これからの文明文化

これからの新時代をひら
く科学と宗教
文明文化
五井昌久
著:冒7・(1916~1980)
醗序文にかえて
大天使群
五井昌久
そうきゅう
蒼窮の彼方から
長年月にわたつて
地球世界を観守りつづけてきた
多くの眼のあつたことを
今日まで私たちの大半は知らなかつた
それは輝く星々の眸であつた
星は生きていたのである
1
地球世界に住しながら
自らの運命を日毎に打砕いてきた
心盲いし地球人類
その盲いし心を
照しつづけていた聖者たちの一燈一燈
だがその灯はともされては常に消えかかつていた
そうした苦悩の現世は闇か
否今や七劫への道は開かれ
遂いに星々からの救済の大天使群に囲まれ
天地合体の大光明が救世主として降り立つた
キリストの再臨は実現した
世界平和の祈りのひびきに乗つて
やがて大神のみ手は
宇宙大調和の一駒として
地球人類を救いあげてゆくのである
2
これからの文明文化目次
序文にかえて1
第1章文字、数学、思想
文字と数の価値8
闇を照らす光詔
思想と宗教と科学48
7
第2章これからの宗教と科学
二大暗黒想念を超えよ刀
宗教と科学の一致点9・
宗教と科学を生かす道…
これからの科学これからの宗教
r3r
第3章これからの文明文化
これからの文明文化
世界観を変えよ鞠
エ48
147
装偵荻野寛
第1章文字、数学、思想
8
文字と数の価値
ひびきことば
言から言葉へ
この宇宙世界には解けない謎がたくさんありますが、文字の発生と数のはじまりは、謎
のうちでも重大な謎というべきでありましょう。
どうして文字というものが生まれたのか、しかも各国各民族によって、その言葉や文字
が違っている、ということも考えさせられることです。
文字や数の発生する前に、まず言葉が最初に生まれ出でたことは間違いありません。言
葉も肉体の発声気管を通して出てくる以前に、想念の世界でひびきわたっていて、それが
第1章文字、数学、思想
肉体の声の言葉となるのでありますが、その想念世界のまた前に神霊世界、つまり生命の
根源世界のひびきがあるわけなのです。
ことば
言は即ち神なりき、という聖書の言葉はこのことを言っているのであります。ですから、
ことばことばことば
言は本来神のひびきそのものなのです。ところが、言が言葉として、本源世界の光のひ
びきから、枝葉の世界、つまり現象世界の想念の波動の中に入り込んできますと、光の波
あらことば
動が物質波動の粗いひびきと混入しまして、言は即ち神なりき、という清浄なひびきその
ものではなくなってまいりまして、今日のような言葉になってきたのであります。
人間は神の子であると言われるように、人類は、はじめは宇宙神のみ心を宇宙世界に現
わすために各種の光明身として、各自の光の波動をもって、様々な創造を行なっていたの
でありますが、その創造波動を物質界に延長させて、肉体人間として星々に誕生してから、
現在の地球人類のような、神とはまるで別のような人間になってきてしまったのでありま
す。しかし、その本源はやはり神霊そのものでありまして、絶えず神霊世界から、光明波
ことば
動、つまり神の言が送られてきているのです。9
この神霊世界と肉体世界の中間に幽界いわゆる想念の世界がありまして、神霊世界の光
明波動と肉体界の想念波動との、どちらの波動もこの世界を往き交うているのです。
ことば
清らかな善い言(ひびき〉と汚れた悪い言葉(ひびき)とが混入して、幽界と肉体界と
を往来していて、今日の人類世界の様相となっているのであります。
ことばことば
言は神なりきなのですが、葉として伸びてきました時に、言葉となって、玉石混交の世
こう
の中となってまいり、言葉の中には神のみ心そのものの言葉と、業想念、いわゆる汚れた
言葉とができてきているのです。
ことば
神代といわれた頃には、生命のひびきが直接お互いに伝わり合っていたので、言は清ら
かに鳴りひびいていて、お互いの天命の助け合いの光明波動となっておりましたし、人類
として、想念世界を創り出した頃も、お互いが生命波動を輝かせて、創造活動を援助し合
っていたのですが、物質世界を創り出し、肉体波動にまで、ひびきを延長させた時から、
かんまんさまた
光明波動と想念波動とが、肉体波動、物質波動の緩慢なひびきにその活動を阻げられまし
て、言い換えれば、光明波動と想念波動とが瞬時にして交流し合うのが、肉体波動の緩慢
さに間を中断される形になり、波長がうまく合わなくなってきたのであります。
ここにおいて、流れの遅い川の水は汚れ易いのと同じ原理で、言葉が汚れ始めたのであ
カルマごう
ります。この言葉の汚れを業というのであり、そうした汚れた想念を業想念と私は呼んで
いるのです。
ことば
この汚れが次第に増大してゆきまして、遂に神の言がそのまま聞かれぬ地球人類になっ
てしまったのであります。一応神と人間とが分断されたような形になってきたのです。
ことば
ところで、言は本来光のひびきでありまして、形ではありません。この言葉を形に現わ
したのが、文字であり数であったのです。
第1章文字、数学、思想
文字と言葉
ことば
言葉というものは不思議なもので、本源の言の時は神のみ心そのもののひびき合いです
あまくだ
から問題はありませんが、他の天体から地球に人類が天降ってまいりまして、地球人類と
して使った言葉は、はじめは前住の天体の言葉、ここでは金星といたしておきましょう。
金星における言葉を使っていたわけであります。しかし、地球と金星では、各天体から受
ける影響が、大分違ってまいります。地球内においても北国と南国では、やはり天象の影
響、つまり天の各々の星のひびきの受け方が違ってきますので、それが、その各土地自体
まあいこと
が持っている波動の相違と相侯って、相異なったひびきとなって、その土地土地の人間に
伝わってくるのであります。
そこで、天降ったはじめは統一されていた言葉が、人類が各土地に分散されてゆくに従
って、各自、その土地の言葉を創り出してゆくようになったのであります。
おもい
このように地球界の言葉は、神のみ心のひびきと、肉体人間の想念を現わす表現方法と
しての二方面から使われているわけですが、この言葉を後世に残しておくためには、どう
しても形の上にとどめておかなければなりません。その必要にせまられて、人類は種々な
方法で、この言葉を書き残すことを覚えたのであります。これが次第に現代のような文字
になってきたのです。
そして、世界の言語はその種類は総数が二七九六あるとアメリカのグレイという人が
第1章文字、数学、思想
言っていますが、言葉がしゃべれてもまだ文字に現わすことのできない種族もあるわけで
す。
そこで今度は文字のことでありますが、文字にも種々の種類がありまして、大きくは、
表意文字といってその意味を現わす文字と、表音文字といって表面的には意味には関係な
く音声のみを現わす文字があります。表意文字の中には、物の形に形どって描いてその意
味を判らせるようにした象形文字というのがあります。この中では絵文字が最も原始的だ
とされております。漢字なども象形文字の中に学説では入っておりますが、漢字は単なる
絵文字から発展してきたものではなく、宇宙の真の在り方を巧みに文字にして現わしてい
る、実に秀れた古代からの表意文字であると思います。その他にエジプト文字だの、メソ
くさび
ポタミアの懊形文字などという古代文字もあります。
西欧諸国で使われているアルファベットは音素文字と言われていますが、学説によりま
アルフアペ タ 
すと、ギリシア文字の字母表の最初の二字、α とβ の結合であることがわかるように、
ギリシア語アルファベットの変形したものであり、遠くさかのぼるとエジ。フト文字にまで
いたるとされております。
エジプト文字← シナイ文字← フエニキァ文字← ギリシア文字← エトルリア文字← ラテン
文字という変遷を経てきたと認められています。
そしてギリシア人がはじめて母音を表記する文字を加えて、右から左に横書きされてい
たセム系アルファベットを、左から右に表記するようになったと言われています。
ところで問題は、表意文字の代表的な漢字と、日本独自のかな文字のことなのでありま
す。
r4
漢字に含まれる神智
はじめに漢字について申し上げますと、漢字は中国において言葉を書き表わすためにつ
くられた文字ですが、現在は日本や朝鮮などでも使用されているわけです。この漢字は、
形・音・義との三要素でなっておりまして、一字で一つの意味を表わすこともあれば、二
字以上で一つの言葉を現わす場合もあります。漢字の構成および使用法は六つに分けて説
第1章文字、数学、思想
明されております。この分類法を「六書」または「六義」と言われ今日でも便利な分類法
として使われています。
しょうけいしじかいいけいせいてんらゆうかしゃく
六書はあらゆる漢字を、象形、指事、会意、形声、転注、仮借、の六つの方法によっ
て説明しています。
この説明を簡単にいたしましょう。
象形というのは、先程も申し上げましたように、ものの形をかたどって簡単な絵にかき、
その絵からつくられた文字のことです。例をとりますと、0 (日) 刃(月) ヘハ(山) 甥
(川)蔓(魚) などのようなもの。
しじ
二番目の指事というのは、絵にかけない抽象的概念を表わすため、点や線にある約束を
与えてつくられた符号的な文字。例は、
あした
一(一) 0一(旦) 中(中) ∴ (上) 一・(下) 形象を基にした本、末などですが、この指
事文字などは次の会意、形声などとともに、宇宙自然の在り方やその運行、人類の生き方
などを、神智をもって文字に現わしたものであって、その文字を見ていますと、神のみ心、、5
宇宙自然の在り方がよく判るのであります。よくもこういう文字が生まれでたものである
と感嘆せざるを得ません。私など一つの文字を見ておりますと、滋味つくせないものを感
じるのです。こうした漢字の起源はいまだに判っておりません。神々が宇宙神のみ心を、
文字に書かせて現わさせたという他はありません。ですから、元の文字をやたらに易しく
つくり変えたりしては、本来の意味が失われてしまうのです。そこである学者達は、漢字
制限に対して種々と抗議をしたりしているのです。
では会意文字というのはどういうのかと申しますと、いくつかの文字を組み合わせて、
これらの文字の持つ観念の結合によって、新しい意味を持たせた複合体の文字なのであり
ます。例をとりますと、日と月を合わせた(明)木と木を合わせた(林)戦いを止めるた
めに備えをととのえるのが武。この武は今日では戦いのためのものと思い違いされており
ますが、実は、戦いを止めさせるためのものなのであります。これを文字で解釈いたしま
ほこ
すと、武の上の弐は、交という字でありまして、戦いの道具であります。この曳の下に止
めるという字を書いて、武という文字ができあがっているのです。ですから武ということ
r6
第1章文字、数学、思想
は、戦いを止めるということなのであります。
現在の戦い、あらゆる争いを止めるためには一体どのような武が必要なのでありましょ
う。攻めこんだほうが必ず敗れるという、植芝盛平翁の合気道などは明らかに、真実の武
であります。こうした根本原理を大きく拡げてゆくためには、どうしても真実の科学、大
調和の心から生まれ出でた科学が必要になってまいります。その科学が今生まれ出でてい
るのであります。それが私どもの宇宙子科学でありまして、現在生長しつつあります。
この宇宙子科学が完成の暁には、あらゆる争いを止め、あらゆる不幸を消し去る真の世
界平和が達成されるのであります。
さて次に、形声、転注、仮借という文字とはどういうものかを説明してゆきましょう。
かい
形声Il譜声ともいい、表意部と表音部とを組み合わせてつくられた文字。例えば、シ
こうか
が水という意味(表意)を表わし、工が音を表わした(江)という字。非が意味、化が音
ちゅうどう
を表わした(花)、心が意味、中が音を表わした(忠)、金が意味、同が音を表わした銅、
それに類似した胴、筒など。ワ

がく
転注もとの意味が拡大されてほかの意味に転用された文字、例えば、楽(音楽)←
ノりく
楽(たのしい) 音楽を聴いているとたのしいという意味をそのまま転用したものです。尺
どそんたくたく
度の度(はかる)が付度(他人の心持ちを思いはかる)の度に転用されることなどもそう
です。
かしゃく
仮借- 文字の表音性を利用して、もとの意味とは無関係に音だけを借りた文字。例え
パリベいこく
ば、仏陀、巴里、米国などであります。
日本では、日本語を表わす適当な漢字が見当たらない時、会意文字と同じ方法でつくっ
かしさかき
た文字があります。これを国字または和字と言っております。例えば、樫(堅い木) 榊
こがらし
(神に供える木) 凧(木を吹き枯す風)峠、というようなものです。
r8
かな文字は何を表わしているか
日本のかな文字は、漢字をくずしてかな文字にしたのでありますが、
表音文字でありまして、音を現わしております。
かな文字はすべて
第1章文字、数学、思想
ヘヘへもへも
あいうえお(アイウエオ) でもいろはでも、いろはは歌のようになっていますが、実は
一字一字のひびきに深い意味があるのです。
アルファベットがどうして意味のなさそうなA B C という文字を二十六並べたてたか、
ヘヘヘヘへ
というのと同じように、どうしてあいうえおというやはり一字一字には意味のなさそうに
みえる文字を五十も並べたかということを、何等の不審も感じないで使っているのが不思
議なようです。
ヘヘヘヘへ
ところで、あいうえおもA BC も、ともにはじまりは同じ音で始まっております。この
音のひびきが大事なのでありまして、この文字に現われる以前のひびき、これは言葉のと
ヘヘヘヘへ
ころの意味と同じことですが、この文字の根源のひびきがそのまま出ているあいうえおで
あり、A B C であれば、よいのですが、現在では言葉と同じように、この文字が非常に汚
れたひびきになって現われているのであります。
ことば
先にも申しましたように、言語が、はじめに言は神なりき、というような、神のみ心そ
のままのひびきを伝えている時代は光と想念とが一緒でありまして、大調和そのものの時
19
代だったのですが、生命の光と想念とがその波動に大きなへだたりができてきて、現在の
ような地球人類になってしまったので、文字の場合にもぴったりこの原理が当てはまるの
です。
ヘヘヘヘへ
あいうえおというのは、ただ単に文字をつくるためのものではなく、神々の生Aoのひび
きをその一字一字が持っているのであります。
しるへ
あ、と発音し、あるいは書き印した時には、神のあのいのちがそこにひびきわたってい
へああ
るのであります。あというのは、現らわれる、生れる、という現われ、生まれる、その根
あうん
源のひびきでありまして、よく、あうん(阿暖) の呼吸というように使われていますが、
もうん
あはすべての現われの根源のひびき、あーと大きく生命のひびきが伝わりわたって、んー
ヘヘへ
と小さくしめてゆく、あからうんにひびきが変化して伝わってゆく時に、すべてのものが
生まれ、現われるのであります。
ヘへ
あは根源の世界から神の生命力を現われの世界に現わそうとする最初のひびき、んは、
ヘヘへあうん
現わす最後のひびき、これをあうん(阿伝) の呼吸というのであります。
20
ヘヘヘヘヘヘへ
ですから、あから始まってんに終わる、あいうえおの文字は、この現象世界を生みなし、
現わしてゆく、神々のひびきの様々の変化なのであります。
ヘへ
あからんまでの中で、神々のひびきが様々に組み合わせられていって、はじめて各種各
様の生物が生まれ出でるのであり、各自の天命が完うされてゆくのであります。
ヘヘヘヘへ
あいうえおはあくまで、創造のひびきなのであります。しかも現代では残念ながら、神
々の浄らかな創造のひびきは現われていませんで、現象界の汚れた想念波動のままの使用
ヘヘヘヘへ
法であいうえおが使われているわけなのです。言葉も文字も現在は汚れきっているのです。
第1章文字、数学、思想
浄まった数を生み出す
ことば
言も文字も神なりきにならなければこの人類世界は救われるわけにはゆかないのです。
そして、それにもう一つ加えられるものが、数なのであります。数こそ、この物質世界を
支配する重大なるものなのであります。
ことば
数が浄まりきらなければ、この物質世界での完全平和は成り立ちません。言を頂点にし
てその分かれである、文字と数とが浄まりきった時、この世もあの世も大調和世界になる
のであります。
現在の数は全く汚れきっているのです。汚れきった数の観念でこの物質界は左右されて
います。考えてみて下さい。金を数えるのも札を数えるのも兵器を数えるのも、みな数を
もってなされます。すべて数の多いほうがこの世の権力を持ち、支配権の多くを握るので
す。
心の正しきもの、真に平和を熱望しているものの手には僅かの数しか握られておりませ
ん。その大半は、この地球界の支配権を握りたい権力欲の権化のような人物や国々に握ら
れておるのであります。
数は全く不平等に動かされております。汚れた想念波動が常に数を追いかけ廻している
のです。こうした汚れた想念波動の中からどうしたら浄まった数が生まれ出でることでし
ょう。
それは人々が新しく数を生み出してゆくより仕方がないのです。汚れた想念波動をその
22
ままにしておいて、浄まった数が生まれ出でるわけはありません。この問題が解決しない
限りは、どんな善い言葉で説法しようとも、善い文字を各国に配ろうとも、それだけでは、
光明波動が世界中に拡まるわけにはゆきません。物質の数が持つ、あくなき欲望、数にし
みたび
がみついている汚れきった想念の渦は、あらゆる物質を通して、その光明波動を再び三度
何度となく汚し去ってゆくでしょう。それが現在の世界の姿なのです。
必要な精神と物質の両面の神秘の解明
第1章文字、数学、思想
私どもが宇宙子科学をやっておりますと、数の重大性というものを、ひしひしと身に感
じるのです。あらゆる物体というものは、すべて数によってできあがっているのです。実
とつび
に突飛なことを言うようですが、物質世界は誰が何と申そうと、数によって支配されてい
るということをゆるがせにすることはできません。
単なる精神主義や、昔からの宗教の在り方ではこの世が善くならぬのは、物質というも
の数というものへの関心がなかったことによるのであります。物質世界を度外視した宗教
23
運動というものが、労多くして功少ないのはこういうところにあるのです。と言ったから4
とて私が、巷間の御利益信仰を賛美しているのでは勿論ありません。宇宙の神秘は、単に
心の状態とか、精神の在り方とかいうもののみにあるのではなく、現われている物体、物
質のうちにもあるのでありまして、この両面の神秘を解くことによって、はじめて、宇宙
神のみ心がはっきり判ってまいり、地球人類の完全平和達成の道がつかめるのであります。
はんちゅう
私達が宇宙子科学を始めた頃、宇宙人の最初言った言葉は、人類も動物の範疇に入れて
研究する、とい乏地球界の唯物的科薯の言つのと同じことを言ったのであります熟
れは光明思想の宗教者というものが、あまりにも人間を神格化しようとして、現実の実際
面に現われているものを直視しようとはせず、ただ観念的に人間神の子と想おうとしてい
ることの愚かさをたしなめたのであります。
わけみたま
人間は確かに神の子であります。光明燦然たる神の分霊です。しかしそれは、業想念
波動に把われていない時の心や姿をいうのであります。
権力欲や物質欲、性欲や食欲や喜怒哀楽に把われている時の人間が、どうして神の子で
あり得ましょう。それは動物の進化した姿でしかありません。そういう欲望をそのままに
しておいて、人間神の子といくら叫んだところで神の子の真の姿を完全に現わすことは無
理なことです。
そこで私の教えでは、人間のすべての業想念は消えてゆく姿だ、だからその想念に把わ
れたら把われたでよいから、その想念を宇宙神のみ心である、世界人類の平和を祈願する
祈り言の中に入れてしまいなさい。そうすれば、世界平和のために結集して働いている大
救世主を中心にした神々の大光明が、その人の本体神の子の姿を現わして下さるのだ、と
説いているのであります。
第1章文字、数学、思想
宇宙万般の存在を支えるもの
さてそこで数のことでありますが、人間の精神要素も物質要素も、宇宙森羅万象の要素
もすべて原子より、電子よりあらゆる微粒子よりまだ微妙な存在である、宇宙子の数の組
み合わせと、その働きの角度と場とによってできているのでありまして、宇宙子の数を除
z5
いてはこの宇宙万般の存在は無くなってしまうのであります。26
つか
精神精神というと何か掴みどころのない、どうしようもないもののように思われますが、
精神も物質と同じように、宇宙子の数の組み合わせとその場その角度によってできている
のであります。但し、宇宙子には精神的宇宙子と物質的宇宙子とがありまして、この組み
合わせの相違が精神ともなり物質ともなるのです。
ですから精神といい物質といいともに、宇宙神の大生命波動が、それぞれの宇宙子とし
さまた
て働き、そうならしめているのであります。そこで私は、宇宙子の新陳代謝を阻げるよう
な想念を出さぬように、出したらすぐに祈りの中に入れきって、宇宙神からたゆみなく流
れ出でている新しい宇宙子を、自己が神の子として天命を完うできるに必要な数だけ、常
に頂き続けてゆけるようにすることが大事であると説くのであります。
物質となって働いている宇宙子の数も、今のように物質欲、権力欲で汚れたままにして
おかずに、浄め去らなければいけません。先日から宇宙子科学の大絵図面の上に、一字一
字祈り浄めながら、一、二、三と一から数限りない数を書きはじめています。一つの数を
第1章文字、数学、思想
あめのみなかぬし
書くために神々の大変な浄めが行なわれるのです。神道でいえば天御中主大神を奥に、天
たかみむすびのかみかみむすびのかみ
照大神を中心にして左右に高御産巣日神、神産巣日神の二柱の神が立ち多くの神々並びに
宇宙天使達が列座して、様々な光の波を送ってよこすのであります。私どもが現在あつか
っている数は、一つの結合が、二七七桁もあり、その組み合わせは膨大なものであります。
千の数、万の数を書き出す頃は、その光明波動は大変なもので、汚れた数を排除して、
新しい数を生み出してゆくことの素晴らしさは、国生みの古事記そのままというべきであ
りました。
数は生きているのです。生命要素そのものなのです。言葉も確かに生きております。文
字も生きているのです。言葉を文字をそして数を生々と生かしめて、宇宙神のみ心そのま
まの、地上天国を創り出すために、世界平和の祈りを祈り続けてゆこうではありませんか。
私どもはその光明波動に乗って、必ず完全平和達成のための宇宙子科学を完成させてゆく
つもりでおります。(昭和39年3月)
28
闇を照らす光
II古穴理と調和ということから
数学の本体は調和の精神である
宗教が、神と人間との一体化の道を教え、神のみ心を地球世界に顕現することを本旨と
していることは、神のみ心が大調和であることからして、宗教の目的がこの世を調和した
世界にするということにあることは間違いありません。
第1章文字、数学、思想
ところが調和ということは、あに宗教だけが持っている目的ではなくて、芸術の世界に
もあるのであり、意外と思われるかも知れませんが、数学の世界にもあるのであります。
一八五四年から一九一二年に存在したフランスの数学者で物理学者であるアンリー・ボ
アンカレは、「数学の本体は調和の精神である」と言っていますし、我が国の数学者で文化
勲章受賞者の岡潔博士は、『春宵十話』という文章の中で次のような面白いことを言ってい
るのであります。
「数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学
問芸術の一つであって、知性の文字板に、欧米人が数学と呼んでいる形式に表現するもの
である。… … 私は、数学なんかをして、人類にどういう利益があるのだ、と問う人に対し
ては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのよう
な影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えてきた」
と言っています。そして同じ『春宵十話』の、数学を志す人に、という文章の中では、
しん
「ここにいう調和とは真の中における調和であって芸術のように美の中における調和では
Zg
ありません。しかし同じく調和であることによって相通じる面があり、しかも美の中にお
ける調和のほうが感じ取りやすいので、真の中における調和がどんなものかをうかがい知
るにはすぐれた芸術に親しまれるのが最もよい方法だと思います。
従ってまた、数学の目標とするところは、真の中における調和感を深めることよりほか
にありません。調和感を深めるとはどういうことか、一つ例をあげましょう。
ふつう三次方程式の解き方はタルタリア(文芸復興の初期の人) の解法と呼ばれていま
す。
ところで、私は三次方程式を解く必要ができたのに解法をすっかり忘れてしまったこと
があります。その時、ちょうどよい機会だと思って自分で解き方を考えてみたのです。す
ると三日かかって全然別の解法が発見できました。タルタリアのほうが手際よくやってい
るのですが、ともかく私にも解き方は見つけられたわけです。そこで考えてみるのに、タ

ルタリアの解法というのは一代の天才が一生を賭して解いたものなのですが、三次方程式
に取り組んだのは彼だけでなく、同時代の多数の数学者がこれにぶつかり、その中でタル
30

