
「この疾の一つ一つには、みな物語があるんだよ。いちいち聞かしてあげたい
くらい。たんとたんとある」
「こうやって神さまに使っていただけるということは、有難いことだよ」
「私の肉体が苦しめば苦しむほど、痛めば痛むほど、人類の業は消滅してゆく
36
のだ、こんな有難いことはないよ」
そう先生におっしゃられると、私などもう返す言葉もなかった。
先生のお体の苦痛を少しでも和らげることが出来る方法はないものか、と考え
たが、何もしてさしあげることが出来なかった。
ただ白光誌は、隅から隅までお読みになっていて、体験記では会員さんが救わ
れたことを喜ばれ、「読者の声」欄では、ご著書に接し、求めていたものが得ら
れ、魂の平安を得たという愛読者力ードの内容を読まれて、「こういうのが一番
いいんだ」と喜んでいらっしゃるお顔を拝見すると、何か、こちらがよいことを
した時のように、嬉しくなるのだった。
7.不平不満
37
38
八邪気邪念
五井先生の辞書には「邪気邪念」という言葉はない。
ふつうの人は疲れれば疲れるほど、気むずかしくなり、不…機嫌になるものだが、
先生は人より何層倍疲れていても、人とは逆に上機嫌であった。
冗談や駄じゃれをとばして「アハハハー」と明るく笑っておられる。そしてこ
れが疲れを吹きとばすに一番いい、とおっしゃって、
「どうだい、うまいもんだろう」
とピョンピョンはねて、フック、ストレートとシャドウ・ボクシングのまねを
されるのだった。
そのたんびに、本当に先生は無邪気だなアと思ったものである。
8.邪気邪念
神に通ずる三つの心、といって『神と人間』の中で、「無邪気な明るさ」をあ
げていらっしゃるのも道理と思うのである。
これはテレビをご覧になっていての話である。
夫を失った女性宣教師がお説教をしているところだった。画面に若い夫婦の姿
がクローズアップされた上で、「あなた方は幸福でいい。しかし愛する夫もいつ
か死なねばならない。しかしそういう時にも神さまは愛して下さっている。
神さまは絶対の愛で、変わることなく私たちを愛して下さっているのです」
説教の言葉が力強く流れたのだった。
すると、先生が「そうだそうだ」と大声でおっしゃり、テレビにむかって拍手
をされ、涙をこぼされたのだった。
それをご覧になった奥様は、「あなたは純情ね」とおっしゃり「あなたから、
神さまのことをぬかしても、あなたが純情で、いうことと行なうことが一つで、
39
本当にいい人だというのがよくわかるわ」と感想をもらされたということであ
る。
最も身近かな人に尊敬される、ということが一番大事なことだ、とおっしゃっ
たことは五井先生のご家庭での実際のことでもあったのだ。
40

ばち
罰があたる
9.罰があたる
ばち
五井先生の辞書には「罰があたる」という言葉はない。
ひところ、新興宗教は、人間に不幸な出来事があると「それは罰があたったの
だ」けれど、自分の宗教団体に入れば必ずよくなる、といって勧誘をしつこくし
たものである。
しつこくて、そして、このままではあなたの運命は悪くなる、あんたの家族も
おどこわ
ひどい目に会う、といって嚇かされるので、うるさいのと怖いのとで、入信する。
入信して、今度止めたい、などという身振りを示そうものなら、「うちを止めた
ら、罰があたるぞ。あんたの子供は交通事故にあって死ぬ」「あんたの家は火事
になる」などと、またさんざん嚇すのである。
41
その嚇しに負けて、そのまま残る人と、おっかないけれど飛び出す人がいる。
飛び出した人は「もう宗教はコリゴリだ」と思うのである。
そんな両種類の人たちが、五井先生のところに、救いを求めてよく来たもので
ある。
そういう人たちに、五井先生はこうおっしゃった。
「神さまは三味線じゃありません。だからバチなんかあてません」
ばち
三味線をひく棲を罰にひっかけた、五井先生のしゃれ言葉である。
はじめ聞いた人は一瞬キョトンとするが、次には意味がわかって、ワッと大笑
いする。笑わせておいて、五井先生の「神さまというのはね… … 宗教というのは
ね… … 」というお話がはじまるのである。
今でも脅しと人を不安がらせることによって、入会入信の手段としている団体
があるようだ。そんな話をきくたびに、「あーあ、宗教ってやなもんだ」と思う。
42
9.罰があたる
いや本ものの宗教のことではない。宗教と称しているニセモノがいやなのである。
五井先生は、そうした宗教に対する誤った一般大衆の観念と、インテリ層の観
念を是正し、啓蒙しようとして「宗教とは」「信仰とは」「神さまとは」とたびた
び書いておられるし、お話をされている。
御著書の『神と人間』『宗教と平和』など読んでいただくと、それがよくわか
る。特に『宗教と平和』は宗教の啓蒙書だと私は思っている。是非、この際お読
みいただき、人さまにもすすめていただきたいと思う。
かか
最近の奇病としてエイズがある。これに罹ったら最後、いのちはない。これを
治す薬はまだ発見されていないからである。だから大変おそれられている。わけ
のわからない恐ろしい病気にかかると人々は「罰が当ったのよ」と思っているし、
口に出す人もある。しかし五井先生にいわせれば「神さまは三味線じゃないから、
バチなど当てない」のである。43
『老子講義』の中でこうお書きになっている。
「神という言葉で絶対者を説きます場合に、神というものが、自己とは全く掛
け離れた存在に思われてきたり、何か常に自分の行動を監視していて、自己の自
由を縛っているような気がしたり、或いは一寸でも間違いをおこすと、すぐにで
も罰を与えられたりするような、そんな畏怖の気持で対してしまう場合が多いの
です。
ところが、絶対者(神) は人間に対して罰を与えるようなことは一切していな
いし、それでいて、人間と離れたところに存在しているものではない。常に人間
の内部にあって、人間を生かしているものであり、また外部にいて、人間の存在
を助けているものであるのです。
〈中略〉
人間が病気になり、不幸災難にあったとしても、それは絶対者たる神が罰を与
44
えたわけではなく、人間自体が生命の法則や、宇宙法則を外れたことによる病気
であり、不幸災難であり、天変地異であるのです」
信仰している人も、していない人も含めて、人々の意識から、間違った宗教観、
神さま観が一掃出来たら、どんなにか平安を味わえる人がたくさん、それも直ぐ
にでもいるだろう、と思うのである。
9,罰があたる
45
46
一〇不信
五井先生の辞書には「不信」という言葉はない。
この現在の世の中で、五井先生ほど神さまの愛を信じていた人はいないであろ
う。
目に見えない神、正体不明の霊の導きに、スパッと己れのすべてを与えられた、
いわゆる命をかけられた、ということは、神さまの愛を絶対に信じて、いささか
も疑わなかったからである。
信ずるということは、ひとつも疑わない、ということである。
全託、全託とよくいう。五井先生もおっしゃっていた。み心のままに、という
ことは、生きるも死ぬるもみ心のままだし、人々にさげすまれ、泥足でたとえ踏

10.不
みにじられようとも、有難うございます、といえる心境のことである。
或る時、聖ヶ丘統一会で、青年が質問した。
「神のみ心の中に飛びこむということは、どういうことですか? 」
「君は泳いだことがあるかい? 」
「ハイあります」
「プールにとびこむでしょ」
「ハイ」
「水の中にとびこむでしょ」
「ハイ」
「水はとびこんでも大丈夫、体を浮かしてくれる、と知ってとびこむよね。
から
プールが空っぽで、水がなかったらとびこまないでしょう。それと同じことよ。
神さまは必ず私たちを守って下さる。私たちを生かして下さる。悪いようにしっ47
こない、神さまは愛だから。そう思って、確信して、神さまのみ心の中にとびこ
んでゆくの」
しかし、どうやって飛びこんでいっていいのかわからないので、神のみ心であ
り、目的である、世界人類の平和を願うコトバにすべてを託してゆけばいいのだ、
と先生は教えて下さった。
世界人類が平和でありますように、と祈る時、祈った人は神さまのみ心の中に
飛びこんでいるのである。神さまの愛を信じて、すべてをその中に託している行
為をしているのである。だからそこに「救い」と「救われ」を感じられるように
なるのである。ひいては、それが己れを信ずることになるのである。
先生は、自分の行ないを信じた。自分の考え方を信じた。
「自分は人のこと、国のこと、人類の幸せだけを考えてきた。一点も自分にや
ましいことも悔いもない。そんな自分を亡ぼすような神さまがあったとしたら、
48

10.不
そんなのはハナカミだ! それならあくまで、自分の信念でたたかうのみだ」
と思っていたのである。それに、
「自分は神さまに私のすべてを投げ出した。捧げてしまった。そのいのちを神
さまが無下に扱うことは絶対ない」
という自己を信じる確信と、神のみ心を信じる信で、先生は幾度も、生死の関
門をくぐりぬけてきたのである。
その結果、生まれたのが白光の教えであり、世界平和の祈りである。
五井先生の絶対なる信によって、われわれが救われ、人類が光明世界に生まれ
変り、地球の未来が輝けるものに約束されたのである。
まさしく一人の信が地球をも救うのである。
49
50
逃げる
(z)
五井先生の辞書には「逃げる」という言葉はない。
五井先生は逃げてはいけない、と教えて下さった。
逃げる、といっても、この場合、責任を回避する、という意味であり、環境や
立場がいやだから、逃げて通ろう、とする気持のことである。
人間、誰しも、自分の都合の悪いこと、嫌なことは避けて通りたいものである。
しかし、そこを一時なんらかの手段を使って、避けて通れたとしても、それは一
時しのぎであって、自分の内部にその原因なるものがあれば、それがまた外部に、
つまり自分の環境に、あるいは運命に展開されてくるものなのである。
11.逃げる
運命というものは自分が、といっても殆ど過去世の自分だが、創ったものであ
る。自分の責任であって、他人のせいではないわけである。
それを五井先生は、だから”絶体絶命なのだ” とおっしゃっている。
犬に吠えられて、こわいから逃げると、犬はどこまでも追いかけてくる。この
犬と同じように、内なる原因を消滅させない以上は、嫌なこと、都合の悪いこと
は追いかけてくるように、現われてくる。
そこでそうした時は、絶体絶命と受け容れて”過去世の因縁が今現われて消え
てゆくのだ、と思いなさい” と五井先生は教えて下さっている。
消えてゆくのだ、と思っただけでは、自分から離れてゆくように思えないだろ
うから、追い打ちをかけるように”世界平和の祈りの中に、その消えてゆく姿と
思ったものを入れてしまいなさい。そうすると、祈りに働いている救世の大光明
という人々を救い、地球を救う神々の結集した光明によって、浄められ消されて
51
ゆくんですよ” と更に教えて下さっている。
だから、”消えてゆく姿だ” と思うことは、現実から逃避することではなく、
現実をそのままごまかさずに観て、それを受容していることなのである。
或る施設で働くヘルパーの人の話であるが、そこは脳内出血等が原因で、半身
不随になったり、部分麻痺になった人々が入って、リハビリと職業訓練をする施
設だが、なかなか現実の状態をその人々は受けいれず、いらいらしたり落ちこん
だりするという。しかし一旦受容すると、いらいらも落ちこみも消え、積極的に
リハビリにも訓練にも取組むようになる、ということだった。
受け入れられれば、その原因は別のエネルギーへと転換されてゆくわけなので
ある。私たちの場合、それは神さまへの感謝であり、世界平和の祈りという光明
エネルギー、積極的にプラス方向に働くエネルギーとなるわけである。
52
(II)
11.逃げる
五井先生の生まれ育ったところは、東京の浅草で、片方が吉原土手、片方が今
日ドヤ街がある山谷であった。環境としてはいい方とはいえない。今の教育ママ
だったら、早速、どこか環境のいい街に引越していたろう。しかし五井先生のお
母さんは、病弱のお父さんと子沢山のため、生活にやっとだったので、環境など
選んでいるゆとりなどなかった。そのままそこにデンと腰を落着けて、針仕事や
駄菓子屋を開いたりして、子供さんたちを育てていかれたのであった。
下町の気さくさと、飾り気のなさ。貧しい中でも互いに助け合う暖かい人の心
と心の交流から、様々なものを先生は学びとられたという。
「そこで育った私が、何をそこで知ったかというと、吉原遊郭の女性たちの悲
哀や、ドヤ街の貧しさに埋もれた人間の無気力さ、街のきたならしさでした。
53
そこで私の心は、私はこういう生活を決してしない、例え貧しくとも気力に満
ちた、清々しい人間として生活したい。社会の為につくしたい、ということでし
た。私の心は孟母の三遷の逆をいったわけです」”真の幸福” 二十頁で先生はこ
うお書きになっている。
この環境から逃げていたら、今日の五井先生は存在しなかったかもしれない。
与えられた立場、環境はその人にとって修行の最高の立場であり、環境なので
ある。だからそこで一所懸命働く、一所懸命生きることだ。そうすれば、逃げよ
うと思わなくても、守護霊さんが、この場は卒業といって、別のいい環境立場に
移るように、自然にして下さる、と五井先生はご自分の体験をふまえて教えて下
さっている。
霊的な問題にぶつかった場合も同じだ、とおっしゃっている。
修行最中のこと、ある家のお浄めを頼まれてお祈りしているうちに、感情霊魂
54
の大群が先生に襲いかかってきた。
ぎようそう
般若の面のようなものすごい形相をして、目の前に迫って来た。その瞬間、ちょっ
と驚いたけれど、次の瞬間、心の中で、一歩前に足を踏み出した。するとその恐
ろしい般若の面の感情霊魂は、パッと消えてしまった。
そうした体験から「神われと倶にあり、という信念で、恐れず逃げ出さず、勇
をこして一歩前へ出るのだ、そうすればいかなる悪鬼といえども消え去る。私を
思って逃げないで前に出なさい、必ず消えてしまう。神さまの光を消すほどの悪
なんてないんだ」と五井先生は教えて下さった。
11.逃げる
55
56
一二自分勝手
五井先生の辞書には「自分勝手」という言葉はない。
ある人が五井先生に
「自分をなくす、ということはどういうことでしょうか」
とお尋ねした◎
「そうね、自分勝手というのをなくすことよ」
とお答えになった。
五井先生ご自身「自分勝手」というのを捨てられてしまっていた。
自分勝手というのは、他人の都合を考えず自分のことだけしか考えないことで
ある。
12.自分勝手
先生はいつも他人の都合ばかり考え、そして行動しておられた。
私たちの団体名は、現在、白光真宏会という。だが一番最初は、五井先生鐵仰
会といった。
その名の通り、五井先生に救われた人々が寄り集って、五井先生に経済的ご心
配をおかけしなくてすむように、また助けを求めてくる人にも負担にならないよ
うに、という心で会員制度が発生したものである。
発起人の故横関実さんが、こうしたいと思いますが、と五井先生のご了解を得
たのだが、先生は「どうぞ皆さんのやりやすいように」というお言葉だったと聞
いている。
だからこの会の創立者は会員有志であり、先生は会員の推戴で、会長になられ
たわけである。
その当時作られた規約によると、
57
一、五井先生の神業を奉讃し、先生の徳を慕う人々を会員として本会を組織す58
る。
一、本会会員は常に五井先生のご指導を受くることを得。
一、本会会員は、特別にお浄めを受けたる場合、分に応じて会費を納むるもの
とす。
一、本会運営上、幹事若干名を置く。
一、幹事は会員と先生との連絡を常にとるものとす。
一、幹事は会員の意を体し、時に応じ日と処とを定めて、五井先生に講話及び
お浄めをお願いするものとす。
(以下略)
昭和二十六年十一月に五井先生鑛仰会は発足した。その来会者名簿の第一頁に、
私の名前を見つけ「おお俺はいたんだ」と大変なつかしかった。しかしその当時、
12.自分勝手
私は会費は全く払っていなかった。また会費を要求もされなかった。お浄めをい
ただくのに、なんの躊躇も、うしろめたさも私にはなかった。恥ずかしいことに、
金銭的なことに私は全くうとかったのである。
会員がふえていって、昭和三十年一月五井先生鑛仰会が宗教法人の認可を受け
た。昭和三十一年六月、信徒の力を結集し、先生の教えを一層ひろめよう、とい
う有志が集って、信徒会である白光真行会が結成された。そして活動が始まっ
た。
つまり一つの会の中に、もう一つの会が出来たわけである。五井先生鐵仰会と
いう名称が全く名ばかりになったような感じの時、鐙仰会と白光真行会が一つに
なり、白光真宏会という新しい名称に発展したわけである。それが昭和三十一年
の九月だった。
全く自然発生的に、会員有志の発議で変わったわけである。五井先生はそのま
59
まうけいれられた。
五井先生は「私は万事、自然の動きにまかせて事を運んでゆくことにしている