タリアがうまく賭けを当てたのだと言えます。文芸復興期の人達にとっては実に一生かか
っても解けるかどうかわからないという難問だったのです。その問題がわずか三日間で解
けたのはなぜか、それがこの四百年間に数学の調和感というものが、それだけ深まったた
めだと考えられるのです。調和感が深まれば可能性の選び方、つまりは「希望」というも
ののあり方が根本的に変わってくるわけで、速く解けるのは当然だと言えましょう。そし
て数学の目標はそこにあるということができます。… … L
第1章文字、数学、思想
数学に働く無差別智
「ところであなた方は、数学というものが出来上がってゆくとき、そこに働く一番大切な
智力はどういう種類のものであるかを知らなくてはなりません。それにはやはりボアンカ
レの『科学と価値』が大いに参考になると思われます。この中でボアンカレは数学上の発
見が行なわれる瞬間をよく見る必要があると述べて、自分の体験からそれはきわめて短時
間に行なわれること、疑いの念を伴わないことを特徴としてあげています。こんなふうな
37
特徴を備えた智力、それが数学にとって必要な智力といえるわけです。
きた
こうした智力はそれではどのようにして養うことができるでしょうか。丁度日本刀を鍛
えるときのように、熱しては冷し、熱しては冷しというやり方を適当に繰り返すのが一番
いいのです。そしてボアンカレのいう智力も、冷しているときに働くものなのです。
緊張がゆるんだ時に働くこの智力こそ大自然の純粋直観とも呼ぶべきものであって、私
達が純一無雑に努力した結果、真情によく澄んだ一瞬ができ、時を同じくしてそこに智力
の光が射したのです。そしてこの智力が数学上の発見に結びつくものなのです。しかし、
間違いがないかどうかと確かめている間はこの智力は働きません。
この本当の智力というのは、本当のものがあればおのずからわかるという智力で、いわ
ば無差別智であります。自分が知るというのではなく、智力のほうから働きかけてくると
いったものです。これに比べれば、こちらから働きかけて知る分別智はたかの知れたもの
と言えましょう」
32
数学と人類全体の福祉
第1章文字、数学、思想
「ところで、数学と人類全体の福祉、利益との関係はどうなっているのでしょうか。以前
は数学は計算も受け持たなくてはならなかったのですが、最近機械が発達して機械的なも
のは機械にやらせればよいようになってきました。やがて論理学も人がやらなくて済むよ
うになるでしょう。こうなると数学の役目というのは機械にはできないことをやるという
ことになります。それは調和の精神を教えるということであります。
ちょつと世相を見て下さい。ボアンカレが死んでから(一九= 一年没)いままで丁度五
十年経っていますが、この五十年間は一口に言えば大仕掛けな戦争ばかりやってきました。
…… こうなった原因は何でしょうか。
私はそれは調和の精神なしに科学を発達させたのが原因だと言えると思います……科学
の発達で人類はいろいろな利益を得ているように見えます。利益に対して、害のほうはと
いうと、戦争一つだけでも実にたっぷりと害があります。……五十年間でこんなありさま
33
になったのですから、これからどんなひどいことになるか想像もつきません。ただ一つ確
信をもって言えることは、人類はこんな大ぎな試練にとうてい耐え得ないということであ
しん
ります。いま、真の中における調和を見る目がどれほど必要とされているかがおわかりの
ことと思います。
こういう世相にあって、のんきな数学などは必要ないと思う方もあるかも知れません。
しかし、数学というものは闇を照らす光なのであって、白昼にはいらないのですが、こう
いう世相には大いに必要となるのです。闇夜であればあるほど必要なのです」
宗教も科学も芸術も大調和世界を現わすためのもの
岡博士のこの文章を読んでいますと、宗教者と全く同じような態度が伺われます。岡博
士はポアンカレが、数学の本体は調和の精神である、と言っているのと同様に、数学の目
標とするところは、真の中における調和感を深めることよりほかにないと言っていますし、
純一無雑な努力の結果、澄みきった心に大自然の純粋直観とも言うべき智力の光が差し込
第1章文字、数学、思想
んでくると言っています。そしてこの智力は思慮分別の智力のようなたかの知れたもので
はなく、本当のものがおのずからわかる智力、いわゆる無差別智であると言い、それは自
分が知るというのではなく、智力のほうから働きかけてくると言ったものだ、と書いてい
るのであります。
これは全く、宗教の極意のところでありまして、数学の根本というものが、やはり大智
恵大能力である宇宙神のみ心から流れてくるものであることが、実によくわかります。
そしてまた岡博士は、この五十年間の大戦争騒ぎは、調和の精神なしに科学を発達させ
たのが原因である、と言っております。全く全くその通りですね、と私も大声で同感した
いところです。
岡博士は更に、数学は闇を照らす光なので、白昼はいらぬが、こういう世相には大いに
必要なのだ、と結んでいます。
この数学者の言葉はいたるところ宗教者の言う言葉と内容は等しいのであります。数学
というものを知らない人々には、何かわけがわからぬなりに、随分根本的な宗教的なこと
3S
をこの人は言っている、と思われるでありましょう。
ところが、宇宙子科学の研究を始めてからの私には、この人の言葉が身に泌みてわかる
のです。そうなのだ、そうなのだ、本当に宗教も数学もすべての科学も芸術も、みんな大
調和世界をこの地球界に現わすためのものなのだ、としみじみ思うのであります。
3 6
広く眼を開いてみよう
世の宗教者が、神のみ心をこの世に現わすのは宗教者だけの力によると思っているよう
ですと大変な間違いになります。宗教者はあくまで神のみ心をこの世に顕現するための本
せんだつ
心開発の道を、自分達が先達となって、業想念波消滅の祈り心一念で進んでゆくべき役目
を持っているのであって、自己の宗教の優越性を他に宣伝するために、他の団体を屈服さ
せようとするような不調和な波動を世に流すようであってはならないのです。広く眼を開
いてみますと、宗教者以外にも各界に聖なる人がたくさん存在するのでありまして、ある
いは音楽に美術に、あるいは科学者として政治家としてまた実業家として、地球人類の真
第1章文字、数学、思想
の完成のために自我を滅して働き続けている人が存在するのであります。
ただ現在では、その力が一つに結集されずに個々別々な働き方をしているので、大きな
成果を見せていないのです。未だ時が至らないのであります。
私は宗教の世界にいながら、各界に心の眼を向けております。あの人も偉いんだな、あ
うなず
の人も大した者だ、とひとり肯いているのですが、自分がある点まで自分の仕事を完成し
た上でなければ、各界に向かって大きく手を伸ばすわけにはゆかないのです。
ひたすら世界平和の祈りの宣布と、宇宙子科学の完成に向かって真剣な努力を払ってい
るのであります。
私は音楽が好きなので、音楽の持つ調和性というものをよく知っております。音楽はハ
ーモニーが最大の目標です。たまたま不協和音を使っても、それはハーモニーを最大に効
果的であらしめるためです。それと同じように宗教でも、業想念波動を相手にした、現世
の利益目的の信仰者のための教えをすることもあります。しかしそれはあくまでその人々
の神性開顕、本心開発をより容易にならしめるための方便でありまして、現世利益のお相ジ
えさ
手をするのが宗教者の本分ではありません。だが実際的には信仰者の自我欲望の想いを餌
にして、自己の教団の発展拡張のみに専念している宗教者もあります。
こうした宗教者は、真摯な科学者や芸術家達の前にどのような顔を向けたらよいのか判
はや
りません。テレビで今、医師ものが流行っていまして、ドクターキルデアだとか、ベン・
ケーシーだとかいう映画を見ていると、病者ととっくんで、いかにしてこの病人の心と体
とを救おうかと、真剣そのものになっている医師達の姿が、実に尊いものに見えます。
その方法がよいとか悪いとか、医学の不手際とかいうことを別にして、そうした医師達
の純粋な仕事への熱情を私は高く評価するのです。願わくばこの熱情が岡博士の言うよう
に、冷えたり熱したりして、純粋直観という智力の光を発して下されば、宗教の本質と医
学の本質とが全く一つに結びついていることが判ってくるものと思います。
純粋な感情を持った医者は、必ずその心の底に熱い宗教精神を持っているに違いありま
せん。人の病気を治したい、という願いを持つ人が、宗教精神を持っていない道理がない
からです。ただその人が神とか仏とか表面の想いで思わない場合があるわけです。ただテ
3 8
レビ映画での西洋の医者がみな神という言葉を常に口にしているのを見て、ありがたい気
がしていました。
西洋では、作家でも科学者でも大方の人々が神を想いの中に持っていますが、日本人の
作家などが、特に文芸作家といわれる人々が神という文字を信仰の形式で文章に書くこと
の少ないのには驚いているのです。
日本では知識階級の人ほど、神ということ、宗教ということを表面に出すのを恥ずかし
がるおかしな風潮を持っているのですが、これが純粋な唯物論者かというとそうでもなく、
哲学知識をもてあそんでいるといった面の人が多いのであります。
第1章文字、数学、思想
真理の道を真剣になって進め
私は常に想うのですが、人間がこの世に生きてゆくからには、自分自身をはじめ人間と
いうものを真剣に見つめて、真理の世界を身心をぶっつけて探究してゆくほどでなければ
嘘の生き方だと思うのです。
39
ただ生まれて育って、肉体と肉体に附随する精神を喜ばせるだけに働いて、それで一
生を終わってしまう、自分の本体のことも人間の在り方ということも、一切何にも判らず
に、また判ろうともしないで、次の世界に旅立ってしまう。次の世界、あの世での何の知
識も心の用意もなしに、突然にあの世に行ってしまう、ではあんまり情けな過ぎるのでは
なかろうか、と私はつくづく思うのです。
真理を知るのは宗教の世界ばかりではない。科学の世界でも芸術の世界でもあるわけな
のですから、どの道をとってもよい。その一つに真剣になって取り組んでみると、あの世
ヘへ
はおろか、永遠の生命そのものにじかに触れ得るほどの道に到達するかも知れないのです。
要は、真理探究の熱意さえあればよいのです。ただこの世の生活が安楽でありさえすれば
よいというような浅薄な生き方では、未来永劫輪廻転生の生活をしなければならなくなり
めざ
ます。しかし、そうしたことのないように、守護の神霊は、その魂を真理に目醒めさせる
ため、種々のこの世の不幸災難と見えるような事態を適当に現わすのであります。それは
業想念波消滅の姿でもあり、本心開発の道に進む足がかりともなるものなのです。
40
第1章文字、数学、思想
このままではどうしても個人も人類も安楽ではいられない、という切羽つまった時にな
って、初めて人類は今日までの方法ではいかようにもなし難いことを気づくのであります。
本当に初めて心の底から完全なる平和世界を切望し始めるのです。
岡博士の言葉ではないが、大仕掛けの戦争に続く戦争、(そしてまだまだ続く戦争や天変
地異の恐怖)人類はこんな大きな試練にとうてい耐え得ない。いまこそ、真の中における
調和を見る目がどれほど必要とされているか、ということなのであります。
これは個人にとっても人類全般にとっても同じことが言えるのです。個人も重なる不幸
災難によって真理への道に眼を開く人もあり、世界全体の不調和混迷の姿を見つめて、み
心の天のごとく地にも行なわれんことを心を込めて祈る人もできてくるのです。
この世における個人的な安楽の姿など、いつ壊れてしまうかも知れぬ砂上の楼閣なので
あります。この世において、たとえ安楽のような生涯を送れたとしても、その人が真実に
神との一体化を成し遂げ、全き調和をその人の心に持っていない限りは、あの世における
苦悩を経験せずに神界に昇り得ることはできないのです。
41
万人に真理を納得させるには
42
人間は肉体身を持ったこのままで、心の調和を得ることが大事なのでありまして、愛と
調和の姿こそ、神のみ心をそのまま現わしている姿なのであります。今日ほどあらゆる面
において、こうした姿を必要とする時期はないのであり、またこうした姿を心にとめて、
自己もその人々を手本としなければならないのです。
神のみ心のそのままの現われを真理というのであり、調和というのであり、愛というの
であります。ところが、どういう事柄が真理であるのか、ということを確めるのは実にむ
ずかしいのであります。
うなず
子 供には必ず両親があり、両親にはその先祖がある、ということは、誰もが肯ける真理
でありますが、それよりもっともっと深い根本真理である、万物はすべて神よりきている
ということを、肯定し得ない人々がかなり多いのです。
これはどういうわけかと申しますと、神様が肉体人間の五感に触れ得る状態で、万物を
第1章文字、数学、思想
生み育てているわけではないので、五感的にしかすべてを感じ得ぬ唯物的な肉体人間には、
万物が神よりきているという大事な大事な真理を肯定し得ずにいるのであります。
そこで唯物的、五感的な肉体人間にこの大真理を肯定させるためには、その五感を通し
て神の存在を感じせしめるような方法を生み出さなければなりません。
ただ
それは宗教的な説法だけでは可能性は非常に少ないのです。何故かというと、唯言葉だ
けで神の存在を知らせようとしても、唯物的な人はその存在を何等かの形で見せなければ、
肯定しないような想念で固まっているからなのです。唯物的な人というのは、自分の眼や
耳や触覚でその存在を確めなければ、その存在を肯定しようとはしないものなのです。
そういう人達は、いかなる芸術の世界からも神の存在を認めることはできないでしょう。
ではこういう人達に神の存在を知らせるのは一体どのようにしたらよいのでありましょう
か。そこにはどうしても科学の道が必要になってくるのです。神の存在を宗教的な説明で、
唯物論的な人に肯定させることはでき難いのですから、ひとまず、宗教的な神という概念
を引っ込めて、唯物的な人が肯定し易い科学の道において、神の存在を認めさせることが、
43
唯物論者に神の存在を肯定させる唯一の方法だと思うのです。
闇を照らす光1⊥ 甲宙子科学の誕生Il
宗教が闇を照らす光ならば、科学もやはり闇を照らす光なのです。ただし、岡博士も言
われているように、調和を根抵にした科学でなければ、闇を照らす光だと思っていたもの
あんこく
が、かえって自らが闇黒をつくってしまっているということになってしまいます。宗教の
道でもこれと同じことが言えるのであります。
ここに参りますと、宗教の道でも科学の道でも、闇を照らす光となるのは、調和をこの
かなめ
世にもたらすことより他にはないことになります。愛と調和こそ真理を知らせる要なので
あります。美も善も愛と調和の中から生まれてくるものなのです。
真実の愛の行為から現われてくる生命の美しさ、調和した雰囲気から生まれてくる美し
さ、それこそ全人類の希求してやまないものなのです。
大生命である神のみ心は、そのまま大調和の姿なのですが、その調和した姿を、そのみ
第1章文字、数学、思想
心をこの世に顕現するためには、宇宙大自然の法則に乗った生活を、地球界の人類がして
ゆかねばならぬのです。宇宙法則に外れた時、その外れたところだけ不調和になり、やが
て消滅してしまうのです。唯神論者、唯物論者の別なくそうなってゆくのです。
アンリー・ボアンカレや岡博士の言っている、数学の本体は調和の精神である、とか、
真の中の調和が数学である、ということは、宇宙神のみ心を現象の世界(霊幽肉を通した)
に現わすためには、科学的に言えば、電子や中間子などよりもっともっと微妙な存在であ
る宇宙子波動、宗教的に言えば神のみ心の最も微妙なひびきを、様々な角度と種々な場と
において調和させ合ってゆくことが、たまたま数の組み合わせによって現わされてゆく時、
これを数学というのであります。これが人間の声や様々な楽器によって現わされてゆく時、
これを音楽というのであります。そして、この真理を行為によって現わしてゆく人を宗教
者というのであります。
神のみ心の最も微妙なひびきである宇宙子波動の数と角度と場との組み合わせが、宇宙
神のみ心、つまり宇宙法則に合わなかった時、これが不調和波動となって、地球人類の不
45
幸災難となってゆくのです。46
ぜせい
こうした宇宙法則に合わなかった不調和波動を是正してゆくのが、宗教者の天命であり、
科学者や芸術家の役目であるのです。宇宙法則を知らせるために、宗教者は神の存在を説
き、人間の心の在り方を説くのであり、科学者は科学の眼をもって、大自然の神秘を解明
してゆこうとしているのであり、芸術家は大自然のみ心を美によって現わそうとしている
のであります。
私は宇宙天使の援助によって、宇宙子の存在を知らされ、宇宙子波動と角度と場との組
み合わせを、神のみ心そのままの在り方に是正するため、地球科学の土台の上に、宇宙子
科学の理論を組み立てているのです。現在はまだ理論の段階ですが、やがて実験の段階に
入ってゆくことになるのであります。

宇宙子科学の誕生は一体何を意味するか、それは地球人類へ神のみ心が科学力となって、
直接働きかけることを意味しているので魂宗教と科学と芸術と蚕体化されて現わされ畔
てゆく宇宙子科学こそ、唯神論者、唯物論者の別なく、神の大愛を賛嘆して止まない、地
球人類の完全平和を築き上げる唯一最大のものとなってゆくのであります。
調和こそ全人類の等しく求むるところであり、神のみ心そのものであるのです。
世界人類が平和でありますように、この祈り心こそ、神と人間との一体化の心なのであ
り、地球人類救済の宇宙子科学完成への心なのであります。(昭和39年1月)
第1章文字、数学、思想

4 8
思想と宗教と科学
デポノの水平思考
最近、エドワード・デポノという人の「ニュi ・シンク」「水平的思考」という思考方法
けんでん
が喧伝され始めています。これは一口に言って、古い型にはまった考え方とは別に、新し
い考え方を打ち出す方法なのであります。
今日でいう常識的な思考法、いわゆる先人の行なってきた学問知識や、積み重ねられて
きた経験の上に立って、先人と同じようにその学問知識を吸収し、その経験を自己の進ん
でゆく道の土台としてゆく、手堅い方法を、デポノは垂直的思考と言っています。この垂
第1章文字、数学、思想
直的思考でゆくと、一ヵ所に穴を掘り進んでゆくと、次々と、その穴を深く掘りさげるこ
とだけに考えが続いてゆく。つまりこの道は、先人や先輩によって、今日までにつくられ
こうじん
た道を、そのまま後人が受けついでゆく。誤りは少なく、手堅い道ではあるけれど、新し
い驚くべき発見や発明、新しいアイデアの生まれてくる余地がない、というのです。
そして、水平的思考というのは、先人の掘った古い穴とは別に、新しい穴を掘ってゆく、
新しい道を突き進んでゆく。積み重ね式の縦の線、垂直的な方法とは対照的に、水平的に
別に穴を掘り、別に道をつくってゆくことによって、あらゆる面に、アイデアが生まれ、
世の中が進歩してゆく、というのであります。過去の考え方に把われないで、常に新しい
道を見出してゆく、というのがこの思考法の根本なのです。
こういうことは今更改めて言われなくとも、昔から考えられていることなのですが、水
平的思考、とはっきりと名づけられて、こういうふうに一つの思考法として打ち出されま
すと、何かこの考え方に重みがついて、そうだ、古い学問知識に把われず、古い経験から、
ひとまず離れて、自分独自の考え方で物事に当たってみよう、という勇気のようなものが
49
湧いてくるのでしょう。若い人達の間で盛んになりそうな傾向を持っています。
どんな立派な考え方でも、それが、漠然として流れていたのでは、人々がこの考え方を
取り入れることは少ないのですが、このデポノ氏のように、ニューシンク、水平思考とい
う名をつけ、その思考形態を統一して発表いたしますと、この思考法が、はっきりと世に
現われて、昔から考えられていることなのに、改めてなるほどと、人々に肯定され、多く
の人々がこの思考法を取り入れることになるのです。
50
祈りの「ニューシンク」
なんだそんなこと、昔から知っている、という人が随分あると思いますが、どんなあり
ふれたような考えでも、その人の持ってゆき方によっては、大きな力を発揮することにな
ります。私の提唱している「世界平和の祈り」でも、世界人類の平和なら、誰だって想っ
ている、という人もあるのですが、それなら朝に夕に日々瞬々の間にも、世界人類の平和
を想っているか、というと、そんな人は滅多にありません。世界平和というものでも、祈
第1章文字、数学、思想
ごとのりと
り言にまで高め上げて、浄土門の念仏のように、法華宗の題目のように、神道の祝詞のよ
うに、神仏との一体化を目ざしての祈願にまで、日常生活の根本がなりきることを念願と
しているのが、私の提唱している世界平和の祈りなのでありまして、ただ、漠然と、世界
が平和であればよいな、戦争がなければいいな、などという力弱い瞬間的な想いとはまる
ぎょう
で違った祈りの行なのであります。
私達の仲間は、目ざめから、睡眠中まで、三度三度の食事の時から、話の合間、仕事の
間にでも、歩いている時、乗物の行き帰りにも、常に、世界人類の平和と日本の平和、自
己や自己にまつわる人々の天命の達成を、守護の神霊に感謝の想いとともに、願い続けて
いるのであります。
しっか
このように、世界平和の祈り、という確りした名目を掲げ、すべての生活がこの祈り言
を根本にして行なわれる、ということになると、ただ単に、世界平和だ、世界平和だと騒
いでいて、他の団体や政策に反対する行動や、反戦運動をするのは、根本的に相違してく
るのです。
57
そう新しい、特別な考え方でもない、デポノのニューシンク、水平思考が、ニューシン
ク、水平思考と名づけられただけで、今まで誰でも知っていながら、なんということなく
行じそこなってきたのに、今度ははっきりと、自己に役立つ思考法として、世の中の発展
のために行じられることになるわけなのです。
世の中には、種々の素材があります。その素材をどのように自己に役立て、世の中のた
めに役立つようにもってゆくかが問題なのでありまして、うかうかとその日その日を過ご
していってしまうことは、全く自己の生命の光を一日一日薄めていってしまうことになり
ます。消光している、という言葉は、そういう意味なので、いつでも生命の光を輝かせて
生き続けてゆかねばなりません。常に自己を立派に磨いてゆこうと精進している人や、何
か社会のため、国のために役立ちたい、と思っている人などは、生命の光を薄めることの
ない人なのです。
SZ
経済的向上と共産主義
第1章文字、数学、思想
こんてい
この世界には、各種の思想が流れていますが、それらの思想が、根抵をどこの世界に置
いているかが問題でありまして、ある国家、ある民族、あるいはあるグループのためだけ
に有益である思想であるのか、永遠の生命のため、全人類世界のために有益である思想な
のであるかによって、その思想の価値が大分違ってきます。
そういうように、その段階、範疇が低いもの狭いもの、高いもの広いものと、様々であ
ります。むずかしい理論体系を持ったものが、必ずしも高い広い思想ではありませんし、
簡単な理論から成り立っている思想が、意外と高い深い思想につながっていることもある
のです。
マルクス、エンゲルスに発した、社会主義、共産主義思想が、種々と変形しながらも、
世界を二分するほどの大きな広がりを見せていますが、どうして、このようにこの思想が
世界中に広がりを見せたかというと、むずかしい理論はさておいて、どこの国でも貧富の
まデぜいたく
差が烈しくて、貧乏人は食べるにも困っているのに、一方は贅沢を欲しいままにしている、
という矛盾を是正して、物質的富の配分を公平にしよう、という、いわゆる共産主義を打
53
ち出していたからで、各国の労働階級中の不平分子や、金持ち階級に反感を持った、人道
主義的な知識人達が、この思想に共鳴していったのです。
そして、マルクスやエンゲルスの住んでいた国でない、ロシアにおいて、この思想革命
が成功して、一九一七年に、ロシアがはじめての社会主義(共産主義) 国家となったので
あります。何故ロシアにおいて共産主義革命が成功したかといいますと、あまりにも、ツ
ァー(ロシア王) の暴政が非道で、国民の大半が貧しく虐げられていたから、その反発を
利して革命家が事を挙げたのであります。ロシアは土地が広く、富の配分が非常にアンバ
ランスであり、貧農や貧しい労働者の数が実に多かったのであります。
共産主義革命の成功は、そういう条件が整っている国において成功するのでありまして、
中国もその例にもれないのです。現在の日本はそういう意味では、貧富の差もそうひどく
はありませんし、食べるにも困るような人は、かつてのロシアや中国とは問題にならぬほ
ど僅少ですし、政治も圧政的でなく、世界一というほど、自由気ままに生活できる国です。
その一つとして徴兵制度がないことなど、どこの国にもない自由さです。そういう点で、
第1章文字、数学、思想
現在のところ、日本は共産革命の成功には、ほど遠い条件にある国なのです。国民の大半
が食生活に困っていない、広い中産階級が主であります。ということは、政治家にとって
実に有難いことで、政治の第一の重大なことは、国民の大半を貧困生活から救い出すとい
うことにあります。革命が起こるより、現在の生活のほうがよいのだ、と国民の大半が思
えるような政治が、常に行なわれていなければならないのです。
そういうことから考えますと、世界中には、共産主義革命の行なわれそうな国がたくさ
んあります。そういう国々は武力で守ることよりも先に、経済的な向上において守ること
のほうが大事なのです。ベトナムにおける民族主義者を共産主義思想家と手を握らせるよ
うにしてしまったことは、アメリカが武力を主にしてベトナムを統一しようとしたからで、
今日では、その失敗が明らかになっています。
共産主義の発生は、人間は平等でなければならぬ、という人道主義的な考えが根抵にあ
るのですから、人間の生活を不平等にしておいたままで、武力や権力で国民を抑えてゆこ
うとしても、いつかはそこに無理が生じ、革命が起こってくるのであります。
55
ところが、ここに考えられることは、ソ連にしても、中共にしても、その革命が達せら5 6
れるまでに、そして達成された今日においても、多くの人間を犠牲にし、幾多の過酷な罰
則をもうけて、権力の圧制によって、国民を率いているのでありまして、権力者と非権力
者との間には、かつてのツァー、帝王時代と同じような力の開きがあるのです。
一般大衆には実に狭い自由と低い富としか与えられておりませんし、一言一句の話にお
いても、常に権力者達の顔色を伺いながら、話さねばなりません。それでなければ封建制
の昔同様、生命が危いのです。はじめは人道主義的な考えと自由な生活をつくり出そうと
してはじまった運動が、革命が成功してしまうと、権力者同士の争いが次々と起こったり、
平等どころか、階級の差が厳然として出来上がってしまい、ソ連では一般労働者が百二十
ルーブルの収入とすると、官吏は千五百ルーブル、作家などになると、多い人は一万ルー
ブル、というほど収入が不平等なのです。(名越真之氏著『ソ連の真昼と暗黒』より) そし
しもべへだ
て、中共などでは、権力者と国民との間には神と僕のような距たりができてしまったので
あります。
それは一体どういう誤算から起こってきたのでしょうか。
ソ連とチェコのように他国にまで及ぼしているのです。
それは国内間だけではなく、
唯物思想と相対性
第1章文字、数学、思想
思想というものが、この肉体世界の物質面を主体としている、いわゆる唯物思想であり
ますと、どうしても、真実の平等観、つまり人間は神の子として平等なのだ、分生命とし
て平等なのだ、兄弟姉妹なのだ、という考え方にはなりませんので、権力を握ったものや
それに身近に協力している者達が、収入も多くなりましょうし、すべてに優位な生活をす
ることになります。そして、そうした優位な生活を営みたいもの、権力を握りたいものが、
先任者を追い落とそうとして、暗躍しここに醜い権力争いが起こるのであります。
資本主義、自由主義思想であろうと、社会共産主義思想であろうと、はたまた無政府主
義思想であろうと、それが、神のみ心に通じていない、唯物思想である限りは、どうして
も、そこに物質界の地位争い、権力争いが生じて、真の平等生活は生まれ出ないのです。”
それが、単なる私はこう想う、という思考的なものであれば、それは他の思考と違う分
野において行なわれるので、お互いに自己の考えでやってゆけばよいし、それぞれの同調
者も、お互いに争い合うことをせずとも、お互いの範疇において、事を運んでゆけばよい
のですが、これが一つの思想となり大きく広がってゆく場合は、他の思想とぶつかり合う
ことになってきます。資本主義と社会共産主義のように、どちらも相容れられずにぶつか
り合うことになります。
これは根本的に相容れないので、表面的の利害打算で妥協することはあっても、常に相
反する立場にあって、そのままでは、調和しえないものをお互いが持っております。そこ
で常に戦争の危機が存するわけです。
かりにどのような思想がありましょうとも、その根本が、この世の物質界を主にしての
思想でありますと、どうしても相対的なものになり、利害の相反するものができて、真の
平等観は生まれませんから、独裁主義、帝国主義を廃して、社会主義的に、財産も平等に
共有しようとして生まれた共産主義も、ソ連のように、中共のように、共産党の集団独裁

第1章文字、数学、思想
あるいは毛沢東独裁というように、一般大衆の上に君臨する権力者の座が設けられ、あら
ゆる待遇において、一般労働大衆とは大きく相違してくるのであります。
これはこの世の物質世界を主にした在り方の上においては、当然こうなってゆくのであ
りまして、物質生活や地位の高低の平等ということは、あり得ないことなのです。それを
さも平等生活があり得るように説いて、社会主義国をつくった、ソ連や中共が、果たして、
米国やヨーロッパ、日本の一般国民達よりも、その大衆の生活が優位であり、幸福であり
得たであろうか。私の聴聞したところによると、その収入において、その文化生活におい
て、社会主義諸国のほうが自由主義諸国より勝っているとは思われません。むしろ数等劣
った生活状態のようであります。その上、精神的自由さにおいては比ぶべくもなく、日本
や米国、ヨーロッパ諸国の国民のほうが優位を保っています。
こんてい
ということになりますと、唯物的思想が根抵になっている政治政策なら、いずれも五十
歩百歩で、わざわざ日本を社会主義国や共産主義国にする必要はない、ということになり
ます。現在の自由主義国のままで、しかも貧富の差を縮めてゆき、貧乏人を次第に減らし
てゆき、現在以上に中産階級を増加させてゆくことが必要だということになってきます。
過去世を考えに入れる
どこにどんな思想が生まれようと、自己に与えられた職場で、その職務を懸命に果たし
ている人は立派な人なのであり、必ず報いられることがあるのですし、理屈ばかり言って
いて、怠惰な人は、その地位も危険で、収入も思わしくなくなるのは理の当然です。それ
に加えて、唯物論者にはわからないでしょうが、過去世の因縁というもの、つまり、人間
と炉うものは何度でも何度でも生まれ変わりをしまして、その過去の世において行なって
きた善悪が、この世の運命として、大きく現われてくる、という、仏教でいう因縁因果
(原因結果) というものがありまして、することなすことがうまくゆかず、常に貧乏や災
難の生活をし続ける、という人もでてきます。
この世が不平等になっているのも、こうした過去世の因縁によりますので、ただ単に思
想的にこの世を平等にしようとしても、こういう過去世の因縁を正してゆかねば無理を生
第1章文字、数学、思想
ふゆう
じることになります。やたらに資本階級や富有な人を恨んで、これを倒そうというような
考えは、この因縁因果の法則を知らないからなので、たとえ一時この階級を倒して、自分
達が優位な地位についたとしても、因果応報といって、自らの行為の報いによって、その
人やその集団は、必ず倒れるのであります。これは昔から嫌というほど歴史的事実として
みせられております。戦国時代の様相だけでも、一目瞭然です。
ですから、人間のすべてが、神仏との一体化を果たすまでは、この世の生活が平等にな
りきることはあり得ないのです。ただ政治政策によって、その差を是正し、出来得る限り
平等にしてゆくようにすることが大事なのであります。
日本の例をとってみても、封建制の昔と今日の状態とでは、まるで別世界のように違っ
てきておりまして、大名と武士階級、町人百姓という、この差の甚だしいことは論外であ
りまして、支配階級は勿論一人の武士にでも逆えば、斬り捨て御免だった時代があったの
です。それが明治大正昭和の戦前戦中では、政府に逆うものは罪人、ということになり、
今日では、政府に向かってどんなことを言っても、それだけで罪人になることも、罰せら
6r
れることもないほどに、今日の日本は自由な生活のできる国になっているのであります。
これは正に進歩と言うべきでしょう。
ですから、ソ連とか中共とかいう社会共産主義国は、そういう点において、日本の幕末
以前に戻っているとも言えるのです。しかし、全世界的にみて、人権が尊重されるように
なってきているのは確かです。こうした進歩の根抵にあるのは、表面的に気づいていない
にしても、宗教的精神でありまして、生命においてすべて同一に尊重すべきである、とい
う考えが底に流れているわけです。
この生命の同一観から、社会共産主義も生まれているのですが、それがいつしか物質社
会のみに把われてしまいまして、真の人間精神の動きというものを忘却しさってしまった
のです。そして、社会共産主義という一つの思想が、唯我独尊的になり物質世界に固着し
てしまい、他の思想との融合が計れなくなり、生命の同一観から離れたものになってしま
ったのです。
この世界観には、高さも深さも広がりもありません。ただほんの表面に現われた、物質
社会の生活の限定された世界があるだけなのです。この思想では、肉体内に蓄積されてい
るだけの精神的満足さえも得られぬ、党権力に支配された、宇宙時代にふさわしからぬ浅
い思想形態という他はないのであります。
宇宙時代の思想
第1章文字、数学、思想
地球世界を一つに結び、生命の同一観を政治政策の上にも実践できる、宇宙時代の思想
というものは、果たしていかなるものなのでしょうか。その最初の発想は、人間とは、肉
体という物質に縛られている生命体ではないということです。そしてすべての物質という
ものも、みな波動の現われであって、肉体といえど物質波動の現われであるということで
す。肉体を含めた、あらゆる物質は、すべてある定められた次元から伝わってくる波動の
現われであって、それを細かく説明すれば、波動、微粒子、電子、原子、分子というよう
に物質化してくるのであります。そして、人間そのものである創造し、思考し、計画性を
有している生命体は、元は高い、深い次元から伝わってくる波動なのです。この生命エネ
ルギーの中から、精神も物質もつくられているのでありまして、私どもはこの生命の本源吻
を、宗教的には神と呼び、私どもの新しい科学では宇宙心と呼んでいるのであります。
この宇宙心が生命エネルギーの源泉でありまして、この宇宙心の働きの最初の場を宇宙
核と私どもは呼んでおります。そして中心核、宇宙子核とその働きの場が分かれ、すべて
の波動の根源でもあり、粒子の根源でもある、宇宙子の働きが、これらの核を中心として
活動し始めるのです。この宇宙子には、活動している宇宙子(精神要素を多く含む)もの
と、静止している宇宙子(物質要素を多く含む)という縦と横の働きの宇宙子がありまし
て、各自プラスとマイナスを有しております。この宇宙子の数や角度の転換によって、こ
の宇宙万般の精神や物質ができ上がるのであります。私どもの新しい科学は膨大な図解や
数式がありますので、ここで詳しい説明はできませんが、この小論で申し上げたいことは、
地球世界の科学が、肉体という物質体の頭脳から精神が生まれている、と誤り解してい
る唯物的な立場に立っている限り、この世の思想形態は、唯物思想が、どうしても主導権
を握ってゆくことになります。資本主義にしても社会共産主義にしても、今日では唯物思
第1章文字、数学、思想
想でありまして、肉体人間万能の思想であります。人々は言うでありましょう。肉体人間
の他に人間というものはどこに存在するのだ、幽霊のことでも言うのか、と。私の言うの
はそんなことではないのです。肉体人間の在る以前から、精神というものがあったのだ、
人間の生命というものは、精神や想念によって、この世に肉体という存在になったのであ
って、精神そのものが生命の働きの中心になっているのであり、永遠に働き続けるもので
あって、それが人間の本質であるということです。肉体は単にこの地球界の三次元世界の
みのものであり、僅か五十年、百年の存在期間きりないものなのです。
水平思考で神を知れ
世の人々が精神と呼んでいる働きは、実は精神のほんの僅かな一部分だけを肉体の中に
あるものとして覗き見しているだけで、真実の精神の存在を知らずにいるのであります。
世の科学者がこの誤りに気づいて、生命というもの、精神というものを、それこそ、水平
思考によって科学してみることが大事なのです。
デポノの言うように、今日の科学者は、あまりにも、先人、先輩の歩んできた道に依存
しすぎております。いわゆるデポノのいう、垂直思想に把われすぎているのです。デポノ
は、垂直思想は、世の中の進化発展を阻むことがある、と言っていますが、あまりにも、
誤った道を踏むまいとして、かえって大きな誤りを見過ごして、地球科学は今日まで来て
しまったのであります。
宗教的にいう、神の存在を、今日の科学者は、垂直思考法によらず、水平的思考によっ
て、発見してゆくことこそ必要なのです。そういう科学者の心構えこそ、世界の危機を防
ぎ、全世界に大調和をもたらす、大きな福音となるのであります。思考も思想も科学も、
すべて今まで通りの穴を掘り続けないで、新しい穴、新しい道を切り開いてゆくことによ
って、世界の平和という新天地が開けるのです。その新天地は宗教の世界では、すでに開
かれているのでありまして、釈尊もイエスも他の聖賢達も、その新天地から、この地球世
界を見守っているのであります。垂直と水平との十字交叉の中心に真の宗教者は在るので
す。
第1章文字、数学、思想
私はそれら先覚者や、宇宙世界に住む、グレート・ブラザー方の指導の下に、宗教と科
学の一致点、キリストの十字架を、新天地誕生の光明燦然たる十字架にするために、日夜
祈りによる世界平和運動と、宇宙子波動生命物理学という、新しい科学の道を突き進んで
いるのです。
人間は、果たしてこれでよいのか、と思った時、心を静かに深いところに置いて、神道
でいう鎮魂の状態にして、自己の在り方を見つめ続けるとよいのです。私はその方法を易
しく説いて、守護神、守護霊への感謝とともに、世界平和の祈りを祈り続けなさい、と教
えているのであります。すべての出来事事柄、浮かび出る妄念は、これみな過去世の因縁
の消えてゆく姿として、よいも悪いもひっくるめて、世界平和の祈り、つまり、世界人類
が平和でありますように、… … 私達の天命が完うされますように、という祈り言の中に投
入してしまいますと、神道のいう鎮魂の状態になり、善悪理非の判断が、速やかにできる
うわ
ようになり、同時に、自分自身が、新しく生まれ変わって、暗い人は明るく、浮ついた人
は、沈着にと、欠点が消えてゆくのであります。そして、この祈りそのものの大光明波動
が、自己を通して、大きく世界に拡がってゆくのであります。(昭和45年1月)
第2章これからの宗教と科学

二大暗黒想念を超えよ
ll唯物論的共産主義と邪宗教1
東南アジアに根をはった邪宗教
読売新聞に連載されている、脈動するアジア回廊という記事の十八回目(昭和三十二年
六月)に、「根をはった宗教」という記事がありました。
たく
それによれば、ラングーンやバンコックやカンボジアの首都等には、黄衣をまとった托
第2章これからの宗教と科学
はつ
鉢の僧が非常に多く、東南アジア諸国のどこを廻っても、名所といえばきまって、寺院と
王宮であり、古跡といえば例外なく宗教上の遺跡であって、東南アジア、約六億の人々の
半数がヒンズー教という宗教教徒であり、その宗教は儀式の連続であるといわれる程、儀
式にこりかたまっているそうであります。まだ他には”アラーの神を讃えよ” と、何事に
ついても口ずさむ回教徒が約一億。これについで、各種仏教徒が五千二百万、キリスト教
徒が二千四万といわれ、更にこの他にも種々の宗派があるようであります。
このように、東南アジアの住民にとって、宗教は、水であり、空気であるといえよう、
とも書いておりました。そこでこの国民達の宗教信仰を無視した政治が出来得なくなり、
いん
東南アジアでは政治と宗教の複雑なからみ合いが生まれてくる。そこに宗教者が政界に隠
然たる勢力をもつようになり、南ベトナム等では、教団が私兵軍まで持ち、政治的な目的
のために、仏教団を擬装している団体まであるというのです。またインドネシア等では宗
教徒達が、あまりに政治に熱心すぎて、常に反乱をし続けているとも書かれてありました。
このように、アジア人は非常に宗教的民族なのでありますが、常にヨーロッパの後塵を7・
拝して、ヨーロッパとは比べものにならぬ程、文明文化の発達が遅れ、ヨーロッパにひき
ずり廻わされているのであります。
これは考えてみますと、実におかしな現象であると思います。何故かと申しますと、宗
教信仰が盛んであるということは、それだけ神の心がその国、その民族に現われていなけ
ればならないはずだし、その国家民族が幸福であり、天国的でなければならないはずなの
ですが、それがそうではなく、宗教的には弱いはずであるヨーロッパのほうが指導的な立
場に立ち、外面生活的には、アジア諸国より天国的であるのです。
大聖釈尊の誕生の地であるインドでは、道路や家の軒先で寝ている人々が沢山あるとい
う程に貧しい階層が多く、とても天国や極楽とはおよそ縁が遠いと思われる現実生活をし
ているのでありまして、精神的にはヨーロッパ人より幸福である、と誰かが申しましょう
とも、一般の常識的な眼にはやはり英国人や米国人のほうが、そうしたインド人よりは、
幸福生活を営んでいると見えるのは、致し方のないことです。
これはアジア人の宗教生活のどこかに誤りがあるのではなかろうか、という結論になっ
てこざるを得なくなります。確かにアジア人大半の宗教観が誤っていたのであります。
知性に欠けて迷信的宗教をはびこらす
第2章これからの宗教と科学
大体において、アジアの諸民族は直感的であって理性(知性) の面に欠ける嫌いがあり、
ヨーロッパの諸民族は理性的であって、直感的にものごとを信ずることは少ないようであ
ります。
直感的であって理性に欠けていれば、素直に素朴にものごとを信ずるだけに、批判力、
分析力が乏しく、いわゆる科学性に劣ることになってきます。この科学性に欠けたところ
ちょうりょう
批判力に欠けたところが、アジア、特に東南アジアを儀式宗教、迷信的宗教の跳梁のま
まに今日にいたらしめてしまったのであります。
ですから折角、イエスキリストや釈迦牟尼仏のような大聖者をその地に生みながら、そ
の教えの真意を汲み取り得ず、比べるべくもない低俗な宗教信仰に低迷してしまっている
のです。本来は人間をして神と等しき自由自在心を発揮せしめるための宗教を、彼らは逆刀
に不自由に不自由にと追いやる様々な戒律や、儀式によって、自己の神性仏性を、奴隷化
してしまったのであります。
彼らは、眼に見えぬ世界からの力を、あまりにも恐れ過ぎたのです。人間の五感にふれ
ぬ世界からの、突然なる働きかけ、天変地異、病気、不幸等に対して、彼らは知性をもっ