ので、一度定まったことは、それが自分に都合がよろしかろうと悪かろうと、一
切文句はいわないことにしている。そしてまたそのことが、なにかの都合で自然
に改まればそれでよいと思っている。
自分の都合不都合でことを運ぶ癖がつくと、つねに想いが乱れて、不動の心に
なれないからだ。宗教者は自然法爾に善き方向へ事が運ばれてゆくようになるこ
とが望ましいし、それが真の人間の生き方である筈なのだ」
と『ひびき」の中で書いていらっしゃる。
そういえば文芸雑誌「白光」の創刊も、そして「白光」が会の…機関誌に移行し
ていったことも、すべて自然だった。雑誌の編集、校正、発行も、新聞の編集、
校正、発行も先生は日立亀有工場時代そして戦後の中央労働学園出版部勤務で経
60
験豊富でよくご存じだったのに、指図がましいことは一切おっしゃらなかったし、
なさらなかった。責任を一切私にまかせて下さった。だからその信頼にこたえよ
うと私は一所懸命やれたのである。
12.自分勝手
61
62
=二怠ける
先生の辞書には「怠ける」という言葉はない。
怠けるということは罪である、といつかのこ法話で、ハッキリと先生はおっしゃっ
たことがある。
体も動かさず、心も働かせず、気も働かせない。その上で、楽をして暮そう、
なんていう怠惰な姿勢を最も嫌われた。
いのちを生かすことこれを第一とされた。
ヘヘヘヘヘへ
祈りとはいのちの宣言である、と明言されたが、宣言を発したいのちは、常に
振動している。躍動している。まーるくなって、ころこうころころと淀みなく動
いてゆく。さわりなく流れてゆく。一ヵ所に止まることなく移ってゆく。
13.怠ける
一ヵ所に長く止まれば、気もとどこおり、そこに気枯れが生じてくる。水の流
れが淀めば汚れ腐ってくるのと同様に、人間の気も、いのちも汚れ、腐ってくる。
仏教の修行の重大項目の中に、精進というのがある。五井先生は精進というお
言葉こそ使われなかったが、ご自分では、人目のないところで随分精進されてい
た。そのようなことをもらされたことがある。
「私はいつも反省し、そして精進しているんだよ。神我一体になりたての頃と
四十才の頃は大分違うし、五十才の頃と四十才の頃とも随分違う。私は神さまに
二度と同じことを言われないようにしたものだよ。これからも私はもっともっと
偉くなるよ、見ていてごらん」
「人間はどこまで進歩しても、これでもういい、ということはない。どこまで
偉くなっても、それで終わりということはない、どんなに偉くなっても、もう偉
くなるのを止めなさい、という人も神さまもいない。どこまでもどこまでも偉く63
なれるものが人間なのだ」
そんな先生を、まぶしい気持で見上げたものである。
お強くしたものである。
そして敬愛の情をなおな
64
年末になると、瀬木理事長は五井先生のところにご報告にゆくのが辛かった、
とよくいわれる。
つまり、職員の年末年始の休暇をこのようにさせて頂きます、と申上げると
“ああいいよ
” とおっしゃったあと、きまったように「私には休みがないんだよ」
というお言葉をきくので、脇の下から冷汗が出る、ということだった。
私もそのお言葉は何回もおききした。
本当に、この世的にもお休みをとるのをお嫌いになった。
五井先生鑛仰会が出来て、毎月一日と十五日がお休みになったと記憶している。
13.怠、ける
それが長い間つづいた。
はじめは元旦は、横関さんの家族を囲んで少数の人々とお祝いをしていたのが、
いつの間にかもれ聞いた人が増え、押しかけ、元旦は朝早くから夕刻まで、ご挨
拶をお受けになることになった。ご挨拶はご挨拶だけでなくお浄めが必ずつくの
であった。正月休みなどはなかった。お父様が一月二日に亡くなられた時、はじ
めてお休みになった程だ。
宇宙子科学が始められて、毎週水曜日が会の休日になった。けれど、五井先生
ご自身には休みなどなかった。
休むことは怠けると同義語ではないが、今どきの週休二日制とか、一ヵ月の休
暇とか一週間の休暇などということは、五井先生には考えられなかったことであ
ろう。
65
66
一四消光
五井先生の辞書には「消光」という文字はない。
或る人が五井先生に手紙を書いてきた。
その中に「無事消光しています」とあった。意味としては、無事日々を送って
いる、ということで、謙遜しての挨拶言葉であるが、先生は、
「消光、だなんて、こんな言葉を使ってはいけない。光を消すなんてとんでも
ないことだ。言葉の使い方をよく注意するように」
と厳しくおっしゃったことがある。それ以来、私は「消光」という言葉を使っ
たことがない。
光が消えたらヤミになる。光明思想家だった先生は、暗い言葉を使い、書き、

14.消
表現されることはなさらなかった。
明るい言葉を使えば、人間の想いは明るくなる。つねに明るい心を打ち出すよ
うに、あらゆる方法、努力をすることを惜しむな、というのが先生のお心だった。
聖ヶ丘道場に、時ならぬ時に雪が降った。あまり美しかったので、写真をとり、
連載中の老子講義のカット代わりに使ったことがある。雪の写真の説明に”春の
異変” という言葉を使ったのである。
これは五井先生におこられた。
「白光誌にのせる言葉に”異変” とは何事か! 」というわけである。すぐ直せ、
という命令で新しく”春の雪” という説明文を印刷し、白光誌一部一部にはりつ
けたことがある。
聖者はチミモウリョウを語らず、異変を予言せず、というところである。異変
という言葉が異変という波をよぶのだ、気をつけなさい、と重ねて先生にさとさ67
れた。68
私たちも言葉づかいには、くれぐれも心を配らなければならない。それくらい
の考慮は必要である。
この世は想いの世界であり、想いが自分の世界を創ってゆくからである。それ
を先生は身をもって教えて下さったわけだ。
現在は、人をほめる言葉、たたえる言葉づかいというものは少なくなり、逆に、
人をけなし、責め、おとしいれる言葉が多くなってきているようである。
そういう世の中であればあるほど、私たちコトバの力を知るものこそ、思いや
りのある言葉、美しいコトバ、誠実なる言葉、明るい言葉、勇気づける励ましの
言葉、をどんどん使っていきたいものである。
自分も含めて、人はその何気ない言葉の使い方で、慰められ、力づけられ、明
るくなって、いきいきとしてくるのである。
消えてゆく姿、というのは、悪や不幸や不調和、不完全を消すコトバであり、
世界人類が平和でありますように、という言葉は、まさに光明一元。愛がいっぱ
いつまり、光が充満し、あふれ出て、キラキラしているコトバである。
どんどん使っていこう。

14.消
69
70
一五込’7 淡
冷たい態度というのを、五井先生は一番嫌われていた。だから五井先生の辞書
の中には「冷淡」「冷たさ」という言葉はない。
先生は暖かかった。それはつねに太陽の如く、いのちが燃えていたからである。
神の愛に情をプラスして下さったからである。自分一個のためでなく、つねに人
のことだけを考えて、生きておられたからである。
お体の具合の悪い時、苦しい息の下からもお会いすれば、開口一番「みんな元
気かい」と家族のことを心配して下さる。
ご自分の息の苦しさのことなど全く意に介されず、私なら私の健康を心配して
下さる。

15.冷
「無理するんじゃないよ」
「体には気をつけなよ」
このお言葉は幾度も幾度も、先生の口から聞いたものだ。今にして、本当に有
難いことだと思う。
信仰の上からいえば、「みんな神さまに守られている。守護霊守護神に導かれ
ている」のだから、なんの心配もすることはないのだけれど、おかたい信仰の杓
子定規をふりまわされることは、一度もなかった。
五井先生は「北風と太陽」というイソップ物語の一つがお好きだった。
ある旅人がマントを羽織って歩いていた。北風と太陽がそれをみて、どちらが
先に旅人のマントをぬがすか競争しよう、ということになった。
北風がまず強い強い風で、旅人のマントを吹きとばそうとした。強く吹けば吹
くほど、旅人はしっかりとマントを押さえて歩くのであった。
71
こんどは私がやってみよう、と太陽が暖かい光を送った。ポカポカと暖かくなっ
たので、旅人はマントをぬぎ、上着までぬいでしまったー
というようなお話である。
五井先生は、私の役目は光を人に与えることだ、とおっしゃった。光があたれ
ば、誰の心も暖かくなり、固く閉ざしていた己の心を自然に開く。

開けば光はおのずから心の奥底まで射しこみ、その人の奥の光明と合体して、
素晴らしい発光をする。
冷たい身をきるような言葉、ひびきは相手の心を傷つけ、かたく心を閉ざせし
めてしまい、神さまから遠去かってしまう。
五井先生は『神と人間』の中で、こう書いていらっしゃる。
「愛は、時に峻厳を極める場合がある。しかし冷酷とは全然異なるものである。
愛は全体を生かすと共に、そのもの、そのことをも、真に生かす為に、峻厳さ
72
を示すものであり、冷酷とは、自己や自己の周囲の利益の為にすべてを殺すもの
である。
愛の峻厳であるか、冷酷性からくる厳しさであるか、自己を省み、他を参考に
して、よく自己の道標としなければならぬ。
愛の峻厳を装った冷酷、愛ともまこう情意(執着)、この二つの心を超える為
にこそ、人は神に祈り、神と一体にならねばならぬ」
15.冷淡
73
74
一六威張る
五井先生の辞書には”威張る” という言葉はない。どこをどうさがしても無い。
“威張るやつはバカ

“威張るやつが一番偉
くないんだよ”
“高慢はバカのはじまり”
という言葉を、よく五井先生は口にされ、私どもに何かあると教えて下さった
ものである。
自慢高慢バカのうちという言葉もあるけれど、自慢高慢とは「思い上って、
他を見下す心の働き」をいう。
他人と自分とをつねに比較して、他人が低ければ相手を軽蔑し、他人が自分よ
16.威張る
り高ければ、また力があれば相手にへつらう。こういう心の働きはまことに情け
ないもので、消えてゆく姿として懸命に祈りの中に投げ入れている。
しかしこうした想いの動きはまだまだいいほうで、これより始末の悪いものが
ある。
慢心の慢には七つの種類があるという。その中に”我慢” という慢、つまり威
張る想いがある。
辞書によれば、仏教では「自我をたのんで高ぶること」とある、こらえしのぶ、
という普通の使い方とは大分意味が違うが、語源はこの仏教の言葉から来たもの
だと思う。それがいつの間にか、こらえしのぶという意味に転じて使われ出した
のであろう。
さて我慢という慢心は、太田久紀氏の本によると「未那識の我慢は、もっと根
深く、自分でも気づかないようなところに、相手を否認し、あなどる気持が浸透75
している」ということである。
自分でも気がつかない深い潜在意識の中に、いつの間にか、相手の人格を否定
し、神性仏性を否定して、相手を見くびっている意識が働いているということは
恐ろしいことである。
これはへりくだる謙虚な気持をなくし、その人に苦をもたらす、と仏教書では
いっている。本当にそうだと思う。
そういうことがわからないから、そういう真理を知らないから、無知だから、
“威張るやつはバカ
” といわれるバカになるのである。
ちなみに、バカの語源はやはり仏教語で”無知” をさす。
こう書いているうちに、或る宗教者会議が大きなお寺で開かれ、代表者の方々
が列を作って入場されて来られた時、ある代表をみて思わずもらされた五井先生
の嘆息を思い出した。
76
16.威張る
「なんで威張るんだろうね、私には全くわからないよ。肉体人間は偉いといっ
たって、偉くないといったって、五十歩百歩、みんな同じようなもの。それが自
分だけが偉いってどうして思えるのか。全く不思議だ」
そうした感想を先生からあとでお聞きしたのを思い出す。
「お教祖とか霊能者というのは、得てして自分で偉い偉いといって、自分を担
ぎあげている。自分で宣伝しているけれど、誰もついて来ない。これほど淋しい
ことはないし、愚かなことはありません。
ところが結構悲しがらないんです。いつでも”自分は、自分は”と思っている」
人がまわりに集って、先生先生と立てられはじめると、いつの間にかいい気に
なって、そりかえってしまう、これが潜在意識に深く根をはってしまった我慢に
なり、増上慢になるのであろう。
五井先生は本当に謙虚な方だった。
77
“梅雨晴れ間謙譲の師に傲いたし

という句をつくった。私は先生のお心にならいたいと思っている。
先生は、相手がどんな人であっても、態度は変わらなかった。ただ法を壇上で
説いている時は、神霊そのままの、おかすべからざる権威があった。明るい気さ
くな、わかりやすいお話だったけれど、真理の線は一歩もゆずれない、という気
迫があった。
それでいて、春風がいつも吹いているようだったから、固く閉ざした心も、い
つの間にか開いてしまうのであった。
自分と他人とは別々のもの、と比較するところから差別心が生じる。私とお前
たちとは違うんだ、と見下す心には、仏もいまさず神様も存在しない。
だから、いくら悟った風なことをいっても、また態度に見せても、その人は悟っ
ていないのである。
78
悟った人は、自分と他人とを比べるような心がない。自他一体観があるのみで
ある。少なくとも、道に精進している者は、他人との比較を止め、神との対面、
神との対話のみしてゆきたいものである。
「威張っているだけ神さまから遠くなる」
この五井先生のお言葉は心にしみる。
(参考文献「凡夫が凡夫に呼びかける唯識」太田久紀著・大法輪閣刊)
16.威張る
79
80
一七差別
五井先生の辞書には”差別” という言葉はない。
年齢の差別、性の差別、人種の差別、信仰の差別、浄不浄の差別、地位の差別、
職業の差別、美醜の差別… … ともかく違いをつける差別観は先生になかった。

人間の本来性を神の分霊と観、人類は神のみ心において、生命において、みな
兄弟姉妹である、ということに徹しておられた。
一方、肉体的には、肉体人間としては、みんな凡夫なのである、という凡夫観
に徹しておられた。
信仰の世界において、誤りやすいことは、浄まっている、浄まっていないとい
う見方。あの人は悟っている、悟っていないという見方。あの人は業因縁が深い、
17.差別
深くないという見方である。
常に他人と自分をくらべるところから、この差別観は生じる。ある時は優越感
を、ある時は劣等感を、それぞれ感じて、人を見下し、己れを卑下する。心はつ
ねに千々に揺れ動いてやまない。
“卑下高慢いずれも生命を汚すもの己れをしかと打ち出さむのみ

という先生のお歌は、そうした想いの動きを、突き放すべきことを教えて下さっ
ている。
“幼きも老いも無心に唱へゐる世界平和は神の真祈り

世界平和を祈るその心は、内なる神のみ心である。本心である。人を憎悪し、
人を傷つける想いで、どうして世界の平和を祈れようか。
世界平和を祈る時、神さまをよぶ時、人は年齢を超越し、信仰の深浅、形の美
醜を超越し、神のみ心と直結している。
81
お前は浄まっていないから、お浄めしてあげない、などというたわけたことを、82
先生はおっしゃったことがない。汚れているからそばに寄るな、などというバカ
なことをおっしゃったことはないし、したこともない。
先生の目には、みな神の子と映っている。ただ霊性未開発の子として映ってい
るだけ。先生の前に坐った人を、老若男女の差別なく先生は拝んで下さった。
悟っている者だけを相手にし、信うすく、愚痴をこぼしつづける者を遠ざける、
などということもなさらなかった。
ただこの世の因縁の濃さ薄さは否定なさらず、近きより遠きへ及ぼせ、とその
こば
まま自然体であった。来る者を拒まず、去る者を追わず、という態度だった。
水の流れの如く、自然法爾に、さらさらと処しておられた。只々、愛の光を投
げかけられていたのである。
「自分は人類の一人である、と思えるようにならなければ… … 」とおっしゃっ
たことがあるが、先生の中には、小さく固った国家観とか、地球観はなかった。
戦争が起こるのは、国家というものがあるからだ、とおっしゃっていたこともあ
る。
宇宙の中に展開している神のみ心、それを素直にみつめられた上で、個々人の
小さな、細かい日常の相談にのっておられたのである。
だから日本人ばかりでなく、韓国人も中国人もインド人もアメリカ人も、イギ
リス人もヨーロッパ人も、肌の黒い人も茶色い人も、先生に接すると、みな自分
との共通点を見出し、親しみをおぼえ、心の窓を開いていったのである。
生命の平等観、無差別観を不言実行されていたのが、五井先生であった。

17.差
83
84
一八言い訳
五井先生の辞書には「言い訳」という言葉はない。
言い訳とは、言い逃れるとか言い抜けると同義語で、うまくいって、相手も自
分もごまかし、いいにげて責任をとらない、ということである。
先生は言い訳をすることを大変嫌われた。それは少年時代の或る出来事にも由
来しているかもしれない。
たんもの
T 商店の小僧さん時代のこと。主人の言いつけで反物をお客さんの家に届けに
ゆくことになった。
自転車のうしろの荷台に反物をゆわえて出かけたが、早稲田講義録で中学課程
の勉強をしていた昌久少年は、英語のリーダーをふところにしていた。
18。言い訳
いいお天気だったので、川の土手に出た時、ちょっと自転車を止め、川原に降
りて、英語のリーダーに読みふけった。
ハッと気づいて、これは少し長い道草をしてしまった、と自転車のそばに上っ
てゆくと、無い。反物がないのである。
サーッと顔から血が引くとはこのことだ。しまった/ と悔んでみたがもうお
そい。どうしよう、なんてご主人にいったらいいのか、申訳けなさと、恐怖で、
どうしていいかわからなかった。いろんな言い訳をさがしたが見つからない。
そこで腹をくくって、ご主人の前に出て、正直に申上げた。
「申訳けありません。今後二度といたしません。なんとしてでもこの反物の分
はお返し申上げますから、どうかご勘弁下さい」どんなお叱りも受けます、と頭
をさげた。
ご主人は、吸っていたタバコのキセルを手に持ちかえて、ポーンと一つ、それ
85
も強く長火鉢のはしを叩いた。それっきり何もいわなかった。この時は恐ろしかっ
たそうだ。
日頃のまじめな働きぶりが、ご主人に認められていたせいもあったからだが、
それにもまして、あれこれ言い訳せず、ごまかしもしなかった、そのいさぎよさ
がご主人に気に入られたのだろう。
『如是我聞』の中で、五井先生はこうおっしゃっている。
「私が一番嫌いなのは言い訳。自分が間違ったことをさしおいて”これはこう
だから仕方がないんだ” とか”私はまかせてあるんだからいいんだ” というのは
言い訳ですよ。人がなんと思うと、絶対に言い訳をしてはいけない。悪く思われ
たら思われたでいい。すべて神さまが知っているんです。だから神さまにまかせ
ておいたらいい。まして自分に言い訳をしてはいけない。これは一番悪い。それ
では自分が進歩しません。
86
18.言い訳
悪かったら”悪うございました。神さまごめんなさい。もうしません” とあや
スノ
まってしまえばいい。そうすれば神さまは”よし愛い奴じゃ” とゆるしてくれる
んですよ。そこに消えてゆく姿があるんですよ。
言い訳をして”それは仕方がない、あっちが悪いんだ、私がやったって仕方が
ないじゃないの” これはダメ。業をくっつけたままだからね。
“あっちが現象的に悪いけれども、私にぶつかってくるからには、私の中に何
か業があったんだろうな。二人の業がぶつかって消えてゆくんだろうな。ああ神
さま、早く消えてゆきますように、世界人類が平和でありますように” とやった
時に、はじめて消えるのです。
仕方がない、なんてありゃしない。すべて因縁因果の摂理によって現われてく
るんだから、何かやられる時には、こっちがどんなにいいことをしていても、何
か中に、過去世からやられる因縁があったんだからね。ああこれで消して下さっ
87
て、有難うございます、ということになれば、菩薩心になるわけです。
ようにならなければいけませんね」
そういう8
一九非常識
19.非常識
五井先生の辞書には「非常識」常識はずれという言葉はない。
知性一点ばりの世の中になってくると、ついに行きづまりを感じてくる。現代
はそういう世の中である。そうした行きづまりを打破するためには、常識を尺度
にしていては不可能である。常識の枠をひろげ、或いははずし、超常識をもって
ぶつかっていかなければ、道は開かれない。