て、その原因を探りあて、知性をもってその対策に起とうとはせず、すべてを直感的に、
しわざ
神または悪魔の仕業と思いこんで恐怖におののいたのであります。その恐怖感が、その神
の御気嫌を取りもち、その悪魔の働きかけを払い除けるための、様々な儀式を生み出し、
戒律をつくり、遂に現今までも、その儀式、戒律のもとに自己を縛りつける生活を、一般
大衆がしつづけているのであり、そうした盲点をつかんだ理性的な人々が、ヨーロッパと
結んで、それらの人々を自己の都合のよいように動かして、貧富の差をはなはだしいもの
にしてしまったのであります。
彼らの迷信の一例をとると、牛を神の使いとして、人間より牛を尊ぶ習慣、絶対に虫一
ムん
匹をも殺してならぬという教え、全身に聖牛の糞灰を塗る修行僧等々、数えると人間の自
第2章これからの宗教と科学
由性、自主性を縛る数々の戒律、儀式があるのです。
そのように、多くの戒律や儀式に縛ばられていては、自分達の思いのままに、自由に現
世の幸福生活を築き上げようとしているヨーロッパ人に、文明文化の発達においてかなう
わけがありません。
一匹の虫も殺さずに、この世の生活を発展させることなど不可能なことであるし、いち
いち牛に頭を下げ、牛を神様扱いしていて仕事の出来る道理もありません。まして、托鉢
や修行ばかりしている僧侶を多く養っていたり、国民が何をするにも宗教儀式たくさんで、
ことをしていたら、能率の上がるわけもありません。
まして、各自の宗教を狂信している人達が武器までもって、自己の宗教的信念の下に政
治を行なうのだというように、排他的な感情で一国、一民族の間においてまで対立抗争し
合っているようでは、とても発展、進歩するわけがありません。領土的野心、物質的野心
をもつヨーロッパ各国の実によい餌食になります。
一部にヨガや仏教の優れた、自由自在性を得た聖者を持ちながら、大半の人々が知性の乃
欠如のために、こうした宗教迷信の生活をしているのは惜しいことであると思います。
ネールのような立派な指導者を持つインドですら、一般大衆の宗教的迷信が、如何に国
の発展を妨げているかは計り知れないのです。
知性に頼り過ぎ、遂に原水爆を造る
ところが一方ヨーロッパはどうでしょう。ヨーロッパの知性は、その科学性を極度に磨
いて、今日の文明開化を成し遂げ、有色人種はほとんど白人種の前に頭の上がらざるほど
になってしまったのであります。しかしこの知性も、あまりにも分析的にその頭脳を駆使
し過ぎ、直感的、直覚的という人間の一方の道を忘れ果てたごとく、神の本体へ分析一点
張りで突き進み、人類全滅の鍵を握る、原水爆の発達という極点にまできてしまい、神の
本質である、大調和世界とはおよそ異なる地獄絵に近き最悪の事態に、人類を追い込んで
しまったのであります。
アジアの宗教迷信が、知性ある人々の反感を買い、それらの人々を唯物論共産主義の陣
営に追い込み、それらの指導者の反宗教論に引き込まれて、多くのアジア人を唯物論共産
陣営に引きずり込ましてしまったとは全く反対に、ヨーロッパの唯物的科学の発展が、遂
に、唯物的科学ではこの人類世界は平和になりっこはない、という結論を、今や共産主義
でない世界の国々の人々の心に、引き起こそうとしてきているのであります。
それでは、唯物的科学でない科学とは、一体如何なる科学なのであろうか、という疑問
が投げかけられてくるわけです。
神秘界を霊媒を通してきわめる心霊科学
第2章これからの宗教と科学
それは心霊科学なのであります。心霊科学とはどんな科学なのでありましょうか。これ
はキリスト教がアジアからヨーロッパに渡って、大きな発展を遂げたと反対に、ヨーロッ
パに生まれたものであって、眼に見えぬ世界、五感にふれぬ世界の神秘を、肉体の人間を
使って、極めてゆこうとするものなのであります。
こうした方法は、古くからアジアでも行なわれていたのでありますが、日本やその他の〃
アジァ諸国では、ヨーロッパのように、様々な人々、例えば科学者や有識者の立ち会いの盛
下に、種々な調査研究の上で、何回も何回もデータを取って、誰にでも納得出来るような、
みこ
つまり科学的方法を取らず、ただ巫女式に、神がかり式に、見えない世界、幽界、霊界の
ことつて
言伝をしていたに過ぎなかったのです。
ですからヨーロッパの心霊研究のように、科学的な実証に乏しく、その事実を世界に強
く主張することが出来なかったのであります。
この心霊研究が心霊科学と銘打って、ヨーロッパで次第に盛んになり、現在では日本で
も、そうした方法で、心霊実験会を重ねているのです。
人間とは一体いかなるものなのか、神とはどのようにして実在するものなのか、等とい
う宗教的事柄を、科学的考察によって進めてゆく心霊研究の発達こそ、世界に神の存在を
知らせ、人間の本質を知らせ、人間の真実の生き方を、一般大衆に知らせる、最も大きな
足がかりになるであろうと私は思っているのです。
生命の自由性、独立性を奪う大半の新興宗教
第2章これからの宗教と科学
現在日本において行なわれている、いわゆる新興宗教といわれるものの大半は、独善的
な、ひとりよがりともいわれるあてもの式宗教、または因縁因果の波だけを把えて、その
因縁因果を種にして信者を脅やかし、信者の欲望を餌に自己の膝下に組み敷いて置くよう
なもの、あるいは、日常生活、社会国家の一員としての勤労を阻害させて、ただ自己の教
団詣りをさせるようなもの等々でありまして、人間の自主性、個人のうちにある生命の自
由性を、ある一つの型にはめこみ、縛りつけて、いつまでも個人の生命の独立性、うちな
る仏子、神の子の力を発揮させぬようにしているものが多いのであります。
言い換えれば、依頼心の宗教、恐怖の宗教、欲望を充たさすための宗教であって、神と
人間との真実の関係、人間の真性を悟らせる宗教でないものが非常に多いのです。これら
の宗教はいずれも、古い信者が新しい信者を、常に裁きつづけ、脅かしつづけていて、流
れるような愛の交換、生々とした生命の融合などは少しも見られないものであり、愛と赦刀
しが根本である神のみ心、真の宗教信者とは遠い隔たりを持ち、自由自在心を得させるた
めの宗教とは、およそ層を異にしているものばかりであるのです。
こんな宗教団体に日本の精神界を任せていたとすれば、日本にも東南アジア諸国の宗教
をとやかく言えぬ儀式と戒律に縛られた、独り立ち出来ぬ、自主性を持たぬ人間の集団が
出来てしまい、知性ある他国家、他民族に隷属させられてしまうに決まっております。恐
るべきは、こうした邪宗教なのでありまして、このような宗教教団を盲信していますと、
お互いの教団の勢力拡張のためには、遂に武力をも辞せぬという、東南アジアのある種の
ものになりかねないのであります。
ある大きな宗教団体の会長が、間違った行ないをして検察庁だかに呼び出されたことが
ありましたが、その会長が、「キリスト教などで盛んにパンフレットを配ったりしているけ
れど、なかなか信者が増えないのに、うちではますます信者が増えてゆく、これをもって
しても、うちの宗教が良いものであることが知れよう」という意味の言葉を吐いていまし
たが、その言葉は、いかにももっともそうに聞こえますが、実はそうではないのです。
第2章これからの宗教と科学
それはどうしてかと言いますと、その宗教が立派であればあるほど、人を脅かして無理
矢理に入信させたり、入信した人を、抜けると罰が当たる式で引き止めておいたり、人の
欲望を充たさせるような言葉で入信させたり、人の弱点をついて入信させたりすることは
しないものなので、そう急速に大きくはならないのであります。その会長の教団のように、
信者には必ず何人以上かの信者獲得を強要し、相手が拒否するのもかまわず、相手の弱点、
つまり病気や不幸につけ込み、あるいは義理関係の弱味につけ込んで、無理無体に入信さ
せてしまったり、脱会すれば必ず罰が当たるようなことを言って、なかなか脱会させぬよ
うにすれば、一時は信者の数も多くなり、大きな教会も建てることが出来るでしょう。人
間はみな、病気や不幸を恐れているものなのですから、その弱点につけ込んで脅やかせば、
それが神という名の下にやるのですから、つい言うことを聞いてしまうのも、あながち責
めるわけにはゆきますまい。
また強要してまで、信者を獲得しようとする先輩信者の心のうちを探れば、一つは、自
己の御利益のためであり、一つは、何人かの信者の上に立つことによって、幹部から先達
8・
としての権力を与えられ、先達としての、絶対権力を、その人達の上に振える権勢欲の満&
足によるのです。他の人を自分の下位に置いて、自分の一言一句をもって抑え得る快感は、
なかなか金銭に変えられぬ喜びであるらしいのです。ましてや、他のことでは人の上に立
てぬような、地位の人々には、この喜びはどうしても捨て去れない生き甲斐ともなってく
るのです。
国を滅ぼす邪宗教的生き方
全くうまいやり方で教団を隆盛にしていったものであります。しかしよく考えて見まし
ょう。このような人の弱味や権勢欲につけ込んでの教団拡張を計っているような人々が指
導者になっている、宗教団体がいかなるごもっともなる説法を致しましょうとも、それが
人間の救済になるとも、魂の向上になるとも思われません。またそれに輪をかけて困った
ことは、そうして勢力が拡大してきた宗教団体には、その勢力やその財力を当てこんだ、
政治家や政治家を目指す人々が、手を組もうとすることであります。そこからは大きな社
第2章これからの宗教と科学
会悪が生まれてくるのは必然と言えるのであります。それこそ東南アジアのように、宗教
戦争が起こりかねないのであります。
私はそうしたことを日本のために非常に憂いているのです。現在の宗教団体が、そんな
ふうでないことを祈らずにはいられないのです。
宗教に入って自主性を失ない、心の自由を縛ばられたり、恐怖心を持ち続けたり、排他
的になったりするならば、その宗教は、宗教の本質から全く離れているのであって、宗教
など持たなくとも、常識的なやりとりの上にお互いの生活を築いている普通の人のほうが、
余程上等であると思われます。
宗教と言えば、どうしても、眼に見えぬ世界、つまり精神の世界、心の世界、もっと詳
ひびき
しく言えば、幽界、霊界、神界という、肉体を離れた、あるいは肉体感覚より微妙な波動
の世界のことを取り上げるのであって、直接物質世界の指導をする教えではないのです。
そこでその眼に見えない世界、未知なる世界の事柄をもってきて、「お前の祖先は迷って
いる。お前がしっかり祖先の供養をしなければ、お前のうちには悪いことばかりある」と&
いった具合に言われると、言われたほうは、実際に今は自分の運命が悪いのだし、といっ
てどうやれば、その運命が良くなるか自分では判らないのですから、気の弱い人は、その
一言で震え上がってしまうのです。そこにたたみ込んで、「その供養のためには、自分の教
団の数珠を買い、経本を買い、たすき等を買って、常にお経を上げ、数多く教団参りをし
なければならぬ」と言われますと、ずるずるとその気になって、まず信者の一員になって
しまうのが、そうした教団の信者の大多数であるようです。
自分の仕事をそっちのけにして、お経ばかり上げたり、教団参りばかりしていて、どう
して運命等よくなるわけがありましょう。私はそんなことを日本人の大多数がするように
なったら、日本の産業は衰え、すべての仕事の能率が落ちて、日本はますます貧乏国にな
ってしまうと思うのです。
運命をよくする最大の方法
人間が自分の運命をよくする最大の方法は、自分の仕事に愛情を傾け、誠心誠意を尽く
第2章これからの宗教と科学
し、前途に希望を持った明るい心で働き続けることであって、その裏付け、その内容とし
て、宗教精神を養うべきなのであります。
自分が自分の仕事に愛情を持たず、少し具合が悪いと、自分の仕事は駄目ではないのか
とすぐに思うような精神では、何にすがろうとその人の運命は開けっこはありません。邪
宗教の良い餌食になるだけです。
私はそんな人達は、眼に見えぬ世界を、科学的に研究する心霊研究会(日本ではまだた
いした研究会にはなっておりませんが、やがて大々的になりましょう) にでも出て、幽界
や霊界の研究をして、死んだ祖先が生々と生きていて実際には、どれだけ自分達を守護し
ていてくれるかでも見極めてくると、ぐっと勇気が出、気力が充実してくることであろう
と思うのです。
そうした意味でも、心霊科学の普及を私は深く願っているのであります。やがての日に
は、アメリカのディクソン師のような、白昼堂々と、霊界人を現出せしめるような大霊媒
も日本に現われることと信じております。
地球人類を滅ぼす二大暗黒想念を超えよ
私は唯物的共産主義者と、邪宗教者とが、地上人類を崩壊させる二つの最大の暗黒の面
だと思っています。この二つをまず超えなければ、人類は平和への第一歩をも踏み出すこ
とは出来得ないのです。
アメリカ圏、ソ連圏の二つの対立の中にあって、日本人が、個人の利害得失のみを追っ
ての生活をつづけていたり、邪宗教的生き方をしていたならば、二大陣営の衝突を防ぎ得
いけにえ
るどころか、二大陣営の犠牲となって、真っ先に滅亡してしまいます。
くロつ
現代はもはや原子、電子、微粒子、波動と科学面の探究は遂に、機械にも触れざる空の
世界に突き当たってしまっていて、唯物論、つまり物質絶対主義、物質そのものに生命が
あるというような馬鹿気きった考えは、いやでも消滅しなければならぬ時代になってきて
いるのですが、唯物論者は、依然として、神の存在を否定しているのです。
宇宙の物体と物体を、空間によって調和せしめ、誤りなく運行せしめている力。物質で
第2章これからの宗教と科学
ある肉体に考える力、働く力を与えている生命が、単なる気体や液体や個体から生じるは
ずがあるだろうか。それは大なる叡智者、見えざる絶対者の力によるとしか考えられない
のは、原始人も、現代人も同様なのであります。ただ現代人の一部は、宇宙を動かしてい
る全能者の力が、人間自身のうちにも存在しているのだ、人間とは生命そのものであって、
肉体のみにあるのではなく、四次元、五次元……無限次元の世界にいたるまで働き続けて
いるものである。そしてその生命それ自身に神の力が、神自身として働いているのである、
ということを理論的にも知ってきているのであります。
このことを私流に細かく説くと、毎号の私の説明になってゆくのですが、白光誌(白光
真宏会機関誌)を新しく読む人のために、繰り返して申し上げることにいたします。
私の説く守護神宗教
私は、眼に見えぬ世界や、心の法則、因縁因果ということを、人々に恐怖を与えつつ説
いたり、その人の心の自由を縛るような説き方をしてはいけない、と主張し続けているの
です。私はそのため、現在のその人の心や他の人の心を責め裁くような、その人の心に負・。・。
担を負わせるような説き方はしないのです。
わけみたま
人間は肉体だけではない。人間は神の分霊(分生命)であって、その根幹は直霊といっ
て神界に住し、分霊として霊界に、分霊魂として幽界に、分霊魂塊として肉体に働いてい
るものであって、本来は自らが自由自在であり、完全であり、光明燦然であるのです。し
かし、微妙なる波動のままでは、物質界という粗雑な波動の中で生活することが出来ない
ぶんかつ
ので、自らの光を分割して、その粗雑な波動に同調して、肉体界をつくりなしたので、そ
こに本来の自由自在性、完全性がマイナスされて、業生の世界不完全の世界が、神の世界
と別に存在するようになったのです。そして長年月の間にいつしらず人間と神とは別のも
の、迷妄多き不完全なもの、肉体という枠の中から抜け出せぬ、不自由なる存在者である、
と思い込んでしまったのであります。真実の人間(霊)を無しとし、ある一定期間で消え
去ってしまうような肉体人間を唯一の存在者と信ずるようになってしまったその誤りが、
この人類世界の大混迷、不調和をつくり出し、世界破滅の一歩手前にまで人類を追い込ん
第2章これからの宗教と科学
でしまったのであります。
そこで神は、今日にいたっては部分的宗教観や、小細工的信仰精神などではどうにもこ
の人類の危機を防げると思われず、大救世主的守護神活動を、肉体人類の上に展開しよう
となさり、なしつつあるのであります。それが私の説いている守護神宗教であります。
この守護神宗教に徹せぬ限りは、地上人類は滅びるより他ありません。地上人類が、守
護霊、守護神の存在を信じ、各自の守護霊、守護神、および救世の大光明としての守護神
群の存在を信じて、世界平和の祈りの中に、自らの業想念を昇華させ、地上の人類と、天
界の守護霊守護神達、並びに救世の大光明とを、しっかり一つにつなげることだけが、唯
一無二の地上人類救済であり、地上天国の実現の方法である、と私は叫び続けているので
あります。
そうした守護霊や守護神の存在を、科学的に知るためには、心霊科学の活躍に期待され
るのでありますが、私などに会っていると、自然の間に、守護の神霊の存在を堅く信ずる
ようになり、知らぬ間に、安心立命している自分を発見するようになってゆくのでありま
す。(昭和32年7月) 9。
宗教と科学の一致点
第2章これからの宗教と科学
科学の道、宗教の道
宗教宗教と一口には言いますが、宗教というものが、一体どんなものなのか、というこ
とを、真実の意味において知っている人は意外と少ないのであります。また、科学科学と
言いながらも、真実に科学性を持っている人も案外と少ないのです。
何でも可でも、神様仏様と呼んでいればそれが宗教だと思っていたり、一寸した不思議
な現象をみたりすると、すぐにそれを神力によってなされたものだと思ったりしてしまう
思い方や、自分では浅い科学知識しかないのに、宗教的なことや神秘的なことを極端に排
91
撃したり、自分でやっているわけでもないのに、今に科学で判るさ式の安直なものの思い
方をする人々を見ていますと、地球人類の一般的な進歩というものもなかなか大変なこと
だと思わされます。
それでもまだその人達が、積極的な悪の行為をしないだけまだましなのですが、こうし
た人達を一般人として見ると、それより低い階層の不良分子が、種々と新聞記事を賑わせ
ているのですから、秀でた人々が、余程の力をもって先導してゆかないと、地球人類は宇
宙の孤児になってしまいかねません。
真実の宗教の道においても、真実の科学の道においても、一般の人々が日常生活の想い
の間に一寸表面に現われたその片鱗を見ただけで、深くも探究してみないでいるのにひき
比べて、それはそれは大変な献身(心)的な行為が必要なのであります。
そうした心身をなげうった探求心によって、真実の宗教の道も真実の科学の道も開かれ
てきているのであり、これから更に深く深く開かれてゆくのであります。
ソ連が素晴らしい科学力をもって、宇宙船を次々と成功させているのを見ていますと、
92
第2章これからの宗教と科学
その仕事にたずさわっている、多くの人々の、並々ならぬ苦心や、不惜身命の大覚悟の程
をしみじみと知らされます。前人未踏の宇宙への道を着々として切り開いてゆこうとして
いる、ソ連科学陣の資力と能力と、たゆまざる研究心とには心から敬意を表します。これ
は独りソ連ばかりにではなく、米国に対しても言えることですが、米国は少しソ連に立ち
遅れているという感じです。
こうしたソ連科学陣の成功は、地球人類等しく喜ぶべきでありましょうが、どうも心か
ら万歳を叫べないものが、多くの国々の心の中に残っているのです。それは一体どういう
ところに起因しているのでしょうか。
宇宙開発ということは、地球人類にとって、どうしてもなさねばならぬことであり、そ
の道を開くことは非常に重大なことなのであって、ソ連科学陣の宇宙船の成功は、地球人
類にとって、偉業というべきなのでありましょう。それなのにどうも心の底に何かしこり
が残るのです。何故でしょうか。それは一口に言って、米ソの対立感情、戦争への危機感
というものから起こってくるのです。
科学が非常に進歩してきまして、物質というものが単なる物質でなくて、原子というも卯
のの集合で出来ている、というところから、原子力の発見ということに突き進んできて、
人類に偉大な貢献を為すかのように見えてきましたのに、その原子力の発見が、一転して、
人類破滅への大危機をもたらす、原水爆の誕生という、実に恐るべき、人類への不幸をも
たらしてしまったのです。
宗教精神をはなれた科学力
科学の進歩は喜びとともに、こうした恐怖への道をも同時に開いているのです。この事
実を、全人類は等しく心にとめているのであります。米ソの宇宙船競争が、果たして人類
への貢献だけに使われてゆくのでありましょうか。人々の心の中では、原子力の使用を、
悪魔的行為に使った、対立抗争の人類の近々の歴史的事実を、ついこの宇宙船の場合にも
当てはめてしまうのであります。この想いは、米ソが今日のように対立した感情のままで
いる限りは、消え去らぬのは無理からぬことなのです。
第2章これからの宗教と科学
人類への貢献ということより先に、自国の権威力の誇示ということが大きく働いている
場合は、折角の科学力の成功も、一国の利害得失のほうに比重が傾いて、自国の利害打算
のためなら、その科学の力をもって、何でもやってのけようとする気持ちが強く動いてく
るものなのです。
ソ連の宇宙船の成功も、そうした自国の利害が主となって、為されたものでないとは言
えないのです。と言うより、米国を抑えて、自国の国力を誇示しようとするソ連の意図が、
ソ連の資力と科学力を動員させて、宇宙船の相次ぐ成功にまでこぎつけたと言うべきなの
であります。
さて、こう考えますと、ソ連が宇宙船における米国より優位なる立場を、世界に向かっ
てどのような方向に使ってくるかということが問題になってくるのです。
ソ連の今日まで取ってきた方法は、自国の利害よりまず人類への利害を、というような
考え方できたとは思われません。その一例は、誰でもが知っている、核爆弾の実験の態度
です。労
ソ連は常に平和を望んでいる、と口では言いながら、各国が等しく反対している核実験φ
を、米国がやるからという口実をつけては、各国の反対も抗議もものかは、平然として、
人類に大きくマイナスするメガトン級の核爆弾の実験を続けて行なったりしているのです。
こうした人類への利害などより、まず自国の戦略や政略のほうを主にした動き方をして
いるソ連のことなのですから、宇宙船への科学力の集中も、その心のほどは知れておりま
す。米国や西欧陣営に大きな攻撃的な脅威を加えるために、宇宙船の成功に科学力や資力
を動員したことは何の疑う余地もありません。
といたしますと、あの宇宙船の成功から、またどんな戦争の恐怖が飛び出してくるか、
宇宙船の成功をただ感嘆の声だけで眺めているわけにはゆかない、何かの予知的な恐怖を
米国、西欧陣営側の人々は感じ取っているのです。
さて、こういうところが、宗教心を離れた、科学力一本のソ連のやり方の大きな欠陥な
のであります。もし仮に米国のほうがソ連より優位な立場に立ったとしましても、やはり、
ソ連の成功に抱いたと同じような危惧を各国が抱くことでありましょう。それはやはり、
真の宗教心から生まれた科学力ではないからなのです。
いかに科学力が発達しましても、真の宗教心がその底にありませんと、その科学力は、
カルマ
いつの間にか、人類の業想念の波動に巻き込まれてしまいまして、人類を滅亡させる方向
しか
に動いていってしまうのです。原子力然り、宇宙船もまた然りなのであります。
科学と宗教の一致が必要
第2章これからの宗教と科学
そこで、どうしても、科学と宗教の一致ということが絶対に必要になってくるのです。
今日では宗教は宗教だけ、科学は科学だけというように別々な在り方で、”われ関せず” 式
な行為をしている時代ではなくなっているのであります。
科学と宗教とが、全く一つになって、地球人類のために貢献するのでなければ、その科
学もその宗教も真の科学でも、真の宗教でもない、ということになってくるのです。
人類が持っている科学精神も、宗教精神もどちらも、宇宙神のみ心から出ていることで
あって、宇宙神のみ心から出ていないものは、その存在が許されないのであり、いつか消
えてゆく姿として、消滅し去ってしまうのであります。
ですから、宇宙神のみ心が真っすぐこの地球界に現われれば、科学力は真の科学力とし
て行使され、宗教は、真の宗教心から発したものだけが残される、ということになって、
科学と宗教が全く一致してしまうのです。
すべてが正しい位置に戻ろうとしている
今日までの地球世界は、宇宙神のみ心がまだ真っすぐに現わされていない時代であった
ので、種々の誤ったことや、悪や不幸が存在していたのであります。そうした誤りや悪や
不幸は、宇宙神のみ心が真っすぐに地球界に現われ出でるにしたがって、言い換えれば地
球界が完成されるにしたがって、消え去ってゆくのであります。
今や地軸が傾きかけているのだ、と近頃よく言われていますが、実は全くこの逆で、今
まで傾いていた地軸が、完全な位置になろうとして、活動し始めているのです。そうした
正常の位置に還ろうとする時に、傾いたままの位置にしがみついていた、習慣性になって
第2章これからの宗教と科学
カルマ
いる想念が、崩れ去ろうとして恐怖を引き出し荒れまわるわけなのです。業が消え去ろう
として、最後のあがきをつづけている姿が、今日の社会状勢となり、国家間の大きな争い
ともなっているのであります。
あわ
ですから、正しい心の人々が恐れたり周章てたりする必要はないのです。ただ平常心そ
のままで、祈り心をもって神のみ心に入り込んでいればよいわけなのです。
釈尊の言葉に、転倒妄想している、というのがありますが、人類は今日まで真実を真実
と思わず、誤りを真実と思っていた、つまり逆立ちしていたのであります。それが今正に
正常の位置に戻ろうとしているのです。
讐えて言えば、人間というものは、真実は神と一つのものであり、霊性が主であって、
肉体が従うものでありますのに、神と人間とを別々に考えていたり、ひどい人は、神など
もと
無いと思っていたりするのですし、この肉体の世界より神界霊界と言われる本の世界のほ
うが素晴らしいところなのに、肉体だけにしがみついていたりするのです。私達はすべて、
神界や霊界に本住の地があるのでして、そこから、肉体界に心のひびきを伸ばして、言い。Q”
換えれば波動を伝えてきて、現われているのであります。㎜
それが、いつの間にか、波動の伝わってきている肉体界のほうを主にしてしまった、つ
まり習慣性によって、肉体界に想いが固着してしまったのです。そこから肉体界の文明文
化も切り開かれていったと同時に、本住の地の神界霊界を忘れ果ててしまった、というこ
とになって、逆立ちして生きている状態になってしまったのです。
こうしたことも、すべて、宇宙神のみ心が真っすぐ地上界に現われるまでの過程として、
人類が通ってこなければならない道なのでありましょうが、今日からは、地球人類完成へ
の道が急速調で開かれてゆくのでありまして、そのために救世の大光明のひびきが、地球
人類の身近で愛の心や、知恵能力を大きく注ぎ込んできているのであります。そして、そ
の大光明の側面から、他の星々の完成された人類つまり宇宙人と私達が呼んでいる人々が、
宇宙子科学の力をもって、私達地球人類の完成へ、絶大な援助の手を差し伸べてきている
のであります。
地球科学と宗教を結ぶ宇宙子科学
第2章これからの宗教と科学
今や正に、地球科学と宗教とを一つに結ぶ宇宙子科学の時代がやってこようとしている
のです。宇宙子科学こそ、宗教と科学との全く一致したところから現われた科学なのです。
今日までの地球科学も、ただ単に肉体人間としての知恵能力によってなされたものでは
ありません。すべての発明発見というものは、守護の神霊から送られてきたひびきを、肉
体側がキャッチして、いわゆるインスピレーションによって、為されたものなのです。
ですから、あらゆる科学の成果は、すべて神のみ力が働いて為されているものなのです
が、そうした成果を、人類の持っている、自他を区別する、自己を守ろうとする、自分達
のグループだけを優位に立たせようとする自我の想いが、邪道に持って行ってしまって、
今日の原水爆のように、人類を滅亡させる武器にまで仕立ててしまったのです。
これは科学力の罪ではなくして、地球人類の業想念のためなのであります。
そこで私は、科学はどうしてもその底に宗教心を持って突き進み、また、宗教心を持っ蹴
て、その使用が為されねばならぬと言うのです。ところが、宇宙子科学というのは、深い脱
宗教心がないと、理解することのできないものであり、また行使もできないものなのです。
ですから、どうしても、宗教心と科学性とが、一致せざるを得ない状態になるのです。こ
うした科学力を行使して、金星やその他の先輩星の人類は、その地の平和をつくりあげて
いったのであります。
私達地球人類は、こうした先輩達の指導の下に、地球人類の平和達成のために働くこと
になるのですが、宇宙人達の心と地球人類の心を一致させるのには、並々ならぬ苦労がい
ることを、宇宙人との交流をやっておりますと、痛切に感じさせられるのであります。単
なる興味本位や、虚名を欲っする想いでは到底宇宙人との交流は成功しないし、宇宙子科
学を自分のものにすることなど想いもよりません。
神のみ心から生まれる宇宙子科学
宇宙子科学というものは、宇宙神のみ心からそのまま現われておりますので、こちらが、
第2章これからの宗教と科学
宇宙神のみ心に波長を合わせていなければ、宇宙人の教えを理解することができないので
す。地球科学の場合には、前人がやってきた道を土台にして、学問知識を基にして、現わ
れの側から、機械器具を持って、次第に奥深く、宇宙の本質に向かって突き進んでゆくわ
けで、先人の学問という土台がそこにあるわけです。そしてあくまで、現われの面から、
底へ底へ奥へ奥へと進んでゆくわけなのですが、宇宙子科学の場合は、まず、心のひびき、
くじつ
自分達の出す波動を正しくしておくことが為されねばなりません。想いを空または空に近
い状態にしておいて、そして宇宙人の講義を聞くという段取りになるのであります。
もう最初の始まりが、宗教的なのです。祈りに始まって、知識を吸収し、そして、祈り
に終わる、というのが、宇宙子科学の在り方なのです。
地球科学の科学精神というものは、ある一つの現われを、細かく細かく分析してゆき、
その奥を探ってゆく方法を取るのであって、いわゆる分析学であるとも言えるのです。で
すから科学者は、データなしには、良いとか悪いとか、こうなるとか、ああなるとか、と
いう想像を交じえた答を決していたしません。地球上の科学性というのはそういう態度を
zo3
いうのでありまして、自分で確めもしないで、今に判るさとか、そんなもの無いよ、とか
いう、そういう浅薄な答はいたしません。私はそういう科学性はやはり人類の進歩には大
切なことだと思うのです。
そういう点では、やたらに神仏に自己の利害をおいかぶせたり、一寸した不思議でも、
すぐに神様の力とかいうように、知性を少しも働かせない、その場まかせの御利益信心な
どを、宗教心の中に入れるのには、首をかしげざるを得ないのです。
ro4
いわ”今までの宗教を一掃せよ
” 1⊥ 午宙人曰く
真の宗教心とは、神を求める心であり、自己の本心開発を願う心であって、単なる自己
の利害関係だけを願う心ではないのです。肉体生活をしている人間ですから、誰しも、自
己の肉体環境の利益を願わない人はないと思いますので、自己の利を願うことを、私は決
して悪いとは思いません。しかし、その利益を願うと同時に、自己の本心の開発を願い、
神のみ心の正しい在り方に、自己の日常生活を合わせてゆこうとする、そういう真実なも
第2章これからの宗教と科学
のがなければ、その人の信心などというものは、神を認めない唯物論の人々と全く一つの
ものだと思います。かえって変な依頼心があるだけに、自主独立の精神がなくなって、唯
物論の人より、進歩の度合が遅れてしまうのではないかと思います。
宇宙人に言わせると、今日までの地球人類に伝わっている宗教は、この際一掃してしま
ったほうがよい、とまで極言しているのです。何故そんなことを宇宙人が言うかと申しま
すと、今日では古来の聖者達の真の教えは、わずかその片鱗を現わしているのみで、全く
ゆがめられ、神のみ心を損なうような教えとなって、地球人類の進歩を阻害しているから
カルマ
だ、そうしたゆがめられた教えを真の宗教と思い違えていることは、業想念の波を強める
結果となるから、この際、宗教の大改革が必要なのだ、と言うのであります。
宗教というのは、神のみ心をそのまま教えとして、日常生活に現わしてゆくものでなけ
ればなりません。神のみ心というものは、大調和しているものでありまして、愛そのもの
でもあるのです。大調和の心と愛の心とは全く一つのものであるのですから、愛即ち大調
和ということが根本となるのです。
ZOS
宇宙神という一つの心が、多くの心として、分かれ分かれの生命を持って、各自の生命・6
1
を生ききってゆくのですが、この生命体である各自の心は、常に根本の一なる心から発せ
られていることを自覚しながら、また横のつながりとしては、一つの生命が分かれ分かれ
の仕事をするために、仮に分かれた生命として存在しているので、各自が自己の仕事を分
担しながら、一つの生命の分かれなのだという、愛(合) の精神の下に、宇宙神のみ心を
この地球界に現わしてゆくことが、宗教精神そのものであるのです。
ところが、こうした宗教精神というものが、宗派というものができてくると、次第にゆ
もと
がめられて、折角大調和して、神と一つの心になって生活していたものが、宗を分派とし
て分かれさせたものだから、その派ということに把われて、私達の派、彼らの派というよ
うに、大調和の心を乱し始めたのであります。神のみ心の根本である大調和の心を乱すと
いうことは、もうそのこと一つで、他にどのようなプラス面があろうとも、真の宗教とし
ては、存在し得ないマイナスの要素となってしまうのです。
こう考えて参りますと、宇宙人が、今日までの宗教を一掃してしまったほうがよい、と
第2章これからの宗教と科学
いう極言もうなづけることでありましょう。
宗教信仰というものを一言にして言えば、大調和精神を実行してゆくことだ、と言える
しウくぷく
のであります。他の宗派を折伏するのだと言ったり、この世の業想念の渦中にある政界に
おいて勢力を拡張しようとしたりする宗教などというものは、神のみ心を遠く離れたもの
なのです。
宇宙子科学というものは、そうした分派活動の起こるような状態には絶対にならない、
宇宙神のみ心、宇宙の法則そのままを現わして、生活できるものなのです。宗教の分野で
も、近頃はかなり科学的な説明をもって、宗教の道を説き明かしているものもありますが、
実際活動が、なかなか説明通りにはならないので、信者は楽に現世利益のあるような宗派
に転向していってしまいます。そういたしますと、秀れたほうの宗派の教祖は、現世利益
だけの宗派をけなして、自己の宗派に信者を獲得しようと、低い宗派のレベルにまで自己
をひき下げてしまって、講師達を激励します。自己の教えのほうがよいのに、何故信者が
低いほうの宗派に流れ込むのか、口惜しくて仕方がないのでしょう。
107
こんなやりとりは、全く宗教の本道を外れたくだらない心の在り方なのです。私なども
全く宗派争いの宗教の姿を見ていますと、自分が宗教家と名乗るのが嫌になってしまうほ
どです。
108
宗教の極意と宇宙子科学
宇宙子科学の勉強をしていますと、実に堂々と神のみ心を実践していまして、何とも言
えないよい気持ちです。宇宙人方は、みんな大調和した心の持ち主で、自ずと宇宙神のみ
心そのままを行じているのです。
宇宙子科学というのは、地球科学で判明しております、電子や中間子や陽子という微粒
子より十数段階も微妙な存在である宇宙子というものの説明から始まって、宇宙神のみ心
が、科学的にはどういうふうにして、人間精神となったり原子となったりするか、宇宙と
いうものは、どういう構造になっているか等々、地球科学者達の是非とも知りたいような
ことを、徐々に図解入りで説明してくれているのです。私達の宇宙子科学研究グループに
第2章これからの宗教と科学
は、西洋医学のお医者さんも漢方医の人も、パイロットも物理学専攻の人もいるのですが、
きようざつ
皆精神的に宗教を体得した人々で、心にあまり爽雑物の無い人々です。あまり神秘力のみ
に興味を持っていたり、雑念の多い人達は、そうしたまじり気を取って、純粋な宗教心に
してからメンバーに加えることにしているのです。
宇宙人は、波動を非常に重要視していますので、各自の心の在り方というのが、根本的
な問題となるのです。しかも宇宙子科学というのは波動学と言ってもよいくらい、波動の
説明があるのです。地球科学でも、微粒子の先は波動だと言っていますが、宇宙子科学の
宇宙子というものも波動の集合なのです。ただこの宇宙子は、地球科学の電子のように物
質的と思われているものより、はるかに高次の存在で、生命波動そのものの現われなので
あります。宇宙子はその活動の根源を宇宙核というものから得ているのですが、この宇宙
核は、宇宙神のみ心そのものの第一段階の働きにつけられた名称のようであります。
すべて生々とした生命の働きであり、こうした生命の働きが、一糸乱れぬ科学的働きを
為して、この宇宙を存在せしめているのであります。地球科学の宇宙船はロケット推進力
ro9
によって打ち上げられていますが、宇宙子科学によってつくられた空飛ぶ円盤は、波動の
拠点と波動の拠点との融合調和によって、瞬時にして目的地に現われることができるので
す。この地球界で考える押し上げる力というような力を超えた、波動の流れに乗って自由
自在に現われたり消えたり、止まったりするのであります。宗教の極意も神との一体化に
よる自由自在心にあるので、両者は全く一致した心を持っているのであります。
(昭和37年10月)
170
宗教と科学を生かす道
第2章これからの宗教と科学
生老病死の四苦解決を目指して
人々が宗教の道を求める根本の想いは、自己の本体本心を、はっきり知りたい、という
ことにあるのですが、それが現象の面では、この肉体界に生きていることによる、様々な
のが
苦しみを脱れたい、超越したい、ということと、死に対する恐怖を逃れたい、という想い、
あんのん
それに加えて、死後の世界における自己の安穏を願う想いとなっているわけなのです。
釈尊が出家したのも、人間の生老病死の苦しみを、如何にしたら解脱でき得るか、とい
う問題を解決したいためだったのであります。古来からの聖者賢者は、すべて、この生老m
病死に対する恐怖や苦悩を、生きとし生けるもの全体から取り除きたい、という願望をも皿
って、神仏を求め、絶対者を求めたのであります。全く、この人生を生きぬいてゆくとい
うことは大変なことでありまして、一生のうちには、その人々の過去世からの因縁によっ
ては、大きな差異はあるにしても、種々様々な苦しみを経てこなければなりません。
自己の精神生活も物質生活も、常に充たされ続けてゆけるような世界、それを個人も人
類も望み続けているわけですが、なかなかそういうわけには参りません。
病で悩んでいる人は、「病気さえ治れば何でもやる、何も恐るるものはない」というほど、
治病一念ということになりますが、さて今度は貧乏になりますと、「金さえあれば、金さえ
あれば」と金を追い求めるようになります。
次には、自分は健康で生活にも困らないが、親戚知人に困っている人達がいて、何かに
つけて相談をもってこられ訴えられる。そうしますと、「困ったことだ、どうしてみんなが
幸せになれないのだろうな」と、そうした困っている周囲の人々の想いの波に同化してし
まって、自分自身の心も安定しないような気になってきます。
第2章これからの宗教と科学
それに次第に自分の家族の人員が増えてゆき、誰彼と病気をしたり、自分も老年になっ
てきたりしますと、この世の最後の悩みである、死というものを間近に感じざるを得なく
なってきます。
自己を含めて、家族の人々の死というものに想いがいたると、どうしても、心が安定し
てはいられなくなります。まして、最愛の人々の死に直面した時などの苦しみ悲しみとい
うものは、いかなる慰めの言葉も価値をもたぬほどの、心の打撃となります。
このように、自己や自己の周囲、大きくは世界人類全体の、生老病(不調和) 死(滅)
の苦悩が無くならないことには、宗教の道が、この世にはっきり敷かれている、というこ
とにはなりません。
科学者の功績と先人宗教者の苦心
この地球世界は、文明文化の点においては、原始時代から比べたら、神様の世界そのも
ののような、便利な自由な生活ができ得る状態になっております。こうした文明文化の発
rr3
展ということは、間接的なことは別として、宗教者の功績ではなくして、科学者の偉大な
功績ということができます。
今日のこの素晴らしい文明文化の恩恵には、ひどい未開の地は別として、人類全般が浴
していることでありまして、地球人類をこれまでに仕上げてきた、数多くの科学者の人々
には、心から感謝しなければならぬと思います。
ところで、こうした科学者の力による、文明文化の華があまりにも華々しく開いており
ますので、表面にはあまり現われぬ、宗教者の力というものが、一般世界では、非常に低
く評価されていまして、宗教などは医者に見放された病人や、社会活動の中心から外れた
よりどころ
不遇な人々の心の拠所ぐらいにしか思わぬ人達がかなり多くいるのであります。
ところが、科学が人間生活をより便利により自由にと切り開いていったと同じように、
宗教の道というものは、その当人が気づくと気づくまいとにかかわらず、人間の心の支え
として、何人にも絶対に必要な道なのであります。
この世にもし、宗教の道や、宗教精神というものがなかったとしたら、この地球界はす
114
第2章これからの宗教と科学
でに滅び去っていたことは明らかなことなのです。宗教の道、即ち神仏に対する畏敬の念
あごが
や、憬れの想いは、表面的には現われなくとも何人の心にもあるのでして、この神仏への
畏敬の想いが、人類の闘争精神や、自我欲望の想念を、どれほど、縮少させているか計り
知れないのです。
古代からの聖者賢者や、それにつらなる宗教的な人々の祈り心の光明波動は、人類全部
の本心である良心、善なる心にひびきわたっていて、人類の自己保存の本能からくる残虐
行為を、最小限度に食い止めていたのであります。
これは表面的にはっきり、これがこうだ、と現わされていないので、科学の法則のよう
な説明はつけられませんが、私どもの霊覚でははっきりと、その経緯がわかるのです。こ
うした宗教者の力というものも、私どものやっている宇宙子科学(波動学)が進展するに
つけて、理論的にもすっきりした説明ができてくると思うのです。
私は、地球世界を、今日のような生活しやすい文明文化の世界にして下さった、科学者
の人達にも敬意を表するものですが、それと同時に、今日まで犠牲者のような難行苦行の
IIS
中で、宗教の道を行じ続けた先人宗教者達にも深い感謝を捧げるものなのであります。
rr6
宗教の本筋を見失うな
さてここで、私の申し上げたいことは、宗教者が科学の道をないがしろにしたり、科学
者が、宗教の道を一笑にふしたりすることのない、大調和の道を一日も早く創り上げなけ
ればならぬということなのです。
それにつけても、宗教の道というものが、今日までのように、妙にむずかしい型があっ
たり、判りにくいものであっては困るし、といって、病気が治るよ、貧乏が直るよ、とい
うような、病気治しや、貧乏直しなどの、御利益だけを売りものにした宗教は更に困りも
のだと思うのです。
何故病気治しや、貧乏直しや御利益信心だけでは困るか、と言いますと、病気や貧乏な
どのように、生命の自由性を縛るような現われ方をすることは、すべて、その人の過去世
から今日までの想念が、本心の在り方から外れていたからでありまして、本心からくる光
第2章これからの宗教と科学
明波動の新陳代謝、宇宙子科学的に言えば、精神宇宙子の新陳代謝ができにくくなって、
精神的にも肉体的にも老廃した宇宙子や細胞分子がたまってしまっていて、生命の自由自
在性を縛る、病気や貧乏や、その他の不幸、不調和な状態を顕わすわけなのです。
ですから、自己の生活態度を、本心から外れたままにしておいて、ただ単に病気を治し
てくれ、貧乏を直してくれ、という、現世利益の想いだけを持つ人々に迎合して、そんな
願いだけを宗教信仰だと思わせてしまうようなやり方は、神のみ心に沿わない在り方なの
であります。
病気や貧乏などのような、生命の自由、生活の自由を縛るような現われ方は、誰しも嫌
のが
なことに決まっていますし、一日も早く、そうした環境から遁れたい、と思うのは無理も
ありません。そこで病気を治すため、貧乏を直すため、不自由な生活状態を、自由なもの
うなず
にしたいと願っての宗教信仰入りも肯けることなのです。
問題はそうした信者側にあるのではなくて、そうした信者を受け入れる宗教指導者側に
あるのです。一般人の宗教信仰入りの第一歩は、ほとんどが現世利益の願いをもってなさ
II7
れます。現世利益の願いというのも、実を言えば、生命の自由自在な働きを願う一つの現認
われなのですから、現世利益を願って悪いわけはありません。私の言いたいことは、第一
歩は現世利益の願いで入信してもよいが、第二歩第三歩と歩みを運ぶごとに、本心開発の
道、神との一体化の道に、歩一歩と信仰の歩みを深めてゆかねばならない、と言うのです。
そういう指導を怠っていて、ただいたずらに、いつまでも現世の利益を追わせるような

生き方を信仰の道だと、思わせてしまうような宗教指導者がいたら、その指導者は堕地獄
の人だと私は言いたいのです。
何故かと申しますと、そうした指導の仕方は、信者を三界の業想念波動の中に、ますま
す深く巻き込んでしまって、本心開発の大きな障害としてしまうからなのです。
払うべき借金は払わねばならぬ
てんろく
人には生まれながら定まった天禄というものがありまして、一生におけるその人の財宝
は定まっているのであります。ただ、その財宝を一生のうちでどのように分けて使うか、
第2章これからの宗教と科学
ということが、その人の自由に任せられているのです。何故財宝が定まっているかという
と、それは過去世においてのその人の生き方によって定まってきているのです。
ですから、赤ん坊として生まれた時から、金持ちや地位の高い人の家に生まれたり、貧
乏な人のところに生まれたりする、一見、神のみ心が不公平なような生まれ方をしている
わけです。
それぞれの才能も、肉体条件も、一応過去世の因縁によって定まってくるのです。この
一応定まった運命や環境は、過去世からの因縁通り、言い換えれば、過去世からの習慣の
想念行為のままの道を進んでいったのでは、赤ん坊の時に定まって生まれた運命通りの生
活がそのまま現われてくるわけなのです。
これを輪廻転生の生活というのですが、こうした運命法則の道を進みながら、輪廻転生
のが
の渦の中で想念を巡らせながら、その場その時々の病気治しや貧乏直し、不幸災難遁れの
信仰をしていたとて、その宗教団体を運営している霊団の力で、一時は病気が治ったり、
貧乏が直ったり、不幸災難を逃れたとしても、それでその人の一生の間の病気や不幸災難
ir9
が消滅したわけではないのです。伽
それはただ、その霊団の力で、一時抑えをしただけなので、その人の運命波動の一点に、
後から後からと巡ってくる業想念波動が、次々と溜まってきてかえって、次の段階におい
ては、より大きな災害となって、その人の前に現われてくるのです。丁度、借金を延ばし
ているようなもので、延ばせば延ばすほど利子が重なって払いにくくなるようなものです。
その真理を知らずに、ただ単に目先の利害関係だけ願っての宗教信仰者にしてしまって
は、その宗教教団が神仏のみ心に沿わぬものである、ということになります。
この現世の借金と同じように、払うべきものは払わねばならぬのが、運命の法則なので
す。私達はこの真理を知っていますので、私のところに来る人々に対して、非常な苦心を
するのであります。病気を一時抑えにして治すことはできるし、貧乏な人に金を与えるた
めに霊的にその人の知人に働きかけることもできるのです。しかしそれではその人の本心
の開発を遅れさせるだけで、真実にその人の生命を生かすことになりません。そこで私は、
神のみ光を放射することによって、その人が病気に耐えぬき、貧乏に耐えぬき、不幸災難
に耐えぬける力を与えるとともに、徐々に神と人間との関係、人間の本体本心の話などを
判り易く説いてあげて、次第にその人の本心の力を開発するようにしているのです。
運命の転換は想念の転換で、そして想念の転換は祈りで
第2章これからの宗教と科学
わけ
人間には誰にでも、守護神、守護霊がついているのですが、そうした守護の神霊と、分
みたま
霊の肉体人間との光の交流を業想念の黒雲が妨げているので、業想念波動のままの運命が
転回されてゆくので、不幸災難がそこに現われてくるのです。そこで私達の世界平和の祈
りによる救世の大光明波動によって、守護の神霊と肉体側との一体化がなされてゆきます
と、その人々の運命法則として、払わねばならぬ業想念波動(借財)が浄められてゆき、
病気や貧乏や不幸災難の運命が根本的に改められてゆくのであります。
それにしても、守護の神霊との一体化がなされるまでは、多少ともに過去世の習慣の想
念波動によってできた運命軌道の修正されてゆく姿として、病気や不幸という消えてゆく
姿が現われることもあるのです。
121
とにかく宗教信仰というのは、神を求める心であり、神との一体化、本心の開発のため
のものであるので、そうした根本的な道に乗りさえすれば、その人の過去世からの業想念
による運命は、全き修正を見るのであります。真実の宗教信仰とはそうしたものであるの
です。