この超常識と一見似て非なるものが非常識である。常識のままでは道は新しく
開けないが、非常識になればこの世の中の秩序が乱れてしまう。そこで五井先生
は超常識をもつようにすすめているのである。
人間は自然療能力を持っているのだから、医療に頼る必要はないーというの
89
は真実である。しかし本当にそれが信じられて、長病みの中にあっても、心明る
く、泰然としていられる人が、この世の中にどれ程いるであろうか? ほとんど
いないと思う。
信仰している人の中には、得てして、真実に信じきれないのに、信じきりたい
と願い、心の底は動揺しながら、不安恐怖を持ちながら、医療に頼らない人があ
る。そうしないと神さまのみ心に反するのではないか、信仰が浅いと人から見ら
れるんじゃないか、と自分の心をごまかして、かくしている人がある。
そんな心の状態では、内にある自然治癒力は働いてくれない。何故なら、もう
片方の想いで、癒しの力、生命力を否定してしまっているからである。
本人が精神的にも肉体的にも中途半端のままであるばかりでなく、頑なな本人
の意志から、まわりの折角の愛情好意が無視され、そこに不調和が生まれて来て
しまうのである。
90
19.非常識
自分も生きない、人も生きない。これでは神さまが働けない。
医療が万能ではないけれど、やたら医薬を否定して、祈祷やまじないのたぐい
に頼るのは迷信である。非常識である。
医薬にも神さまの慈愛のみ心が働いているのである。宗教者が神の使いなら、
お医者さんも看護婦さんも神の使いである。菩薩さまである。そのように思え、
感謝出来ることが超常識というものである。
よく五井先生がお話しされたことであるが、ご相談に来た或る子連れの親は、
先生と神さまの話をすることはよいのだけれど、夢中になり、子供が部屋の真中
で、おしっこをたれてしまっていても、アラッといったきり、それを拭きもしな
い。見かねてはたから先生奥さまが出て来られ、まあまあと雑巾でおしっこをふ
きとり、子供のお尻をかえてあげても、奥さまに”ありがとう” もいわず、その
お母さんはおしゃべりを止めなかった、ということである。
91
これは極端な実例かもしれないが、それと似たようなことを、日常生活の中で
やりかねないのが、私どもである。
昌美先生が東京道場で個人指導をなさっておられる時のことである。その日は
ご指導日だった。ところがその日は台風の接近で風も強く、時折りどしゃぶりの
雨が降るのだった。ラジオは台風の関東地方上陸を告げていた。
五井先生は昌美先生にお電話をおかけになった。
「今日は東京道場にゆくのは止あなさい。台風が来ているでしょ。台風のため
に電車が止まったりしたら、道場に来た人が帰れなくなるから、中止しなさい。
早くそのように東京道場に知らせなさい」
ということだった。果して台風はひどくなり、午後から電車はストップしてし
まった。
同じ日、ある講師は風の中を座談会に出かけていった。そして夜半すぎまで帰
92
れなかった。
台風が来ることがわかっているのに、雨の真只中を出かけることはないのであ
る。一種のヒロイズムを味わえるかもしれないが、あの人はやはりどこか我々と
違う、と大衆から離れてしまうことになる。離れてしまっては大衆は救えない。
大衆の中にとけこんで、共に天に昇っていかなければ、宗教者としての使命は果
たせないと思うのである。
非常識は、自分も人も不安の中におとしこむが、超常識は自分も人も、ともに
救い上げるものである。
19.非常識
93
94
二〇敵
五井先生の辞書には「敵」という言葉はない。
五井先生がご帰神された年の八月の初めだった。お医者さんにお体を診ていた
だくことが了解されて、お医者さんを昼修庵にお連れした。
五井先生のお体を一応診察したお医者さんが、
てんてき
「先生、点滴をいたしませんか? 」
とすすめられると、先生は、
「いやー、私はおよそ敵という名のつくものは嫌いなのです。折角ですけれど
ご勘弁下さい」
とおっしゃったので、思わず、お医者さんはじめまわりの者は皆笑ってしまっ
た。
しやれ
五井先生は、どんなに苦しくても、辛くても、いつも洒落をとばしては、まわ
りを笑わせ、まわりをホッと安心させておられたものだ。
テキはいやだ、と洒落のめすほど、五井先生のお心の中には叩きつぶさなけれ
ばならない”敵” という存在も、存在を認める意識もなかった。
五井先生は「私は光明思想家で、その実践者である」とおっしゃっている。
光明思想とは、この世界は神の姿を完全にうつし出そうとして存在している世
界であり、神の姿の顕現の場所である。従って、神の創り給うた世界に、悪や不
幸があるわけがない、神の世界は光明燦然とした世界であり、人間はみな完全円
わけいのち
満なる神の分生命である、という思想である。
もっと簡単にいえば、この世界に実在するものは神のみである、という思想で敵
⑳ ある。神以外のものは、存在するように見えるけれども、時間の経過とともに皆、95
現われては消えてゆくもの、変化変滅してゆくものなのだ、という思想である。
五井先生がよく「神一元」とおっしゃっていることは、そういう意味である。
神一元の世界しか先生にはなかったのである。従って、五井先生の世界には、
神さま以外のものは何もの何事も無いのである。それは相対立するものが何もな
い世界、光明のみの世界なのだ。
く つ
よく五井先生は「なんにもない、空、空、空だよ」とおっしゃっていた。
五井先生に働く神さまは、五井先生をして神一元の世界一本筋で貫き通すこと
に定められ、全人類の心が神一元の世界観にならなければ、世界平和は出来る筈
はない、と説かしめたのである。
これを原点として”世界人類が平和でありますように
” という世界平和の祈り
が生まれ、神さまは完全円満であり、愛であり、すべてのすべてである、神とそ
のみ心以外のものはすべて過去世の業の現われては消えてゆく姿である、という
96
白光の教えが始まったのである。
神さま以外に実在しないのだから、五井先生は悪魔とか悪霊とかの存在を、一
切考えも認めてもおられなかった。しかしながら、今日までの多くの宗教者は、
神に対してのサタンとか悪霊とかの独立的存在を考えている。
そんな考えから、神を否定する共産主義者唯物論者は、神の敵である、サタン
の使いである。だからどんな手段を使ってでも、これを叩きつぶしてもかまわな
い、これを滅ぼすことは神のみ心に反することではない、という屍理屈がまかり
通り、戦争による殺りくが現代まで繰り返されていたのである。共産主義者ばか
りではない。宗教間で、つまり異教徒、自分たちの信ずる宗教以外は間違ったも
の、低級なるもの、邪教と断定し、神の名のもとに、過去から現代にいたるまで
たくさんの人間の血が流されて来た。敵
皿これが神のみ心に叶うものである筈がない。自分達の集団のために相手が邪魔
97
だ、だから武力によって相手を黙らせる。或いは金力や言論や謀略の力によって98
相手を抑えつけて、自分達のいうなりにさせる、というような在り方は、神のみ
心から程遠いこと、真理に反することは明らかなことである。
抑えこもうとすれば、必ずそれに抵抗する力が生じる、それが恨み、憎しみと
なり、憎悪の感情は憎悪を呼び起こし、呼び集め、ますます増大してゆく、つい
には争いとなり、殺し合いとなる。
たとえ武力でもって共産主義集団を滅亡させたとしても、滅亡にいたるまでに、
どれだけ恐怖の想い、悲しい想い、そして憎悪と恨みの想いを相手集団に対して
持ったか計り知れない。形は亡くなったとしても、想いは残る。その残った想い
が再び機を得て、別の形となって、対抗する相手として現われてくるのである。
敵対想念を持ったままでは、真実の平和運動にはならない。真実の平和運動に
は、叩きつぶさなければならない相手もいなければ、自分たちの都合、感情の快
不快によって消滅させなければならない存在もない。あってはならないのである。
「光明思想、光明波動そのものとして真の世界平和運動がある」と五井先生は
明言している。
自分たちの感情想念では、どうしても自己の主義主張に反対する人々や、集団
や国家が憎らしくなり、邪魔になってくる、この肉体人間の感情想念を超えるこ
とが、先ず真の世界平和運動の第一歩なのである。と同時に、そうすることが、
世界に真実の平和をもたらす積極的行動となるのだ。
“世界人類が平和でありますように
“という祈りの中に、自己のあらゆる感情
想念を投げ入れてゆく、消えてゆく姿として祈りの中に入れてゆくという、われ
われの信仰は、自分の心をも平和にすると同時に、世界平和実現を強力に推し進
めてゆく大きな力とも自然になっているわけである。敵
皿「人類は一つの生命である、という根本原理に起って、はじめて真の平和運動9
が出来るのである。
真の平和運動には敵が一人でもあってはならない」
五井先生はこう教えて下さっている。
人間は神の分霊、神の子、神の子である人間は兄弟姉妹である。という真理は
いかに時代が変わり、風俗習慣が異なろうと、古今東西にわたって不変の真理な
のである。
真実の平和運動、宗教活動に参加している人々は、五井先生のお言葉の数々を
改めて噛みしめる必要があると、痛感している。
100
一= 悲観H
21.悲観■
五井先生の辞書には「悲観」という言葉はない。
悲観とは、悲しんで失望することである。五井先生はどんなに悲しくされても、
冷たくされても、それで挫けて、前途を悪く思わなかった。
霊覚者になられる前、宗教活動はつづけながら、お母さんの強いお言葉もあっ
て、就職をすることになった。といって簡単に見つかったわけではない。
新聞広告をみて出かけたり、知人を尋ねて頼んだり、就職運動をはじめたわけ
である。
技術者や営業経験者を求めてはいたが、文化指導者などは必要としていなかっ
た時代であったから「なんでもやります」と頼みこんでも、あなたのような経歴期
の人は、と取りつくしまもないほどの断わられようで、行く所ゆく所、みな断わ
られてしまっていた。
毎日断わられながら、毎日、各所を歩き廻って運動はつづけた。
断わられても断わられても「オレはもうだめだ」という想いは一つも湧いて来
なかったそうだ。
「私にふさわしい仕事はちゃんと備えられている、神さまがちゃんと決めて下
さっているに違いない」と思って、また別の会社訪問をしたという。
「だめだ、と思ったらだめになる、絶対に”だめだ” と思ってはいけない。
断わられたら、ここに私にふさわしくないと神さまがお考えになって、相手を
して断わらせたのだ、と思いなさい、事実そうなのだから」とお話の中でおっしゃっ
ていた。
「必ず、神さまは私にふさわしい勤務場所を授けて下さるに違いない」
102
21.悲観皿
そう思って、辛抱強く就職運動をつづけていれば、必ず自分にふさわしい会社
に導かれてゆくものだ、と五井先生はご自分の経験から教えて下さっている。
自分を生かしているのは神さまのいのちである、大いなる生命によって生かさ
れている私を、神さまが放っておくわけがない、と自分を鼓舞しつつ、悲観しそ
うになる想いを”消えてゆく姿” と世界平和の祈りの中に入れつづけることであ
る。
と同時に、「神さまは、私に天命を授けて下さった。授けて下さった以上私を
生かして下さるに違いない」と思い、わが天命を完うせしめ給え、と祈って、心
を立て直し立て直し生きてゆくことである。
これは何も就職問題ばかりではない、あらゆる問題に適用されることである。
103
104
ニニ
さば
責め裁く
五井先生の辞書には”責め裁く” という言葉はない。
自分を責めさばくことも、人を責めさばくことも、五井先生の教えの中にはあ
りません。先生は誰のことも、責あませんでした。
とらわ
五井先生の本願は、すべての人間を、あらゆる執れ、こだわりから解放して、
真実に自由自在な霊性人間にしてあげたい、神の子に目覚めさせてあげたいとい
うことでした。
執れ、こだわりとは、前生も含めた過去からの習慣の想い、癖に、まるで囚人
のごとくとらわれの身となり、がんじがらめに縛られて、身動きできなくなって
いる心の状態をさします。
22,責め裁く
人は、特に道徳、倫理、宗教を学び、信仰の道に入った人は、どういうわけか、
自分の過去の善と悪との想い、行ないにとらわれ、自分のいのちを縛って、本来、
淀みないいのちの流れをせきとめ、働きを邪魔していることが多いものです。
かつて、イエス・キリストが救いを求める病人にむかって、あるいは身体に障
害のある者にむかって、まずいったことばは
「汝の罪ゆるされたり」
ということでした。イエスの神の子としての権威ある、光明のひびきに、彼ら
は罪をゆるされて、病気が治り、障害が解消しています。
イエス・キリストにゆるされて、罪から解きはなたれ、ほっと心が開いたとこ
ろに、神さまの光が流れこんで、罪意識もろとも癒されてゆくわけであります。
これだけをみても、人間の罪意識、つまり神さまのみ心をけがしたとか、神さ
まの教えにそむいてしまって、申訳けない、悪かったと、長くこだわりつづけて
105
来た意識がどれほど人間のいのちの自由さを縛り、心の明るさを奪い、いのちの
働きを阻害しているか、よくわかります。
それは私などよく体験しています。
五井先生に、私はまずゆるされました。
「今のあなたが悪いのではありませんよ、過去世において、神さまから離れた
想いや行ないの結果が、今、現われて消えてゆこうとしているのです。ですから
“消えてゆく姿” と思って、その現われた現象事柄をつかまえ、あるいは想いを
つかまえて、悪かった悪かった、といつまでも思いつづけてはいけません。それ
を思いつづければつづけるほど、あなたの心が明るくなり、いのち生きいきとし
てくるなら、そうやってもいいけれど、そうじゃないでしょ。逆に、あなたの心
は暗くなり、生きる勇気がなくなるでしょ。
悪かったと思ったら、一度でいい。くどくど思わないで”もう二度と致しませ
106
22.責め裁く
ん、ごめんなさい、これから明るく生きます、神さまのみ心である愛と真の心で
生きます” と、神さまに誓って、神さまに心をふりむければいいんです。
五井先生/ と私を思いなさい。私があなたと過去世の業想念との間の戸になっ
て、再びあなたに戻って来ないようにしてあげるから。その代り”世界人類が平
和でありますように” と祈って下さいよ」
と、繰返し繰返し教えられて、自分の心に起こる悪い、いやな想い、運命や体
に現われるいやなこと、病気などを消えてゆく姿として世界平和の祈りに、やっ
と投げ入れられるようになり、本当に救われたのでした。
忍耐強い五井先生のおかげです。
わけいのち
そもそも、五井先生の世界では人間とは本来神の子であり、神の分生命であり、
わけみたま
分霊であるのですから、神さま以外のものは一切実在していないのですから、悪
も不幸も、過去世の業因縁も、罪意識も無いのです。餅
あるように見えても、それはあぶくの如くまた夢まぼろしの如く、現われては
消えてゆくものにすぎないわけです。夢まぼろしの如きものを、わざわざえぐり
出して、目の前に持って来て、これがお前の因縁だ、これがお前の間違った想い
だ、お前の心が悪いのだ、と見せつけるようなものは、今更無いのです。
みな、現われては消えてゆく姿なのです。
想ったことは必ず現われる、これは想いの法則だといいます。しかし、想いに
は「現われれば消える」という性格があるのです。これは『神と人間』の中で、
五井先生が言明されています。
今迄は、つまり五井先生の教え以前は、想うことは必ず現われる、という面だ
けが強調されて、大事な「現われれば消えるのだ」というもう一つの想いの性格
を忘れていたのです。想いという形、つまり怒り、怖れ、嫉妬、憎み、恨み、焦
り、不安、そうしたものは、想いとして形に現われたものです。
108

22.責め裁く
われわれの潜在意識という、表面から隠れたレベルの世界では、古事記の表現
ではありませんが、漂えるくらげの如く、想いは混とんとしていて、目鼻がつい
ていない、何が何んだわからない想念エネルギーだったのが、表面意識に浮んで
来て、はじめて、怒りなら怒り、不安なら不安、という形になった。形になった
時、あぶくのごとく、パチンとわれて、消えてしまったー
それが想いとして形に現われたということである、と私は理解し、実行してい
ます。
そして、現われてその想念は消えてしまうのです。
本質的には無い、悪や不幸をとり出して、いかなる過去の心の現われかとか、
因縁かとか、自分を責め、自分の心をさばく必要がありましょうか、ありません。
そうすればするほど、神の心から離れてしまうのです。
「神は愛なのだ、光なのだ、私は常にその愛と光の中に生きているんだ。しか㎜
も守護霊さんに守られながら生きているんだ。過去はない。過去は消えてゆく。
どんな苦しみも必ず消えてゆくんだーと過去の心の誤りなどほじくり返えさず
に、ただただ、光明のほうに、心を向けていることが、自分を救い、人を救う一
番大切なことである」
『神と人間』の中で、こう五井先生が説かれていることを、よくよく読みかえ
して、そして、責め裁く過去の癖を”消えてゆく姿
” にして、世界平和の祈りの
大光明の中に投げ入れていきましょう。
責め裁くことを止めるだけで、どれほど心が明るく豊かになることか。
110
≡ 二自己憐窓
23.自己憐
れんみん
五井先生の辞書には「自己憐慰」という言葉はない。
憐患とは「あわれむ」ことである。かわいそうに、と思うことである。自分を
あわれみ、自分をかわいそうに、と思うことが、自己憐患である。
自分を愛するということと、自己をあわれむということとは全く違う。
自分を尊ぶことと、自己をかわいそうに、と思うこととは、全く反対の心の働
きである。
自分は苦しい、自分はつらい、自分は痛んでいるんだ、ということを人に示し
て、人から同情を得ること、人のあわれみを買う心のしぐさが、自己憐慰であ
る。
111
人から「あ、かわいそうに」「辛くて大変ねエ」といわれるように、人の気を㎎
ひく、人の関心を自分に引き寄せたい、という想いの働きでもある。
一種の甘えであり、乞食根性であり、唾棄すべき想いである。
人の同情を買って得をするか、というと、その時は一時逃れで、気がまぎれる
かもしれないけれど、真実に、自分の心の中で、その苦しみなり、辛さなり、痛
さが解決されているわけではないから、また同じ状態におちいり、それからぬけ
出すことは出来ない。
何故かというと、いつも自分を苦しみ、辛さの中に置いているからである。
人に甘え、人に頼って解決出来るか、というと、それも出来ない。
自分の苦しさ、悩み、痛み、辛さは、自分が苦しむことを通して、自分が悩む
ことを通して、自分にしか解くことは出来ない。
自分を苦しみのない世界、悩みのない世界、つまり神さまの中に置かない限り、
23.自己憐
超えることは出来ない。
自分の空腹を、人にご飯を食べてもらって満たすことは出来るだろうか。自分
で自分がご飯を食べなければ、自分のおなかはくちくならない。
自分ののどの渇きを、人に水を飲んでもらって、その渇きをいやすことは出来
ない。人に苦しんでもらって、自分の苦しみをなくすなどということはあり得な
い。
自分がまいた種は自分が刈りとらなければならない。
自分が苦しみの種をまいておいて、刈りとるのは楽しみだけにしよう、などと
いう虫のいいことは出来ないものだ。
ところが人は得てして、自分がカボチャの種をまいたことを忘れてしまって、
西瓜の実がなんでならないんだ、とわめく。自分が甘い西瓜を収穫したければ、
最初から西瓜の種をまいておけばいいのに。
113
つまり自分の運命は、自分が創り上げたもので、すべて自分の責任なのだ、と
いうことである。
自己憐慰は、自分の責任を自分でとらず、誰かにやってもらおう、ちょうど子
供がすぐママ、パパといえば、ママ、パパが全部やってくれると思うのと似てい
る。
それでは自分の魂は成長しない。
いつも誰かをあてにすることになる。
責任は他になすりつけて、自分だけがいい汁を吸おう、ということになる。そ
れでは、いつまでたっても、一人前になれない。神の子を現わせない。
受けるべきものは受けよう、という気持になった時、その人は一人前になった
といえよう。
50 % とか30 % とかの値引き、とでかでかと書きたてての、値引き商法があるけ
114
23.自己憐
れど、因縁因果の法則には、一分一厘のおまけもない。
コ銭のおまけもないんですか? 」
とおききしたら、コ銭はおろか一分一厘のおまけもない」
という五井先生のお答えだった。
われわれは自分で自分をあわれむ、などという自己憐患をやめなければいけな
い。そうした癖を一日も早くなくさなければいけない。
それには「この世に現われてくることは、すべて消えてゆく姿なのだ」という
みかた
ものの観方に徹底することである、消えてゆく姿と全否定して、その想いを世界
平和の祈りの大光明の中に投げ入れることである。
投げ入れる、ということは文字通り投げ入れることで、いい想いも悪い想いも、
ともどもに、世界人類が平和でありますように、と祈って、祈りの大光明が目の
前にあるつもりで、豆まきのごとく、その大光明の中に想いを投げ入れるのであ妬
る。われわれはそれだけすればいい。
あとは、救世の大光明が浄めて下さるから、おまかせしておけばいいのだ。
そうすることによって、私も自己憐慰のくせを大分なくして頂いた。
116
二四嫌な顔
24.嫌な顔
五井先生の辞書には「嫌な顔」という言葉はない。
五井先生の「困った顔」というのは見たことがあるけれど、「嫌な顔」という
のは見たことがない。
それに引きかえ、私たちはすぐいやな顔をする。いやな顔というのは、人を不
快にさせるものだ。もちろん、ご本人も不愉快なので、その気持がそのまま顔に
現われてくるわけである。
何故、不愉快になるのか、楽しい気持、いい気持になれないのか。面白くない
と思うのか?
人に物事を頼まれて、それが自分のやりたいことであったり、自分にとって好
117
ましい、都合のよいことであったりすると、気持が自然に肯定的になって、体全囎
体で、気持よく「ハイ」と返事をしている。
その反対に無理無理押しつけられたことや、やりたくないことは、心が自然に
反発して、顔が瞬間的に”嫌だな” というサインを出し、体全体で拒否してい
る。
一旦、ふんわりと受けて、それで事情を説明して断わればよいものを、私など、
ストレートに、感情まる出しで打ち返してしまう悪いくせがある。特に、家内に
対して、そういう態度、言葉をとってしまうことがしばしばある。そういう時
「ああきっと俺は嫌な顔をしているだろうな」と思って未熟さをしきりと反省し
ている。
まだ個人指導をなさっている時のこと。
水曜日を休暇にあてて、家でお休みになったり、奥さまとご一緒に買物に出か
24.嫌な顔
けられたり、亀有のお母さんのところへ行かれたり、五井先生はなさっていた。
しかしお休みの日でも、道場のお仕事が終わって、ご自宅でくつろがれている
時でも、会員の皆さんからの助けを求める電話は、かまわずかかって来た。
或る時は同じ人が、日に何べんも電話をかけてこられたそうである。その都度、
五井先生は嫌な顔をなさることなく、お電話に出て、相手の話をきかれ、同じよ
うな答えを繰り返しお答えになっていた、ということである。
短時間のうちに、同じようなことを電話できかされたら、いい加減にいやにな
る。いい加減にしてくれ! といいたくなる。けれど先生はそうはならなかった、
ということを先生の奥さまよりおききし、ウームとうなってしまった。
五井先生は高等小学校(今の中学校) を出ると、すぐに呉服問屋に少年店員と
して就職した。就職するというとかっこいいが、丁稚奉公に入ったのである。
そこで、徹底的に教えこまれたのは「へーイ」という返事だった。ハイではな㎎
そんたく
く、へーイだった。しごかれたといってよいだろう。少年の気持を付度する、つ
まりおしはかるような人は、主人をはじめ先輩の中にはいなかったようだ。皆、
そうして躾けられて来たからであろう。
主人、先輩の言いつけられたことは、よい返事をして、すぐ行なうということ
である。
そういう要領をのみこまれてから、先生はこまねずみのように動き、心を働か
せて奉公仕事をされたようだ。
お客相手である。いやな顔をしようものなら、忽ち商売に反映してくるし、上
からはどやしつけられる。
この少年店員時代、「嫌な顔」をしない修行を徹底してさせられ、ご主人、番
頭さんから信頼され、独立して五井商店をはじめてからも、お客さんからは可愛
がられた。
120
それはいつも、嫌な顔をしないで、気持よく仕事を受けておられたからだと思
う。
24.嫌な顔
かつて先生は、一日に六、七百人の人々のお浄めとご相談に応じておられた。
いろいろな問題をかかえてくる人もあれば、ただ五井先生に接するのが嬉しくて、
お浄めに通っている人もいた。本心の開発をめざして先生の前に坐る人もいた。
ご自分がどんなに忙しくても、どんなに体の調子が悪くても「嫌な顔」をされ
たことがなかった。
十年一日の如く通いながら、依然として愚痴ばかりこぼしつづける人に対して
も、もう来るな、顔も見たくない、と嫌な顔をされることなく、平常のように相
対し、お浄めをつづけられた。会うたびに、ここが痛いんです、苦しいんです、
とても辛いんです、などといわれたら誰でもうんざりする。先生のうんざりの顔
も見たことはない。捌
霊的にみるとするならば、折角すくい上げて、明るい世界に置いてあげたのに、212
明日になるとまた暗いところに落ちている。それでまたすくいあげて明るい世界
に連れていったが、明後日また落ちている。それが一人や二人でなく数多くの人
になっても、嫌な顔など一つとされることなく、菩薩業に五井先生は挺身されて
いらっしゃった。
ただただ頭がさがるのみである。
二五憎む

25.憎
五井先生の辞書には「憎む」という言葉はない。
そもそも人間は、なんの理由もなくして、人を憎むということはしない筈だ。
自分の好意を無にされたり、裏切られたり、心や体を傷つけられたりして、はじ
めて相手をやっつけてやりたいほど腹が立ってきて、いわゆる憎い、という感情
がこみあげてくる。
五井先生は、とうの昔に、そうした感情とは縁がなくなっていた。
罪を憎んで人を憎まずーとはよくいわれる言葉であるが、五井先生には罪を
憎むというお気持もなかった。
それはおかしい、宗教者が罪を憎まずして、どうして罪を排除し、罪より離れ
123
られるかと思うかもしれない。しかし、五井先生にとって”罪
” というカルマを囲
相手どって、それと相対する気持などさらさらなかったのである。
神とその御心以外は実在しないのだから、すべて消えてゆく姿なのだから、今
更、相手どるようなものなど無いのである。
だから戦争を憎む、とか、平和を乱すものを憎む、とかいうお気持もなければ、
そういう表現もされたことがない。
カルマの波を相手どってしまうと平和を望む心がいつの間にか、カルマの波と
争うような心を起こしてしまう。平和な心がいつの間にか、相対するものを倒そ
う、なくしてしまおう、というカルマそのものに落ちてしまうのである。
五井先生は、肉体人間としての自分を、神さまの中に投げ入れてしまった。そ
して神さまの光明に融けてしまわれたので、神と自分とが一つになってしまった。
つまり、神と自分とがはなればなれになっている、などという人間観は全く無かっ

25.憎
たのである。
神さまと自分とが別々で、はなればなれになっているようだと、どうしても人
生観は相対的になってしまう。相対的になれば、相手があることだから、そこに
必ず自分と相手との食い違いが出てくる。意見の相違、利害の相違が出てくる。
争いとなるのは必定である。
宗教者が神さま神さまといいながら、また平和平和と唱えながら、神以外のも
のを認め、平和以外の存在と相対立するようになると、そこに必ず、自分にとっ
て気に入らない相手が出現し、それに対して、憎しみの感情、敵対感情が起こっ
てくる。
内なる神さまからも、外なる神さまからも気がつかない内に、遠く遠くはなれ
てしまっていることになる。
世に正義心なるものがある。たしかに正義心も神のみ心の現われの一つに違い
125
ない。しかし、それはあくまで正と邪、悪と善とを見分けるための鏡のようなも
のだ。
正義心の強い人は、どうしても悪、不正を憎む気持が強く、これを責め裁かず
にはいられない。一時として同席することも許さない、という心だが、どんな立
場でどんな理由がつけられようと、そこで憎悪の想念をもつことは、自己の内な
る神様を汚すことであり、神より遠くはなれたことになる、という五井先生の教
えを我々は心に銘記すべきである。
五井先生の教えて下さった人間観は、人間は本来神の分生命であるから、生命
としてみな兄弟姉妹なのだということ。また、五井先生が教えて下さった人生観
というものは、個人の幸福と人類の幸福とは一つなのだということで、個人と人
類とを一つに結びつけて生きようとするものである。
こうした人間観、人生観に徹した人に、憎しみの想いなど、カケラもある筈は
126

25.憎
ない。
サタンとか悪霊とかいわれているものに対してでもである。
人間をだましまどわし、人間同士戦わせあい、傷つけ殺し合いをさせる暗黒思
想のかたまりに対しても、先生はただ光明を投げかけ、光明を照らしつづけたの
である。
これを憎らしいから、なくしてしまおうと思ってするのではなく、慈愛の自然
の行為として、光を照らされたのである。
光がすすめば暗は消える。
神のみ心たる「世界人類が平和でありますように」という祈りをひびきわたら
せつづけてゆけば、神のみ心にすべて融合されていってしまう。
そういう考え方生き方なのである。
127
128
二六借りをつくる
五井先生の辞書には「借りをつくる」という言葉はない。
五井先生は借金を絶対してはいけない、とおっしゃっていた。だから会の運営
でも手持ち資金で出来る範囲内で行なっている。
本部聖ヶ丘道場の土地も、五井先生に会員さんが感謝して捧げた奉謝金を、先
生がプールしておられたものを、手ばたきして購入。建物を建てるにあたっては、
寄付を一般から募集して、集まったお金をそれにあてた。
それがスタートであって、今もそのやり方を踏襲している。
借金ばかりでなく、あらゆる面において、先生は借りをつくるということをな
さらなかった。
26.借りをつくる
人間関係の貸し借りでも、借りがあると思われると、すぐそれを払っておられた。
「私は人のために尽すことだけ考えて生きて来た。人に何かやってもらおうと
思ったことがない」
先生はそうおっしゃっていた。
私は五井先生に大きな借りがある、と思っている。別の言葉でいえば、恩とい
うことになるかもしれない。
五井先生には、いのちを救っていただいたし、健康な体に戻していただいたし、
家内もお世話していただいた。縁結びから、ご媒酌人から、お浄め祝福の神主さ
んのお役から、守護神さまのお役までしていただいた。
実生活のご面倒もみていただいた。あらゆる面でお世話をおかけした。
なかんずく、最高最善のことは、生き方、想い方、信を教えていただいたこと、
永遠の生命をいただいたことである。㎜
先生からいただきっ放しで、何一つ私は先生にお返ししていない。せめて先生
がご高齢になられたら、先生に少しでもお小遣いを差し上げて、先生孝行の真似
事でもしたい、或いは「先生、温泉にでも行きましょう」とお誘い出来たら、と
いうのが私のささやかな夢だった。それも今となっては叶わないことである。
これがもし現実となったとすれば、先生は「それは有難う、和歌が作れるね」
ときっとにこやかに受けて下さったと思うのである。
人のために尽すだけで生きて来られた先生だから、どんな人にも同じ態度、姿
勢だった。少しでも過去世において恩を受けている、とおわかりになると、その
人に誠を尽していらっしゃった。だから恩に着せる、などという押しつけがまし
さはさらさらになかった。なかったからこそ、私たちは五井先生に「感謝、感謝」
のみなのである。
この世の中は因縁因果律が支配している。因果応報が歴然としている世界であ
130
26.借りをっくる
る。それを別の言葉で表現すれば貸し借りの世界である。
借りが多いか、貸しが多いかによって、この世的な幸、不幸、運がいい悪いが
決まってくる。
借り方の人生より、貸し方の人生になろう。つねに借り方から貸し方にまわる
人生であれば、その一生は幸運というものだ。
ところで、先生の晩年はふつうでいえば苦痛の連続だった。体中の痛み、疲が
次々にあふれるように出て来ての呼吸困難、睡眠不足など四六時中であった。
五井先生の肉体が痛むことによって、苦しむことによって、人類の業がそれだ
け晴れるのだとおっしゃる。身に受けてカルマを消すことを悲願ともされていた
ので、人類のカルマが集中して大渦になって先生にそそがれるのだった。
ある時「私はよっぽど人類に借りがあるんだね」と冗談めかしておっしゃった
ことがあったが、昭和三十七年、救世主宣言をなさった折から、それは覚悟の前
131
だったと推測する。救世主とは、大神さまの地球上における代理者である。大神
さまに代って、人類の責めは負わなければならない。
この世で一番人類に借りのあるのは、親たるが故に、人間の生命の大元たる神
さまである。そう私は思っている。