この世的に言って、病気するにも貧乏になるにも不幸災難に遭うのにも、それ相応の原
因があるのです。それは各人の想念のあり方とその行為によってすべてなされているので
のが
ありまして、不幸災難というのも、その人の想念行為の波動によって、遁れもし、遭遇す
ることにもなるのです。それは先ほども申しましたように、不幸災難を受けるのは、過去
世からの因縁によるのですが、定まった不幸災難を遁れるというのは、過去世からの因縁
波動を超えなければなりません。その人の現在の想念行為が、過去世からの業因縁によっ
てできた不幸災難を受けるべき波動の圏内を離れていなければなりません。
そうしたことはどうしたらできるか、と申しますと、それは、その人の想念波動を、過
去世から習慣づけられていた、災難や不幸を受けるような想念波動と異なるものにしてし
122
第2章これからの宗教と科学
まわねばなりません。異なるものにするのに一番易しい方法は、守護の神霊の加護による
祈り一念の生活に切り替えてしまうことなのです。三界の業想念の世界に住んでいる自分
の想念を、神界に住まわせてしまえばよいわけです。その最も容易で、しかも同時に他の
人のため、世界人類のためにもプラスになるのが、世界平和の祈りなのであります。
世界平和の祈りは、そのまま神界、霊界にその人を高めあげる祈りだからなのです。す
べては想念の習慣によるのですから、うまずたゆまず、世界平和の祈りの中に自己の想念
を向ける習慣をつけていますと、いつの間にか病気や、不幸災難の渦の中を経めぐってい
た想念波動が、神界霊界の明るい浄らかな安心立命したひびきの世界に同化してゆきまし
て、不幸災難の波動の中から脱け出すことができてくるのであります。祈り一念の生活こ
そ何にもまして大事なのであります。
運命の転換には、どうしても想念を転換させることが必要なのです。暗い想念、不幸な
想い、病気や貧乏な想い、そうした想念を、世界平和の祈りによって、神界霊界の光明波
のが
動に切り替えてしまうことによって、病気や貧乏や不幸災難を遁れると同時に、本心の開
r23
発も自然になされてゆくのであります。
そこで私は、病気や不幸や悪い想念を消えてゆく姿とし、消えてゆく姿で世界平和の祈
りだ、と言っているのです。
724
宗教者の役目と科学者の役目
ところで、病気を治したい、貧乏を直したい、という想いで宗教信仰入りした人の中に
は、いつまでもその事柄だけに凝り固まっている人があるのです。病気が治るのも、貧乏
から脱け出られるのも、その人の想念が、病気や貧乏の波の中から出ることによって直る
つか
のでありますのに、いつまでもいつまでもその想いに掴まっていては、直りようがありま
せん。だから、そうした想念を祈りの中に入れてしまって、次第に祈り一念の生活に切り
替えてゆかねばならぬのです。
宗教信仰者には面白い型の人がおりまして、宗教団体に入ったからには、絶対に医者に
かかってはいけない、と思い込んでいるような人がいるのです。
第2章これからの宗教と科学
私はこれは面白い現象だと思っているのです。医者(治療師)は病気を治すために必要
なのであり、西洋医学も東洋医学もそのためにあるのです。宗教家は神仏の道を指し示す
ために存在し、世界人類全員に、神の子の姿を現わさしめることを本願として活動してい
るのであります。
ですから、宗教者が病気治しを本職のようにしているのはおかしなことなのです。宗教
者の指導によって、神仏の道がわかってき、本心が開発されてくるに従って病気も自然に
治ってくる、というのであって、真の宗教者は病気治しを看板にすべきではない、と私は
思っているのです。
そう考えますと、病者を扱う場合、あくまで医師を表面に立てて、宗教者はそうした病
気治しに把われず、本心開発を指導すべきであります。そういたしませんと、科学と宗教
との、はっきりした一線が崩れてまいりまして、科学と宗教との調和が取れなくなってし
まいます。科学者はあくまで科学者であり、宗教者はあくまで宗教者なのであります。お
互いにその立場をはっきりさせながら、科学者は宗教精神を自己のものとして科学の道を
725
進み、宗教者は、科学の道に敬意を払いながら宗教の道を進むべきなのであります。
宗教信仰者が、医者にかからない、という場合には、家族全員が、生死をすべて神に全
託しきって、家族の誰が死のうと、それは神のみ愛によるのである、とはっきり割り切れ
もつ
るほどの深い信がなければ、家族の間で纏れができて、かえって病状を悪化させたりして
しまうものなのです。すべてにおいて、調和ということが大事なことであるのです。
私など度々出会う問題なのですが、その人はもう死ぬに定まっているという運命を持っ
た人の家族が、急病ですから、と私に頼みにくるのです。私は大きな仕事で忙しくて行か
れませんので、遠隔から祈ることにします。しかし、祈っても祈らなくとも、その病人は
死ぬのです。しかし、家族に対して、その人は死ぬよ、とは言えません。医師に看せるに
しても、貧乏であまり続けて看せるわけにはゆきません。私はそんな時、まず魂を救うた
めの光を送ります。そして、大丈夫ですよ、と軽く言うのです。この大丈夫は、魂を迷わ
せない、ちゃんと往くべきところに往かしめる、という、大丈夫なのですが、相手がどう
とるかは別問題です。
r26
さいこ
そして、最期の一歩手前で、医師に看せることを薦めるのです。それは、無駄なお金を
しゅくこう
かけさせたくないことと、病気の苦痛によって払えるだけの宿業の借財を払わせてしまい、
魂の汚れを少しでも軽くして、あの世に往かせてあげたい、と思うからなのです。
この世における、病気や貧乏や不幸や災難は、そうしたことによって受ける苦悩によっ
て、過去世からの宿業が多少にかかわらず消え去ってゆくものなのです。ですから病気や
不幸は、過去世の因縁の消えてゆく姿として、新しい善き因縁の積まれてゆくように、祈
りの中に想念を入れてしまいなさい、と私は言っているのです。
第2章これからの宗教と科学
科学と宗教との一致点
そのように祈りによる光明波動に切り替えませんと、折角苦しんで消していった宿業と、
同じような業想念をまた再び心の中に送り込んでしまうからなのです。
何故かと言いますと、想念は習慣によって流れてゆきますので、過去世からの誤った、
暗い習慣を変えない限り、同じことを再び積み重ねてゆくことになるのです。町
スポーツの世界でも、悪いフォームはそれを直さない限り、その人は立派な成績をあげ溺
ることはできません。
そこで病気や貧乏や不幸災難になった場合、その場の処置に全力を挙げるとともに、そ
の事柄を過去世の因縁の消えてゆく姿と見て、神の慈愛のみ心に飛び込んでしまうことが
必要なのです。神のみ心に飛び込むことが祈りなのであります。
祈りというのは、巷間で思っているような願いごとではありません。祈りとは、生命の
宣言でありまして、生命を神のみ心のままに、自由に伸び伸びとさせることなのでありま
す。個人を人類を、自由自在に生かしめる原動力なのです。
私が常に申しますように、生命というものは、肉体そのものではありません。ですから、
肉体が滅びても生命が死んだわけではありません。そこのところがよく判りませんと、死
に対する恐怖が無くなることはありません。
病気や貧乏も勿論嫌なものですが、死別ほど人間にとって嫌なものはないでしょう。病
苦は医学によって何とか解決してゆくかも知れません。貧乏も社会政策がよくなれば、次
第2章これからの宗教と科学
第に無くなってくるかも知れません。しかし、死というものは、医学でも社会政策でも、
どうにも手のとどかぬ問題です。
今に科学で解決するさ式の安直な、科学迷信者にしても、問題が生死のところにきます
と、そう安直に科学で、というわけにも参りません。現在の科学の限界点は、生まれてく
るということと、死ということの二つの面にぶつかって、それ以上は進んでいません。
地球科学が、宇宙線や、電子や陽子や中間子や中性子などを発見して、科学の素晴らし
さを更に明らかにしましたが、生命の起源に対する解釈は、まだまだ幼い気がするのです。
立派な科学者達は、自然の姿を科学で解明し得たのは、実にまだ僅かなことである、と言
っているのです。
だからと言って、宗教が科学より上等なのだなどとは、現在の宗教者の在り方では、と
ても言えません。地球科学はあくまで、現象の世界から、自然の奥に向かって、突き進ん
でゆく学問であり、宗教の世界は、自然の姿を、そのまま神の現われとして、素直にその
中に没入してゆく生き方であります。私達は、宗教の道をたどり、神のみ心の中に自己を
rzy
滅却して、遂に宗教と科学の一致点を見出しました。それが宇宙子科学なのです。そして
宇宙子科学の根本は世界平和の祈りの中から生れ出でたのであります。宇宙子科学こそ、
はっきりと生死の鍵をにぎっているのであります。(昭和38年6月)
r30
これからの科学これからの宗教
第2章これからの宗教と科学
地球人類の危機
地球人類の救われ、ということを、今日ほどはっきり思わされる時は他の時代にはなか
ったことです。アジアをみても、アフリカをみても、欧米をみても、どちらを向いても、
あんのん
安穏なところは一つもありません。
個人個人の救われを想わない人は勿論ありませんが、地球人類の危機感を感じていない
人は成人した人間ならないわけです。ただそういう危機感を、自分達ではどうしようもな
いという気持ちで、奥へ押しやっていたり、わざと気づかぬような態度でいたり、その場
137
限りの快楽で、自己をごまかしていたりしているだけなのです。甲
こかつ
地震をはじめとする様々な天変地変、石油や食糧などの資源の枯渇、それにつれて、自
分達だけが生き残ればよいと思う各国家の自我欲望から生み出される戦争状態。アメリカ
などもそうなのでしょうが、今度はっきり示し出された、ソ連の原子炉を積んだ人工衛星
など、国家間の感情の行き違いによって、一瞬にして地球が壊滅してしまうような恐ろし
い状態を大国はつくり出しているのです。
こんな時代からぬけ出して、人類が安心立命できる平和な状態の地球世界にするのには、
一体どうしたらよいのでしょう。誰もがその方法がわからずに、自分達だけの日常生活の
安穏だけに気持ちをうち込んでしまっているのです。しかしそんな心の状態は、やがて地
球とともに滅亡してしまう個人生活でしかないのであります。
こんな危険な世界にしてしまったのは、すべて科学の発展してきたせいなのだ、現代の
ように科学が進んでいなければ、原爆もできなかったし、現在種々と起こっている、公害
もなかったのだ、と現代科学から受けている絶大な恩恵をすっかり忘れて、吐き出すよう
に科学の悪口を言っている人々がいますが、現代から受けている有難い日常生活をまるっ
きり忘れてしまっては、神様の愛のみ心にそむくというものです。
それは科学の発展が悪いのではなく、科学知識を悪用してしまった一部の人間達の想い
とかく
が悪いのであります。日本人は兎角短兵急にものを考えるくせがありまして、その場の状
態を深く探究もせずに、すぐに良い悪いを決めてしまったりします。科学嫌いの人にも宗
教嫌いの人にも、そういう心の状態の人が多いようです。
宗教生活の在り方
第2章これからの宗教と科学
もっと
科学嫌いの人の反対に、やたらと宗教をけなす人がおります。尤も現在の宗教の在り方
には、随分と間違ったところもありますから、けなされても仕方がないともいえますが、
それが深く探究するのではなく、一口でけなしてしまうのです。極端なのは、神など存在
しない、というのであります。神様がいらっしゃらないのなら、あらゆる生物、特に人類
のような高等生物は、一体どこからどうして生まれてきたのか、それを解明してでなけれ
133
ば、神様の存在を否定するなどという愚かなことはできないのです。解明すれば勿論神様
がそこにいらっしゃることは、私どもは体験として、はっきり知っているのです。しかし、
神などあるものか、と一口でぽんと言える愚かな人が意外と多いのですから困ってしまい
ます。
といって、中近東諸国のように、原始宗教的な信じ方で、様々な戒律に縛られて、不自
由そのもので生活している人の多いのも困ったものです。あれでは科学の発展はとても望
めませんので、いつまで経っても文明文化は開けず、地球人類としての少しの進化も行な
われないのであります。家にトイレもなく、排泄した河で顔を洗い、煮たきをしたり、洗
濯をしたりする。日本人には考えられない不潔さも平気なら、一定の祈りの時間がくれば、
どんな重要な仕事をしていても、一斉にその仕事を止めて祈りに入ってしまったりする生
活態度など、宗教信仰が、社会生活の発展を止めてしまっているのです。
神様を中心にし、神のみ心を第一にして生活してゆくのは実に結構なことなのですが、
中近東諸国の誤った宗教生活をしている人々の神様は、真理のみ心そのものの神様ではな
734
第2章これからの宗教と科学
しんかん
く、人間が勝手につくった神観を、上から押しつけてきた格好で、それが長い間にいつの
間にか、それらの宗教の型になってしまい、文明文化の発展を阻止する動きの宗教儀式や
戒律行になってしまって、文明文化の発達した西欧諸国に何かと世話をかけて、地球上の
生活をしてゆかねば生きられぬような破目に、自分達の国を追い込んでいっているのであ
ります。そしてこの人達の中には、自分達の宗教観念の中にだけ立てこもって、他の宗教
べつし
を敵視したりしている人も多いのですから、宗教を蔑視する人のいるのも無理からぬこと
なのです。
大宇宙がこうして存在するのも、地球が物質的波動体として現われていて、肉体人間が
ここで生活を営んでいるのも、みな神様のみ心ですから、地球人類としては、どうしても、
この地球世界を調和した立派な世界に育てあげなければならない使命を持たされていると
いうことになります。
r35
宗教の使命
r36
調和した立派な世界にするためには、この地球世界の生活が、あまりに不自由だったり、
辛かったりしたのでは、その目的を成就することはできません。自由な、楽しく生活でき
る環境に仕立て上げてゆかなければならないのです。
中近東諸国のように、宗教の戒律に縛られた、あんなに物質的に不自由な生活では、と
ても神の理想を実現することはできませんし、西欧諸国や日本のように、文明文化の恩恵
に浴して、ある程度の物質的自由を自分達のものにしていたとしても、未来に大きな不安
を持ったままで生活していたのでは、やはり神のみ心を現わしているとは言えません。
物質科学の発展で、今日のような便利な世の中になったのは、何と言っても有難いこと
ですが、それにつれて、地球壊滅にいたる核兵器のようなものや、様々な公害が生まれて
きたことは、もう物質科学だけの発展ではかえって地球進化のためのマイナスになってし
まう、ということになるのです。
第2章これからの宗教と科学
宗教が戒律主義になったり、儀式第一で終始しているようですと、かえってマイナスに
なるように、科学の道も、今日までのやり方では次第にマイナスを深めてゆくことになり、
ともに地球滅亡の方向に進んでいってしまうのです。
そこで、まず第一に宗教の正しい在り方を人類に認識させる運動が必要になってきます。
宗教の第一義は、神と人間との一体化の道を体験することであり、人間が心のままに自由
自在に行動できる道を見出すことにあるのですから、この道に沿っての宗教を改めて見出
さなければならないのです。
神が資本家とすれば、人間はその資本を自由に生かして、神のみ心に沿った世界をつく
ってゆくべきで、そういう天命をもたされているのです。それが宗教的儀式や戒律のため
に自由を縛られて、資本を使うことができず、次第に貧困に陥ってしまっている、という
ような宗教の在り方ではどうにもなりません。
神のみ心は一口に言って、愛と美と調和でありますから、そういう世界を大宇宙につく
り上げてゆくのが、全生物の使命なのでありまして、地球人類は、地球上にそういう世界
r37
をつくり上げてゆく天命を持たされているわけです。神は一であって、その仕事の分担と
して多くの神々として分かれて働かれているわけで、その神々の末として、人間が存在し
ているのであります。
ですから、神々のみ心のままに働き得る人間にならなければ、大神様のみ心に沿わない
ということになるので、そこに人間の宗教の道というものが開かれ、祈りということが、
その方法として実行されてきたのであります。神様のみ心と人間の心とが全く一つにつな
がる方法、それが祈りなのです。それが旧来は儀式や戒律によって、型だけのものになっ
てしまったり、不自由な把われの心にしてしまったりしたのです。また一方では、個人個
人の現世利益の願いごとを、祈りのような格好で、神社や仏閣に向かってしていたわけな
のです。現世利益の願いごとも尤なことであり、して悪いというものでは勿論ありません
が、それは神と人間とを離して考えての願いごとなのであります。真の祈りというのは、
神と人間とを一つに結ぶ方法なのであります。この祈りには神社や仏閣はあっても勿論よ
いのですが、無くても、自分の心の中で行じればよいので、その方法として私は、守護の
r38
第2章これからの宗教と科学
ごと
神霊への感謝と世界平和の祈り言を行じているのであります。
何にしても、神のみ心を遠く離していての現世利益の願いごとでは、この地球世界の救
われになることはありません。この地球世界に神のみ心が現われることによって、地球の
救われがあるのでして、それは人間が神との一体化によって行なうより他に仕方がないの
です。そのために生まれたのが、世界平和の祈りなのです。
神のみ心によって兄弟姉妹である人間が、心を一つにして世界平和の祈りをする時、そ
こんげ
こには地球人類が愛と調和の権化と化し、大きな進化がなされるのであります。金星など
の先輩星はもうすでにその大進化を成し終えているのであります。
これからの科学の働き
そういう祈りから、実際の救われの形としては、秀れた科学力として、地球上に渦巻い
ている、業想念波動から生まれたマイナス面を是正してゆくのです。今日までの科学は、
科学が精神生活をマイナスしていましたが、これからの科学は、精神の輝きが科学力にう
739
つし出されて、大調和をつくり出す、様々な機械や器具や装置がなされてゆくのでありま
す。
今日までは、宗教と科学が、全く反対の立場のように、扱われてきましたが、これから
の科学の働きは、すべて宗教精神と、同じ立場から働き出してくるのであります。宗教で
は生命の基である神のみ心と一つになろうとしていろいろと修行し研讃するのであります
が、科学でも実は生命の働きを追って研究してゆくので、ともに生命の働きを知ろうとし
ての動きなのです。科学が物質やその働きを捉えてそこから未知の世界を追究してゆくの
でありますので、宗教のように直観的に生命の基を知ろうとするのとは違うようなのです
が、実はともに助け合って、この世の実体を知ろうとしているのが、人類の生き方なので
す。
ところが、今日までの科学は、生命は物質から生じてきたように誤解していましたが、
実はそれは誤解に過ぎないので、真実に科学を勉強している人は、物質の奥にある生命の
働きというものを感じながら、その生命を物質の本質をつきつめながら捉えようとしてい
iqo
第2章これからの宗教と科学
るのです。アインシュタインのような偉大な科学者は、常に生命の根源である神に祈りな
がら研究をすすめていたのでありまして、直観によって知らされたことが随分とあったよ
うなのです。
これからの科学はこのアインシュタインのような宗教精神を持った人々が、その研究を
進めてゆかねばならないので、唯物的人間の科学はもはやこれ以上の歩みを進めることは
地球滅亡を促進させるだけなのです。私達は宗教者なのですが、人類救済の祈りを続けて
いるうちに、宇宙天使の人々から教えを受けて、宇宙子波動生命物理学(仮称)という科
学の学問を進めるようになり、今日では相当深いところまで進んでまいりました。私達は
この学問を一口に大調和科学と申しておりますが、すべては調和に向かっている科学なの
です。
この学問はもう十五、六年前から始められたのですが、その最初の頃から教わっていた
原子の基の宇宙子という存在は、波動でありながら、構成が亀甲形になっているのを知ら
されていて、それを基にして様々の数式ができているのであります。
741
ところが最近、電子顕微鏡で有機化合物のわかる構造が撮影され、前記のことが裏付け
されたような記事が、各新聞(昭和五十三年二月二十六日)に発表されておりましたので、
概略を書いてみます。
1 この撮影に成功したのは、京都大学化学研究所の植田夏教授を中心とする研究グル
ープで、顔料として使われている有機化合物の分子構造を、鮮明な電子顕微鏡で撮影する
ことに成功した。写真にはこの分子を構造する一部の原子がポツンと丸い姿を現わしてお
り、同グループは「世界で初めて、原子を見た」と成果を話している。
えんそかどう
この有機化合物は、塩素化銅フタロシアニンで、炭素、窒素、塩素、銅の四種の原子か
ちょうこうぶんかいのう
ら成り、緑色の顔料に使われている。グループは、同研究所の超高分解能電子顕微鏡を用
いて、この化合物の写真撮影を試みてきた。
その結果、中心を占める銅を窒素が取り巻き、さらに炭素が結合して、外周を塩素が囲
んだひし形の分子が整然と、いくつも並んでいる写真が得られた。
更に、一つ一つの分子を見ると、ひし形の中央には銅の原子そのものが黒く写っている。
r4z
第2章これからの宗教と科学
また、ひし形の各辺には、いくつかの塩素原子が丸く姿を見せているーという内容でし
た。
これを見ますと、私どもの宇宙子科学の一部の説明に通ずるものがあるのですが、宇宙
子科学ではこの奥の世界、つまり宇宙子の構造や働きをくわしく説きあかしているわけで、
その数式と図解は、宗教精神のある科学者なら、よく理解できると思います。
宇宙の調和と平和のために
この大宇宙はすべて大調和に向かって働いているものであることは、宇宙の運行を見つ
めている人なら誰でもわかることですが、この大調和に向かっている宇宙の動きの中で、
地球人類が核兵器のような、破壊兵器をつくり上げ、その能力をエスカレートしていると
いうことは、宇宙の運行に逆行していることで、もう神のみ心をすっかり逸脱している行
為なのですから、神々がそのまま見過しておられるわけがありません。そのため先輩星の
優れた科学力を持つ宇宙人達が、その誤ちを是正しようとして、近来は積極的に地球人類
743
に働きかけてきています。近頃は世界各地で、UFO (未確認飛行物体、つまり空飛ぶ円
盤)についての話が出ない日はありません。UFOを見たり、宇宙人に会ったりした人が
次第に増えてきております。
私どもは科学の面で、宇宙人の指導を得ておりまして、直接地球科学の誤りを正す役目
を受け持たされており、宇宙子科学というものの学問を進めているわけなのです。宇宙人
の科学というのは、円盤一つを取り上げてみても、地球科学では到底計り知れない高度な
科学力が働いています。速度といい飛行方法といい、地球の飛行機ではどのような飛行機
も及びもつかぬものです。もし仮に円盤に悪意があって、地球を攻撃してきたら、円盤数
機で地球はたちまち滅びてしまうでありましょう。
ところが幸いに宇宙人達にはそういう悪意はなく、地球に核攻撃を加えるなどという恐
れは毛頭ありません、ただ宇宙の平和のために、大宇宙の調和した運行のために、地球の
誤った生き方を正したいと出現してきているわけなのですが、宇宙人としては、正面はあ
くまで地球人自体にその役目をさせたいので、各地から選ばれたグルLフや人々が、活躍

ようや
させられるようになっているのでありまして、最近は漸くその働きも軌道に乗りかけてい
るのであります。私どもの宇宙子科学も、十五、六年の歳月を経て、今ではかなり深くそ
の学問は進んでまいりまして、地球科学との接触の一点もだんだんできてきているのです。
その日の一日も早く来るように、私どものグループでは世界平和の祈りを多くの人々が実
よこしま
行しておりまして、大調和のひびきで邪な波動を浄めているのであります。
(昭和53年4月)
第2章これからの宗教と科学
r45
第3章これからの文明文化
j48
これからの文明文化
物質文明の極限にきて
この地球人類が、進歩した他の天体から降臨した霊性のものと、ダーウィンの進化論的
な猿人性動物性をもった人類との融合によって成立したものであることは、ひとまず後で
説明することにして、一般常識の考え方からすれば、幾多の変化変遷の結果、今日のよう
な、他の動物とは比較することもできない、文明文化を生みだしてきたことは、形の上に
おいては、驚くべき進化というべきであります。
かご
陸地は徒歩か馬、水上は丸木舟というような時代から、駕籠や人力車や馬車、汽船、汽
第3章これからの文明文化
車電車と進んできて、今日のように、何処の国をも自動車が走り、電化した乗物はますま
すその速度を早め、空には音速を超える飛行機が飛び交い、スイッチ一つで、世界各国の
状態が一目で判るテレビの出現をはじめとして、電信電話にラジオにステレオ、電気洗濯
機、電気冷蔵庫、電気掃除機と、すべてが電化してきたこの便利さ、昔の人がみたら、夢
かと驚く文明開化の世の中になってきております。
そして遂に、原子力の発見によって、原水爆というような、文明文化が裏がえしになっ
た、一瞬にして地球滅亡というような、物質文明の極限の姿が、この地球界に現われてき
てしまったのであります。
肉体世界を、より住みよく、より生活し易いようにという、人類の希望は、文明文化の
発達を次々と促進させ、原人時代から比べて、隔絶した住みよい世界、向上した生活を築
き上げてまいったのですし、精神的にも、階級制における不平等な状態を消滅しさろうと