だからこそ、人類である子供たちの借金を早く返して、楽にしてあげよう、と
一所懸命光を地球に送り、世代世代に聖者を送り出し、守護霊守護神をつかわさ
れてきた。今や、地獄の底の底まで降りて、迷った魂たちを救おうとご尽力下さっ
ている。
私たちはそのご尽力に感謝し、おまかせして”世界人類が平和でありますよう
に” とお祈りしていれば、それでいいのだ。あとは神々さまがうまくやって下さ
る。そうしていれば、借りの多い人生もいつの間にか貸しの多い人生になること
は必定である。
132
二七
じこけんお
自己嫌悪
(1)
27.自己嫌悪
五井先生の辞書には「自己嫌悪」という言葉はない。
自己嫌悪というのは、自分のしたことが原因で、自分がいたらなかった、自分
が悪かった悪かった、と自分で自分が嫌いになることである。自分にあきて、そ
の果てに自分が憎らしくなることである。
五井先生は「私はいつも反省している」とおっしゃっていた。しかし先生の反
省の場合は、我々と違って、パッと一瞬にして反省なさるので、自分が悪かった
あいそ
悪かった、ああなんて自分はだめなんだろう、と愛想づかしをする隙間、瞬間な
ど少しもない。カラッと変わって、スーッと奥深く入られるというか、心はどん
133
どん前進してゆくという在り方になっている。悩
「私は上から見ても、下から見ても、横から見ても、どこから見ても、自分と
いうものは神さまのみ心と一つのものであることを見つづけている、絶対に神さ
まのみ心から外れることのないように、いつも心がけている」とおっしゃってい
た。そして
「私が一番こわいものは何かというと、自らの心である。
たとえば会員さんや外部の人たちがなんといおうと、つまりおべんちゃらをい
おうと、また私をけなして悪口をいおうと、そんなことは自分にとってなんでも
ないことだ。
ほめられようと、けなされようと、私はなんとも思っていない。思っているの
は何かというと自分の心である。
自分の本心を鏡にして、自分を写してどれだけ神さまの中に入りこんでいるか、
27.自己嫌悪
いないか見ることだ。これは絶対にごまかしようがない。私は常に正直に見つあ
ている。もし神さまのみ心に外れることがあれば、すぐ転換するように努力して
いる」と。
先生の反省は、決して心をちぢこまらせたり、しなびさせたり、暗くさせたり
するものではなかった。ちぢこまらず、しなびず、いのちのびのびと、明るい反
省、いよいよ光輝く反省だったのである。

だから、神から見られても、人から見られても、自分が見ても、傭仰天地に憶
じることが一つもない、という心境だったわけである。
「私はいつも反省しているけれど、自分は悪かった、という風に思ったことは、
幸いにして今迄一度もなかった。五井先生という立場になると、自分で悪かった
と思うと、それで五井先生はダメになってしまう」
ともおっしゃっていたが、はじめ”自分は悪かった、という風に思ったことが商
ない” ということが私にはわからなかった。
自分が悪かった、という言葉を、自己嫌悪という言葉に置きかえてみて、はじ
めて少しわかったような気がした。

むかし、私は自分のしたこと、いったことが原因で、自己嫌悪の固まりになっ
ていたことがある。
今は、幸いにして、世界平和の祈りの中に、自己嫌悪の想いを投げ入れ、神さ
まに捧げることによって、固まりがズーッと柔らかくなり、自分で自分がいやに
なり、愛想づかしをすることが少なくなった。本当におかげさまと思っている。
自分嫌いの人間が、自分大好き人間になった。ということは、自分の欠点つま
り自分のいやなところを数え上げることより、自分の長所、いいところを堂々と、
136
27.自己嫌悪
あっけらかんと数え上げられるようになったということだ。
数え上げる長所のほうが多くなった。欠点を見つければ、それをすぐ、世界平
和の祈りにのせて、神さまに捧げる習慣にした。そのおかげで、自分の欠点、弱
点をつきあげ、つっつくということに興味がなくなって来たわけである。
欠点の処理を神さま守護霊さま守護神さまにおまかせして、ただ神さまの大光
明の中に投げ入れる、という一事にエネルギーを使えるようになった。そして自
分大好き人間と自分みずからいえるようになった。
私はそう到底なれない、とおしゃる方はよくよく考えていただきたい。
さいな
あなたがどんなに自分を嫌い、自分を憎み、自分を恨んで、さんざんいじめ苛
んだとしても、そして、自分ばかりでなく、他人まであなたを嫌い、あなたから
遠去かったとしても、決してあなたを嫌わず、あなたから遠去かることなく、ま
すますあなたに密着し、あなたをつかんで放さないお方がいらっしゃることを、
137
思い出していただきたい。鵬
そう、守護霊さんの存在を考えていただきたい。自分が嫌おうと、他人が嫌お
うと、このお方だけは、決して見離しはせず、自分を好きだといって、自分を愛
してくれているのである。
神さまがそういって下さっている存在。神さまが愛して下さるほど価値のある
存在。それが自分であるということである。
自分で自分が嫌いになったという「自分」など、もののかずではないではないか。
もののかずではない自分も大事な自分なのだから、まま子扱いにせず、親さま
である神さまに、救世の大光明にお返しすることをおすすめするわけである。
どんな自分も一応は自分なのだから、ともにひっくるめて、世界平和の祈りを
祈って神さまにお返ししよう。あとは守護霊さん守護神さん、五井先生がうまく
やって下さることは間違いない。
二八お説教
28.お説教
五井先生の辞書には「お説教」という字はない。
お説教は、五井先生はお嫌いだった。だからお説教をされているところをみた
ことがないし、五井先生からお叱りを受けたことはあるけれど、お説教というも
のを受けたことはない。
お説教というのは、固苦しい話、教訓めいた話、意見めいた話ということで、
人は誰でも歓迎はしないものである。けれど、そうした人間の心理を汲むことな
く、やたらとお説教をたれるのが好きな人がいる。
垂れる、という言葉を使うように、お説教をする人は、相手より一段も二段も
高いところに自分を置く。だから自然と高圧的になりやすい。相手を見くだして
139
いる。また自分の言う言葉に、自分で酔ってしまっている傾向がある。
相手と同じ目の高さに立って話すことになると、お説教ではなくなる。
140
五井先生が壇に立たれて、神さまのお話、世界平和の祈りを説かれる時は、ご
自分の内から溢れ出てくるままに、神さまの光が流れ出てくるままに、ターッと
権威をもってお話しになる。権威といったって、そんないかめしいものではない。
春風のようでありながら、いつの間にか鉄壁を突き破ってしまっている、という
ような気がみなぎっているのである。
ふだんの生活の中では、教訓めいたお話はなされず、野球の話とか、小説の話
とか、テレビでその時話題となっていたことなどを話のタネにされて、気楽にお
話し下さった。
『如是我聞」として記録に残っているものは、そうしたお話の延長とか、合間
にホッともらされたお言葉の数々である。
面とむかっての時より、横に並んでいた時のお話が多かったように憶えてい
る。
個人指導の場にあっても、先生はお説教をなさらなかった。かつてご指導を受
けた人々がみなそういっている。
28.お説教
消えてゆく姿で世界平和の祈りーというのが白光の教えのメインテーマだが、
講壇上のこ法話以外で「それは消えてゆく姿だよ」と私がいわれたのは、たった
一回しかない。
昭和三十一年五月末、はじめて五井先生が私宅にお見舞いに来て下さってから、
二、三週間すぎた頃、ひょっこり先生が再びお見舞いに来て下さった。その時は
とても嬉しかった。川
まだ体力は充分に回復しておらず、ふとんの上に坐ってお辞儀をしたとたん、
自分の頭があまりにも重くて、ふとんに頭が石のようにおちた。そしてあげるの
がなかなか大変だった。
「母が私の枕元に来て、『なんにも英雄には男としてさせてやることが出来な
かった。悪かったね」というんです。で自分のほうこそ自分で決めて歩いて来た
人生だったから、母に心配ばかりかけて、私のほうこそ悪かった、といいました」
と先生に申上げた。そしたら先生は即座に
「それは消えてゆく姿だよ。お母さんも悪くない、高橋君も悪くない。消えて
ゆく姿だよ」とおっしゃった。
あとにも先にも、五井先生のお口から「消えてゆく姿」と面とむかっていわれ
たのは、その時だけだった。
そういわれて、私の心はなんだか軽くなっていた。
142
お説教をして直る心の癖だったら、人間はとうの昔に、もっともっと立派になっ
ていたことだろう。一方で言葉の力は認められながらも、五井先生は、言葉以外
の言葉、心のひびきを第一とされていた。つまり、心の暖かさとか、やさしさと
か、明るさとか、さわやかさとか、強さというひびきこそが、自然のうちに、人
間の心を変えるものだ、ということを五井先生は身を以って教えて下さった。
お説教は反発をくらうだけで効果はない。もし効果あらしめようと思うなら、
お説教する側の者こそ、もっと謙虚で、柔和で、平静であるべきだと思う。
28.お説教
143
144
二九強制
五井先生の辞書の中には「強制」あるいは「強制する」「押しつける」という
ような言葉はない。
大体、強制ということは、相手や本人の意志を全く無視して、反対する余地も
与えないで無理やりにさせることである。
私たちは五井先生の教えが最高であると思っているし、世界平和の祈りほど素
晴らしいものはない、と思っている。
だから出来る限り、五井先生の教えをひろめたいし、世界平和の祈りを祈って
もらいたい、といろいろな方面から人々にすすめ、ひろめている。それを私たち
は普及活動といっている。

29.強
しかし、だからといってノルマを課すように、そうすることが会員になった者
の絶対的な行動、活動とは私たちはしていない。
よそでは至上命令がトップから出て、会員集めから布教まで、末端の信者さん
は強制させられているようだ。
そういう団体を経て、白光につながった人たちは、白光の会では一切そういう
ことの強制とか、押しつけとかがないので、まずホッとする、とおっしゃってい
る。
それぞれの団体で、それぞれの言い分はあるだろうけれど、本会では一切強制
はしない。個々に反対意見もあるのに、強圧的に上からの命令で、無理やり本会
の人々は動いているわけではない。皆、自然的に、中からの意志でしている。自
由意志でしているのである。
だから、嫌ならばやらなくていいのだし、やりたければ誰がどうやろうと、一
145
切の文句はない。
大体、五井先生は強制する、ということが大嫌いだった。「祈りをひろめて下
さい」「祈る人が多ければ多いほどいい」とおっしゃったり書いたりされたけれ
ど、それをそのまま誰彼かまわず無理強いしたことはない。
祈りをひろめる方法も、祈る人をふやす方法も、みな会員が考え、出来る人が
実行していったのである。
昭和三十一年、幹事が任命され、幹事会が開かれた席上で、五井先生は「幹事
心得」を発表された。
、、、
教義を行動として現わすよう務める事。
教義を根本にして導く事。
人の心を傷つけ、痛め、脅かすような行動をしない事。
146
、、、
教えを無理強いしない事。
他宗派の悪口をいわぬ事。
医薬について、みだりに批判をせぬ事。

29.強
この六ヶ條の中でも、ハッキリとおっしゃっているように、教えの無理強いはい
けないと、戒めておられる。
五井先生は各人の自由を尊ばれた。自由意志を大事にされた。
人間は本来神の子であって、自由自在なものである、という真理がどこにいっ
ても生きていたのである。各人に内在するその真理を引き出し、真の生命の自由、
心の自由を各人に得させてあげたい、と五井先生は切望され、浄めという行事を
なさり、消えてゆく姿と世界平和の祈りを教えて下さった。
病気が治るから入りなさい、貧乏が治るから入りなさい、因縁をきってあげる即
から入りなさい、家庭を調和させてあげるから入りなさい、といたずらに自分の聡
会に入ることを強要したり、入らなければ罰が当る、とか家族に不幸がくるとか
おどし文句をならべたり、人々を不安がらせ恐怖させたりして、個人の自由を縛
り、その人の生活を不安動揺させるような宗教団体や宗教者が多いことは、五井
先生を大変嘆かせていた。眼をいからせ、口をとがらせて、自分の属する宗教団
体に人をひき入れようとする姿には神も仏も現われていない、と五井先生を悲し
ませたものである。
宗教というのは、個人をカルマから解放し、与えられた生命を素直にそのまま、
のびのびと働かせられるように導くものである、というのが五井先生のモットー
である。
「ですから、会の教えを伝えるにしても、相手の気持を無視して強引に突き進
めることは、私たちのすすめることではありません。家中の者や周囲の者たちに、

29.強
善いと信じる教えを伝えることは勿論よいことにきまっていますが、相手に押し
つけがましくすすめてはいけないのです。なんでも自然に、いつの間にか人々が
同化してくるような在り方で、自分の信ずる道に人々を導き入れたらよいので
す。
その方法は、まず自分の方から相手の為につくしてやり、相手のやり易い人間
として交際する、という風に、相手次第で自分が動くようにしてやりながら、こ
ちらの教えも何かと自然に伝えてゆくようにすることがよいのです。
教えの拡大の為には、焦ることはかえってマイナスになります。根本は神々の
み心で教えがはじめられたのですから、こちらは神々への感謝一念で、自分たち
の行動をしていればよいので、その自分たちの自然の行動の中で、自ずと教えの
活動もなされてゆくわけです」(『真の幸福』4頁)
149
150
三〇自己嫌悪皿
自己嫌悪というのは、文字通り、自分が嫌いになることである。自分をうとま
しく思う、つまり親しく思わない、好きに思わない、ということである。
この場合の自分というのは、いわゆる小我の自分、業想念の自分ということで
ある。
宗教の門をくぐるような人は、誰でもこの自己嫌悪の気持を一度ならずも、二
度三度と味わっていることであろう。
この嫌悪の気持が出るということは、自分を親しく思わない、という気持が出
るということは、本当の自分を知っているからである。本当の自分とは違った自
分が出てくるので、気持悪く、それを排除しよう、という心の動きが出てくる。
30.自己嫌悪皿
いうなれば真の自分の起こした拒絶反応である。
ところが人間は得てして、拒絶反応を起こした現象だけを見つめて、そのもと
となった、最も自分にとって居心地のよい、親しめる真の自分の存在を忘れてし
まっている。
私もかつては、自己嫌悪の感情にさいなまれ、自分自身を奈落の底につきおと
して苦しんでいた。真実の自分を見失って、その感情にとらわれ、いやな自分、
だめな自分、情けない自分としまいに責めさばいていた。
しかし自己嫌悪の状態を決して「いい」とは思っていない。そんな自分はなく
ヘへ
なってしまえ! 消えろ! と思っているのだが、たこの吹き出すスミの如く、
真の自分をくらました上、その黒雲のような感情の渦にまきこまれてしまって、
そこから一歩も出られないという状態をつづけていた。
責めさばけば責めさばくほど、自分がおちこんでゆく。光から遠ざかっていっ
151
た。五井先生の教えの”消えてゆく姿” を知り、”自分を赦し” ということを知
りながらである。
これではいけない。いかにすべきかと、初心にかえってご本を読みかえすうち
に「世界平和の祈りの大光明に消してもらうのです」という、ご著書ではありふ
れた表現の言葉にふれて、はじめて気がついた。
今までは、自分の想い、嫌いだ好きだとつねにいっている想いで、業を消そう
ヘヘへ
とか、どうこうしようと思っていたのである。それは間違いだった。同じたらい
の中の水をかきまわしていたにすぎなかったのである。
そうすることを止めて、業想念を浄めるのは想いの自分ではなく、守護の神霊
であり、守護の神霊のお働きなのだと、自分を嫌い、自分を真理から遠ざけ、自
分を責め裁いていた想念エネルギーを、世界平和の祈りの大光明に托したのであ
る。
152
30.自己嫌悪皿
まず自分が楽になった。気持がすっきりして来た。観の転換がはっきりとなさ
れ、なおかつ神秘なる救世の大光明が、自己嫌悪に代表される業想念を浄化して
下さったのである。
だから自分を責めることがなくなった。同時に、自己嫌悪感が消えていった。
そして、自分大好き人間になっていったのである。
守護霊守護神がいかほどに私を愛し、私の真実を顕現させよう、天命を完うさ
せよう、そして人格的にも立派にしようと、お導きになっていらっしゃったか、
ということを知ったのである。わずかだが知ったのである。
この世の中の誰もが自分に総スカンをくわせ、いみ嫌っても、守護霊さんだけ
は私を愛して愛して下さっている。その守護霊さんとは光り輝く神霊であり、菩
薩さまである。
その神さまである守護霊さんが、大切に、いとおしく思って下さっているのは、旧
やはり自分に素晴らしいもの、神さまに愛されるに足りるものがあるからだ。私
には神さまに愛され、神さまにその存在を認められ、大事にされる光っているも
のがあったのだ。
そう知らされると、自分の素晴らしさが、自分の天命の偉大さがグ! ンと大き
く私の中にクローズアップされて来て、自分が好きになったのである。
神さまに愛される自分が大好きになったのだから、その時、私は神の子の自分
を深く信じていたのである。
「弱い私、善い私、悪いわたし、そういうものはない。
いい私もいる必要はない。悪い私も必要ない。みんなかかいというのは灘しだ
わた
から、天に渡すだけである。わたしを渡し、それで天の心に入ってしまえばいい。
そして光ごと降りてくればいい。そうすると光明体である」
『如是我聞(31頁)』で五井先生はそうおっしゃっている。自己嫌悪の私もわ
154
たしてしまうだけ。天に世界平和の祈りを通して、すべてをわたしてしまうこと
に、努力すること。それがわたしの仕事である。わたす努力はするが、わたした
あとは神さまのお仕事だから、神さまにまかせて有難うございますと、感謝して
いればいいのだ。
30.自己嫌悪皿
155
156
三一自己限定
五井先生の辞書には「自己限定」という言葉はない。
中川河畔で「汝のいのちはもらった。覚悟はよいか」という天の声に応じて、
自分のいのちを天に返してしまわれた時から、五井先生には「自己限定」という
想いは全くなかった。
たいがいの人には、自分はこういうもの、と自分で自分を小さく決めてしまっ
ている枠がある。知恵にしても、力にしても、才能にしても、自分で勝手に決あ
てしまった枠で自分を区切り、いのちも、知恵も、力も、才能も小さく小さくし
て生きている。
五井先生は、いきなり、自分の元であるいのちを神さまに返上してしまったか
31.自己限定
ら、限定しようにも、限定出来なかったのである。
無限なるいのちと一つになっているから、いのちのエネルギーは無限に供給さ
れているし、無限なる愛、無限なる英知、無限なる光明と一体であるから、その
場その時、その人に応じて、天から愛も英知も光明も五井先生に流れてくる。
どれだけの力、どれだけの光明があるのか、ご自分にもわからなかった。真実
の自分というのは、それほど深く、それほど大きく、宏大無辺なのであろう。
その一端を、私は晩年の五井先生によって知らされた。どこかにも書いたと思
うが、五井先生のすごさと、自由自在心を知ったのは、五井先生が呈修庵にひき
とこ
こもり、肉体は病気のような状態を呈して、お床からぬけられぬようになってか
らである。
柳に風と受けるので、いかなる業が来ても、また業を引きよせても大丈夫、恐
怖心の全くない、不安の心の全くない、いわゆる想いのない肉体の器の強さ、素
157
晴らしさを、私は目のあたりに見た。そして五井先生を敬慕する念をあらためて
強くした。
ふつうは業というものを、対人関係でもそうだが、まともに受けて、抵抗する
から、そこで苦しみ、悩み、自分が傷つくのである。「のれんに腕おし」という
言葉がある。力でもって押しこんでも、のれんはまた元に戻ってしまう。
「光っていればいいんだ」と五井先生はおっしゃる。浄あてやろう、という力
みもない。ただただ自分を光り輝かしていれば、その光明に打たれて、業はおの
ずと消滅してゆくというわけである。先生はその通りであった。
人相手に対してはどうかというと、五井先生は相対する人の業の深さ、因縁の
強さ、迷いの多少、人間の弱さがおわかりになるから、その人の気根に応じ、因
縁に応じてご指導なさった。
真理の言葉を、ご自分の信念を強要されることはなかった。無理をさせなかっ
158
31.自己限定
たのである。私がいつかアメリカに出張した折、五井先生は人を介して、メッセー
ジを下さった。それは「無理をしないで早く帰っておいで」だった。私がまだ幼
かったからだろう。しかしこのお言葉は有難かった。悲愴な気持を、フッと解き
ほぐして下さった。
その時、アメリカのある都市で、疲労の故かどうかわからないが、夕方目がく
らんで、地下にひきこまれるような感じになり、ベッドから起き上がれなくなっ
た。
夜の講話が予定されていたが、出来なかった。その時、五井先生のお言葉を思
い出したのである。「無理をしないで早く帰っておいで」私は全く無理をしない
で、明朝、気分がいまだすぐれぬまま、その都市の滞在予定を一日早くくり上げ
て、帰途についた。
ふつうだったら任務放棄ということで、責任問題だと思うが、私は五井先生の
159
お言葉に甘え、お言葉に従って、自分を責めることもなくてその都市をあとに出㎜
来た。私が使命感に燃えて、徹底していたら、放棄することなく講話も無事して、
帰路についたかもしれない。
しかし私の気持の中に、一つも自分を責める想いが出なかったことは、五井先
生のお言葉のおかげと感謝している。
三二分別

32.分
ふんべつ
五井先生の辞書には「分別」という字はない。
ふつうでは、経験を積んで道理をわきまえる、という意味で「分別」という言
葉を使う。そこから分別盛りとか、分別ある人とかいう言葉も生まれてきている。
本来は仏教から出た言葉で、絶対の法、あるいは絶対者に対して、いろいろ考
え、是非、善悪を差別することをいう。
もっと簡単にいえば「はからい」ということである。
このはからいにも、神、如来のはからいと、肉体人間、凡夫のはからいの二種
類がある。ああしよう、こうしよう、ああやったら、こうやったら、といろいろ
と頭をめぐらすことであるが、凡夫のはからいは、つねに自分の利害得失、感情樹
の好き嫌いで行なわれているので、凡夫はつねに悩んだり、迷ったり、焦ったり、612
苦しんだりする。
まちがった知的な働きによって起こる執着、その物事に執着することによって
生じる苦しみ。「分別過ぐれば愚にかえる」というように、われわれは考えすぎ
てかえって迷いにおちいる。
そこで仏教では人間世界の悩み苦しみというのは、すべて分別する心より起こ
るとし、有無、善悪、理非という相対の分別の観方を切断して、真実絶対の境地
に入るのを理想としている。その為、お釈迦さまは「空」を説いた。老子は「無
為」を説き、キリストは「全託」を説いたのだ、と五井先生はおっしゃる。
分別する心を、一切迷いの想い、業想念、現われては消えてゆく想いである、
と、バサッと切って、切ったあと、その切った想いも分別する想いも、ともに世
界平和の祈りに投げ入れて、神の大光明の中で消滅させるように、五井先生は導

32,分
いて下さっている。
思慮分別を一切「消えてゆく姿」と観るところに五井先生の教えの特徴がある。
一旦すべての想いを消えてゆく姿と観て、世界平和の祈りの中へ昇華させてし
まうことによって、人間は分別から解脱出来、そして同時に、分別の中に仏智、
神智、真実の知恵を輝かすことが出来るのである。
これを五井先生は日常生活あらゆる中で、現わしておられた。ふつうで見れば
分別をはずれていない、常識をはずれた行為は一切しないが、心の世界、意識の
世界においては、人間智の分別をはるかに超越して、般若の知恵で動かれていた
のである。
霊媒のように、自分を他の霊魂に明け渡してしまって、他の霊魂の操り人形の
如く、言葉をしゃべり、体を動かすというのではない。他の霊魂ではなく、真実
の自分、神の分霊の自分、神そのものである自分に、想いのすべてを明け渡して鵬
しまう。するとあとは、神の知恵のまま、慈愛のまま、自然に肉体が行動する。
その行動はすべて神のみ心に叶っているから、その言行によって、人々はおのず
から浄められ、高められ、心が安らいでゆくわけである。
くコつ
分別を超越する、即ち空になるということは、私自身はまだ体験していないが、
くうかん
それを体得された、空観を成就された五井先生の日常生活、言動にふれて、私は
理解出来るのである。
かつてイエスキリストが愛する姉妹、マリヤとマルタの弟であるラザロが重病
におちいった時、その状態をマリヤ、マルタ姉妹より知らされ、すぐ来て下さい
と依頼されていたが、キリストは何故かすぐに行動しなかった。そのうちにラザ
ロは死んでしまい、墓に埋められ、四日たってしまった。
そこヘキリストがやって来る。マルタは「何故早く来て下さらなかったのです
か? ラザロは死んでしまいました」となじるようにイエスに訴えるのだが、イ
164

32.分
エスはそれを黙って受けとめ、墓にゆき、涙を流して、そして墓にむかって「ラ
ザロよ、目を覚ませ、起きよ」と叫ぶのである。すると、墓の中から、死んだは
ずのラザロが起き上がって出て来た。ラザロの臨死体験が聖書に記されている。
とど
キリストの足を止めたのは、キリストの頭で考えたものではない。キリストの
足を四日間止めた上、ラザロのもとに足を運ばせたのは頭で思ってしたわけでは
ない。すべて時をはかった神のみ心が、神の栄光を現わす為に、人間的愛情、隣
欄を超越して、発動された結果なのである。
そのようなことが、五井先生にもあった。人間心としてはなんとかしてあげた
い、と思われても、体は動かない、言葉も出て来ない。それで或る時スッと動か
れる。それが人を救っているのである。私など五井先生から、キリストがラザロ
を甦みがえらせたように、死より生に、みごとに転換させられた体験をした。す
べては神の栄光を現わす為である。
165
166
三三エンジョイ(享楽)
五井先生は「人生をエンジョイする」というお言葉が嫌いであった。
エンジョイする、というひびきに享楽的な匂いがするというのである。享楽と
いうのは辞書によれば「快楽にひたること」「官能的な快楽にふけること」とあ
る。
五井先生は働き者で、勤勉で、休むということをなさらなかった。夏休み、冬
休み、春休み、○ ○ 休み、といっては休暇をとって休むということはなさらなかっ
た。
だから、今の時代のバカンスばやりには、あまりいい顔をされないと思う。ま
してや週休二日制とかという、現代の社会の動きには、苦々しく思われているか
33.エンジョイ
もしれないし、これからの世の中がどうなってゆくか、ますます憂いられている
に違いない。
白光真宏会もいつの間にか、社会の風潮をとり入れ、年末年始の休みが生まれ
たが、年末にご挨拶に伺って、年末年始のご報告をするたびに、五井先生は理事
長に「私には休みはない」とおっしゃったと聞く。
別にみんなが休みをとることを、とがめるわけではないけれど、五井先生ご自
身には休みという感覚、観念がなかったというべきだろう。
お体の具合が悪くなったので、無理矢理に五井先生を保養地にお連れした時の、
先生のつらそうな、すまなそうなお顔。つれづれになれない一種のとまどいのよ
うなものを感じたものである。
少しでも元気であったら、依然として先生は休むことなく、人々の相談に応じ
ておられたかもしれない。しかし天の摂理は五井先生をそうはさせず、どうして餅
も休まずにはいられない状態、仕事をはなれなければならない状態に、先生をさ
せた。
そしてお仕事をはなれられた。「天よりたまわりたる休暇」とおっしゃってお
られたが、休むことが何かに対して、つねにすまないというお気持ちは消えなかっ
たようである。
そして祈り専一となられた。その他に道場での統一指導、原稿書き、その他な
ど… … 。
「私は楽しむためにこの世に生まれて来たのではない」とは、五井先生よりし
ばしばお聞きした言葉である。人々に人間の真実の姿とその生き方を知らせ、得
させるために来たのが五井先生である。そう公言されている。
この目的のために、五井先生は身命を捧げられていた。そのためにどうすれば
よいか、それに肝をくだかれていた。まさしく文字通り、肝臓をくだかれてしまっ
168
33.エンジョイ
た。
わが身にすべての業を引き受けて浄めるという仕事は、抜苦与楽といい、観世
音菩薩のお仕事である。それはまた五井先生のかつてからの望みでもあった。
その望み念願は、太きく大きくひろがり、地球とその人類を滅亡と破壊から救
い出すために、大神さまがとりあげられ、先生の肉体を媒体として、業浄めに使
いはじめられた。
とど
そのため、苦しくても痛くても、肉体感覚に止まっていなければいけないので
ある。想いの転換を更に深めて、鎮魂帰神、神我一体の統一観をふかめれば、容
易に肉体感覚を超越出来るものである。想いがそこになければ痛まないし、苦し
みもない。早いはなしが離脱すればいいのだ。
しかし、それはゆるされなかった。苦しむこと、痛むことという肉体感覚を通
して、はじめて肉体人類の業生を浄化出来る、という仕組みであったらしい。そ
169
れ故、五井先生は「私が痛むこと、苦しむことによって、人類の発生以来のさまm
ざまな業が浄化されてゆくのであれば、こんな有難いことはない」とおっしゃっ
たわけである。
これが毎日毎晩つづいたのだ。
やってくる業というか、業をひきよせるのであるから、あちらは時間に頓着な
ヘへ
どない。朝と晩の区別もない。夜だからねむくなる、あるいはねるというのは、
この肉体世界だけの習慣である。しかし業を浄める、身に受けて浄める、という
ことを宣言して、実施したからには、肉体の限界など無視してくる。
かく肉体を極限まで使われ尽くして、先生は神界へ帰られたと私は思っている。
それが先生としては本望だったわけだ。
そうした心意気だったから、エンジョイするなどという気持ちはさらさらにな
かったのであろう。そういうことに時間を割くことが、逆におつらかったのだと
思う。
今、先生は天界にあって、ますます生命エネルギーにみちあふれて、地球と地
球人類の救済のため、大宇宙の調和のため、縦横無尽にご活躍なさっておられる
に違いない。
私たちは身心のリフレッシュのための休みをいただけることになっているが、
天界で「そんならまあいいよ」とお許し下さっているものと、勝手に思っている。
33.エンジョイ
171
172
三四サタン
五井先生の辞書には「サタン」という言葉はない。
サタンというのはキリスト教の旧約新約両聖書に出てくる悪霊のことで、ヘブ
ル語で”敵する者” という意味である。
神に反逆し、人間を苦しみや悪にさそおうとする超自然的悪霊といわれている。
仏教では、魔といったら悪魔といって、人にわざわいをもたらすもの、ととら
えている。
五井先生の世界には、サタン、悪魔は実在していない。五井先生の世界には光
明しかないから、光明に出会えばいかなる悪魔もサタンも瞬時にして消え、菩薩
に変わってしまう。
34.サタン
五井先生は幽界を認め、霊界を認め、そしてそこに居住する霊魂たちの存在も
認めて知っている。認めて知っている、ということと、それが実在する、という
こととは違う。しばらくは悪魔のような姿で存在するかもしれないが、光明をあ
てつづけられていると、悪魔といわれ、サタンといわれている存在も、太陽の光
にとける氷のように、光明にとけて消えてしまうのである。
五井先生の世界では、神はすべてのすべてである。神以外のものは何ものも実
在しない。神以外のものは、皆現われては消えてゆく存在にすぎない。
神と対立対抗して存在するものなど、何もないのである。
みだ
親鸞上人ではないが、弥陀の光明をかくすほどの悪なき故に、である。
『聖書講義」の「イエスとサタン」の章において、五井先生は次のように書か
れている。
「悪魔というものが神と対抗してあるのではなく、神のみ心の地上界にすっか
173
り現われきるまでの一つの役割として、悪魔のような形も現われてくるのであっ恥
て、悪魔というものは実在ではなく、人類の業想念の消えてゆく姿の一つの現わ
れというべきなのです。
ですから、大宇宙のすべての実在は、神のみなのであって、人間は神の働きの
中心者としての存在である神の子というべきなのです」
また『人類の未来』84 頁で、
「神だけが唯一絶対なる存在者であって、すべてはみな神のみ心の中で生きて
いるのであります。悪魔などという神を離れたものが存在するわけはないのです。
みずか
ただ悪魔のように見える地球人類の自ら出した業想念が、光に照らし出されて消
え去ろうとしている姿があるのです。それは悪魔というような、神と対立して存
在する実在ではないのです」
サタン悪魔というのは、業想念波動の現われの一つの形であって、それは「業
34.サタン
は如来に対することは出来ません」というお釈迦様に対する阿難の信仰告白でも
わかる。
現在、世界の各地で民族紛争にからんで、必ず宗教紛争がある。旧ユーゴスラ
ビアはスロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、新ユー
ゴスラビアという独立国に分裂し、現在、ボスニア・ヘルツェゴビナにおいて、
あるいはクロアチアにおいて民族紛争が、宗教がそれぞれ違う勢力間で、憎悪む
き出しの虐殺、報復戦争となってつづいている。
旧ユーゴスラビアばかりでなく、旧ソ連のグルジア共和国やアゼルバイジャン
共和国やアルメニア共和国、またスリランカや、インドとパキスタン、パレスチ
ナ地方での戦争、紛争、民族大虐殺などというのは、宗教問題が絡んで来ており、
みな過去世のやっつけたり、やられたり、という業の輪廻、憎悪の原因結果の積
み重ねがもととなっているようである。怖
民族の潜在意識の中に、あるいはその土地の上に、そうした業想念波動という聡
ものが消えず残っているからであろう。
民族が違うというよりも、宗教が違うことによって、殺人行為も、民族抹消な
どということも平気でしてしまう狂気の沙汰は、一体どこからくるのだろうか。
ある宗教学者は「このように宗教が人種や民族の対立を激化させてしまうのは、
サタン
宗教が〈悪魔〉の存在を想定するからだ」と言っている。
人間はいくら祈っても修行しても、神と一体になれないもの、神になれっこな
い、人間は人間サ、という、神と人間とは別々のものという観念、思想。
神と対抗して、神と同じような力を持って、人間を悪へ悪へ、不調和へ不調和
へと追いやるサタンがいる。神は全智全能といいながら、それをあたかも否定す
るような、神以上に力を持っているようなサタンがいる、とみる思想、宗教観、
神さま観1
34,サタン
これが宗教紛争、民族紛争の原点である、というわけだ。
キリスト教にはキリスト教徒以外は異邦人という観念がある。キリスト教なら
ずとも、自分の宗教に敵対する勢力、自分たちの宗教の神を認めない、けなす勢
力、他宗教は、すべて悪魔、サタンとみなす傾向がある。あるいはサタンの手先
とみる。サタンの手先、サタンであるならば、これを亡ぼすことは自宗教の神の
み心に叶うわけで、亡ぼし方が武力であれ、科学力であれ、暴力であれ、思想的
謀略であれ、みな正当化されることになる。
だから戦争も聖戦となり、殺し合いもいいというわけで、紛争が絶えないわけ
である。
人類はみな兄弟姉妹というのは、みな自分たちと同じような信仰をもった者だ
けに言え、他は異邦人となる。従って、地球人類を救おうということになると、
地球人類をすべて自分の教えの信徒にしなければならないことになる。そこで強
177
制的に棄教させ、改宗をせまるということになるから、そこにはつねにイザコザ
が生じる。
調和を第一とする、愛を第一とする宗教が布教にのり出すと、他宗教をけなし
て不調和をまきおこし、相手を束縛し、マインドコントロールする、という全く
おかしな現象になってくる。
どこかが間違っている。
人類の多くが真理に目覚めていないのである。
神さま神さまといいながら、神さまとは全く反対の方向に民衆を走らせる指導
者がいる。真理に目覚めていないからである。
五井先生の説かれるように、神さまはすべてのすべてである。ただ神のみが実
在し、われわれ人間はその実在者の分かれである。
神さまのいわゆる息のかかっていない者は一つとてない。業といえど、サタン
178
ヘヘヘへ
といえどそうである。神さまがその存在を必要なし、と認められれば消えてゆく。
そこに在る以上は、すべてなにかの役目役割があって、神さまが存在せしめてい
るのだ。神のみ心が完結されてその役目が終われば、おのずと消えてゆくそ
う説かれる五井先生の光明思想が世界にひろがり、光明思想の真理に目覚める人々
が地球上にふえてくればくるほど、この地球上より紛争、戦争、虐殺はなくなっ
てゆくだろう。
キリストの説かれた真理、お釈迦さまの説かれた真理、コーランで説かれてい
る真理にいかに目覚めているか、いないかは、このサタンの観方、扱い方にかかっ
ている、といってもよいだろう。
34.サタン
179
180
三五自分はどうなってもいい
五井先生の辞書の中には「自分はどうなってもいい」あるいは「自分はどうなっ
てもかまわない」という言葉はない。
だから、そのあとにつづく「子供のいのちを助けて下さい」とか「神さまのた
めに使って下さい」という変化応用の言葉もない。
五井先生は、決して自分の肉体がどうなってもいい、とはお思いにならなかっ
た。だから会員の方々にも、そうはお説きにならなかった。むしろ「そう思って
はいけません」とおっしゃっていた。
ある女性の会員の方が、そう聞いていながら、或る時、心はやって祈った。
「自分の体のことはどうなってもかまいません。どうか神さまのご用のために
35.自分はどうなってもいい
お使い下さい」
すると、体が圧迫されたように苦しくなって来た。
時間がたつにつれ、それがますますひどくなり、居ても立ってもいられず、つ
いに悲鳴をあげて、私のところに電話して来た。
どうなってもいい、と祈ったけれど、どうなってもよくはなかったのである。
苦しいこと、辛いことはごめんなのだ。
それが役目であるなら仕方ない。役目であるならば、もう少し鍛えられて、自
分自身が強くなっているであろう。
その役目でもなく、その器でもないものが、自分勝手に、自分の魂の実力を養
うより前に、実力以上のことを願うということが、無理なのだ。
それは神さまより授けられたいのちに、素直でない行動である。そう祈るとか
願うことはしなさんな、と五井先生がおっしゃっていることは、しないほうがよ
181
いのである。
それをあえてしたことは、自分の心におごりと、目立ちたい、という我欲があっ
たからである。
そのようなことをお話ししているうちに、彼女もそれを理解した。ともにお祈
りをしたのち、しばらくすると、圧迫感が霧がはれるように消えてゆき、体が楽
になったと、後刻報告があった。
「自分はどうなってもいい」と祈るのではなく、私たちは「私たちに与えられ
た天命、使命が完うされますように」と祈るのである。
素直になるということが大切である。
素直になるということは、神に素直になること、具体的に言うと「天命が完う
されますように」と祈っていることが、一番いのちに、そして真理に素直な生き
方であり、心の在り方である。
182
35.自分はどうなってもいい
この生き方、在り方には決して無理や不自然はない。私はそう思っている。
五井先生はある時、こうおっしゃった。
「私には世界を平和にする役目がある。
会員さん一人一人の運命、責任を負っているし、世界人類の運命さえも背負お
うと思っているんだから、死んでも生きてもいい、というのではすまされない。
生きなければならない。
どんなに苦しくたって、どんなに嫌いなことだって、またどんな責任があると
かないとか言ったって、私は逃げるわけにはいかない。
生きなきゃなんない。
世界が平和になるためには、生き通さなければならない」
五井先生の立場は、地球人類を平和にする代表として、逃げもかくれも出来な
い、いわば絶体絶命という、そういう立場だったわけである。
183
そうでありながら、切迫感もなく、悲愴感もなく、緊張感もなかった。先生の
まわりには、いつもほんわかとした春の風が吹き、ゆったりとした春の海がひろ
がっていた。
神に対する甘えなどは先生には微塵もない。
とうに自分を神の大愛の中、大み心の中にささげつくし、捨てきった先生に、
逃げもかくれもする「自分」などというものは、今更あるものではなかった。
しかし、先生は一人ではない。「うちの人たち」という、人類はみなわが子、
という気持の中で、特に会員さんには愛情をふり注がれたのである。
このお気持は、肉体界を去り神界に移られて、何年たったとしても同じである、
と私は信じている。
実は先生のこの世における命は、昭和五十年までであった。それを先生が大神
さまに願って、私たちのために五年間生きのびて下さったのである。
184
35,自分はどうなってもいい
生きのびたことによって、神々は五井先生の肉体に、なお更に人類の業をひき
よせつづけ、浄めつづけられた。
そしてその間、私たちをも、磨き上げられたのである。
だからこそ、神界にもどられてからも、私たちを大切にして、私たちを高め上
げ、磨き上げて、人類救済の器にまで仕上げようとなさっているのだ。
私たちのこの肉体という器は、それほど尊く、大事な貴重なものなのである。
だから、どうなってもいいものではない。
大事に、大切に、慈しみ深く扱っていかなければ申訳けない。
そして、出来るだけ肉体界にとどまり、生きて生きて生きぬいて、この器を通
して、救世の大光明を流しつづけてゆきたい。
地球と人類に、神さまの無限なる愛、無限なる平和、無限なる光を放ちつづけ、
与えつづけ、ひびかせつづけてゆきたい。燭
それが私たちの使命である。鵬
そこで、もし例えば、片手を切りとったほうが、切りとらないでいるより、二、
三年長く生きられる、という判断であれば、私は切りとってもらい、二、三年長
く地上にとどまり、その間、ますます祈りに徹しきって、一生懸命、世界平和の
祈り、我即神也の波動をひびかせつづけてゆくつもりである。
それは肉体への執着である、と言われようと、それは人に言わせておけばいい
のだ。私本人は執着だとか執着じゃないとかの境地にいるのではなく、只々、こ
の地上にて祈りつづける時間があって有難く、尊いのである。
こう書いていながら、私の気持もずい分と変わって来たものだなあ、と自分な
がら思っている。
思っているけれど、これも一つの生きるポイントが決まった上での、生き方の変
じくじ
遷であるから、本人自身には伍泥たるものは少しもないのは、まことに有難い。
三六真実の無神論者
36.真実の無神論者
五井先生の辞書には「真実の無神論者」という言葉はない。
著書『人類の未来』の中で、「この世に存在するあらゆる人々の中で、真実の
無神論者はいないのである」と書かれている。
改めて読み返して発見したお言葉だが、実に新鮮に感じた。そして、同時に、
五井先生の徹底した考え方の一端を知らされた。
「その人のいのちある限り、そこには神の存在がある。いのちは神なればなり、
である」ともお書きになっている。
無神論者とは、人格神を信仰しない考え方の人たちであり、神仏などの超自然
的なものの存在を否定している人たちである。この人たちは、神というのは、人餅
間がつくったものだという。
しかし、無神論者と言っている人たちの中にも、種々あるようで、偽善的な聖
職者たちの言行につまずいて、いわゆる神を否定した人、前の世でもって宗教で
失敗したり、何か裏切られたようなことがあって、神を否定している人、こうし
た人たちは宗教の既成の神は否定しているが、心の中に自分の神を持っている人
たちが多い。中には、全く神を否定している正真正銘の無神論者もいるという。
そうしたことを認めた上で、五井先生は、そうした人たちすべてをひっくるめ
て、真実の無神論者はいない、只自分でそう思っているに過ぎない、と断じてお
られる。
神はすべてのすべてなのである。神なくして人間、人類の存在なく、神をはな
れて自己というものがある、と思っている人間はその想念だけ、自らの存在を消
滅させているこれが五井先生の持論である。神のみ心をはなれきった存在に
188
36.真実の無神論者
は、この宇宙にその居場所がないーとまで言いきっておられる。
ここに一人の人間が生きている、ということは、神のいのちがそこに生きてい
るということ、守護霊守護神の光明がそこに輝いているということである。
だから、その人間が自分は無神論者だ、唯物論者だと言っても、この世界に生
きている以上は、そこに神のいのちが延長してきて、生きているということであ
るから、生きていることを認められ、許されているということである。許可が取
り消されれば、自分の想念で自らの存在を消滅させている人々であるから、忽ち
この世から消えてしまうだろう。
いのちは地球より重い、という意味が、こうした生命観、人間観によってはじ
めて明らかになる。
生きているということは、それが環境や体がどんな状態で生きていようと、そ
れだけで有難いのである。それだけで尊いのである。
189
190
三七老醜
ろうしゆう
五井先生の辞書には、「老醜」という言葉はない。
日本は世界有数の長寿国になったといわれる。
たしかに高年齢者が増えている。
昔は老いる不安とか恐れとかが、あまりないうちに死を迎えていた。
今は違う。老年といわれる期間が長くなった。だから老いることは、死を考え
ることより重大になって来ている。
上手に老いることが出来れば、その人は上手に死ねる。そう思っている。上手っ
てどういうことか、というと、不安なく恐れなく、生き生きと、楽しく生きる、
ということである。希望をいつも持って、毎日に生き甲斐をおぼえる、という生