して、宗教者、思想家、学者や文化人等々が、生命を賭して、今日までの平等生活をつく
り上げてきたのであることは、何人も知っておるところです。
749
現在では、昔のように悪い国王や、悪大名、悪役人が、地位をかさにきて庶民を思いの
ままにするというようなことは、何処の国でもできにくく、あるいはできなくなってきて
おります。一般大衆の声が為政者の耳にもよく入ってゆくマスコミの時代になっていて、
無礼者と言って、百姓町人を勝手気ままに斬り捨ててしまうようなことは、絶対にできな
くなっています。
これはとにもかくにも、精神指導者の捨身の行為によって、人類全般の心が、真実の生
き方に一歩近づいていった証左であります。物質文明の進歩だけが表に目立って、幾多の
精神指導者の熱烈なる精神指導の面は陰にかくれている状態でありますが、その力は大き
かったのです。
それは、あに釈迦、キリストという宗教者だけではなく、文化人や学者、政治家の中に
も、そういう立派な人物がかなりあったわけなのです。
ところが、今日のように、物質文明文化の極限に参りまして、住み易くあるべきはずの
世界が、明日をも憂う、恐怖心におののく時代に変貌してきたのであります。物質文明の
ISO
第3章これからの文明文化
発展は、一方で安楽と喜びを与えながら、一方で人類絶滅という恐怖を与えることになっ
てきてしまったのです。それは文明文化の喜びをより多く味わっている都会人ばかりでな
く、いまだ文明のあまり開いていない国々や、辺地に住む人々にまで、一応及ぼす恐怖な
のであります。
都会に住んでいて、交通難による恐怖とか、空気の汚染による嫌悪感なども、文明のも
たらしたマイナス面でありましょうが、核爆発の恐怖というものに比べては、その比では
ありません。
そうした恐怖や嫌悪感は、自分達が決意して、そうした土地を離れれば事足りることで
もあり、科学の知恵をしぼって考えれば防止できることでもあるのですが、戦争の武器と
もなりますと、そういう表面的なことでは到底解決のつく問題ではありません。
永遠の生命に立脚した精神活動
この問題は、何が一体解決してくれるのでしょう。それは一口に言って精神です。とこ
ISI
うが、この精神は生易しい精神状態ではないのです。今日までのように、真実の精神が陰
にかくれていて、物質科学の成功だけが表面に浮かび上がっているような、そんな状態で
はとても駄目なのです。
精神と言っても、唯物論者にも精神はあるのですし、精神が唯神(心)論者の専売では
ありませんが、唯物論者、つまり神の存在を信じない人々の精神というのは、あくまで肉
体脳髄にのみ属している精神でありまして、肉体よりもっと深い、もっと根本的な存在で
ある霊性、霊体に直接つながっている奥深い精神、つまり本心というものではないのです。
人間というものが、肉体だけの存在であると思い違いしている人々の精神活動というもの
は、永遠の生命というものに立脚していないのですから、永遠性のない浅いものになって
しまいます。
唯物論者の中にも、宗教宗教と、宗教に明けくれている人々よりも、その行為の立派な
人が随分ありますが、その根本が、神のみ心、つまり宇宙精神につながっていない、肉体
むいくう
人間という範疇の行為ですので、真実神につながっている、無為の心、空の心に近い人達
152
第3章これからの文明文化
の精神状態とは違ってくるのです。
私はここで神という言葉を使っていますが、宗教だ神だ仏だと、それのみに熱中してい
るように見える人々の中に、その熱中する原因が、すべて自己本位のものであり、自我欲
望、自己利益のためだけのものである人が、かなりあるのです。
その人々は、宗教と言い、神と言い仏と言い、それを求めているように見えながらも、
それはあくまで、自己のイメージに合うものであって、自己のほうにその神仏を引き下げ
ようとしているだけなのです。
ひとたび
真実に宗教の道を求め、神仏を求めようとする場合は、自己の想念行為を、一度は、そ
の求める道や、神仏の中に投入しきらなければいけないのです。自己のほうから、神仏の
中に飛び込まなくては駄目なのです。生きるも死するもあなた様のみ心のまま、というと
ころから、真実の神仏がその人の中に働き始めるのであって、神仏を自己のほうにひきよ
せようとするような信仰は、宗教的には邪道であるわけです。
しかしながら、人間には、種々の心の階層がありまして、ある人には何でもなくできる
」53
想念行為が、ある人にはとてもできない、ということが、この世の心の修練以前の問題と
してあるので、それは素質とも言えるでしょうし、過去世の因縁の相違とも言えるであり
ましょう。
そういう心の階層のあることを、神々のほうでは勿論よく御存知なのですから、そうい
う階層階層に当てはめて、指導者をさし向けているのであります。
くうむいぜんたく
はじめから空になり、無為になり、全託になれる人は問題はありませんが、もっと低い
階層の人々にも、真実の神というものを知らせるための処置が講じられているのです。
人類の理念は、空の奥、無為の底に通じているものですので、如何なる人でも、いつか
は、そういう境地になり得るのであります。それを端的に表明したのが、仏教の浄土門の
教えの中にある、法蔵菩薩の誓願であり、すべての人々が救われないうちは、自分は仏に
ならない、と言い切っているのです。そして法蔵菩薩は、阿弥陀仏になっておられるので
あります。
これはどういうことかと申しますと、仏にならぬと言い切って仏になられていることが
154
この教えの根本でありまして、もうすでに人類はすべて救われている、という真理の表明
なのです。人類がすでに救われているから、自分は阿弥陀仏になったということなので、
人類がすでに救われていることは確かなのです。
救われるということ
第3章これからの文明文化
救われるということは、それでは一体どんなことなのか、という問題が、ここで出てま
いります。病気が治り、貧乏が直った、それで救われたのか、そうではありません。それ
は一時肉体的に救われただけでありまして、心そのものが救われているわけではありませ
ん。病気が治り、貧乏が直ったことによって、神仏への全託がなされた、というのなら、
その人は病気や貧乏が直ったことによって、真実に救われたことになります。
救われということは、神仏とのつながりをはっきり自覚したことによって成就するもの
であって、神仏にはっきりつながった、という自覚がなければ、その人の救われは、現象
的にはなされていないわけなのです。
ISS
そういたしますと、現象的に救われの状態にある人は、数えるほどしかいないわけで、
法蔵菩薩のおっしゃっていることが違ってくるということになります。しかし、み仏が嘘
をおっしゃるわけがない。とすると、救われとはどういうことか、という問題を、もう一
度考えなおさなければならないことになります。
一口に言って、人間を肉体的なものと限定する限りは、永遠に真の救われには到達しな
いのです。しかし、人間を霊性のものとして、霊なる人間の波動体として、肉体も存在す
るのだ、という考えになり、霊とは神そのものの生命であるとし、各個人個人はすべて神
わけいのち
の大生命の分生命である、という考えになりますと、人間は、はじめから救われている、
神のみ心の中にすくい取られているものであることが判るのであります。
もう少しはっきりこの理を説明しますと、神の分生命であり、霊光の波動である人間生
命が、神の世界から、霊の世界、幽の世界、肉体世界というように波動をのばしてゆきま
して、現在は、五感に見える、地球世界という物質波動の中で、肉体人間として生活して
いるのであります。そういたしまして、霊性の人間が物質波動に融合しようといたしまし
rs6
第3章これからの文明文化
て、種々と働いているわけなのですが、いまだに霊肉一致して、神のみ心に直通している
人を育てあげてはいないのです。
しかしながら、この肉体界、幽界の波動の元の霊界神界においては、同じその個生命が、
いのち
厳然として、しかも自由自在に生命そのままの生活をしているのです。それは神のみ心そ
のままでありまして、はじめから救われの状態なのであります。そういう真理を法蔵菩薩
は悟られて、そのまま宇宙神と合流してしまわれて、阿弥陀仏となられたわけであります。
真理とはこういうことなのである、という教えが、法蔵菩薩を代表して示されているわ
けです。ですから、現象の幽界肉体界において、どのように迷いの姿、苦悩の姿がありま
しょうとも、その人の元の心は救われているということなのです。
どちらに眼を向けるかということで、肉体にありながらも救われることができるわけで、
くワつ
肉体人間が一瞬にして真の救われを体得する方法が、空になり、無為になる方法なのであ
ります。なぜかと申しますと、空になり、無為になるということは、この肉体人間として
の想念を空にすることであり、無為にすることでありまして、肉体人間の想念が全く空に
与7
なり無為になれば、霊妙な神霊波動がそのまま、肉体に現われてきまして、真理がそのま
ま判ってまいりまして、肉体人間ではとてもなし得ない、様々な奇蹟が行なえるようにも
なり、想念が何ら惑うことがなくなり、安心立命の境地になるのであります。
ISS
神の全能性を信ずるならば
くサつ
ところが、なかなか空の状態や無為の心境にはなり得ないのです。そこで、神々天使は
様々な人々に各種の方法で、その人その人の階層に合うように、一段階ずつでも昇華でき
るように導く方法を教えているのでありまして、各宗派や種々な宗教の道ができているの
も、そういうわけなのであります。ですから、低級な御利益宗教があっても、それも大き
な目からみれば、その存在価値があるわけなので、この世に存在しているあらゆるものは、
善悪高低にかかわらず、その存在を神から許されているということになります。それでな
ければ、神の全能性というものがなくなってしまいます。
神の許しがなくとも存在できるということは絶対にないことで、神の存在、全智全能性
第3章これからの文明文化
を信ずる人ならば、誰でも、それを承服しなければならないところなのですが、悪の存在、
低劣なるものの存在を承服できないものを、人間は持っているのであります。
人間というものは、じつに面白く複雑なものでありまして、一方で神の絶対性を信じな
がら、一方で神の全能性を否定するような想念をしきりに持つのです。
神の愛を信じ、人類の完全平和の達成を信ずる心は、神の完全性、絶対性を信ずる心で
あり、人間の悪の存在を認め、人類の不幸の実在を認める、ということは、それだけで後
のつけ加えがなければ、神の完全性への否定となるのであります。
そういう複雑な人間の心をよく知っておられた釈尊は、神と言って、宇宙神的な説き方
じん
はなさらず、守護神的な神や霊魂としての神というもののみを語られたのであります。そ
して自己の中にある神性、つまり仏の開発の方法に重点を向けられたのであります。その
深い思慮ある教えを考え違いしている僧侶の中には、無神論者が意外なほどいるのです。
それでは、どうしたら神の絶対性、完全性を認めながら、悪や不幸や、低劣なる存在に
対したらよいかということになります。それは私の説いておりますように、すべての出来
759
かこせ
事も環境も、みんな過去世からの因縁の消えてゆく姿である、とすることで、認めまいと
しても否定しても、現象のこの世界には、悪も不幸も低劣な存在も、自己の心にうつって
きてしまいます。
そこで、悪や不幸や低劣な存在を認めてしまったと同時、あるいは即座に、そういう存
在は、すべて過去世の因縁、神のみ心を離れていた想念行為の習慣性によって存在するも
のとして、今の自己、今の人類の中にあるものとせず、心の中から消してしまうのです。
消すといっても、消してくれる先が判らないでしょうから、はじめからそういう悪や不
幸や低劣なもののない世界、つまり神の世界に消し去ってしまうのです。その方法は、守
ごと
護の神霊への感謝とともに、世界人類の完全性をそのまま祈り言にした「世界人類が平和
でありますように」という祈り言の中に消し去ってしまうのであります。
私の提唱している世界平和の祈りは、そういう意味も含めてあるのであります。
rho
今日までの生き方と宗教
第3章これからの文明文化
めっきゃく
昔から宗教の世界では、個我を滅却しなければ、悟りの世界には入り得ない、とされて
いますし、事実そうなのですが、今までの宗教の修行方法では、なかなか個我滅却という
ところまでは参りませんで、中途半端な道にたたずんでしまう形になり、自己自身も安心
こんきゅう
立命の境地に入り得ず、家族の者達の生活をも困窮させてしまう、いわゆる、この世的な
ひょうれい
生活力のない生き方になってしまうか、慧霊的な霊能者状態になって、全く常識を逸脱し
はたん
た人格破綻的な生活を送るようになったりしてしまい勝ちです。
この世において、神仏の理想そのままに生きようとするためには、その人物が、超越的
な素晴らしい霊覚と、非常に高度な人格とを兼ね備えていなければ、到底無埋なことであ
りまして、その高さに達するまでには、この世の社会人としてのそれなりの妥協というも
のと、家族との調和というものが必要になってまいります。自己が道を求むるのあまり、
ひんきゅう
家族を貧窮の底に陥れるというようなことは、その人がよほど人類社会のために、神選び
767
に選ばれた人でないと、その人のマイナスとなるのです。そこが、宗教の道を求める人の娩
}番むずかしいところなのです。
また、自己が精神的に弱いため、社会生活に耐え難く、神仏の懐に飛び込んでゆく、そ
して、宗教生活という名にかりて、自己の貧窮や、自己の地位のむなしさを言い訳してい
る、という男性達もおりますが、これは、大半が妻や子供という家族に負担を負わせる形
になっています。
神仏の懐に飛び込むのは、勿論よいことですが、家庭や社会の生存競争が恐ろしくて、

遁げこむ場としての神仏であっては、その人に与えられている生命力というものの全力を
発揮するためのマイナスとなります。
人間というものは、個人が生きているというそのこと自体が、他の者達へのプラスとな
のが
ってゆくように本来つくられているものですので、置かれた環境から遁れよう遁れようと
する想念は、そのまま自己の生命の力を削りとってゆくようなものです。
私はそういう点では、唯物的な人達が、他の人々を押しのけても、自己の地位を確保し、
第3章これからの文明文化
おうせい
自己の事業を拡張してゆく、という生活意欲の旺盛さを、ただ単に、あんな悪い奴とか、
あんな権力欲の亡者とか、あんながめつい奴とか、けなし去ってしまえないだけのものを、
彼らが持っていることを感じるのです。
彼らは彼らなりに、部下や社員を多勢養っているのであり、その人達の生活の原動力に
なっているのです。そうしたプラス面を、彼らの旺盛な生命がなし得ているのです。彼ら
の行為は、善悪ともども、この世の在り方の参考として、人々の心の中に残るのです。
ただただ、自己の心の満足のために、家族を貧窮させ、社会のために何らの貢献もしな
いという、宗教信者の在り方は、神々の満足し給う生き方ではありません。そういう人達
が多かったら、この人類の発展はあり得ません。インドや東南アジアの国々が、アメリカ
や欧州諸国の支配下から脱し得ず、貧苦にあえいでいるのは、誤った宗教観念のためであ
って、人間の生命力を外に向かって自由に活動させ得ないところから、それらの国家民族
の発展が阻止されているのです。宗教的に凝りかたまった人々の中には、今日までの科学
文明の恩恵を、自らも受けていながら、ただやたらと、今日の科学文明の悪口を言ったり吻
しています。そういう人達は、いったい広範囲に活用される電気や便利な乗り物を、どう
いう気持ちで使用しているのでしょう。
すべては神から分かれた生命力、つまり知恵能力を、全面的に活用してきた人々の働き
が、今日の便利な生活を築き上げてきたのであり、文句を言いながらも、誰もがその恩恵
に浴しているのです。
誰も彼もが、貧しいままで満足し、不便なままで満足していて、一体地球世界の発展が
なされてきたでありましょうか。それはヨーロッパとアジアの文明文化の差をみれば、は
っきり判ることです。
神のみ心というものは、時代時代によって種々な現われ方をするのでありまして、今日
までは、確かに今日までの生き方が大きな見方からすれば一番正しかった、と考えるより
他に仕方がありません。
神の歩ませ給う道が誤りであるはずがないからです。正しい信仰、確たる信仰というの
わけいのら
は、こういう根本的な考えが大事なのです。人間は神の分生命であり、神の子であること
r6¢
第3章これからの文明文化
は間違いありません。そして神は、全智全能であられることも当然なことです。神が全智
全能でないとすれば、宗教の世界は、唯物思想の世界に属するより他はないからです。唯
物思想に宗教が屈した時、それは言わずと知れているように、地球世界の滅亡がそこにあ
るのみなのです。
大神は全智全能であられ、神々は各守護の神霊として、個人を、そして国家を人類を守
りに守っておられることを、私は私の霊覚で体験としてよく知っているのです。私はそう
した視点から、人類の過去からの歴史を見、今日以後の地球人類の在り方を見つめていこ
うとしているのです。

そこで、今日までの科学の発展を是とし、その科学文明文化に感謝しているのです。
これからの科学の命題
しかし、それでこと足れりとしてはいないのです。物質科学の発展の末の、核戦争の脅
威から人類を守るという方法が、必ずこの人類の知恵として生まれてくる必然性を、私は
r65
堅く信じているのです。而
今日までの物質科学文明は、核爆弾の誕生とともに、頭打ちとなってしまったのです。
物質科学は、微粒子の世界にまで到達して、遂に波動と微粒子、素粒子との関係にいたり、
その周囲をめぐりめぐって今日にいたっているのです。
このように文章だけで書いていますと、大したことでなさそうに見えますが、原子を発
見し、その核反応、核融合という、宇宙世界の地球にとっては一大目標である、太陽の在
り方を発見して、原子の世界において、その実験の成功を収めたということは、これが戦
争の武器として使われたことによって、全世界からうとまれてしまいましたが、これの平
和利用における貢献は非常に大きなものになることは疑いもありません。大した人類の智
恵能力なのであり、それまでに科学をもってきた先人の労苦は並大抵のものではないので
す。
しかしながら、もっと重要で根本的な生命の本源のことについては、物質科学はいまだ
に何らの究明もなされていないのです。
第3章これからの文明文化
生命というものは、原子の世界にも働いていますが、原子そのものではありません。微
粒子、素粒子の中にも働いていますが、微粒子、素粒子そのものではありません。あらゆ
る波動の中に働いていながら、波動そのものというわけにもゆきません。
大宇宙隈なく働いていながらも、これが生命である、と眼に見、五感でとらえることの
できない生命というものの実体を、如何にしたら自己のものとなし得るか、これが、今日
からの科学の命題であり、古来からの宗教の道であるのです。
現在の物質科学では、あくまで、生命そのものが物質から生まれる、というような錯覚
をしていますので、そういう道からは、生命の問題は今日以上、深く入ることはできませ
ん。ただ一部の唯心的な科学者達が、物質を離れて生命がある、物質以前に生命がある、
ということを言い出してきていますのは、一大進歩というべきです。
人間とはいかなるものか
私は科学の問題をひとまずおいて、宗教の面から、大生命、つまり生命の本源の把握に吻
身心を投げ打ったのですが、その結果、自己の生命というものが、肉体という物質体にだ溜
けあるのではないことを、体験的に知ったのです。
現在、肉体的に現われている自己というものが、じつは大生命の本源から、光明波動と
して、各種の波動の階層に、各種のボデーを持った自己として存在していて、肉体という
自己に波動が伝わってくるまでには、幾階層もの波動圏を通ってきていることを知ったの
でした。
ヘヘヘへ
昔の人はうまいことを言っていたもので、この肉体世界のことを、うつし世と言ってい
ました。うつし世、確かにこの肉体世界は、神界、霊界、幽界という、階層の波動圏の写
ってきている世界なのです。ですから、肉体界にいる自己というものは、高い微妙な世界、
一口に神界としておきましょう。その神界にいる自己が、様々な階層の光明や陰影をつけ
て、ここに存在している、つまり波動がここに止まっている、ということになるのです。
ひと
人というのは、霊止ということで、霊の止まっているところということになるのです。
おくど
人の本源の大生命の深い奥所には、直霊として人間は存在しているのであり、その光明波
第3章これからの文明文化
動が、次第に肉体界という物質波動に天降ってきているのです。
こんこう
その間、幽界という光明波動と物質波動、微妙な波動と粗雑な波動との混瀟した世界の
波動圏を通ってくる、光と闇の世界と言ってもよい世界を通ってくるので、現在の肉体界
は、善悪混清、神性と獣性混清の世界となっているのです。
幽界というのは、物質界の業想念の蓄積されたところでもあり、神界の光明波動の流れ
る道でもあって、人間はその圏を通る時に、想念の中に、神の大光明を念じていることが
大事なのです。
言い換えますと、幽界というのは、潜在意識層の世界であり、肉体の顕在意識で想った
こと、行なったことが、すべて記録されている場なのです。そして、その階層を通りこす
と、また幾重にもなっておりますが、神意識、本来の光明意識の世界に到達することにな
るのです。
生Ao波動はそのまま光明波動であり、神のみ心そのままということにもなります。その
生命波動、光明波動を邪魔するものが、肉体という狭い範囲の人間観で、これは善し、こ
r69
れは悪、これは自分にとって不都合、これは都合善し、というような小智才覚の想念波動卯
なのです。
そこで宗教の教えとしては、空になれとか、無為にしてなせとか、釈尊や老子、その他
の聖賢達がしきりに教えていたのです。宗教の世界で、小智才覚を無くすことをすすめる
のは、小智才覚による小さな人間観でこの世のことを計っていると、大宇宙、大生命との
つながりが断たれてしまって、永遠の生命、真の生命の働きを損ってしまうからなのです。
誰にもできる観の転換法
そこで私は、先に述べたような、精神的な弱さから神仏の世界に飛び込もうとしている
かこせ
人達のためにも、すべての不幸、災難、環境は過去世からの因縁、つまり幽界に蓄積され
ている、神のみ心を離れた、小さな人間観から出た、誤った想念行為の消えてゆく姿とし
て、この顕在意識の世界に現われてきた性癖であり、不幸であり、災難であり、環境であ
るのだから、すべてを現われたら消えてゆくものとして、神の大光明のみ心の中で消して
第3章これからの文明文化
貰いなさい、そのために、何か自己への不信感が起こったり、人様から不都合なことをさ
れたり、不幸な事態が起こったりするたびに、これで悪いものが消えるのだと思って、世
界人類の真の平安が生まれるようにと願う、大願目の言葉1 「世界人類が平和でありま
すように」という、大光明思想の中に想いを飛び込ませなさいと説いているのです。潜在
カルマ
意識の自己否定、人間不信感等々の業想念波動を消えてゆく姿という言葉で観を転換させ、
神のみ心である、世界平和の祈りの中に入れきってしまう、日常生活にしてしまうのが、
私の説くところなのです。
人間の想念というものは、習慣性を持っていまして、不幸ばかり思っている人は、不幸
の波動を呼びよせてしまうのですから、常に明るい、神の大愛の大光明のほうに、自己の
想念を向けて置く必要があるのです。ところが、過去世からの習慣性で、なかなか明るい
想いにならない人もあるのです。そこで私は、消えてゆく姿という言葉を使って、常にた
ゆみなく、世界平和の祈りのような、人類愛の大光明波動の中に、人々の想念を入れて、
知らぬうちに、想念の習慣を、暗いほうから明るいほうに、暗黒から大光明波動の中に転
171
換させてしまう方法をとっているのです。これは空になれとか、無為になれとかいう、む
ずかしい方法でなく、安易に何気なく、観の転換が行なわれるので、どんな人にでも、子
供にでも、老人にでも、易しくできる宗教の道となるわけなのです。
すべては神の御心の中にあるのですから、神から離れた不安や不幸の想念は、百害あっ
て一利なしで、人間というものは、つい悪いほうに不幸なほうにと想いを向ける癖がある
ものなので、どんな理想論も、ためになるお話も、その時だけのことになってしまいます
カルマ
し、坐禅をしてもお祈りをしても、業想念波動は、また元の潜在意識に形をかえて、蓄積
されてしまうのです。なぜかと申しますと、消えてしまうのだ、という想いがないのです
とど
から、いつまでも止まってしまっていますし、消えてゆく先がないのですから、またもと
へめぐ
のままに経巡ってしまうわけです。
私の、消えてゆく姿で世界平和の祈りというのは、三界を経巡っている業想念波動を、
縦に神の大光明世界に、世界平和の祈りという祈り言に乗せて消し去ってしまうので、常
に新しい光明波動が自己の潜在意識に蓄積されてゆくわけなのです。
r72
第3章これからの文明文化
宗教的には、こういうふうに私達は生まれているのでありますが、宗教的な根源に入り
ますと、宗教と科学というものが、別々に存在するものではない、ということを痛切に感
ずるようになります。消えてゆく姿で世界平和の祈りというのでも、宗教的であって、し
かも科学的な方法をとっているのです。精神科学の分野のやり方でもあるのです。
ところが、私達が考え行なっている方法は、宗教的には、消えてゆく姿で世界平和の祈
りとして人々に伝えておりますが、もう一方では、純粋な科学の面の研究を続けているの
です。それは、生命の本源に、私達の想念が祈りとして入りきってしまったところから始
まった科学でありまして、物質的科学とは一線をひきながら、また最後には、現在の科学
と全く融合してゆくという科学の道の発見なのです。それを私達は、宇宙子波動生命物理
学と呼んでいるのであります。
科学の発達と真の宗教
科学という言葉は不思議な力を持っているとみえ、世の人々は科学とか、科学的にとか労
いう言葉には非常に弱いのです。これは科学的にこういうことになるのである、と言われ
ると一向に判らないことでも、科学でそうなら間違いはないのだろう、と鵜呑みにしてし
まう傾向が多々あるのです。
原子や電子の学問でも、一般の人々はその研究にたずさわったこともなければ、実体の
片鱗さえ知ってはいないのですけれど、科学者がこういうものである、という説明をする
と、そういう学説を、そのまま自己の知識として、あたかも当然そのようなものであると
いうような感じになってしまうのであります。
そして、科学がより以上に発達してゆけば、宗教などというものはなくなってしまう、
というように思っている人々も多いのです。それほどに科学への信頼は強いのであります
が、その科学が今日までに発達してきたその底にある、すべての人々の労力を省き、便利
に楽々と生活させたい、という人間生活への愛の精神を忘れてはならないのです。
その愛の精神こそ、実は宗教の根本の精神でありまして、科学が発達するに従ってなく
なってゆくものは、真の宗教ではなく迷信的宗教なのであります。巷間の宗教観というの

第3章これからの文明文化
は、自己の現象生活の利益を得るための、いわゆるお助け宗教であって、自己の本心開発、
精神顕現のための宗教でないものが多いのです。
科学の発達は、今日では非常に高度なものとなっているようですが、いまだに現世利益
の宗教入りをしている人の数は少しも減っているとは思えません。
真に科学が高度な発達を遂げてゆけば、確かに迷信的現世利益宗教はなくなってゆくの
ですが、現在の地球の科学は、常にどこかでゆがめられた発展をしていまして、真実天地
をつなぐ科学、いわゆる人間の心を安心立命させてくれるほどの正常な発達は遂げていな
いのです。
科学の発達が、人間の安心立命の道に結びついてゆかぬ限りは、現世利益の宗教がなく
なるわけがないのです。なぜかと申しますと、人間は常に自己や自己の周囲の安全を願っ
ていますので、その安全がおびやかされる状態が何処かにあれば、その安全を完うしてく
れる何かの力にすがらずにはいられぬものなのです。