37.老
き方である。
老醜というのは、それと全く反対である。
みにく
老醜という言葉は、人間、年をとると醜くなる、という観念があるところから、
生まれた言葉である。
年を取ったら醜くなる、ということに、私は猛烈な反発を感じる。
肉体的には、たしかにもろもろの個所は衰えてくる。青年や壮年のように、シャ
キシャキとは歩けない。一寸した動作もゆったりとなってくる。皮膚もたるみ、
顔のしわもふえる。
けれど、年を取ってくると、壮年や青年にない部分が、自分にあることがわかっ
てくる。それは人生経験の量と質である。
苦しいことも、楽しいことも、よかったことも悪かったことも、たくさん経験
し、苦しみというものがどういうものか、楽しみというものがどういうものかが、酬
わかってくる。
苦悩をぬけ出す方法も知っていれば、苦難に立ち向かう方法、苦難に打ち克つ
方法も心得ている。
それがすぐれた知恵、ものの見方、考え方、見識となっておのず備わってくる
のが、老年である。
ちなみに、醜いとは、
① 見ていて、いやな感じがするもの
② 明らかに見えにくいもの
きた
③ 心や行ないが汚なく、けがらわしいこと
ということである。
① は客観的な見方として万人共通なものもあろうが、各人の主観によって、随
192

37.老
分と違ったものになる、ということに留意すべきである。
ろう
老とは、老練・老巧という言葉に現わされているように、
① 永年経験をつんで、そのことに熟練すること、物事になれて巧みになること
② 豊かな経験によって心がねられ、人生をよく知っている状態
③ いのちを活かして来た年が古い状態
そういう状態を現わした言葉である。
ただ単に年をとった、ということだけの表現ではない。
こうした言葉の意味あいからゆくと、老と醜とは結びつくものとは言えない。
若い頃、壮年の頃には、勢いある肉体エネルギーのかげにかくれて、見えなかっ
たものが、老年になって、それが見えてくる。人生の中、自分の中に、見えにく
かったものが明らかになってくるのである。
これは自分自身をつねに磨き、少しでも神さまのお役に立ちたいと願い、世界
193
平和の祈りを祈っている者に顕著である。
人間、年を重ねれば重ねるほど、心や行ないに磨きがかかり、清々しく、美し
く澄んでくるーそうありたいと、私は強く願い、望んでいる。
ここに或る男性をご紹介したい。
彼は八十歳をすぎている。そして今、ある特別養護老人ホームに入っている。
そこは、病気だったり、体が不自由であったりして、身寄りのない人で、常時、
介護を必要とする老人を収容している公立のホームである。
この八十の男性も心臓に疾患があり、その他の内臓もボロボロで、いつ死んで
も不思議ではない、とお医者さんにも言われている。
収容されている老人方すべて、と言ってよい程、人間の真実の探求という向上
心もなければ、霊界に対する関心もない、という中で、この人は、真理の書の読
書にふけり、世界平和の祈りを祈り、守護霊守護神様に感謝している。
194

37.老
その環境は自分の意のままに、外界へ出かけることは出来ない。丁度、鳥かご
の中の小鳥のような不自由な状態にあるけれど、心はいつも世界平和の祈りにのっ
て、神さまの世界、祈りの世界を自由にはばたいている。
その様子を、自分の赤裸々の心境と共に、手紙で知らせてくれるのだが、いつ
も私は胸打たれ、この八十歳の男性に、かつて本部道場で二、三回お会いした、
僅かの記憶をたどって、彼の顔を思い浮かべ、感謝と尊敬の念を送るのであった。
その気持を、実際にペンにも書いて表わして書き送った。
ある時の手紙にこう書いて来られた。
「瞬々刻々の祈りをはじめました。
私の肉体は日々に衰え、耳もきこえなくなってまいり、もの忘れもはげしくなっ
て来ました。けれど、世界平和の祈りをいたしておりますと、心身ともに軽々と
して、無心になります。みにくい自我も消えて、何もかも消えてゆく姿になり、鵬
只静かに祈る祈りだけになります」
彼は自分の死期も予感しているが、
私は感動して、
つけた。
一篇の詩を創った。
それを静かに受け止め、泰然としている。
それに「最も幸せな人」というタイトルを
196
最も幸せな人
あなたは神さまとの交流を
しっかり自分のものにした
あなた専属であなたの肉体を守り取りしきり
あなたの運命がひろく大きく展開するよう

導いて下さっている神さまがいらっしゃる
誰よりも彼よりもまず先に
あなたを苦悩より助け出し
げだつ
あなたを解脱せしめようと
ある時はやさしく
ある時は本当にきびしく
夜となく昼となく
助け導きの手をさしのべて下さっている
守護霊さま
あなたは常に神さまに感謝しつづけている内に老
肌いつしか守護神守護霊の内流の声をきいていた
197
あなたの年齢は八十をこえ
心臓はいつ破れてもおかしくないひどい状態にあるが
あなたの想いは環境の変化に動かなくなって来た
ますます内観を深め
迷うことがあると心を澄ませて神さまにお尋ねした
答は必ずかえって来て
あなたの信を更に深く不動のものに導いていった
198
あなたは外出もままならない
かごの中の鳥のように不自由である
まわりは年老いた病人ばかり
向上心を失った暗い目つきの老人ばかり
そんな幸せや希望とは程遠い環境の只中で
あなたは真実の幸福を自分のものとした
いかなる権力者といえど
刃物をもって脅かす暴漢といえど
それをあなたから奪うことは誰も出来ない

37.老
あなたは肉体にあって
肉体界をこえた永遠のいのちを得
有限なる世界にあって
無限なる愛無限なる英知とつながっている自己を知っている
あなたの目は神の国を見つめ
希望に輝いている
199
その幸福感その無上のよろこびは
あなたをしてますます世界人類の平和を祈らしめ
いざな
あなたを更に高い高い世界へと誘っている
200
八十をこえて心は青年の如く輝くあなたよ
あなたをおいて
最も幸せな者といえる人が
一体他に誰がいるといえるであろうか
この世の中はつねに新陳代謝している。
古いものはどんどん新しいものと代ってゆく。これは原理である。
肉体の上におこること、運命として環境に現われてくること。それらすべては、

37.老
古いものが消えて、新しいいのちが生まれ出る姿なのである。
古いものは、たとえそれが善いものであったとしても、古いままでいることは
絶対ない。古いものに把われていると、新しいものが生まれ出る邪魔になる。古
い想いのくせ、古い事や物への把われの想いが、どんどん消えていってこそ、新
しい世界が、自分の中に、自分の周囲に生まれる。
わけ
新陳代謝、消えてゆく姿の現象はすべて、われわれを常に磨き高め、神の分
みたま
霊、神そのものの姿を現わそうという神のみ心である、と、とらえてゆくべきで
ある。
だから、死を恐れる必要はない。と共に、老いも恐れる必要はない。
すべて守護の神霊が道を整えてくれているのであるから、われわれは、他の人
の幸福と人類と地球の平和の為に、あらゆる時間をささげて、世界平和の祈りを
祈る。
201
これだけでいいのだ。
すべてを、神のみ心の現われである、世界平和の祈りにふりかえ、祈りに徹し
てゆくーこれに勇猛遭進してゆくのが、これから老年を迎える人にとって、ま
た、老年期に入っているという人にとっても、大事な大事な仕事である。
仕事というのはこれだけである。
働きというのはこれだけである。
こうした人々に老醜などあろうはずがない。
絶対ない/
202

焦t


38.焦
五井先生の辞書には「焦り」という言葉はない。
五井先生の日常生活の中で、私はかつて一度も、五井先生の焦り、いら立ちを
みたことがない。
切羽つまればつまる程、先生は悠々としてくる。ふだんと変わらない。だから
切羽つまった、なんてわからないのだけれど、あとでそういう状態だったと判明
してくるのである。
ふつう人間は、病気になると、治ろう治ろうと思う。そう思うこと自体は当然
で、いいことなのだけれど、早く治ろう、早く治そう、と焦る気持が出て来て、
折角、回復にむかっているのに、焦りの気持から、気がはやりすぎて、無理をし
203
てしまい、また体をこわす、ということをやってしまう。
あるいは、焦るあまり、病状のちょっとした現象に、=暑一憂してしまう。

せいては事を仕損じる、という諺があるように、心急くと、気持がいらいらし
て、気持がもめてくる。いらいらして、もめてくるということは、体にいい影響
を与えるわけがない。
信仰の道においても同じことである。
早く悟ろう、早くご利益を得よう、と思うことは、焦っている証拠である。焦っ
て、悟りが早く得られるならば、みな焦ったほうがいいに決まっているのだが、
焦れば焦るほど心の安定がはかれず、揺れ動きが激しくなるものだ。
そうした状態は悟りという境地からは、程遠いものである。
だから焦せれば焦せるほど、悟りがおそくなるのである。
これは聞いた話であるが、小学校の理科の実験で、何かの種をまいた。
204

38.焦
春になって芽が出てきた。そして葉をひらいた。
生徒はその芽が早くのびるように、早く大きくなるように、とその芽を引っぱっ
た。引っぱれば大きくなると思ったのである。しかし現実には、引っぱりすぎて、
芽をきってしまった。
現世利益も、悟りも、早く得よう、早く得ようと思っている状態は、この小学
校の生徒と同じことをしているのである。
道にのれば、誰でも悟れるのである。
うまずたゆまず、その道を実践していれば、その副産物として、善果、福果を
得られるのである。
「時くれば花は咲くなりあせらずも
実は結ぶなりみ心のまま」斉藤秀雄
この歌にあるように、実が結ばれる時がくれば、自然に実は結ばれる。
205
おまかせして、自分は一生懸命「天命が完うされますように」と祈り、神さま
に感謝をしつづけていることである。
五井先生にこんなことがあった。
雪の妙高高原に遊ばれたことがあった。
はくがいがい
白鎧々の雪に、天のみ心を観じられ、
“大神に休暇給はり三界の
波のとどかぬ大自然の中”
という歌をよまれたりした。
越後の雪はやはり深く、お帰りになろうとしたその朝、吹雪と積雪で自動車事
故が続出し、ホテルから駅まで、タクシーは行かれなくなってしまった。ホテル
のご主人がタクシー会社に強引に頼みこんでも「到底、無理です」という返事が
返ってくるだけ。
206

38.焦
明日は聖ヶ丘統一会の日、だから先生は是が非でも、今日中に帰らなくてはな
らないわけである。
しかし、五井先生はすべての物事、事柄を神さまのみ心にまかせきって生きて
いるので、是非帰らなければ、という力みも、帰らなければ困る、という想いも
湧いて来ない。悠々と吹雪にかすむ山々などを眺めて、焦りの気配が一向にない
ので、まわりの人々の心も、いらだちはない。
只、ご主人としては、なんとしても駅までお送りしなければ相すまぬ、という
責任のようなものを感じて、強引にまたタクシーの運転手にくいさがったが、や
はりだめ。
そこへひょっこり、ハイヤーが一台、駅から帰って来た。この運転手さんとの
話合いがついて、その自動車で駅へと出発。
途中、タクシーの運転手たちの言葉がまるで嘘のように、なんの障害もなく、
207
駅についた。列車発車時刻には充分間に合って、余りがあるほどであった。
ここで、五井先生に、早くしろ、早くしろ、とせかれたら、まわりは居ても立っ
てもいられなかっただろう。しかし、幸いにして、五井先生にはそうした一切の
想いがないおかげで、ホテルのご主人は人事を尽くしたし、まわりの者もあせら
ず、天の配剤のようにやって来たハイヤーに乗れて、駅まで行けたわけである。
順調に事が運んだのは”焦らない” ということに、その原因があったことは、
申すまでもない。
208
愚依作用の時のお浄めもそうである。
もしそういう現場にぶつかったら、或いはお浄めを依頼されたら、まず、一切
を、五井先生、守護の神霊にまかせることである。
そして、自分が光になること、神のみ心のみになることに、想いを集中するこ

38.焦
とだ。
早く直そう、と思うのは我である。
早く直りますように、という想いも我である。
どうなるんだろう、という迷いや疑いは”いやし” の邪魔になるだけだ。
いつまでつづくんだろう? 困ったな、早くこの場から帰りたいなあーごう
ごう
いう想いも業である。
出て来たら、消えてゆく姿にして、世界平和の祈りの中に投げ入れて、どっか
りと腰をすえることである。
一晩でも二晩でも、徹夜でもなんでも、つきあおう、ただ私は光を流しつづけ
ていればいいんだ、と印を組み、柏手を打ち、五井先生をよびつづけていればい
いのである。
そうして無心になった時、純粋に、愛の想いだけになった時、神さまのいやし
209
の光、浄めの光が十二分に働いてくれるのである。㎜
自分が神の器になりきるように、日頃の訓練が必要であることは勿論である。
こうした場合、一対一ではなく、必ず誰か信に徹した第三者と一緒であること
が、のぞましい。
私は、五井先生のおそばにいて、何回かそうした場に直面し、こうした想いの
実地訓練を、自然とさせられた。
焦らないこと、焦ったら、すぐその想いを消えてゆく姿で、世界平和の祈りの
中に投げ入れること。
すべて神さまがやっていて下さるんだーと腰をすえ、肚をすえることである。
そこには神の愛と、神の力を信じきっている「信」あるのみ。他は必要なし。
五井先生は「すぐにも霊覚者になれるような甘い言葉や、安易に悟れるような
言葉、また、現世利益が即座に成就するような誘いにのってはいけません」と警

38.焦
告されている。そして、
しんじん
「真人になる第一歩、悟りへの道の第一歩は、あせりをなくし、いらだちを制
御する忍耐力を養うことにある」と教えて下さっている。
私たちはひたすら、悟りへの大道、神のみ心実現の道たる、世界平和の祈りを
祈りつづけてゆけばいいのである。
それでも焦る想いが出て来たら、次のことをおすすめする。
ももくり
「桃、栗三年、柿八年、ダルマ九年で、おれ一生」と呪文のように唱えればよ
い。
めんぺき
ダルマさえ面壁九年というように、九年間坐りつづけた。オレは一生かかって
なつとく
もいいじゃないかーとなれば、心はおのずと納得し、焦りはなくなる。
もう一つ方法がある。
焦り、いらだっている時は、必ず息が浅くなっているから、吐く息に意識を強
211
くおいて、ゆっくりと、細く長く息を吐くことである。残気まで吐き出してしま蹴
えば、おのずと吸う息は深くなる。
吐く息、吸う息、これを繰り返し繰り返し行なっていると、いらだちは消える。
心臓のドキドキもなくなる。想いが鎮静してくる。
そして、息を吐きつつ”世界人類が平和でありますように” と心の中で唱え、
息を吸いつつ、五井先生有難うございます、と思いつづけるとよい。
焦りは消えてなくなり、忍耐力が自然と養われる。
心気さわやかになって、その時、私たちは神人になっている。
三九邪霊・悪霊
39,邪霊・悪霊
五井先生の辞書の中には、「邪霊とか悪霊」とかいう言葉はない。
ふつうは何気なく、邪霊とか悪霊とかいう言葉を使っているけれど、言葉にく
ひそ
しびな力が潜み、それが人格や運命をつくってゆくし、目に見えないエネルギー
を形ある世界につくり出してゆく、と観ずるコトタマからいえば、これらの言葉
は使ってはいけないし、死語にすべきものである。
それよりも、本来の「霊」という言葉のもつひびき、意味そして意義をハッキ
リ打ち出して、そして、正しい使い方、語り方をしてゆくべきである。
正しい言葉の使い方、本来のコトバの持つ意味の使い方をしてゆけば、そのコ
トタマの力とひびきによって、この地上世界はずいぶん光明化されると思う。
213
本ものとニセものを対比させることによってニセものはおのずと消えてゆく。脳
そういう方法を五井先生はつねに用いておられたから、五井先生の辞書のシリー
ズの中でも、それを扱ってゆけば、迷わずに自分の想いを整理出来るのではない
かと思う。
そもそも「霊」というと、何かおどろおどうしたものを感じさせ、その本来の
意味も知らず、人々に食わず嫌いにさせているところがある。
「霊」とは、神であり、神性である。神そのものを言うのだ。
ちよくれいもとつみおや
人間は直霊(元津御親ノ神) より分れた分霊という言い方をしているけれど、
霊界に本住する神のことである。
従って、霊の特性は神の愛であり、叡智であり、澄み清まった光であり、創造
する力である。これが人間のコア(核) をなすものである。
霊はだから、業因縁にとらわれるようなものではなく、自由自在心そのもので、
39.邪霊・悪霊
ふじようふく
不浄不垢、けがれなき純白なる玉のような存在をいう。
その神である霊に悪があるわけがない。
神性そのものである霊に、邪しまなものがあるわけがない。
五井先生の神さま観は、神さま以外に実在するものは何もない、この世に神さ
ま以外に実在するものはない、という世界観であり、人生観である。
神に対抗するが如くにみえる勢力、存在たるサタン、悪魔もそのたぐいも、悪
も実在しない。
神に対抗するものなど一つもない。
もしあったとしても、それは、神の光に照らされれば、朝の陽光にあたった霜
のごとく、光にとけて消えてゆくだけである。
五井先生が修行中、東京のK町のとある家にお浄めを頼まれて行った時、その
家にまつわるものか、その土地に執着するものか、その両方の想いが、光に照ら
215
はんにや
し出されて、般若の面のような恐ろしい顔で現われ、五井先生に襲いかかって来
た。
初めての経験でもあり、先生自身、完成途上でもあったので、先生は一瞬たじ
ろがれたが、しりぞかず、気をしずめ、肚に力を入れ、神を念じて一歩前にふみ
出した。すると、般若の面は先生の面前スレスレまで来て、パッと消えた、とい
うことである。
「そんな時、逃げたらだめ、神さまを一生懸命思って、勇気を出して、一歩前
にふみ出すんだ。そうすれば消える。光にかなう闇なんてない。闇は必ず消える」
そう五井先生はご自分の経験から、教えて下さったものである。
邪霊などというものは無いのである。
よこ
邪霊ではなく、邪しまなる想念の固り、迷いの念波の集合体なのである。
悪霊ではなく、悪想念つまり神のみ心からはなれた、間違った想いの集積なの
216
39.邪霊・悪霊
である。
だから幽霊ではなく、幽想念、感情想念のこり固まったもの。
想いもこり固まればエネルギーを発する。そんなエネルギーが、人のような姿、
動物のような形をとって現われ、形に現われれば消えてゆくのである。
ことさらに排除しようと思わなくとも、消滅絶滅させようと働きかけなくとも、
神の光明をあてつづければ、光を照らしつづければ、ヤミも悪も邪しまも、光に
消えてゆくのである。
霊である神性、神そのものが生まれ変わるのではなく、生まれ変わり死に変わ
りんねてんしようこんばく
り、輪廻転生してゆくものは想いである。魂碗のほうである。
従って、どんな業因縁の中にあろうと、本心、霊たる自分は、かつて一度も迷っ
たこともなければ、汚れたこともない。純白そのもの、清浄そのものなのであ
る。
217
想いが生まれ変わり転生してゆくうちに、さまざまな経験をへて、学んで、だ
んだん清まり、ついに霊と一体化する、つまり神我一体となり、神そのものとな
るわけである。
想いをいち早く神の座、神のレベルに引きあげる方法、そして本来の自分自身
の働きをなさしめる道、それが世界平和の祈りである。
218
四〇相手をやっつける・倒す
五井先生の辞書の中には「相手をやっつける」とか「倒す」とかいう言葉はな
い。
40.相手をやっつける・倒す
五井先生の辞書は、光明思想で編集されている。光と愛に満ちみちているから、

相手を悪と視、そして悪だから、神のみ心に反するから、それを倒さなければい
けない、などという心もなければ、姿勢もない。
私たちの祈りである、世界平和の祈りをみてもらいたい。
ほろ
悪を倒し、敵を打ち亡ぼして、平和を現わせしめ給え、神の国を実現せしめ給
え、などという言葉が、どこにもないことに気づかれるであろう。
ただただ平和でありますように、神のみ心が現われますように、という心と言㎜
葉だけである。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が完うされますように
守護霊さま、守護神さま有難うございます
五井先生有難うございます
220
この世の中は、たしかに邪悪なるエネルギーがいっぱいだ。
毎日毎日のニュースを新聞やテレビで、見たり聴いたり、読んだりしていると、
なんでこんなにも、平和とか幸福とか、調和というものに反するもの、そして平
和、幸福、調和をおびやかし、こわすものが多いのだろう。またそういう人が多
いのだろうと思う。
40.相手をやっっける・倒す
戦争が起こっているところに、必ず武器を売る人間がいる。
対立している両陣営に武器を売りつけ、儲けた儲けたとほくそえんでいる人間
がいる。その武器のせいで、いくら調停を働きかけても、依然、人殺しは止まら
ないし、人心は荒れに荒れ、自然も崩壊してゆく。
こんな死の商人、あるいは麻薬の商人など、この世に生存する価値があるのだ
ろうか。小説ではないけれど、江戸時代だったら、仕置人によって、この世から
その存在を抹消されても仕方がないだろうと思う。
また自分の宗教や団体の教えや活動に反する人間やグループは、邪教、サタン
の手先とばかり、テロ行為もふくめて、あらゆる手段を使って、その人たちの生
活を脅かし、心の平安を奪いとって、なんとも感じない宗教信奉者がいる。
こんな宗教精神から全くはずれた行為をする人間やグループの存在を、神は全
智全能なのだから、正義の名のもとに倒し、消滅させるような働きをしても、当
221
然と思うけれど、神さまはそうしたことは一切なさらない。ということは、神さ2
2
まの中には、そういう心は一切ない、ということである。
そうした存在をも自由に生かして、存在せしめていらっしゃるのが、神さまの
在り方である。
神さまが生かしていらっしゃる以上、何かそこに意義があるのである。意義が
なくなれば、その存在は自然と消滅してゆく。
武器の商人も、エセ宗教者も、唯物論者、無神論者も、あらゆるすべての人々
を、己れの子とごらんになる神さまの愛は、悪を力で駆逐し、力つくで屈伏させ、
不調和を力つくでくつがえそうとはなさらない。
また邪悪なるエネルギーを認めて、そのエネルギーを消すために、改めて光を
放つのではない。
神さまはただただ、光を発しつづけて、流しつづけるだけの存在なのである。
40.相手をやっっける・倒す
神さまはただ愛のひびきを送りつづけるだけなのである。
神ご自身の活動、神ご自身の心、神ご自身のひびきを、ひたすら放ちつづけ、
出しつづけるだけなのである。
何々のため、などというのはない。
神さまの心の中には、倒すべき相手もなければ、消してしまわなければならな
い、悪などというものは初めからない。
神さまはすべてのすべて、ただそのまま光り輝いている。
神さまのひびきはそのまま平和のひびきであり、調和のひびきである。それだ
けなのである。
ひびかせつづけてゆけば、光を放ち、与えつづけてゆけば、神のみ心以外のも
のは存在出来なくなり、自然となくなってゆく。というより、みな光に融合して
しまう。
223
それは太陽のようなものだ、と思えばわかりやすいのではないだろうか。
夜の闇は、朝日がのぼると共に消えてしまう。どんな固い氷も春の暖かい日ざ
しにあたっていれば、おのずと溶けてしまう。
224
敵対視すれば、必ず抵抗がある。
敵視するものが何一つない、神のみ心のみをひびかせつづけているところには、
なんの抵抗も摩擦も生じない。
五井先生はイソップ物語の「北風さんと太陽さんと旅人」という章がお気に入
りだった。
旅人の厚いマントを誰が最初に脱がせるか。北風はまずピューピューと冷たい
強い風を吹かせて、マントをはがそうとした。しかし旅人はますますマントを強
くおさえて、脱ぐどころではない。
40.相手をやっつける・倒す
次に太陽が出て、ただ光をあてると、ポカポカとしてきて、旅人は自然にマン
トをぬぎ、上衣までぬいでしまったーというようなお話である。
これは神さまの働きをよく現わしている話である。また救世の大光明という、
世界平和の祈りに参加している神々さまのお働きもよく現わしている。私たちも
この太陽のようにあればいいのだ。
あいつは悪いヤツだ、あいつは平和実現の邪魔になるヤツだ、あれは神のみ心
顕現の為には排除しなければならないーそんな心も、意志も、想いも、全くな
いのが、五井先生提唱の世界平和の祈りである。まこと世界平和の祈りは、神の
み心そのものである。
世界平和の祈りはそう教えてくれている。
しつかいじようぶつ
山川草木悉皆成仏。人類はみな神の子。
そういう世界観、人間観の上に、この祈りはある。
225
世界平和の祈りこそ、光明思想に徹底した祈りである。
この祈りには神さまだけしかない。神さまのみ心に属したもの、神の世界にあ
るものしか存在しない。
世界平和の祈りは、神さまそのものをひびかせつ。つけてゆく。与えつづけ、放
送しつづけてゆく。
そうした神の心によってのみ、地球人類に真の平和は実現する。
これはごく卑近な、自分の性格改造とか、人間の心の啓発の面でも、この真理
を応用してゆけば、間違いなく、本来の内在する無限なる可能性は開発されてゆ
く。
欠点をためなおすたあに、エネルギーをついやすより、自分の長所を見つけ、
それを認めて、その長所をどんどん伸ばしてゆくことだ、とは五井先生の常日頃
おっしゃっていたことである。
226
40,相手をやっっける・倒す
欠点をなおそうと努力することは、やらないより良いことだけれど、いつまで
も自分の欠点ばかりを見つめ、掴まえているから、欠点から自分がはなれられな
い。
欠点にとらわれて、欠点の下敷きになってしまっている場合が多い。欠点、欠
ごと
点と思う想いを、世界平和の祈り言にのせて、そのまま神さまに差し出し、差し
上げてしまえばよいのである。
そして、神さまの大光明、大調和、大平租のみに、心をむけ、本心に想いのエ
ネルギーを合わせつづけてゆけば、本来そなわったもの、つまりその人の天性と
して、天命として与えられているものだけが残り、それ以外はいつの間にか消え
ていってしまう。
世界平和の祈りを祈り、神のみ心をひびかせつづけてゆく以外、あとは何も必
要ない。それだけだーというのが、今の私の心境である。
227


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