自己保存の本能と観音信仰

日本では、昔から観音様にすがる観音信仰というものが盛んです。現在の新興宗教群の
いずれもこの観音信仰の変化したもので、その信仰の根本には、自己保存の本能が強く働
いているのであります。それは、この世(あの世も含めて)の不安感がこうした信仰に人
々をはしらせるのであります。戦前は、天皇を中心とした国家というものに、絶対な信頼
を置いておりましたので、現世利益の宗教もそうはなぱなしいものではなく、軽い程度の
あが
ものでしたが、敗戦後は、神と崇めた天皇への信頼が砕かれた形で、天皇に代わる何か強
力な柱を民衆が欲したのです。
そういう何かにすがりつきたい、天皇は駄目、国家にも信頼が置けぬ、という、そうし
た不安の想いが、新しい宗教の神々を柱と頼む、いわゆる新興宗教詣りという形になって
きて、今日のような新興宗教の輩出となったのであります。
ですから、民衆の心に生活への不安、未来への不安というものがつきまとっているうち
第3章これからの文明文化
は、御利益宗教というものがなくなるものではないのです。私は、現世利益の宗教があっ
ては悪いなどと思っているものでもありませんし、私自身も貧乏や病気や家庭調和のため
に、種々と力を尽くしているわけなのですが、現世利益を願うだけの宗教観で民衆をひっ
っばってゆくのは、人類の進化を止めてしまう危険な行き方だと思うのです。
それが自己の利益だけでなく、社会や国家のための利益を得るのだ、という言い訳がつ
いていても、現世利益を根本にしての活動は、宗教の本質から外れたものなのです。宗教
というのは、あくまで生命の本質を悟らせ、神と人間との一体観を体得させる道なのであ
りまして、これは後に述べますが、真の科学と全く一つの道なのであります。
その本筋の本心開発の道、正しい宇宙観に人々を導き入れるための方便としての現世利
益でなければ、その現世利益は、人間の進化を遅らせてしまうだけで、マイナスとなって
しまうのです。
すがた
真の科学というのも、正しい宇宙の相を学理的に究明してゆき、人間の本心(本体)を
開発させるためのものでありまして、宗教が直覚的な縦の道とすれば、真の科学は、知性卯
的な横の道なのであります。やがて、この真の宗教と真の科学の縦横十字の中心に人類が卵
存在して、この地球界の運営を成し遂げてゆくことになるのであります。
今日まででは、まだこの十字がはっきり出来上がっておりませんで、物の面を主にした
いわゆる唯物科学の方向に人類はひかれつづけておるのでして、このままでゆきますと、
人類は、自らの科学に自らの首を締められてしまうということになってくるのです。その
一番はっきりした例が原水爆の実現であり、昔からの兵器による人員殺傷、電波光波の兵
器化などでありまして、こうした科学の使用方向を急速に大調和の方向に向けかえなけれ
ば、科学の誤ちは迷信邪教の害よりも恐ろしいことになってしまうのです。
これからの文明文化の方向は、宗教も科学もすべて大調和の方向に向かってゆかねばな
りません。宗教が現世利益で止まり、科学が力の科学、破壊の科学で止まっている限りは、
人類はやがて滅亡の道に向かわざるを得なくなるのです。
よくよく考えてみて下さい。科学は現在、各国の政治に附随しているのです。そして各
国の政治は、自国本位の政治政策を行なっているのであって、真の世界平和のために、自
いけにえ
国を犠牲に捧げる、というような、キリストのみ心を体した国家は一国たりともありませ
ん。
そう考えますと、科学が破壊の力をもっている限り、各国家はその破壊の力をもって、
自国を守り、あるいは他国を攻め滅ぼす、という道をたどってゆくのは必然であります。
だからこそ世界平和の祈りが出た
第3章これからの文明文化
口で平和を叫び、大調和を演説することは易しい。しかし、国を挙げて平和の道を歩み、
大調和の行為を示してゆくことは、実にむずかしいのであります。
国家がそうなることは、今日では不可能に近いのです。そこで私は、まず真の宗教精神
の持ち主、人類愛の所有者達が、枝葉の問題はひとまず置いて、ただひたすら、世界平和
の道、大調和の道に向かって歩調を揃えて進んでゆくことが必要だと思うのです。私はそ
のために、祈りによる世界平和の運動を展開しているのであります。
つく
後々の細かいことはどうでもよいから、まず心を一つにして世界平和を創ろう、という、卯
その念願を祈りにまで高め上げようというのです。世界平和になればいいな、戦争は嫌だ
な、などと漠然と思っているのではありません。世界人類が平和でありますように、とい
う祈り言を日々瞬々唱え続けるのです。これはいちいち言葉に出すということよりも、常
に常に心に思い続けるのです。
歩いていても、寝床の中でも、仕事の合間でも、思いついたらすぐ祈るのです。そのく
らいの熱意がなければ、この世界を滅亡から救いとることはできません。人間の想念は常
に世界隈なく巡り続けるものなのです。想いの波が世界の運命を創るのです。多くの人々
が真に心を一つにして世界平和を祈ることは、この地球世界の汚れをどれだけ浄めるか判
りません。この祈りは個人我の祈りではありません。人類愛の祈りです。神の光明がその
人の体を通して、世界中に流れてゆくことは当然なことです。
人間は小宇宙といわれているもので、大宇宙の法則通り動いていれば、小宇宙としての
自己完成はなされるのです。大宇宙の法則は大調和です。ですから、人間が世界平和を祈
ることは、大宇宙心(神のみ心)と全く一つになることなのです。この祈りが効果のない
r80
第3章これからの文明文化
はずがありません。
さて次には、科学者達が、大調和の方向に自分達の研究の方向を向け変えることです。
如何に政治がその科学を破壊の方向に向けようとしても、向けることのできない、大調和
の方向にだけしか使えない科学の道をつくり出すことです。
神のみ心は大調和なのであり、大宇宙の運行は常に調和に向かって進んでいるのです。
そうした根本原理がすべて調和に向かって進んでいるのに、なぜ地球科学だけが、破壊の
方向に向かわされる科学をつくりなしてゆくのでしょう。
大宇宙の運行は調和に向かって進んでいるというけれど、水爆の原理は、太陽の核融合
の破壊力によったのだ、という学者があるかも知れません。しかし太陽の核融合は、何処
にも被害をおよぼしてはいない、自己自体内の変化の一現象なのです。
ところが、地球科学の今月までの在り方は、その科学製品の生まれ出ずる時、その科学
製品を使用する時、いずれも、他の物体や人間の心に、何らかの被害を与えるのです。ジ
ェット機の発進時の衝撃波などよい例です。調和の科学ではなくて、力の科学なのです。
187
反動の力で物体を動かすということが、その根本の原理です。ですから、その反対側にい
る人々は、多かれ少なかれその被害を受けるわけです。
兵器は勿論そうですが、乗物などでもすべてそうなっています。これは総体的な調和の
状態ではありません。常に利益を受ける側と害を受ける側とがあるのです。文明は自然の
調和を破壊してゆくとよく言われますが、科学が自然の状態を破壊してゆくことは確かな
ことです。
現在の文明文化は、自然の破壊から成り立っているともいえるのですが、これも一時期
の現象として致し方ないことでしょう。しかし、いつまでもこのまま進んでいってよいも
のではありません。
自然とも人類本然の姿とも、大調和してゆく科学が生まれ出なければならない時期に入
ってきているのです。それでなければ人類は滅亡してしまうに違いありません。私は、そ
のことを考え続けていました。宗教観だけの大調和というのではなく、実際面における大
調和の状態は、真の科学をもって現わすより方法がありません。
782
必要な潜在意識の光明化
第3章これからの文明文化
宗教と科学の中間的存在が精神科学であり、心霊科学でありますが、これらの研究も非
常に大事でありまして、人間の精神というもの、想念というものが、表面に現われている
ものだけではなく、潜んでいる潜在意識というものが大事なものであって、潜在意識層に
ひそんでいる想念によって、各人の運命が定まってしまう、ということを知ることは、真
の宗教精神につながる実に大切なことなのです。たとえ表面の想いで、いくら光明面をみ
ようとしても、病気や不幸災難を否定しようと思っても、潜在意識層に病気や不幸災難を
まねく想念が蓄積されておりますと、吹きこまれた録音盤が廻っているのと同じで、いつ
かは、その潜在意識が表面に現われてきて、表面意識では欲しもしない、病気や不幸災難
が現実となって現われてくるものなのです。
そこで、自己や人類の運命を調和した明るい幸福なものにするためには、表面意識とと
もに、潜在意識層をも調和した明るい幸福なものにしておかなければならないのです。私
783
は、この原理を応用して、現在現われている悪い想念も不幸も災難も、自分に不為になる
相手も、敵として現われている人々も、すべて過去世から今日にいたるまでの、神のみ心
を外れていた因縁因果の消えてゆくために現われてきていることだから、すべては消えて
ゆく姿と想って、ひたすら世界人類の平和を想う、人類愛そのものである世界平和の祈り
の中に、それらの想念や環境を投げ入れてしまいなさい、と教えているのです。そうすれ
ば、世界平和は神本来のみ心なのですから、神の大光明波動が過去世の因縁想念を明るく
浄め去って下さるのだ、一つには悪い想念を放って、善い想念(人類の平和という)を持
つことによって観の転換が自然とはかられ、表面意識から潜在意識層の底まで一貫して光
明化したものになるのだ、と説いているのであります。
また一方の心霊科学の研究は、人間に死後の生命の存在を教えるとともに、こういう想
しょぎょう
念所業の者はあの世においてこういう境涯になるのだという、実際の話を霊界から聴聞で
きるわけで、この研究が世界中の多くの人々に知れわたれば、自ずから自己反省する人が
こしょう
多くなり、少しでも自己の後世の境涯を善くしようとして、この世の生活のうちに人格を
784
立派に磨き、社会人類のためになることをして、多くのよいことを残してゆきたいと思う
ようになることは必然なのです。人殺しなど、とてもする気にはなれなくなります。それ
は、自ずと戦争否定という気運を助長することにもなってくるわけです。
高次元世界の研究から大調和科学へ
第3章これからの文明文化
こういう四次元以上の世界の研究は、これからの文明文化に是非必要であり、嫌でもそ
ういう方向に動いてゆくことと思われます。そして最後には、私が常に考え続けていまし
た大調和の科学、いわゆるすべての波長を、神のみ心に正しく合わせる科学の出現なので
あります。
これは、宗教精神が根底にあって生まれたものではありますが、宗教と科学の中間とい
うようなものではなく、純然たる科学なのであります。
この科学の特徴は、テレビやラジオの在り方と同じように波長を合わせる、ということ
が主になっておりますが、一番の根本は現在の地球科学のように、すべてを物から発して
r8s
いるという考え方ではなく、すべては宇宙心から発している考え方なのであります。宇宙
心が中心なのです。
この研究は、いずれも図解と数式によってなされてゆくのであって、この点は、現在ま
での地球科学と全く同じなのです。ただ一番根本的に相違することは、精神というものを
科学的にとらえているところでありまして、これが地球科学の物質の考え方を、はるかに
超越した計算方法になって現われているのであります。
この研究は、始まってまだ幾年も経っておりませんので、これから次第にその結論が出
きゅうきょく
てくるわけですが、何にしても、世の科学者方が、すべての存在の窮極をあくまで、物
として考えようとしている誤りを是正しない限りは、これ以上の人類の進化はあり得なく
なります。
宗教と言わなくとも、信仰と言わなくともよいから、宇宙には心があるのだ、という当
然なことを当然として、その研究態度を決めてかからないと、科学の力はいつも政治家の
思うままに使用され、ついには人類破滅という方向に向かってしまうのです。
r86
第3章これからの文明文化
もっとも、真の宗教的な働きが全世界に広まって、各国の為政者達が、神のみ心を自己
の心として政治をとるようになれば、この心配はなくなるのでありましょうが、どうもな
かなかそううまいわけにはゆきそうもありません。
ですから、科学者が、戦争や破壊のためには使用できないような科学の道を、心を揃え
て研究開発してゆく必要があるのです。そういう科学者を多く育ててゆくためには、真の
宗教の働きが必要になってくるのです。
私は宗教と科学の融合を、観念論やひとりよがりの在り方ではなく、真剣に行なってゆ
こうとして現在働いているわけなのですが、その過程において、是非とも、少しずつでも
よい、一人でも多くの人が、想いを一つにして世界平和の祈りの日常生活をして下さるこ
とを、心の底から望んでいるわけなのであります。
これからの文明文化は、宗教と科学の全き協力によってのみ開かれてゆくものであって、
どちらに片寄ってもいけないものであることを皆さんが知らなければならないのです。力
の科学から大調和への科学へ、この進展を計るのは、ただひとえに世界平和達成のために彫
真剣なる祈りを捧げ喝、人類愛に燃えた人々の存在なのであります。娚
やがてくる世界は、この世とあの世との交流がなんでもなくなされる科学の道が開かれ、
戦争のあらゆる武器が使用不可能になる科学の発明がなされ、嫌でも世界中が手をつなぎ
合って、大宇宙の一員の地球という地位のために大光明波動をひびかせてゆく時代となっ
てくるのであります。一日も早くそういう理想世界が現実になってまいりますように、祈
り、かつ働き続けなければならぬ、としみじみ思うのであります。(昭和42年)
世界観を変えよ
第3章これからの文明文化
過去世や因縁をぬきに出来ない
かこせ
過去世だの、因縁などというと、何となく古くさい宗教のようで感心しない、という人
が、新しい宗教をやってゆこうとする人には多いのですが、宗教の道では言葉をどう変え
ようと、過去世や因縁を考えなくては、一歩も進めないようなところがあるのです。
それは当然なことでありまして、過去世とは魂の歴史であり、因縁とは原因結果のこと
なので、日常生活の中でも常に出てくるわけです。ですからこのことを問題にしないで日
常生活をしてゆこうとするのは、一度に神様に全託してしまって、神我一体になり得る人
189
以外には無理なことなのです。
無宗教、無神論の人はひとまずおくとしまして、少しでも神様のことを肯定する人々に
とっては、まずこの過去世や因縁のことについて、少しは耳を傾けるようにしなければな
らないのです。私の教えなどでも、過去世や因縁因果のあることを知って、それを超越し
てゆくことなので、ただ神との一体化だけを説いているのではありません。
わけいのち
人間は本来神の分生命なのですから、結果的には、神と等しい生き方をするようになる
ことは定まっているのですが、それを地球界という物質世界として現われている場におい
て実現させてゆこうというのが、神々のご計画なのです。その計画に従って肉体を持った
人類が生活してゆかなければならないのですが、現在では、肉体を生かすための物質の保
持に想いを費やしていて、いつの間にか、人間は神の分生命であって、この地球界に神の
国をつくり上げるためにきているのである、ということを忘れ果ててしまっているのです。
190
肉体意識以外の神霊の働き
第3章これからの文明文化
神の光明のとぼしい無明から業が生まれてきたのであります。そして、この業の波に巻
き込まれて、神と肉体人間との間が大きく離されてしまったのです。肉体人間側としてみ
ますと、五感だけの感覚で見るのですから、肉体以外に自己があるわけがない、と思い勝
ちですが、実は、肉体波動に重なって、何段階かの波動圏に人間としての意識が生きてい
るのです。
睡眠中のことを考えてみて下さい。眠っている間のその人は一体何処にいるのでしょう。
肉体のことをすっかり忘れ果てていながら、ちゃんとそこに生存しているのです。そうい
まと
たしますと、そこにいるのは、肉体を纒ってはいますが、肉体人間ではなく、他の波動圏
の意識が心臓や肺臓を働かせて、肉体をそこに寝かせている、ということになります。
肉体の意識が休んでいる間も、心臓や肺臓が働いているということは、心臓や肺臓は肉
体意識で肉体人間が働かせているのではない、ということが改めてはっきり示されている
197
ことになります。そこで肉体人間の五臓六賄を間断なく働かせ続けているのは、肉体人間
としての意識では勿論なく、他の波動圏、つまり神霊波動の力によるのだ、ということが
判ってきます。人間の内臓は、肉体意識以外の神霊の働きによって役目を果たしていると
いうことになり、肉体人間はそういう力によって生かされているのだ、ということがはっ
きりしてきます。
ですから、人間というのは、肉体界ばかりの存在ではなく神霊波動として働いている世
界にも存在しているのだ、ということを知るような勉強をすることです。人間が肉体人間
だとしている世界観では、どんなに真剣に精進努力して社会人類のために働こうとしても、
根本的に成り立っていませんので、人類のための大きなプラスにはなってゆかないのです。
宗教の道を歩みながらも、神と自己とを引き離して、神は神、人間は人間として、自分達
の力でこの地球世界を善くしてゆこうと努力している人が多いのですが、過去世からの因
縁の業の波で蔽われているこの地球世界を、そういう波を超越せずに、その波の中でいく
ら働いても、そうした波を浄め去ることはできないのです。
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ちなみに先日東京新聞や他の評論に載っていた、
載してみましょう。
軍縮特別総会のことについての文を掲
二千万人の原爆反対署名はお蔵入り?
第3章これからの文明文化
先般ニューヨークで開催された国連軍縮特別総会に、わが国から民間団体代表が大挙し
て参加、二千万人の署名を突きつけたが、核保有国や地元米国の世論の反応は冷たかった
ようだ。
もちろん、デモンストレーションの効果がなかったわけではないが、重さ十ニトンの署
名簿は公開もされずにお蔵入りになった。原水爆反対を効果的に訴えるにはどうすればよ
いのか、よく考えてみなければなるまい。原爆ドームや悲惨な被爆資料を保存し、写真や
絵図を海外で展示し、実物で世界の人々の情感に訴えることも大切だが、それだけでは国
家意志に基づく核対立の厚いカベは破れない。
どの国でも核廃絶を望む声は強いけれども、いざ国際会議になると核保有国の代表は、
793
それが民間の国際会議であっても、自国の核保有を擁護することに回る。わが国は非核三
主原則を堅持するユニークな立場にあるのは事実だが、誰も反対できない理想を感情的に
訴えては、かえって国家論理のカベにさえぎられて、核軍縮を効果的に前進させることは
できまい…… 昭和五十三年八月六日東京新聞「筆洗」より
*
二千万人の署名について、月曜評論八月七日号で在ニューヨーク外交評論家那須聖氏は
次のように述べています。
「もちろん国連本部には保管する場所がないから、国連本部から数キロ離れた国連の倉庫
に運び込んだ。倉庫に入ってしまえば、再びそこから出されることはない。
日本で二千万人の署名をとるためには、どれだけの月日とエネルギーを費したことであ
ろう。また十ニトンにも上るこの文書を日本からわざわざ国連本部に運搬する手間と費用
だって、相当なものである。ところが、これがやっと国連本部に届けられたら、まっすぐ
倉庫入りになってしまって、再び誰の眼にも触れることはないのである:・… 」
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軍備縮小実現は会議では不可能
第3章これからの文明文化
去る五月二十三日以来ニューヨークの国連本部で百四十九力国が参加、二十力国からは
大統領または総理大臣が、約五十力国からは外相その他の大臣クラスが参加して、六週間
にわたって開かれた軍縮特別総会については次のように述べています。
「人類の歴史をみると、軍縮会議は過去二千年余りの間に何百回何千回と行なわれてきた
が、実際に合意をみたものは一度しかない。それはワシントンの海軍軍縮会議だが、これ
も数年以内に崩れてしまった。その他の軍縮に関する協定はいずれも関係各国が保持でき
る軍備の最高限度を決めたものである。これほど軍備縮小について合意に達することは難
しいのである。
世界歴史に明らかなことは、戦争の原因には、ある国ないし国家群が他の国ないし国家
群に対して、十分軍備を持っていなかったことがしばしばであった。
このようにみてくると、軍縮の先決条件は、各国からその平和と安全とが脅威されてい
195
ないという心理的安心感を確立することである。カナダと米国とは三千マイルにわたって
国境を接しているけれども、米国はカナダの平和と安全とを脅かしていないという安心感
を持っているから、両国の国境線は全く無防備である。
ところが、東欧と西欧との境界線をみると、西側はワルシャワ軍が西側を軍事的に脅威
していると感じ、現有の軍備でも十分ではないと感じているから、その拡充にのりだして
いるのである。
軍備縮小は軍縮会議によって実現するものではないことが判るであろう」
このように、表面的にいくら運動しても、お互いが自国の優位を確保したいのですから
他国の言うことなど問題にはしません。まして、米国とソ連との関係になれば、世界を二
分する大国でもあり、もうすでに、地球を何百破壊してもまだ余るほどの核爆弾をお互い
が持っていて、お互いを牽制し合っているのですから、自国のほうからは一歩たりとも軍
縮を実行するということはありません。・
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祈りによる世界平和運動の原点
第3章これからの文明文化
人によると、日本の宗教家は一体何をしているのだ、祈りだけぐらいでとても世界を平
和にすることはできない、ローマ法皇でさえ今日では自ら平和運動の働きかけをしている、
と言ったりしていますが、ローマ法皇が出てゆこうが、何処の団体が働きかけようが、自
国が他国から攻められる心配が皆無になるまでは、軍備を縮小するということは考えられ
ません。そういう働きかけが無駄ということは勿論ありませんが、世界平和をつくる根本
の働きには遠く及ばないものです。
人のやることにケチをつける人は、意外と自分は何もしていないで、口ばかり働かせて
いるものです。何がこう、かにがこうというより先に、まず自分で何か世界平和のために
なる小さなことでもよいからやってみるとよいのです。どうせ肉体人間側だけでやること
は、根本的に地球人類を救うことにはなり得ませんが、やらぬよりやるほうがましなので
すから、どんな小さなことでも心をこめてやったほうがよいのです。
197
私どもの白光の祈りによる世界平和運動でも、最初は極く小人数で始められたのですが、虜
現在では全国にわたって、かなりの同志が、真剣に働いています。私どもの運動は、ただ
肉体人間としてやっているのではなく、神々や、宇宙天使との協力によって、この地球界
おおカルマ
を蔽っている業以上の力をもって活動しているもので、肉体人間の精神内部から真の平和
な心を湧き上がらせるとともに、あらゆる爆弾や、暴力の使えなくなるように、調和の科
学を生み出して、根本から地球界を浄めてゆこう、としているのです。
肉体人間だけの知恵能力では、もうどんなやり方をしても、米ソの間を平和にすること
も、アラブ、イスラエルの根本平和を樹立することもできません。まして天変地変を防ぐ
ことなどとてもできません。それを何となくごまかして、大国の責任だけに押しつけて、
自分達は平和の根本を探求しようともしないで、ただいらいらしているだけの人々が多い
のです。
肉体人間の無力さかげんを、徹底して知ったところから、真実の神我一体の平和運動が
始まるのでありまして、神の助太刀を受けずに自分達だけで、何とかできはしないかなど
という思い上がった考えを根本から捨て切らなくては、その人達の力は生きてこないので
す。
ですから現在の地球人類は、神我一体になって平和を築き上げるか、肉体人間としての
全力を出そうとして滅亡してしまうか、の二つの道しかないのですし、人類として勿論平
和を築き上げる道を選びたいに決まっているのですが、今日までの生活の習慣で、どうし
ても神と人間とを離して考えてしまうようになるのです。
あくまで神との一体化の道を進む
第3章これからの文明文化
無限とも言うべき星々には、地球より先に神のみ心のままに生活することができるよう
まとも
になった星がたくさんあるのでして、地球は今やっと神の力を正面に受けて真実の地球の
姿を現わそうとしているところなのです。神のみ心の中心は深い深いところにあり、その
み心から、いろいろの世界が生まれ出ているのですが、地球の物質波動より、はるかはる
か微妙な波動の世界で生活している星々から、地球を応援するために派遣された宇宙天使
199
達が様々な角度から地球に力をつけていてくれるのです。
その事実はやがて次第に地球人類にも判ってくることでありましょう。私どもはその真
実を二十年も前から知って、その天使達との交流にはげみ、今日では科学の面をはじめ、
いろいろの面でその力を頂いているのであります。
宗教といい、祈り、というと、昔からの宗教の在り方にも誤ったところがあったのでし
ょうが、人間の依頼心による行為というように思われがちで、宗教が何をしている、祈り
などで何ができる、などと悪口を言われているのですが、真の宗教の道はあくまでも、神
と一体化の道で、神のみ心をそのままこの地球界に現わすことにあるのです。そしてその
一つの方法が祈りなのであります。祈りとは自分に与えられた生命の力を出しきるという
ことで、ただ単なる願いごとではないのですが、今日まで宗教者側のやり方が下手だった
せいか、祈りについての真実を人々に判らせていなかったわけです。
私どものやっております、世界平和の祈りは、祈りによって世界平和への道を開くこと
で、この祈り心が科学の道として現われたり、政治や事業として現われたりするので、自
200
第3章これからの文明文化
分が日常行為として何もしないで、ただ神様神様と言っているのではないのです。
この物質地球界ができるまでには、人間は神の分生命として、いろいろの波動の世界を
生きぬいてきておりますので、地球界にはじめてぽっかり生命体として現われたのではあ
りません。しかし、この物質の地球界に現われたのですから、この地球でもやがて神の分
生命の能力を充分に出しきって、神の国をつくり上げてゆくのですが、これは今日までの
人々が思っているように、神様を遠く離して、自分達の力だけで成し遂げられることでは
なく、神と人間との一体化によって、成し遂げられることなのであります。
真人としての働きは守護の神霊の協力の下に
ですから、人間が生活してゆきますのに、個人は勿論、国家も、人類もすべて守護の神
霊の応援がなくては、とても完全な生き方はできないので、古来からの聖者達が、神の愛
を説き、神との一体化を説いてきたのです。
そして、守護の神霊の協力の下に、肉体人間が単なる人間ではなく、真人として、この
201
地球に神の世界をつくり上げてゆくことになるのです。今はもはや一刻も猶予のならぬ時
もっと
機になってきています。尤もここまでこなくては、肉体人間の習慣性である、自分と他人
とを離し、自国と他国とを相対して考える、自己防衛の本能がゆき詰まりにならぬので、
さつりく
核爆弾という大量殺裁兵器の誕生とともに、誤っていた人間の世界観を真理の世界観に変
えさせる切羽つまったところに立ちいたらせるまで、守護の神霊や宇宙天使は表面立って
は働いてみせなかったのでありましょう。しかし、今日ではもうそうしてはおられません
ので、宇宙天使は、様々な方法で地球人類に表面的にも働きかけてきたのであります。私
どもには科学の面の知恵をさずけにきておりますし、他には他で何らかの方法をさずけて
いると思います。
ですから皆さんも、守護の神霊や宇宙天使の加護を信じて嘘だと思っても、やらないより
よいのですから、世界平和の祈りを日々唱え続けることにして下さい。皆さんの心がいつの
せんだつ
間にか明るく落ちついた勇気のあるものに変わってゆきます。先達達はみなそうなっている
のであります。そこから真の世界平和の道が開けてゆくのであります。(昭和53年1月)
202
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私たちの考え
私たちは、人間の真実の生き方について次のように考え、実行しております。
にんげんほんらいかみわけみたまごうしょうしゅでれいしゅごじん
『人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神に
ま ら
よって守られているものである。
よくのうにんげんかこせげんざいあやまそうねん
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念
うんめいあらきときおこすがた
が、その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
くのうあらかならききさ
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るので
つよしんねんいまぜんねんおここん
あるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困
なんじぷんゆるゆるじぶんあいひとあいあいまことゆる
難のなかにあっても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦
げんこうしゅごれいしゅごじんかんしゃこころ
しの言行をなしつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに
おもせかいへいわいのいのこじんじんるいしんすくたいとくで
想い、世界平和の祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体得出

来るものである』
せかいへいわいの
世界平和の祈り
せかいじんるいへいわ
世界人類が平和でありますように
にっほんへいわ
日本が平和でありますように
わたくしたちてんめいまうと
私達の天命が完うされますように
しゅこれいさましゅごじんさま
守護霊様、守護神様ありがとうございます
20S


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